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第二章 刑事、再び現場へ赴く
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よろけながら振り向いた那臣を指さし、みはやがころころと爆笑している。
「うっわ、見事に膝かっくんされちゃいましたね! なに黄昏てるんですか那臣さん、後ろががら空きですよ?」
「……気配殺して膝かっくんしに来る奴は、お前くらいだろ」
たとえ大都会の雑踏の中でも、気配を読むことに関しては密かに自信を持っていた那臣だが、膝の裏に触れられるまで、人一人近づいてきたことすら全く気取らせなかった。みはやの技量に改めて舌を巻く。
しかし称賛を口には出さず、名目上保護者として、お小言を優先することにした。
「菓子買ってやったら大人しく一人で家に帰る約束だっただろうが。俺はまだ仕事中、遊んでやる暇はないんだよ」
みはやが愛らしくふくれてみせる。
「……那臣さん、なにかわたしというものを勘違いされてませんか? 那臣さんで遊ぶだけのみはやちゃんじゃありませんよ。
お仕事のお手伝いから愚痴の聞き役まで、美少女秘書になんなりとお申し付けくださいな。那臣さんがお望みでしたら深夜特別残業後、嬉し恥ずかしモーニングコーヒーのお相手も務めちゃいますよ、きゃ」
「愚痴……ねえ。みはやお前、もしかしなくても捜査本部、盗聴してたな?」
亀戸からの帰路、恭士から、みはやとのやりとりをスマホの画面に打ち込んで見せられた那臣である。
警察署の庁内で、どうやって盗聴をしているかは知らないが、みはやのことだ。先程の本部でのやりとりや、同僚たちの会話を拾うことなど軽くやってのけそうである。
案の定みはやはあっさりとうなずいた。
「有能な秘書のたしなみとして、主人の職場内のあんなことやこんなことは当然把握の対象です。ご安心ください、お年頃女子の最低限の恥じらいで、トイレの個室での音声は盗聴対象外ですから」
「男女関係なく個室は勘弁してくれ」
「というか個室では、仕掛けてもあまり効率的ではないのです。
むしろ女子はパウダーブース、男子は並んで用を足されるあたりの音声がベストなんですよ。
ロッカールーム、喫煙スペースと並んで、職場内うっかり口が滑る場所、堂々ベスト三です」
確かに、と頷いてしまった。
署内で他部署の人間や、滅多に話すことのない幹部と、ちょっとした会話を交わす機会が多いのは、みはやの言うところのベスト三のあたりだ。
いや、だがしかし、盗聴はダメだろう。
説教しておかねばとみはやに向き直ったその時、ふいにみはやが大きな瞳をさらに見開いた。頬を紅潮させ、きらきらした表情で、付けていたイヤーマフをあたふたと外す。
「……おお、これはいいタイミングで拾えちゃいました。トイレですっきり身が軽くなると、お口チャックも緩んじゃうんですかね。ほら、こんな危険な会話がいままさに!」
そのまま那臣の耳にぱふりと被せてきた。雑踏のざわめきが僅かに静まり、代わって荒いノイズの混じる音声が耳に飛び込んでくる。防寒用とばかり思っていたイヤーマフの内部は、ヘッドフォンの仕様になっているようだ。
聞きとりにくい、しかし覚えのある声が何か話している。
「……ぱり……れ、ハメられ……」
声の調子は、内緒話のそれだ。トイレ(?)ですら声を潜め、何を話しているのか。
「……俺、絶対おかしいと思ってたんですよ……だって館さんですよ? 絶対そんなことするような人じゃないでしょう」
この声は、先程捜査本部で報告を受けた、新宿中央署の市野瀬という捜査員だ。
「……野瀬、声がデカい。誰かに聞かれるぞ」
「でも名……長……」
相手は那臣の同僚、名波のようだ。那臣と同じ時期に捜査第一課に配属されたが、班が違うためほとんど話したことはなかった。その名波が、呟くような小声で、それでもはっきりと答える。
「……言うな、判ってる奴は判ってる。俺やお前以外にもな」
気付くと、隣のみはやが那臣を見つめ嬉しそうに微笑んでいた。
那臣に渡したイヤーマフと同じ音声を聞いているのだろう、ブルートゥースのイヤフォンが片耳に掛かっている。
「『仲間はいつもお前さんの目の前にいる。お前さんが目を塞いでおるだけじゃ』、でしたね」
「……だな」
那臣とみはや、二人を引き合わせた児童文学『ヴァルナシア旅行団』の登場人物、ロフじいの台詞だ。
北風にさらされて熱を奪われた身体の奥に、ほっこりと暖かいものが蘇る感触を、那臣は覚えた。
少し照れくさい気はしたが、みはやに軽く頭を下げる。
「慰めてくれたんだな、ありがとう」
「いえいえ、今のは本当にたまたまの拾いものですがどういたしまして。那臣さんが元気になってくださるなら、これからも張り切って、盗聴くらいいくらでも……」
「違う! 盗聴は禁止……まあ、なんだ。ほどほどにしておいてくれ」
法を順守すべき警察官たるもの、このコメントはどうなのか、と、溜息をつく。
そんな那臣を見てくすっと笑ったみはやが、ひよっこりと身を傾げながら、スマホを差し出した。
「承知しました。ではほどほどに、合法に合意の元に盗聴することにいたしましょう。
はい、これをどうぞ」
「スマホ? お前のじゃないよな」
「みはやちゃんのは、このとおりクマさんの可愛いスマホケース付きです。
こちらは新しくゲットしてきたものです。亀戸でお目にかかったとき、倉田さんにも同じものをお渡しして、肌身はなさずご愛用くださるようお願いしておきました。
ので、先程からの捜査本部内の会話はもちろん、倉田さんが呟くひとりごとも、うっかりもれなく拾っちゃえますよ」
「うっわ、見事に膝かっくんされちゃいましたね! なに黄昏てるんですか那臣さん、後ろががら空きですよ?」
「……気配殺して膝かっくんしに来る奴は、お前くらいだろ」
たとえ大都会の雑踏の中でも、気配を読むことに関しては密かに自信を持っていた那臣だが、膝の裏に触れられるまで、人一人近づいてきたことすら全く気取らせなかった。みはやの技量に改めて舌を巻く。
しかし称賛を口には出さず、名目上保護者として、お小言を優先することにした。
「菓子買ってやったら大人しく一人で家に帰る約束だっただろうが。俺はまだ仕事中、遊んでやる暇はないんだよ」
みはやが愛らしくふくれてみせる。
「……那臣さん、なにかわたしというものを勘違いされてませんか? 那臣さんで遊ぶだけのみはやちゃんじゃありませんよ。
お仕事のお手伝いから愚痴の聞き役まで、美少女秘書になんなりとお申し付けくださいな。那臣さんがお望みでしたら深夜特別残業後、嬉し恥ずかしモーニングコーヒーのお相手も務めちゃいますよ、きゃ」
「愚痴……ねえ。みはやお前、もしかしなくても捜査本部、盗聴してたな?」
亀戸からの帰路、恭士から、みはやとのやりとりをスマホの画面に打ち込んで見せられた那臣である。
警察署の庁内で、どうやって盗聴をしているかは知らないが、みはやのことだ。先程の本部でのやりとりや、同僚たちの会話を拾うことなど軽くやってのけそうである。
案の定みはやはあっさりとうなずいた。
「有能な秘書のたしなみとして、主人の職場内のあんなことやこんなことは当然把握の対象です。ご安心ください、お年頃女子の最低限の恥じらいで、トイレの個室での音声は盗聴対象外ですから」
「男女関係なく個室は勘弁してくれ」
「というか個室では、仕掛けてもあまり効率的ではないのです。
むしろ女子はパウダーブース、男子は並んで用を足されるあたりの音声がベストなんですよ。
ロッカールーム、喫煙スペースと並んで、職場内うっかり口が滑る場所、堂々ベスト三です」
確かに、と頷いてしまった。
署内で他部署の人間や、滅多に話すことのない幹部と、ちょっとした会話を交わす機会が多いのは、みはやの言うところのベスト三のあたりだ。
いや、だがしかし、盗聴はダメだろう。
説教しておかねばとみはやに向き直ったその時、ふいにみはやが大きな瞳をさらに見開いた。頬を紅潮させ、きらきらした表情で、付けていたイヤーマフをあたふたと外す。
「……おお、これはいいタイミングで拾えちゃいました。トイレですっきり身が軽くなると、お口チャックも緩んじゃうんですかね。ほら、こんな危険な会話がいままさに!」
そのまま那臣の耳にぱふりと被せてきた。雑踏のざわめきが僅かに静まり、代わって荒いノイズの混じる音声が耳に飛び込んでくる。防寒用とばかり思っていたイヤーマフの内部は、ヘッドフォンの仕様になっているようだ。
聞きとりにくい、しかし覚えのある声が何か話している。
「……ぱり……れ、ハメられ……」
声の調子は、内緒話のそれだ。トイレ(?)ですら声を潜め、何を話しているのか。
「……俺、絶対おかしいと思ってたんですよ……だって館さんですよ? 絶対そんなことするような人じゃないでしょう」
この声は、先程捜査本部で報告を受けた、新宿中央署の市野瀬という捜査員だ。
「……野瀬、声がデカい。誰かに聞かれるぞ」
「でも名……長……」
相手は那臣の同僚、名波のようだ。那臣と同じ時期に捜査第一課に配属されたが、班が違うためほとんど話したことはなかった。その名波が、呟くような小声で、それでもはっきりと答える。
「……言うな、判ってる奴は判ってる。俺やお前以外にもな」
気付くと、隣のみはやが那臣を見つめ嬉しそうに微笑んでいた。
那臣に渡したイヤーマフと同じ音声を聞いているのだろう、ブルートゥースのイヤフォンが片耳に掛かっている。
「『仲間はいつもお前さんの目の前にいる。お前さんが目を塞いでおるだけじゃ』、でしたね」
「……だな」
那臣とみはや、二人を引き合わせた児童文学『ヴァルナシア旅行団』の登場人物、ロフじいの台詞だ。
北風にさらされて熱を奪われた身体の奥に、ほっこりと暖かいものが蘇る感触を、那臣は覚えた。
少し照れくさい気はしたが、みはやに軽く頭を下げる。
「慰めてくれたんだな、ありがとう」
「いえいえ、今のは本当にたまたまの拾いものですがどういたしまして。那臣さんが元気になってくださるなら、これからも張り切って、盗聴くらいいくらでも……」
「違う! 盗聴は禁止……まあ、なんだ。ほどほどにしておいてくれ」
法を順守すべき警察官たるもの、このコメントはどうなのか、と、溜息をつく。
そんな那臣を見てくすっと笑ったみはやが、ひよっこりと身を傾げながら、スマホを差し出した。
「承知しました。ではほどほどに、合法に合意の元に盗聴することにいたしましょう。
はい、これをどうぞ」
「スマホ? お前のじゃないよな」
「みはやちゃんのは、このとおりクマさんの可愛いスマホケース付きです。
こちらは新しくゲットしてきたものです。亀戸でお目にかかったとき、倉田さんにも同じものをお渡しして、肌身はなさずご愛用くださるようお願いしておきました。
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