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第四話
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冷泉家の離れを包んでいた平穏は、あまりに唐突に、そして暴力的に引き裂かれた。
夕闇が濃くなり始めた庭園の結界が、乾いた音を立てて弾け飛ぶ。
大気を震わせる不吉な鳴動と共に、数枚の呪符が、鴉の羽のように黒い軌跡を描いて室内に滑り込んできた。
「……鼠が紛れ込んだようだな」
晴明が低く呟いた。
その手は、マコの耳をブラッシングしていた時と同じ静けさを保っていたが、指先に宿る気の密度が一瞬で跳ね上がる。
彼はマコを自身の背後に庇うようにして、立ち上がった。
襖を蹴破り現れたのは、黒装束に身を包んだ男たちと、その中心に立つ、蛇のように細い目をした若者だった。
男は冷泉家と古くから対立する陰陽師の一族、芦屋の末弟である。
「冷泉晴明。貴様が秘蔵している『至宝』の噂は、既に我らの耳にも届いている。大妖狐の血を引く娘……その身に宿る莫大な霊力、我が一族のために役立ててやろう」
「……」
晴明は答えない。
ただ、その瞳の奥には、感情を削ぎ落とした静謐な殺意が揺らめいている。
「ふん、無言か。ならば力ずくで奪うまでだ。……行け!」
男が印を結ぶと、背後の式神たちが一斉に飛び出した。
炎を纏った狗の姿をした式神が、猛然とマコへと牙を剥く。
マコは恐怖に身を竦ませた。
人間として育てられた彼女には、戦う術など何一つない。
ただ、目の前の晴明の背中を信じるしかなかった。
「晴明様……っ!」
「案ずるな、マコ。……私の領域で、許しもなく不浄を撒き散らす愚か者に、相応の報いを与えるだけだ」
晴明の手から放たれた透明な波動が、迫り来る炎の式神を次々と霧散させていく。
しかし、敵もまた手練れであった。
男が放った追撃の呪符が、晴明の防御の隙間を縫うようにして、マコの足元で爆ぜた。
「きゃあぁっ!」
衝撃に吹き飛ばされそうになったマコを、晴明が強引に抱き寄せる。
幸いにして怪我はなかった。
だが、爆風と共に舞った火の粉が、ほんの一瞬、マコの黄金色の耳を掠めたのだ。
「……あ」
マコが小さく声を漏らした。
焼けるような熱気。
指を伸ばせば、そこには先ほどまでの絹のような手触りではなく、僅かにチリリと焦げ、縮れてしまった毛の感触があった。
神の奇跡とまで称えられた黄金の毛並みが、一筋だけ、醜い黒に染まったのである。
その瞬間。
冷泉邸の空気が、完全に凍結した。
「温度が低い」といった生易しい表現では足りない。
まるでこの空間だけが、世界の理から切り離された絶対的な静止画に変わったかのようだった。
「……今、何をした」
晴明の声が響いた。
それは怒声ですらなく、ただ深く、暗い奈落の底から這い上がってきたような響きだった。
「お前たちが、私の許可なくその汚らわしい火を放ち……私が生涯をかけて、命を削って整えると誓った、この至宝を傷つけたのか」
晴明の背後で、数え切れないほどの呪符が狂ったように舞い上がった。
彼が纏う気は、もはや人間のそれではない。
神気と狂気が混ざり合った、圧倒的な圧力が室内を支配する。
「冷泉、貴様、何を……っ!? たかが狐の毛が焦げた程度で……!」
「黙れ、三流が」
晴明の指が、目にも留まらぬ速さで印を編み上げる。
「貴様らの一族すべてを、この一瞬で灰に変えても、この耳の一毛の損失すら補うことはできん。……消えろ。この世の塵すら残さずな」
晴明が放ったのは、冷泉家の禁術、五行を逆転させて存在そのものを分解する「虚無の顎」であった。
呪文を唱えるまでもない。
ただ、彼が指を示した瞬間、男たちが立っていた空間そのものが、墨を流したような闇に飲み込まれた。
悲鳴を上げる暇さえなかった。
そこにいたはずの陰陽師も、式神も、そして彼らが纏っていた殺意さえも、一瞬にしてこの世から消滅した。
残されたのは、静まり返った離れと、肩を震わせる晴明だけだった。
「晴明様……? もう、敵はいませんわ。大丈夫ですから……」
マコが恐る恐る、彼の袖を引く。
晴明は、ゆっくりと、折れそうなほど脆い動作で振り返った。
その瞳には先ほどの狂気はなく、代わりに深い、深い絶望の色が浮かんでいる。
「……ああ、マコ。私の不徳だ。私の、万死に値する失態だ」
彼は震える手で、マコの焦げた耳の先をそっと、壊れ物を扱うように包み込んだ。
「あれほどまでに完璧だった毛並みが……私の不甲斐なさゆえに、傷ついてしまった。……済まない、済まない。こんな姿にしてしまって……っ」
晴明は膝をつき、マコの耳を自分の額に押し当てて、まるで大切な家族を失ったかのように本気で、涙を流し始めたのである。
マコは、呆然とした。
自分の命が狙われたことよりも、私の耳の毛が数ミリ焦げたことに対して、この男はこれほどの悲しみと怒りを見せているのだ。
「晴明様……泣かないでください。これくらい、また伸びますわ……」
「馬鹿なことを言うな! 失われた一瞬の輝きは、二度と同じ形では戻らないのだ! ……すぐに、最高級の霊薬と、私の気のすべてを注ぎ込んで、この傷を癒してみせる」
晴明の瞳に、再び強い、けれど今度は慈愛に満ちた決意が宿った。
彼はマコを抱き上げると、そのまま自身の寝所へと歩き出した。
マコは、彼の腕の中で小さくなっていた。
自分を襲った敵を一瞬で塵にした最強の陰陽師が、今は私の耳の毛一筋のために必死になっている。
その歪んだ、けれどあまりに真っ直ぐな執着に、マコの心臓は、恐怖とは別の理由で、激しく鐘を打ち鳴らしていたのである。
夕闇が濃くなり始めた庭園の結界が、乾いた音を立てて弾け飛ぶ。
大気を震わせる不吉な鳴動と共に、数枚の呪符が、鴉の羽のように黒い軌跡を描いて室内に滑り込んできた。
「……鼠が紛れ込んだようだな」
晴明が低く呟いた。
その手は、マコの耳をブラッシングしていた時と同じ静けさを保っていたが、指先に宿る気の密度が一瞬で跳ね上がる。
彼はマコを自身の背後に庇うようにして、立ち上がった。
襖を蹴破り現れたのは、黒装束に身を包んだ男たちと、その中心に立つ、蛇のように細い目をした若者だった。
男は冷泉家と古くから対立する陰陽師の一族、芦屋の末弟である。
「冷泉晴明。貴様が秘蔵している『至宝』の噂は、既に我らの耳にも届いている。大妖狐の血を引く娘……その身に宿る莫大な霊力、我が一族のために役立ててやろう」
「……」
晴明は答えない。
ただ、その瞳の奥には、感情を削ぎ落とした静謐な殺意が揺らめいている。
「ふん、無言か。ならば力ずくで奪うまでだ。……行け!」
男が印を結ぶと、背後の式神たちが一斉に飛び出した。
炎を纏った狗の姿をした式神が、猛然とマコへと牙を剥く。
マコは恐怖に身を竦ませた。
人間として育てられた彼女には、戦う術など何一つない。
ただ、目の前の晴明の背中を信じるしかなかった。
「晴明様……っ!」
「案ずるな、マコ。……私の領域で、許しもなく不浄を撒き散らす愚か者に、相応の報いを与えるだけだ」
晴明の手から放たれた透明な波動が、迫り来る炎の式神を次々と霧散させていく。
しかし、敵もまた手練れであった。
男が放った追撃の呪符が、晴明の防御の隙間を縫うようにして、マコの足元で爆ぜた。
「きゃあぁっ!」
衝撃に吹き飛ばされそうになったマコを、晴明が強引に抱き寄せる。
幸いにして怪我はなかった。
だが、爆風と共に舞った火の粉が、ほんの一瞬、マコの黄金色の耳を掠めたのだ。
「……あ」
マコが小さく声を漏らした。
焼けるような熱気。
指を伸ばせば、そこには先ほどまでの絹のような手触りではなく、僅かにチリリと焦げ、縮れてしまった毛の感触があった。
神の奇跡とまで称えられた黄金の毛並みが、一筋だけ、醜い黒に染まったのである。
その瞬間。
冷泉邸の空気が、完全に凍結した。
「温度が低い」といった生易しい表現では足りない。
まるでこの空間だけが、世界の理から切り離された絶対的な静止画に変わったかのようだった。
「……今、何をした」
晴明の声が響いた。
それは怒声ですらなく、ただ深く、暗い奈落の底から這い上がってきたような響きだった。
「お前たちが、私の許可なくその汚らわしい火を放ち……私が生涯をかけて、命を削って整えると誓った、この至宝を傷つけたのか」
晴明の背後で、数え切れないほどの呪符が狂ったように舞い上がった。
彼が纏う気は、もはや人間のそれではない。
神気と狂気が混ざり合った、圧倒的な圧力が室内を支配する。
「冷泉、貴様、何を……っ!? たかが狐の毛が焦げた程度で……!」
「黙れ、三流が」
晴明の指が、目にも留まらぬ速さで印を編み上げる。
「貴様らの一族すべてを、この一瞬で灰に変えても、この耳の一毛の損失すら補うことはできん。……消えろ。この世の塵すら残さずな」
晴明が放ったのは、冷泉家の禁術、五行を逆転させて存在そのものを分解する「虚無の顎」であった。
呪文を唱えるまでもない。
ただ、彼が指を示した瞬間、男たちが立っていた空間そのものが、墨を流したような闇に飲み込まれた。
悲鳴を上げる暇さえなかった。
そこにいたはずの陰陽師も、式神も、そして彼らが纏っていた殺意さえも、一瞬にしてこの世から消滅した。
残されたのは、静まり返った離れと、肩を震わせる晴明だけだった。
「晴明様……? もう、敵はいませんわ。大丈夫ですから……」
マコが恐る恐る、彼の袖を引く。
晴明は、ゆっくりと、折れそうなほど脆い動作で振り返った。
その瞳には先ほどの狂気はなく、代わりに深い、深い絶望の色が浮かんでいる。
「……ああ、マコ。私の不徳だ。私の、万死に値する失態だ」
彼は震える手で、マコの焦げた耳の先をそっと、壊れ物を扱うように包み込んだ。
「あれほどまでに完璧だった毛並みが……私の不甲斐なさゆえに、傷ついてしまった。……済まない、済まない。こんな姿にしてしまって……っ」
晴明は膝をつき、マコの耳を自分の額に押し当てて、まるで大切な家族を失ったかのように本気で、涙を流し始めたのである。
マコは、呆然とした。
自分の命が狙われたことよりも、私の耳の毛が数ミリ焦げたことに対して、この男はこれほどの悲しみと怒りを見せているのだ。
「晴明様……泣かないでください。これくらい、また伸びますわ……」
「馬鹿なことを言うな! 失われた一瞬の輝きは、二度と同じ形では戻らないのだ! ……すぐに、最高級の霊薬と、私の気のすべてを注ぎ込んで、この傷を癒してみせる」
晴明の瞳に、再び強い、けれど今度は慈愛に満ちた決意が宿った。
彼はマコを抱き上げると、そのまま自身の寝所へと歩き出した。
マコは、彼の腕の中で小さくなっていた。
自分を襲った敵を一瞬で塵にした最強の陰陽師が、今は私の耳の毛一筋のために必死になっている。
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