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第6話
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深夜の公爵邸、執務室。
魔力灯の青白い光が、重厚なマホガニーのデスクの上に散乱する膨大な書類を照らし出していた。
万象を断つ静寂の刃と恐れられる男、ヴォルティス・ザル・グラディウスは、その中央に置かれた一枚の羊皮紙を、瞬きすら忘れたかのように見つめ続けていた。
彼の端正な顔立ちから、いつもの氷のような冷徹さは完全に消え失せている。
代わりに張り付いているのは、理解を超えた事象に直面した際の、深い驚愕と混乱だった。
「……これが、真実だとでも言うのか」
低く掠れた声が、静まり返った部屋に落ちる。
彼の視線の先にあるのは、公爵家直属の諜報部隊が数ヶ月をかけて調べ上げた、「黒の百合」に関する最終報告書だった。
エルナ・フィン・アメトリン男爵令嬢が失脚未遂に終わった一件。
彼女の弟の不治の病を完治させたという、規格外の治癒魔導具。
そして、ヴォルティス自身に贈られ、彼の膂力と魔力を完璧に引き出したあの漆黒の長剣。
それらに微かに残存していた魔力紋を帝国随一の鑑定士に解析させた結果、すべての製作者が同一人物であることが判明した。
帝都のスラム街に身を潜めていた異端の天才職人、ティアル・ルク。
そして、その天才職人を莫大な資金力で囲い込み、素材を与え、公爵家への支援を指示していた「黒の百合」の正体。
報告書の末尾には、信じがたい名前がはっきりと記されていた。
サラ・オブシディアン。
他でもない、ヴォルティスが自ら娶り、そして初夜の翌朝から完全に放置している妻の名前だった。
「あり得ない……」
ヴォルティスは無意識のうちに報告書を強く握りしめ、紙が嫌な音を立てて歪んだ。
彼の合理的な思考回路が、激しい警鐘を鳴らして事実を否定しようとする。
あの朝、自分に対して一切の感情を向けなかった彼女。
夫である自分に近づくことすらおこがましいと笑い、生活空間の完全な分離を提案してきた女だ。
結婚してから今日に至るまで、一度たりとも顔を合わせておらず、言葉を交わすこともなかった。
彼女の瞳には、ヴォルティスという一人の男に対する愛情も、関心も、執着も、一片たりとも存在していなかったはずだ。
だが、報告書に記された資金の流れは、紛れもなく彼女の実家であるルクセリア商会の裏帳簿と完全に一致している。
彼女は自身の個人資産を限界まで切り崩し、ティアルという職人を酷使して、ヴォルティスの武力と政治的基盤を盤石にするためだけに、血を吐くような奔走を続けていたのだ。
なぜだ。
ヴォルティスの胸の奥底で、重く冷たい塊が急速に熱を持ち始めていた。
自分をあそこまで徹底的に避けながら、なぜ、裏でこれほどの無償の献身を捧げるのか。
彼を政敵の罠から守り、彼が戦場で一切の枷なく剣を振るえるように、己の身を削ってまで環境を整え続ける。
それは、損得勘定や政略といった言葉では到底説明のつかない、狂気的なまでの執着と、深すぎる「愛」の証明ではないのか。
「俺は……彼女を、何も見ていなかった……?」
震える手で顔を覆う。
静寂の刃として感情を殺し、領地と民を守るための歯車として生きてきた。
女の感情などという不確定要素は、自分の人生には不要だと切り捨てていた。
妻が自分を避けるなら、それはそれで合理的だと納得し、彼女の心の奥底にあるものを見ようとすらしていなかったのだ。
だが、現実はどうだ。
彼女は誰よりも自分を理解し、自分のためにすべてを投げ打って、見返りも求めずに暗闇の中から手を差し伸べ続けていた。
表向きは無関心を装いながら、裏では自分という存在を完全に肯定し、守り抜こうとする彼女の壮絶な覚悟。
その矛盾した、しかしあまりにも深く重い想いに触れた瞬間。
──ドクンッ
ヴォルティスの心臓が、これまで経験したことのない異様な脈打ちを始めた。
全身の血が逆流するような感覚。
視界の端が赤く染まり、理性という名の分厚い氷が、内側から発せられる圧倒的な熱量によって音を立ててひび割れていく。
公爵家の血脈に古くから受け継がれ、そしてヴォルティス自身が最も恐れ、深い底に封じ込めてきたもの。
獣人の因子が、ついに覚醒の産声を上げたのだ。
獣人は一生に一度だけ、魂のレベルで惹かれ合う「運命の番」を見つけ出す。
番に出会った獣人は、相手に対する強烈な執着と所有欲に支配され、それを失うことは精神的な死を意味する。
ヴォルティスはこれまで、自分が何かに執着し、理性を失うことを極度に恐れていた。
だからこそ感情を殺し、万象を断つ静寂の刃として己を律してきたのだ。
しかし、無償の献身という形で妻の魂の美しさに触れてしまった今、強固だったはずの理性はあっけなく崩壊した。
「サラ……」
掠れた声で、初めて妻の名を呼ぶ。
その響きだけで、脳髄が痺れるほどの甘い快感が全身を駆け巡った。
欲しい。
彼女が欲しい。
誰よりも自分を愛し、裏で自分を守り続けてくれたあの女を、今すぐこの腕の中に閉じ込めたい。
彼女のすべてを暴き、自分だけのものにしたい。
他の誰にも触れさせず、その視線も、微笑みも、流す血の一滴に至るまで、すべてを自分が支配し、永遠に囲い込みたい。
それは、人間としての愛を遥かに超越した、獣の本能がもたらす暴力的なまでの所有欲だった。
「ああっ……!」
ヴォルティスは喉の奥から獣のようなうなり声を漏らし、デスクに手をついた。
息が荒くなり、青かった瞳には、獲物を狙う捕食者のような赤黒い光が混じり始めている。
領地のためでも、民のためでもない。
ただ一人の女を求めるという、極めて個人的で利己的な狂気が、彼の全身を支配していく。
あの朝、自分に向けて完璧なカーテシーをして見せた彼女の姿が脳裏に蘇る。
自分を神聖な不可侵の領域だと語り、遠くから見守るだけでいいと言い切ったあの笑顔。
違う。
遠くから見守るなど、絶対に許さない。
俺のそばにいろ。俺の腕の中で、俺の熱を感じて、俺だけを見て生きろ。
お前が俺のためにすべてを捧げるというのなら、俺もお前のすべてを喰らい尽くしてやる。
ガシャン、と大きな音を立てて、ヴォルティスは椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
もはや、執務室に残された書類の山など、彼の視界には入っていなかった。
帝国最強の公爵としての矜持も、静寂の刃としての理性も、すべてが獣の業火に焼き尽くされた。
今、彼を突き動かしているのは、運命の番を求めて泣き叫ぶ、魂の渇望だけだった。
「サラ……待っていろ。今すぐ、お前を迎えに行く……!」
重厚な執務室の扉が乱暴に開け放たれる。
深夜の冷たい廊下に、ヴォルティスの荒々しい足音が響き渡った。
向かう先は、結婚初夜の翌日から彼自身が一度も足を踏み入れなかった、別棟にある妻の寝室。
彼の中で暴れ狂う本能は、これから待ち受ける残酷な真実──彼女の心に、自分への「愛」など微塵も存在しないという絶望的なすれ違い──に気づく由もなく、ただ盲目に運命の番を求めて突き進んでいく。
静寂は、完全に壊れた。
狂気的な推し活で自らの心を守ろうとする女と、本能のままに女を貪ろうとする獣。
決して交わることのない二つの狂気が、今、正面から衝突しようとしていた。
魔力灯の青白い光が、重厚なマホガニーのデスクの上に散乱する膨大な書類を照らし出していた。
万象を断つ静寂の刃と恐れられる男、ヴォルティス・ザル・グラディウスは、その中央に置かれた一枚の羊皮紙を、瞬きすら忘れたかのように見つめ続けていた。
彼の端正な顔立ちから、いつもの氷のような冷徹さは完全に消え失せている。
代わりに張り付いているのは、理解を超えた事象に直面した際の、深い驚愕と混乱だった。
「……これが、真実だとでも言うのか」
低く掠れた声が、静まり返った部屋に落ちる。
彼の視線の先にあるのは、公爵家直属の諜報部隊が数ヶ月をかけて調べ上げた、「黒の百合」に関する最終報告書だった。
エルナ・フィン・アメトリン男爵令嬢が失脚未遂に終わった一件。
彼女の弟の不治の病を完治させたという、規格外の治癒魔導具。
そして、ヴォルティス自身に贈られ、彼の膂力と魔力を完璧に引き出したあの漆黒の長剣。
それらに微かに残存していた魔力紋を帝国随一の鑑定士に解析させた結果、すべての製作者が同一人物であることが判明した。
帝都のスラム街に身を潜めていた異端の天才職人、ティアル・ルク。
そして、その天才職人を莫大な資金力で囲い込み、素材を与え、公爵家への支援を指示していた「黒の百合」の正体。
報告書の末尾には、信じがたい名前がはっきりと記されていた。
サラ・オブシディアン。
他でもない、ヴォルティスが自ら娶り、そして初夜の翌朝から完全に放置している妻の名前だった。
「あり得ない……」
ヴォルティスは無意識のうちに報告書を強く握りしめ、紙が嫌な音を立てて歪んだ。
彼の合理的な思考回路が、激しい警鐘を鳴らして事実を否定しようとする。
あの朝、自分に対して一切の感情を向けなかった彼女。
夫である自分に近づくことすらおこがましいと笑い、生活空間の完全な分離を提案してきた女だ。
結婚してから今日に至るまで、一度たりとも顔を合わせておらず、言葉を交わすこともなかった。
彼女の瞳には、ヴォルティスという一人の男に対する愛情も、関心も、執着も、一片たりとも存在していなかったはずだ。
だが、報告書に記された資金の流れは、紛れもなく彼女の実家であるルクセリア商会の裏帳簿と完全に一致している。
彼女は自身の個人資産を限界まで切り崩し、ティアルという職人を酷使して、ヴォルティスの武力と政治的基盤を盤石にするためだけに、血を吐くような奔走を続けていたのだ。
なぜだ。
ヴォルティスの胸の奥底で、重く冷たい塊が急速に熱を持ち始めていた。
自分をあそこまで徹底的に避けながら、なぜ、裏でこれほどの無償の献身を捧げるのか。
彼を政敵の罠から守り、彼が戦場で一切の枷なく剣を振るえるように、己の身を削ってまで環境を整え続ける。
それは、損得勘定や政略といった言葉では到底説明のつかない、狂気的なまでの執着と、深すぎる「愛」の証明ではないのか。
「俺は……彼女を、何も見ていなかった……?」
震える手で顔を覆う。
静寂の刃として感情を殺し、領地と民を守るための歯車として生きてきた。
女の感情などという不確定要素は、自分の人生には不要だと切り捨てていた。
妻が自分を避けるなら、それはそれで合理的だと納得し、彼女の心の奥底にあるものを見ようとすらしていなかったのだ。
だが、現実はどうだ。
彼女は誰よりも自分を理解し、自分のためにすべてを投げ打って、見返りも求めずに暗闇の中から手を差し伸べ続けていた。
表向きは無関心を装いながら、裏では自分という存在を完全に肯定し、守り抜こうとする彼女の壮絶な覚悟。
その矛盾した、しかしあまりにも深く重い想いに触れた瞬間。
──ドクンッ
ヴォルティスの心臓が、これまで経験したことのない異様な脈打ちを始めた。
全身の血が逆流するような感覚。
視界の端が赤く染まり、理性という名の分厚い氷が、内側から発せられる圧倒的な熱量によって音を立ててひび割れていく。
公爵家の血脈に古くから受け継がれ、そしてヴォルティス自身が最も恐れ、深い底に封じ込めてきたもの。
獣人の因子が、ついに覚醒の産声を上げたのだ。
獣人は一生に一度だけ、魂のレベルで惹かれ合う「運命の番」を見つけ出す。
番に出会った獣人は、相手に対する強烈な執着と所有欲に支配され、それを失うことは精神的な死を意味する。
ヴォルティスはこれまで、自分が何かに執着し、理性を失うことを極度に恐れていた。
だからこそ感情を殺し、万象を断つ静寂の刃として己を律してきたのだ。
しかし、無償の献身という形で妻の魂の美しさに触れてしまった今、強固だったはずの理性はあっけなく崩壊した。
「サラ……」
掠れた声で、初めて妻の名を呼ぶ。
その響きだけで、脳髄が痺れるほどの甘い快感が全身を駆け巡った。
欲しい。
彼女が欲しい。
誰よりも自分を愛し、裏で自分を守り続けてくれたあの女を、今すぐこの腕の中に閉じ込めたい。
彼女のすべてを暴き、自分だけのものにしたい。
他の誰にも触れさせず、その視線も、微笑みも、流す血の一滴に至るまで、すべてを自分が支配し、永遠に囲い込みたい。
それは、人間としての愛を遥かに超越した、獣の本能がもたらす暴力的なまでの所有欲だった。
「ああっ……!」
ヴォルティスは喉の奥から獣のようなうなり声を漏らし、デスクに手をついた。
息が荒くなり、青かった瞳には、獲物を狙う捕食者のような赤黒い光が混じり始めている。
領地のためでも、民のためでもない。
ただ一人の女を求めるという、極めて個人的で利己的な狂気が、彼の全身を支配していく。
あの朝、自分に向けて完璧なカーテシーをして見せた彼女の姿が脳裏に蘇る。
自分を神聖な不可侵の領域だと語り、遠くから見守るだけでいいと言い切ったあの笑顔。
違う。
遠くから見守るなど、絶対に許さない。
俺のそばにいろ。俺の腕の中で、俺の熱を感じて、俺だけを見て生きろ。
お前が俺のためにすべてを捧げるというのなら、俺もお前のすべてを喰らい尽くしてやる。
ガシャン、と大きな音を立てて、ヴォルティスは椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
もはや、執務室に残された書類の山など、彼の視界には入っていなかった。
帝国最強の公爵としての矜持も、静寂の刃としての理性も、すべてが獣の業火に焼き尽くされた。
今、彼を突き動かしているのは、運命の番を求めて泣き叫ぶ、魂の渇望だけだった。
「サラ……待っていろ。今すぐ、お前を迎えに行く……!」
重厚な執務室の扉が乱暴に開け放たれる。
深夜の冷たい廊下に、ヴォルティスの荒々しい足音が響き渡った。
向かう先は、結婚初夜の翌日から彼自身が一度も足を踏み入れなかった、別棟にある妻の寝室。
彼の中で暴れ狂う本能は、これから待ち受ける残酷な真実──彼女の心に、自分への「愛」など微塵も存在しないという絶望的なすれ違い──に気づく由もなく、ただ盲目に運命の番を求めて突き進んでいく。
静寂は、完全に壊れた。
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