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第二章 刑事、再び現場へ赴く
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十一月二十四日午前〇時二十分。
新宿区松広にある、雑居ビルの合間の狭い路地を抜けようとした酔客が、路地を塞ぐように倒れていた遺体を発見した。被害者は、現場から北へ二百メートルほど離れたキャバクラに勤める二十歳の女性。死因は、背後からナイフのような鋭利な刃物で一突きされたことによる失血死である。現場に残されていた被害者の鞄からは、財布とスマホが抜き取られ、勤務先を出た際身につけていた指輪がなくなっていた。
金銭目的の突発的犯行と怨恨、両方の線で捜査が進められることになり、その日、新宿中央警察署内に、キャバクラ嬢殺人事件の捜査本部が立ち上げられた。
本部となる会議室に、次々と人が集っていく。自分たちの縄張りで行われた非道な犯罪を許すまいと皆の志気が高まり、本庁捜査第一課の捜査員たちが加わって、さらに静かな熱が加速する。
この時の独特の張りつめた雰囲気が、那臣は好きだった。
捜査本部が必要な凶悪事件には、悲惨な被害者が存在する。よってその立ち上げを喜ぶのは、不謹慎この上ない。警察官たるもの、自らが守るべき都民が、何事もなく安心して暮らせる日常を尊ぶべきだろう。
だがしかし、戦う集団がひとつの目的に向かって結集する瞬間のえもいわれぬ一体感、高揚感は、おそらく他の捜査員たちにとっても、都民からの感謝や信頼とともに、一つのモチベーションとなっているのではないか。
そんな好ましいはずの空間が、本日のこの捜査本部にはなかった。
緊張はぴりりと肌に不快にまとわりつき、互いに袖が触れるほどの距離に集った捜査員たちの間に生み出されていくものは、連帯感でなく不信感だ。
何故、あの男がここにいることを許すのかと問う、本部を指揮する者たちへの不信感。
そして、何故あの男がここにいるのか、問うてよいのか隣席の同僚の顔色を互いに伺う不信感。
どろどろした不信感の高波が次々と押し寄せてくるのを、那臣は顔をしかめて耐えていた。
(……ったく、いっそ本物の『針』のむしろのほうがましだぞ、これは……)
先日、謹慎後久しぶりに登庁したときには、そこかしこから罵声を浴びせられたが、ここまで消耗することはなかった。同僚や顔見知りの所轄の捜査員たちが、那臣と目を合わせてよいものかと、困惑顔で視線を泳がせるさまを見ていると、なにやら彼らに申し訳ないとすら思えてくる。
そして最もいたたまれないのは、那臣の隣で今後の捜査方針について捜査員たちへ説明している大野管理官の、気の毒なほどの混乱ぶりであった。
通常、捜査本部は、事件が発生した所轄の警察署内に設置され、今回のような殺人事件では、所轄の刑事課の捜査員に本庁の刑事部捜査第一課の捜査員を加え、編成される。本部長に警視庁刑事部長、副本部長には警視庁刑事部捜査第一課長と所轄の警察署長が据えられるが、実質的に指揮を執るのは、捜査第一課の管理官だ。
今回事件を仕切ることになったのは、大野管理官だった。若白髪と貧相な体躯の持ち主で、キャリアの警察官僚として組織運営に勤しむ能力はいざ知らず、いかにも『現場の荒事』には向かなさそうな男である。
この大野だが、つい二週間ほど前には、いつも血色の悪い頬を紅潮させ、課内で最も激しく那臣を非難し、厳しい処分を要求していたものだ。もっとも、大野が要求するまでもなく、那臣に対する処分は、懲戒免職以外ありえないはずだった。
それが一転、那臣は、大野より階級が上となって堂々と復帰を果たし、あろうことか自らの率いる捜査本部に、オブザーバーとして加わるという。那臣叩きの同志であったはずの刑事部長直々に、理由も聞かされず「何事も館君に助言を仰ぎ、指示を頂くように」などと厳命された日には、パニックを起こしても仕方ない。
普段なら捜査の指揮もてきぱきとそつなくこなす大野が、被害者と関係者の名前を読み違えたり、同じ捜査員を何度も別の担当に命じたりする様子を目の当たりにして、那臣はこっそり溜息をついた。
その僅かな呼吸音に、大野が飛び上がるほど反応する。捜査会議が始まってから、那臣の方へ顔を向ける素振りも見せなかった大野は、実のところ、意識のほとんどを隣席へ向けていたとみえる。引けた腰を椅子から浮かせたまま、声をうわずらせる。
「なっ……にか……なんでしょうか館く……館那臣参事官。お気づきのことがあればなんでもおっしゃってください」
ええ、まずその職名付きフルネーム呼びをやめてください、と言ってみたいものだ。呼ばれ慣れないうえに、想像以上に気色悪い。
しかし、那臣も組織人の端くれである。
悲しきものは宮仕え。どれほど気に食わない相手であろうと、上には上に対する言葉遣いが必要なのだ。たとえ欠片ほどの敬意も含まれていなくとも。
首筋を掻きむしりたい衝動を堪えて、口を開く。
「……いえ、その方針でよろしいかと。ただ……」
「どっ、どこかお気に召さないところが……早急にすべて修正いたします!」
大野は打たれたように立ち上がり、敬礼したまま硬直する。これにはいい加減、那臣も深く溜息をつくしかなかった。仮にも捜査本部を率いる立場の人間が、上司のお気に召さなかった程度で、簡単に方針をひっくり返してどうする。
まあそういった評価は、直立不動の大野の陰で、ひたすら下を向き続ける捜査一課長に任せることにしよう。那臣はもう一度息を整えると、軽く形だけの挙手をしてみせた。
「補足ですが、被害者の足取りについて。
犯行現場へ向かう前に立ち寄ったコンビニですが、彼女の行動範囲からは外れていますね。最寄り駅と勤務先の間には、他にも一軒コンビニがある。どうしてそちらを利用せず、わざわざこちらのコンビニへ向かったのか……」
新宿区松広にある、雑居ビルの合間の狭い路地を抜けようとした酔客が、路地を塞ぐように倒れていた遺体を発見した。被害者は、現場から北へ二百メートルほど離れたキャバクラに勤める二十歳の女性。死因は、背後からナイフのような鋭利な刃物で一突きされたことによる失血死である。現場に残されていた被害者の鞄からは、財布とスマホが抜き取られ、勤務先を出た際身につけていた指輪がなくなっていた。
金銭目的の突発的犯行と怨恨、両方の線で捜査が進められることになり、その日、新宿中央警察署内に、キャバクラ嬢殺人事件の捜査本部が立ち上げられた。
本部となる会議室に、次々と人が集っていく。自分たちの縄張りで行われた非道な犯罪を許すまいと皆の志気が高まり、本庁捜査第一課の捜査員たちが加わって、さらに静かな熱が加速する。
この時の独特の張りつめた雰囲気が、那臣は好きだった。
捜査本部が必要な凶悪事件には、悲惨な被害者が存在する。よってその立ち上げを喜ぶのは、不謹慎この上ない。警察官たるもの、自らが守るべき都民が、何事もなく安心して暮らせる日常を尊ぶべきだろう。
だがしかし、戦う集団がひとつの目的に向かって結集する瞬間のえもいわれぬ一体感、高揚感は、おそらく他の捜査員たちにとっても、都民からの感謝や信頼とともに、一つのモチベーションとなっているのではないか。
そんな好ましいはずの空間が、本日のこの捜査本部にはなかった。
緊張はぴりりと肌に不快にまとわりつき、互いに袖が触れるほどの距離に集った捜査員たちの間に生み出されていくものは、連帯感でなく不信感だ。
何故、あの男がここにいることを許すのかと問う、本部を指揮する者たちへの不信感。
そして、何故あの男がここにいるのか、問うてよいのか隣席の同僚の顔色を互いに伺う不信感。
どろどろした不信感の高波が次々と押し寄せてくるのを、那臣は顔をしかめて耐えていた。
(……ったく、いっそ本物の『針』のむしろのほうがましだぞ、これは……)
先日、謹慎後久しぶりに登庁したときには、そこかしこから罵声を浴びせられたが、ここまで消耗することはなかった。同僚や顔見知りの所轄の捜査員たちが、那臣と目を合わせてよいものかと、困惑顔で視線を泳がせるさまを見ていると、なにやら彼らに申し訳ないとすら思えてくる。
そして最もいたたまれないのは、那臣の隣で今後の捜査方針について捜査員たちへ説明している大野管理官の、気の毒なほどの混乱ぶりであった。
通常、捜査本部は、事件が発生した所轄の警察署内に設置され、今回のような殺人事件では、所轄の刑事課の捜査員に本庁の刑事部捜査第一課の捜査員を加え、編成される。本部長に警視庁刑事部長、副本部長には警視庁刑事部捜査第一課長と所轄の警察署長が据えられるが、実質的に指揮を執るのは、捜査第一課の管理官だ。
今回事件を仕切ることになったのは、大野管理官だった。若白髪と貧相な体躯の持ち主で、キャリアの警察官僚として組織運営に勤しむ能力はいざ知らず、いかにも『現場の荒事』には向かなさそうな男である。
この大野だが、つい二週間ほど前には、いつも血色の悪い頬を紅潮させ、課内で最も激しく那臣を非難し、厳しい処分を要求していたものだ。もっとも、大野が要求するまでもなく、那臣に対する処分は、懲戒免職以外ありえないはずだった。
それが一転、那臣は、大野より階級が上となって堂々と復帰を果たし、あろうことか自らの率いる捜査本部に、オブザーバーとして加わるという。那臣叩きの同志であったはずの刑事部長直々に、理由も聞かされず「何事も館君に助言を仰ぎ、指示を頂くように」などと厳命された日には、パニックを起こしても仕方ない。
普段なら捜査の指揮もてきぱきとそつなくこなす大野が、被害者と関係者の名前を読み違えたり、同じ捜査員を何度も別の担当に命じたりする様子を目の当たりにして、那臣はこっそり溜息をついた。
その僅かな呼吸音に、大野が飛び上がるほど反応する。捜査会議が始まってから、那臣の方へ顔を向ける素振りも見せなかった大野は、実のところ、意識のほとんどを隣席へ向けていたとみえる。引けた腰を椅子から浮かせたまま、声をうわずらせる。
「なっ……にか……なんでしょうか館く……館那臣参事官。お気づきのことがあればなんでもおっしゃってください」
ええ、まずその職名付きフルネーム呼びをやめてください、と言ってみたいものだ。呼ばれ慣れないうえに、想像以上に気色悪い。
しかし、那臣も組織人の端くれである。
悲しきものは宮仕え。どれほど気に食わない相手であろうと、上には上に対する言葉遣いが必要なのだ。たとえ欠片ほどの敬意も含まれていなくとも。
首筋を掻きむしりたい衝動を堪えて、口を開く。
「……いえ、その方針でよろしいかと。ただ……」
「どっ、どこかお気に召さないところが……早急にすべて修正いたします!」
大野は打たれたように立ち上がり、敬礼したまま硬直する。これにはいい加減、那臣も深く溜息をつくしかなかった。仮にも捜査本部を率いる立場の人間が、上司のお気に召さなかった程度で、簡単に方針をひっくり返してどうする。
まあそういった評価は、直立不動の大野の陰で、ひたすら下を向き続ける捜査一課長に任せることにしよう。那臣はもう一度息を整えると、軽く形だけの挙手をしてみせた。
「補足ですが、被害者の足取りについて。
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