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第二章 刑事、再び現場へ赴く
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被害者のキャバクラ嬢、原口莉愛は、殺害推定時刻午前〇時の三十分ほど前に、勤め先のキャバクラ・ミルキーキャッツから南へ百メートルほど離れたコンビニエンスストアで、タイツを購入していた。どうやらタイツが伝線してしまったらしく、購入後すぐコンビニのトイレに入って出て行く姿が、防犯カメラに映っていた。トイレのサニタリーボックスから、捨てられたタイツも見つかっている。
通りすがりの物取りによる犯行と、知人との何らかのトラブル。両方の線で捜査が進められることにはなっていたが、大野は、たまたま通りがかった派手な身なりの被害者が、運悪く強盗殺人の標的になってしまった可能性が高いと見て、捜査を指揮していた。
「なるほどおっしゃるとおり……ん? しかしこのコンビニがミルキーキャッツから一番近いかと……」
大野が慌てて現場付近の地図を見やる。そして、己がついうっかりこぼした呟きに気付き、顔と両手をぶんぶん振りまくった。
「いえっそのっ、決して参事官のお考えを否定するつもりはなく、そのっ」
だんだん安物の刑事コメディードラマを見せられている気分になってきた。刑事部長はじめ、我が社のお偉いさん方にどう脅されたのやら。すっかりアンタッチャブルな新上司と認定されたようだ。
しかめた顔を気合いで直して、那臣は努めて冷静に説明を加える。
「確かに直線距離は最短ですが、間に片道二車線の通りがあります。信号のある横断歩道は近くになく、夜でも交通量が多い。渡ろうと思っても意外に時間がかかるでしょう。最寄りの駅とも逆方向です。仕事を終えて帰宅するにも遊びに出るにも、ちょっと立ち寄っていくには不便だ。
それにこのコンビニのあるあたりは、表通りはオフィスビル、裏通りに入ったところに数件、熟年層相手の古い呑み屋や小料理屋があるくらいです。自分が新宿中央署勤務だったころ、深夜の時間帯に、彼女のような若い女性はあまり見かけませんでした。
あえて何かこの方角に足を向けた理由があると思われるんですが、そのあたりは……」
「おっしゃる通り! では誰か! そのあたりを重点的に調べるように!」
大野の高らかな宣言を、那臣は片手で遮る。
「自分が行きますよ。人手も足りないことですし」
「は? い、いえっ参事官にそのようなことを……」
「肩書きなどどうぞお気になさらず、一捜査員と思って、以前のようにご自由にお使いください。
そのかわり本部は全面的にお任せしますよ? 管理官」
皮肉をたっぷり盛り込んだつもりの捨て台詞を受け取った大野は、喜色満面、首がちぎれそうに頷いてみせた。那臣がこの場にいなくなるのが余程嬉しいらしい。
各自の持ち場へと散っていく捜査員たちを追って、那臣も席を立つ。
二十分足らずの会議で、気力も体力も使い果たしてしまったようだ。ぐったりと重い身体を励まして、なんとか部屋の外へと向かう。早くこの淀みきった空間を抜け出したい。
その背中に、大野の浮かれた声が飛んでくる。
「誰か! 参事官のお供を! 車をお出しして!」
「……いえ、本当に結構ですので」
自分が大人の自制心を保てるうちに、大野の半径百メートルから離脱しよう。でなければ新喜劇よろしく、ハリセンで大野の後頭部を叩いて「ええかげんにせんかい」とツッコんでしまいそうだ。
足を早めた那臣の進路を、すばやく遮る影があった。
「自分がお車を用意いたします。どうぞ、参事官どの」
よく見知った男が、腰を僅かに折ったまま上目遣いで、芝居がかった卑屈な笑みを那臣に向けていた。
黒のオデッセイが新宿中央警察署から走り出る。
那臣は気まずさを隠しきれず、そっと運転席の男を伺ったが、男の方はいたって機嫌よくハンドルを握っていた。
「……いいんですか? 俺なんかに構ってると恭さんの立場が……」
恭士はハンドルを軽く叩くと、咽喉の奥で笑う。
「なんですか参事官どの、自分は大野管理官の命令に粛々と従っただけでございますよ。間違ってもこんな警視庁一のトラブルメーカーと旧知の間柄だとか、実は結構仲良しだとか、そんなことはありませんとも、ええ」
台詞はしかつめらしい体を装っているが、その口調は、完璧に那臣をからかうものだ。
この男、倉田恭士は、那臣が警察学校を出て初めて交番勤務に就いたとき、同じ交番で一から仕事を教えてくれた先輩だ。現在は新宿中央署の刑事課に配属されており、今回の捜査本部にも捜査員として加わっていた。
明るい茶髪に洒落た服装、人当たりがよく、ジョークばかり飛ばしているいたって軽い態度は、歌舞伎町の人気ホストと言われても十分通るだろう。
先程の会議で、あまりに居心地が悪かった反動から、うっかり昔馴染みとの心地よいやりとりに流されそうになる。つられて頬を緩めかけ、はたと我に返って身を固くした那臣を、運転席の恭士がまたからかった。
「俺のことは心配すんなって。帰ったら新宿中央署はもちろん、大野管理官はじめ本店のやつら全員に、館那臣がいかに血も涙もない極悪非道の鬼悪魔か、ないことないことディスりまくってやっから」
「……ないことないこと、なんですね」
「当然だろ。お前みたいなお人好しの塊の言動、今の我が社でうっかりあること喋ったら、館シンパ認定されて、それこそ完全デリートだ」
「…………」
通りすがりの物取りによる犯行と、知人との何らかのトラブル。両方の線で捜査が進められることにはなっていたが、大野は、たまたま通りがかった派手な身なりの被害者が、運悪く強盗殺人の標的になってしまった可能性が高いと見て、捜査を指揮していた。
「なるほどおっしゃるとおり……ん? しかしこのコンビニがミルキーキャッツから一番近いかと……」
大野が慌てて現場付近の地図を見やる。そして、己がついうっかりこぼした呟きに気付き、顔と両手をぶんぶん振りまくった。
「いえっそのっ、決して参事官のお考えを否定するつもりはなく、そのっ」
だんだん安物の刑事コメディードラマを見せられている気分になってきた。刑事部長はじめ、我が社のお偉いさん方にどう脅されたのやら。すっかりアンタッチャブルな新上司と認定されたようだ。
しかめた顔を気合いで直して、那臣は努めて冷静に説明を加える。
「確かに直線距離は最短ですが、間に片道二車線の通りがあります。信号のある横断歩道は近くになく、夜でも交通量が多い。渡ろうと思っても意外に時間がかかるでしょう。最寄りの駅とも逆方向です。仕事を終えて帰宅するにも遊びに出るにも、ちょっと立ち寄っていくには不便だ。
それにこのコンビニのあるあたりは、表通りはオフィスビル、裏通りに入ったところに数件、熟年層相手の古い呑み屋や小料理屋があるくらいです。自分が新宿中央署勤務だったころ、深夜の時間帯に、彼女のような若い女性はあまり見かけませんでした。
あえて何かこの方角に足を向けた理由があると思われるんですが、そのあたりは……」
「おっしゃる通り! では誰か! そのあたりを重点的に調べるように!」
大野の高らかな宣言を、那臣は片手で遮る。
「自分が行きますよ。人手も足りないことですし」
「は? い、いえっ参事官にそのようなことを……」
「肩書きなどどうぞお気になさらず、一捜査員と思って、以前のようにご自由にお使いください。
そのかわり本部は全面的にお任せしますよ? 管理官」
皮肉をたっぷり盛り込んだつもりの捨て台詞を受け取った大野は、喜色満面、首がちぎれそうに頷いてみせた。那臣がこの場にいなくなるのが余程嬉しいらしい。
各自の持ち場へと散っていく捜査員たちを追って、那臣も席を立つ。
二十分足らずの会議で、気力も体力も使い果たしてしまったようだ。ぐったりと重い身体を励まして、なんとか部屋の外へと向かう。早くこの淀みきった空間を抜け出したい。
その背中に、大野の浮かれた声が飛んでくる。
「誰か! 参事官のお供を! 車をお出しして!」
「……いえ、本当に結構ですので」
自分が大人の自制心を保てるうちに、大野の半径百メートルから離脱しよう。でなければ新喜劇よろしく、ハリセンで大野の後頭部を叩いて「ええかげんにせんかい」とツッコんでしまいそうだ。
足を早めた那臣の進路を、すばやく遮る影があった。
「自分がお車を用意いたします。どうぞ、参事官どの」
よく見知った男が、腰を僅かに折ったまま上目遣いで、芝居がかった卑屈な笑みを那臣に向けていた。
黒のオデッセイが新宿中央警察署から走り出る。
那臣は気まずさを隠しきれず、そっと運転席の男を伺ったが、男の方はいたって機嫌よくハンドルを握っていた。
「……いいんですか? 俺なんかに構ってると恭さんの立場が……」
恭士はハンドルを軽く叩くと、咽喉の奥で笑う。
「なんですか参事官どの、自分は大野管理官の命令に粛々と従っただけでございますよ。間違ってもこんな警視庁一のトラブルメーカーと旧知の間柄だとか、実は結構仲良しだとか、そんなことはありませんとも、ええ」
台詞はしかつめらしい体を装っているが、その口調は、完璧に那臣をからかうものだ。
この男、倉田恭士は、那臣が警察学校を出て初めて交番勤務に就いたとき、同じ交番で一から仕事を教えてくれた先輩だ。現在は新宿中央署の刑事課に配属されており、今回の捜査本部にも捜査員として加わっていた。
明るい茶髪に洒落た服装、人当たりがよく、ジョークばかり飛ばしているいたって軽い態度は、歌舞伎町の人気ホストと言われても十分通るだろう。
先程の会議で、あまりに居心地が悪かった反動から、うっかり昔馴染みとの心地よいやりとりに流されそうになる。つられて頬を緩めかけ、はたと我に返って身を固くした那臣を、運転席の恭士がまたからかった。
「俺のことは心配すんなって。帰ったら新宿中央署はもちろん、大野管理官はじめ本店のやつら全員に、館那臣がいかに血も涙もない極悪非道の鬼悪魔か、ないことないことディスりまくってやっから」
「……ないことないこと、なんですね」
「当然だろ。お前みたいなお人好しの塊の言動、今の我が社でうっかりあること喋ったら、館シンパ認定されて、それこそ完全デリートだ」
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