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19.追いかけるより前に追いかけられていた、ということ
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女はだいたい9週間くらい一緒にいた。
自分は戦地に残り、女は安全に国に送った。それから4か月ほどしてファルマンデイ降伏の報せが本土にとどろいた。
終戦の知らせに、俺を思い出しただろうか。
そんな淡い期待は持たなかった。貴族と平民では世界が違う。身分差というのは相手を不可視にするものだ。
それがわかっていたから、ロドニスがジョナルダ伯爵のもとを訪れたのも子爵としてシャンティ―領を賜ったそのあとだった。
「……エウリッタは私が外で作った子だよ。ジョナルダの嫡出子じゃない」
「知っています。ファルマンデイ当時は知りませんでしたが」
「……君の名前はなんだったかな?」
ファルマンデイから実に2年が経っていた。
ロドニスは、シュルツ・ジョナルダの勤め先である防衛庁の長官室を訪れた。そこでエウリッタを嫁に欲しいと乞いた。
シュルツ・ジョナルダは作戦上で一緒したことはあるが初対面だ。
凍てつく、周りを跳ねのけるための美貌というのか。その鮮やかな色彩と美しさは、エウリッタを痛いくらい彷彿とさせる。
ちなみにジョナルダ家は娘がわんさかいる。それでエウリッタもその大勢の一人なんだろうとファルマンデイ当時は勝手に思い込んでいた。実際は庶子だとあとでわかった。ジョナルダ伯爵の稀有な色彩を継いでいる子供は家の長男の他にエウリッタ1人だけということもあとで調べたが、庶子なだけにやっかみにあいそうだと思う。
「ロドニス・シャンティーです。傭兵団にいた頃は防衛庁に仕事を回していただくこともありました。ウィルディアのロドニスと言った方が解るかもしれません」
「ああ。成り上がりの子爵だね。火刑になった罪人の血がその体に流れている」種族が違うのだという線引きをにこやかにされた。「私は君が嫌いじゃないよ。でも、エウリッタを嫁に欲しいと言うのは私の聞き違いだったことにしようね。私も優秀な駒を失いたくないからね」
『優秀な駒』というのは自分のことだとロドニスはそのとき解釈した。
「俺があなたの娘を娶っても何も変わりません。俺はあなたがたのために奉仕する。あなたがたがやれということをやる。何も聞かずに」
「君は尻尾の振り方が上手だね。自分の利用価値がわかっている。君は特殊だよ、ぎちぎちの階級制度の中で案外自由に泳いでいる。貴族のくせに家名を背負わない。だから汚い仕事もする。醜聞を恐れない」
「そうですね」
ジョナルダ伯爵は始終その美貌を笑みに緩めていた。背もたれの高い椅子に腰を休めて、嫌になるくらい記憶の中のものと似ているそのローズゴールドで、ひんやりと訪問者であるロドニスの像を捉えている。
「君みたいな使いやすい貴族が増えたらいいなと私は思っているよ。言っただろう。君のことは嫌いじゃないと。でも、……君にはもっと相応しい花嫁がいると思うというだけだよ」
その月のうちに、いきなり国から縁談がきた。
花嫁として名が挙がったその女をロドニスは知っていた。それまで国に命じられて秘密裏に探っていた相手だったからだ。敵国と密通している女間者だった。
ロドニスはこの縁談を快く受けた。
結婚に金をかけて、式を挙げて、宴を開いた。夜になると、寝室に無垢の白い衣で現れた女を組み敷いて、口頭で罰を伝えてから、首を斬った。
国は駒の利用価値を試したのだ。
わかっていたから期待に応えた。初夜に、彼のために純白を着て己を差しだした令嬢を、閨の床の上で殺した。
出来るだけ派手に。醜く。化け物じみた報復でもって、国の敵をさばいた。
おかげで怪物だ死神卿だと巷では盛り上がった。国内に潜伏する国の裏切り者たちの耳にも嫌でも入ることだろう。
「よお師団長、あんた最近大丈夫か? 寝れてるか?」
ある日、城のてっぺんにある物見台に犬笛が現れてそう聞いた。
そんな風に聞かれるのは心外だった。石だたみが贅沢に積み上がる塔のてっぺん。視線を馳せれば、緑にさざなむ草地、煙突の煙がたくさん上がる騒がしい城下町。笑い声の幻すら聞こえてくる。
高いところからの景色。
夢にみていた景色だ。それがなぜ大丈夫じゃないと思うのだろう。
犬笛含めて、自分についてきてくれた傭兵団も、今は家と呼べるものを持っている。ひとつの地に腰を休められている。
別のだれかの戦いのために死ねとはもう言われない。そうしなくても食いっぱぐれない。ロドニス自身だけじゃない、彼が見渡す限りの世界が今そうなっている。
「なあ、寝られねーなら女回しましょーか」
女がいる方が眠れない、と言い返しそうになった。
眠れていないのは事実だったがそれを知られるのは嫌だったのだ。だから犬笛の女癖の悪さをいじって流した。
犬笛自身は女がいないと眠れないのかもしれない。
組み伏せる側になって自分を安心させている。そういうところが犬笛にはある気がする。
汚れた自分を持て余している。
その気持ちはわかる。
だが犬笛はそれを叱ってくれる人間が貴重らしい。それこそ、汚い手で触れないと思うほどに。
「犬笛様ったら! 内政長であるあなたが風紀を乱してどうするのです! 聞いていらっしゃいますか!? 犬笛様! もう今日という今日は――」
召使頭のアグネスは今年42になる未亡人。グレイの混じりだしたブルネットの髪をかちりと髪留めで結い上げている。隙の無い姿に釣り合う、隙の無い仕事ぶりと堅苦しいが高潔な精神を持っている。
アグネスが取り乱すときは決まっている。犬笛がわざと煽っているときだ。
まあ、そういうことなのだろう。
もしかしたら、ここが犬笛の癒しのはじまりになるのだろうか。
そうなったらいい、とふと思う。
家畜がのんびりと草を食う大地と、食べ物や着る物が溢れ返る町と、冬になっても凍えることがない頑丈な造りの家と、雨風をしのげる大きな屋根があって、そんな場所で、しかるべき生活をする。
――あんた最近寝れてるか?
これでいい。
眠れないのは錯覚。ふと鏡を見たときに戦場で殺した人間が映るのも、眠ろうとすると血に溺れる女の呻き声が聞こえてくるのも、殺したはずのたくさんの敵に襲いかかられて冷や汗とともに飛び起きるのも、錯覚。すべて幻だ。
俺は間違ってない。
「やあ死神卿。久しぶりだね。ちょっと聞きたいことがあるのだけれど、……君はまだ私の娘を妻に迎えたいと思っているかな?」
シュルツ・ジョナルダ伯爵が防衛庁の廊下でロドニスを呼び止めたのは、ほんとうにいきなりのことだった。エウリッタへの求婚のためにジョナルダ伯爵のもとを訪れてから、はや2年以上が経っていた。
■
「ちょっと待って」
ゆるやかに揺れる馬車のなかで、エウリッタは待ったをかけた。
「この結婚って、旦那様がジョナルダの家に申し込んだの? ジョナルダがわたしをあなたに押しつけたと思ってたんだけど……」
「書類上はそうなってるからな。真実だと見た目が悪いんだろう」
アグネスのいる図書館へ向かう道で、夫の言葉を考え込んだ。
平民上がりの子爵であるロドニスが、ジョナルダ伯爵に嫁が欲しいと言ったところ、快くもらえた。となると、ロドニスの大出世話になってしまう。
逆に、ジョナルダ家がもてあましていた『青い血の令嬢』をロドニスに押しつけた。ということなら、両家の格差を保てるし、平民上がりの子爵だったらそんなものだよな、という嘲けり話になる。
「そういうことだな」
「あ、わたし、声に出して考えてました? ごめんなさい」
「謝ることじゃない。そのとおりだ。あんたには真実が伝わってたかと思ってたが」
「ジョナルダ伯爵はわたしに何も言いませんでした。意味ない意地悪だったんでしょう」
言いながら、正直、混乱する。
ロドニスとはある程度の信頼関係はあると思う。
でも一方で、彼のことを今日まで全く知らなかった。ロドニスの出自も傭兵時代のことも聞いたことがなかった。
結婚においても、押しつけられた嫁だと思い込んでいたから、肩身の狭い思いはずっとあった。
「今の俺のはなしで、あんたが一番に食いつくのはそこか」
「え?」
「俺があんたとの結婚を望んだっていうくだりが一番気になるのか」
「ええ。おかしい?」
ロドニスは彼女を見つめただけだった。酷薄そうな薄い唇から次に発された言葉はたぶん彼が言いかけていたのとは別のものだった。
「平民同士なら、面と向かって求婚する」
ぽつりとそう言ってロドニスがエウリッタの手を取る。黒い手袋を嵌める指先は、革の感触を教えるように、ゆっくりと手の甲を撫でた。それから、赤くなるエウリッタの顔の、頬の傷をまた撫でる。
「あんたを嫁に欲しいと言う。それからこうやって手の甲に口づける」
黒い睫毛を伏せて、ロドニスがやけにうやうやしい仕草でエウリッタの手の甲を引き寄せて口づけた。彼女の円い指先にも小さく音をたてて何度か唇を当てる。
そのまま視線が上がって、目が合いそうになってエウリッタは俯いた。
とくとく血がめぐる音がする。手首の脈が壊れているのも手袋越しに伝わっているだろう。
「……俺はこんな風に自分の話を他人にしたことがない」
「……わたしも今似たようなことを思ってました。わたし、こんな風におだやかに人の身の上話を聞いたことなかった」
無口な夫があまり細かくは語らないその経験をもっと聞きたいと思った。あまり詳しくしゃべってくれなかったけれど、それでも、エウリッタが聞き返したときは丁寧に答えてくれた。心の一角を見ることを許してくれているのを感じて、あたたかい湧き水が満ちるような気持ちだった。
「人とあんまり深く関わったことがなかったのかなわたし」
「関わったの忘れてるだけじゃねえか。戦場で俺と会ったこともすっかり忘れてたしな」
「ご、ごめんなさい……」
否定できないからますます俯く。
エウリッタは姉と自分だけの世界で生きようとしていた。結婚するまで、他人と繋がろうという努力を怠っていた。というか、たんに人間が怖かったから逃げていたのだろう。
だが夫は、わりと悲惨な生まれを背負いながらも人と繋がる努力をしてきた。犬笛をはじめ、ここ数年で出会ったばかりのはずのアグネスやジェレニーとも絆がある。ジェレニーに媚薬を飲ませたときは物凄い剣幕で責められたものだ。
「……ねえ、どうして結婚してすぐ教えてくれなかったの? ファルマンデイの戦で会ったことがあるって」
「あんたにとったら嫌な思い出だろうから」
素っ気なく肩をすくめてロドニスは答える。
けれど、……葛藤はあったはずだ。あの戦場から、ロドニスはエウリッタを積極的に追いかけてくれた。何年もかけて。その発端となった二人の出会いの話をしたかったはずだ。しなかったのはひとえに彼女の気持ちを考えてくれたからなのだろう。
「……戦場であったことは覚えてる。でも、あなたの顔や犬笛の顔は覚えてなかった。というか、わたし、多分少し、あなたに恋をした」
「はあ?」
相手の顔を覚えてなかった。会っても思い出せなかった。
その程度だと言われたら、そうかもしれない。それでも、自分を保護してくれた人間がいたことは当時大きかった。父に捨てられたことと日常の景色が火の海になったことでショック状態だったけれど、その男と会ったら、まるでふつうに胸がどきどきした。今でも覚えている。勇気をふりしぼって花をあげたことも。
「ほんとうよ。わたし、旦那様のことが好きになりかけてたと思う。……でも2度と会うことはないと思ってた。戦時中に敵の国で会っただけのひとで、国に帰ったらもう会うことはないと思ってたと思う」
覚えてないのは「今だけ」だと思っていたせいもあるだろう。
ロドニスは自力でエウリッタを探し出した。それが出来ると己の力を信じていた。エウリッタはそういう精神力がない。ここもふたりの違いなのだろう。
「わたしが結婚してわりとすぐ旦那様を好きになったのは無意識にあなたを覚えてたからかも。そうだったらいいな」
手の甲を撫でる夫の指が止まった。ふいとロドニスが顔を上げて癖のある黒髪がその目元にかかる。
「あんた」
今日のロドニスは言いよどむことが多いようだ。
「俺が好きなのか?」
「えっ」
何を今さら、と言おうとした。
照れ臭くなってエウリッタは視線を泳がせる。けれど夫の視線は彼女の顔に縫いつけられたまま。辛抱強く彼女の返事を待っているようだが、じっと見つめられると返事なしでは逃がさないと威圧されているようでもあって、エウリッタはとうとう観念した。
「……好きよ。決まってるじゃない。今さら?」
「俺のこれまでの話を聞いた今でも?」
もちろんだ。ファルマンデイの戦場で会ったあの師団長はロドニスだった。それを聞いて、もっと好きになってしまうことはあれど、好きじゃなくなることはありえない。
なのに、こんな近くで見つめながら聞くなんて拷問みたいだ。
羞恥に身を震わせながら黙ってうなずく。すると夫が視線を伏せた。
「旦那様……?」
意外なその反応に戸惑う。
ロドニスは照れている様子ではない。嬉しそうでもない。まるで彼もエウリッタと同じで戸惑っているかのようだ。何か言いたいことがあって、でも、それから目を逸らしているように思えた。
「あなたが死神卿でも好きよ」
ロドニスが顔を上げた。
「あなたは? わたしが青い血の女でも好き?」
ロドニスがほんのかすかに笑う。安堵の息を吐いたようにも見えた。その手が伸びてくるとやや強引にエウリッタのうなじを掴んで引き寄せる。
青い瞳が睫毛を伏せたのを見て、エウリッタは慌てて目を閉じた。ちゅ、と熱い唇がじぶんの唇を吸って背筋がぞくぞくする。男の舌先がねっとりと唇の間を撫でた。
「……初夜のときみてえな気分だ」
「しょ、初夜?」
「緊張でがぶがぶ酒を飲んでた」
「……え、あれはそういうこと? 寝室でまっすぐラム酒を飲みに行かれたから困ったのだけれど」
「呑み過ぎだった。勃ってよかった」
「まあ旦那様ったら」
笑ったら、ロドニスも額をつきあわせながら笑った。
自分は戦地に残り、女は安全に国に送った。それから4か月ほどしてファルマンデイ降伏の報せが本土にとどろいた。
終戦の知らせに、俺を思い出しただろうか。
そんな淡い期待は持たなかった。貴族と平民では世界が違う。身分差というのは相手を不可視にするものだ。
それがわかっていたから、ロドニスがジョナルダ伯爵のもとを訪れたのも子爵としてシャンティ―領を賜ったそのあとだった。
「……エウリッタは私が外で作った子だよ。ジョナルダの嫡出子じゃない」
「知っています。ファルマンデイ当時は知りませんでしたが」
「……君の名前はなんだったかな?」
ファルマンデイから実に2年が経っていた。
ロドニスは、シュルツ・ジョナルダの勤め先である防衛庁の長官室を訪れた。そこでエウリッタを嫁に欲しいと乞いた。
シュルツ・ジョナルダは作戦上で一緒したことはあるが初対面だ。
凍てつく、周りを跳ねのけるための美貌というのか。その鮮やかな色彩と美しさは、エウリッタを痛いくらい彷彿とさせる。
ちなみにジョナルダ家は娘がわんさかいる。それでエウリッタもその大勢の一人なんだろうとファルマンデイ当時は勝手に思い込んでいた。実際は庶子だとあとでわかった。ジョナルダ伯爵の稀有な色彩を継いでいる子供は家の長男の他にエウリッタ1人だけということもあとで調べたが、庶子なだけにやっかみにあいそうだと思う。
「ロドニス・シャンティーです。傭兵団にいた頃は防衛庁に仕事を回していただくこともありました。ウィルディアのロドニスと言った方が解るかもしれません」
「ああ。成り上がりの子爵だね。火刑になった罪人の血がその体に流れている」種族が違うのだという線引きをにこやかにされた。「私は君が嫌いじゃないよ。でも、エウリッタを嫁に欲しいと言うのは私の聞き違いだったことにしようね。私も優秀な駒を失いたくないからね」
『優秀な駒』というのは自分のことだとロドニスはそのとき解釈した。
「俺があなたの娘を娶っても何も変わりません。俺はあなたがたのために奉仕する。あなたがたがやれということをやる。何も聞かずに」
「君は尻尾の振り方が上手だね。自分の利用価値がわかっている。君は特殊だよ、ぎちぎちの階級制度の中で案外自由に泳いでいる。貴族のくせに家名を背負わない。だから汚い仕事もする。醜聞を恐れない」
「そうですね」
ジョナルダ伯爵は始終その美貌を笑みに緩めていた。背もたれの高い椅子に腰を休めて、嫌になるくらい記憶の中のものと似ているそのローズゴールドで、ひんやりと訪問者であるロドニスの像を捉えている。
「君みたいな使いやすい貴族が増えたらいいなと私は思っているよ。言っただろう。君のことは嫌いじゃないと。でも、……君にはもっと相応しい花嫁がいると思うというだけだよ」
その月のうちに、いきなり国から縁談がきた。
花嫁として名が挙がったその女をロドニスは知っていた。それまで国に命じられて秘密裏に探っていた相手だったからだ。敵国と密通している女間者だった。
ロドニスはこの縁談を快く受けた。
結婚に金をかけて、式を挙げて、宴を開いた。夜になると、寝室に無垢の白い衣で現れた女を組み敷いて、口頭で罰を伝えてから、首を斬った。
国は駒の利用価値を試したのだ。
わかっていたから期待に応えた。初夜に、彼のために純白を着て己を差しだした令嬢を、閨の床の上で殺した。
出来るだけ派手に。醜く。化け物じみた報復でもって、国の敵をさばいた。
おかげで怪物だ死神卿だと巷では盛り上がった。国内に潜伏する国の裏切り者たちの耳にも嫌でも入ることだろう。
「よお師団長、あんた最近大丈夫か? 寝れてるか?」
ある日、城のてっぺんにある物見台に犬笛が現れてそう聞いた。
そんな風に聞かれるのは心外だった。石だたみが贅沢に積み上がる塔のてっぺん。視線を馳せれば、緑にさざなむ草地、煙突の煙がたくさん上がる騒がしい城下町。笑い声の幻すら聞こえてくる。
高いところからの景色。
夢にみていた景色だ。それがなぜ大丈夫じゃないと思うのだろう。
犬笛含めて、自分についてきてくれた傭兵団も、今は家と呼べるものを持っている。ひとつの地に腰を休められている。
別のだれかの戦いのために死ねとはもう言われない。そうしなくても食いっぱぐれない。ロドニス自身だけじゃない、彼が見渡す限りの世界が今そうなっている。
「なあ、寝られねーなら女回しましょーか」
女がいる方が眠れない、と言い返しそうになった。
眠れていないのは事実だったがそれを知られるのは嫌だったのだ。だから犬笛の女癖の悪さをいじって流した。
犬笛自身は女がいないと眠れないのかもしれない。
組み伏せる側になって自分を安心させている。そういうところが犬笛にはある気がする。
汚れた自分を持て余している。
その気持ちはわかる。
だが犬笛はそれを叱ってくれる人間が貴重らしい。それこそ、汚い手で触れないと思うほどに。
「犬笛様ったら! 内政長であるあなたが風紀を乱してどうするのです! 聞いていらっしゃいますか!? 犬笛様! もう今日という今日は――」
召使頭のアグネスは今年42になる未亡人。グレイの混じりだしたブルネットの髪をかちりと髪留めで結い上げている。隙の無い姿に釣り合う、隙の無い仕事ぶりと堅苦しいが高潔な精神を持っている。
アグネスが取り乱すときは決まっている。犬笛がわざと煽っているときだ。
まあ、そういうことなのだろう。
もしかしたら、ここが犬笛の癒しのはじまりになるのだろうか。
そうなったらいい、とふと思う。
家畜がのんびりと草を食う大地と、食べ物や着る物が溢れ返る町と、冬になっても凍えることがない頑丈な造りの家と、雨風をしのげる大きな屋根があって、そんな場所で、しかるべき生活をする。
――あんた最近寝れてるか?
これでいい。
眠れないのは錯覚。ふと鏡を見たときに戦場で殺した人間が映るのも、眠ろうとすると血に溺れる女の呻き声が聞こえてくるのも、殺したはずのたくさんの敵に襲いかかられて冷や汗とともに飛び起きるのも、錯覚。すべて幻だ。
俺は間違ってない。
「やあ死神卿。久しぶりだね。ちょっと聞きたいことがあるのだけれど、……君はまだ私の娘を妻に迎えたいと思っているかな?」
シュルツ・ジョナルダ伯爵が防衛庁の廊下でロドニスを呼び止めたのは、ほんとうにいきなりのことだった。エウリッタへの求婚のためにジョナルダ伯爵のもとを訪れてから、はや2年以上が経っていた。
■
「ちょっと待って」
ゆるやかに揺れる馬車のなかで、エウリッタは待ったをかけた。
「この結婚って、旦那様がジョナルダの家に申し込んだの? ジョナルダがわたしをあなたに押しつけたと思ってたんだけど……」
「書類上はそうなってるからな。真実だと見た目が悪いんだろう」
アグネスのいる図書館へ向かう道で、夫の言葉を考え込んだ。
平民上がりの子爵であるロドニスが、ジョナルダ伯爵に嫁が欲しいと言ったところ、快くもらえた。となると、ロドニスの大出世話になってしまう。
逆に、ジョナルダ家がもてあましていた『青い血の令嬢』をロドニスに押しつけた。ということなら、両家の格差を保てるし、平民上がりの子爵だったらそんなものだよな、という嘲けり話になる。
「そういうことだな」
「あ、わたし、声に出して考えてました? ごめんなさい」
「謝ることじゃない。そのとおりだ。あんたには真実が伝わってたかと思ってたが」
「ジョナルダ伯爵はわたしに何も言いませんでした。意味ない意地悪だったんでしょう」
言いながら、正直、混乱する。
ロドニスとはある程度の信頼関係はあると思う。
でも一方で、彼のことを今日まで全く知らなかった。ロドニスの出自も傭兵時代のことも聞いたことがなかった。
結婚においても、押しつけられた嫁だと思い込んでいたから、肩身の狭い思いはずっとあった。
「今の俺のはなしで、あんたが一番に食いつくのはそこか」
「え?」
「俺があんたとの結婚を望んだっていうくだりが一番気になるのか」
「ええ。おかしい?」
ロドニスは彼女を見つめただけだった。酷薄そうな薄い唇から次に発された言葉はたぶん彼が言いかけていたのとは別のものだった。
「平民同士なら、面と向かって求婚する」
ぽつりとそう言ってロドニスがエウリッタの手を取る。黒い手袋を嵌める指先は、革の感触を教えるように、ゆっくりと手の甲を撫でた。それから、赤くなるエウリッタの顔の、頬の傷をまた撫でる。
「あんたを嫁に欲しいと言う。それからこうやって手の甲に口づける」
黒い睫毛を伏せて、ロドニスがやけにうやうやしい仕草でエウリッタの手の甲を引き寄せて口づけた。彼女の円い指先にも小さく音をたてて何度か唇を当てる。
そのまま視線が上がって、目が合いそうになってエウリッタは俯いた。
とくとく血がめぐる音がする。手首の脈が壊れているのも手袋越しに伝わっているだろう。
「……俺はこんな風に自分の話を他人にしたことがない」
「……わたしも今似たようなことを思ってました。わたし、こんな風におだやかに人の身の上話を聞いたことなかった」
無口な夫があまり細かくは語らないその経験をもっと聞きたいと思った。あまり詳しくしゃべってくれなかったけれど、それでも、エウリッタが聞き返したときは丁寧に答えてくれた。心の一角を見ることを許してくれているのを感じて、あたたかい湧き水が満ちるような気持ちだった。
「人とあんまり深く関わったことがなかったのかなわたし」
「関わったの忘れてるだけじゃねえか。戦場で俺と会ったこともすっかり忘れてたしな」
「ご、ごめんなさい……」
否定できないからますます俯く。
エウリッタは姉と自分だけの世界で生きようとしていた。結婚するまで、他人と繋がろうという努力を怠っていた。というか、たんに人間が怖かったから逃げていたのだろう。
だが夫は、わりと悲惨な生まれを背負いながらも人と繋がる努力をしてきた。犬笛をはじめ、ここ数年で出会ったばかりのはずのアグネスやジェレニーとも絆がある。ジェレニーに媚薬を飲ませたときは物凄い剣幕で責められたものだ。
「……ねえ、どうして結婚してすぐ教えてくれなかったの? ファルマンデイの戦で会ったことがあるって」
「あんたにとったら嫌な思い出だろうから」
素っ気なく肩をすくめてロドニスは答える。
けれど、……葛藤はあったはずだ。あの戦場から、ロドニスはエウリッタを積極的に追いかけてくれた。何年もかけて。その発端となった二人の出会いの話をしたかったはずだ。しなかったのはひとえに彼女の気持ちを考えてくれたからなのだろう。
「……戦場であったことは覚えてる。でも、あなたの顔や犬笛の顔は覚えてなかった。というか、わたし、多分少し、あなたに恋をした」
「はあ?」
相手の顔を覚えてなかった。会っても思い出せなかった。
その程度だと言われたら、そうかもしれない。それでも、自分を保護してくれた人間がいたことは当時大きかった。父に捨てられたことと日常の景色が火の海になったことでショック状態だったけれど、その男と会ったら、まるでふつうに胸がどきどきした。今でも覚えている。勇気をふりしぼって花をあげたことも。
「ほんとうよ。わたし、旦那様のことが好きになりかけてたと思う。……でも2度と会うことはないと思ってた。戦時中に敵の国で会っただけのひとで、国に帰ったらもう会うことはないと思ってたと思う」
覚えてないのは「今だけ」だと思っていたせいもあるだろう。
ロドニスは自力でエウリッタを探し出した。それが出来ると己の力を信じていた。エウリッタはそういう精神力がない。ここもふたりの違いなのだろう。
「わたしが結婚してわりとすぐ旦那様を好きになったのは無意識にあなたを覚えてたからかも。そうだったらいいな」
手の甲を撫でる夫の指が止まった。ふいとロドニスが顔を上げて癖のある黒髪がその目元にかかる。
「あんた」
今日のロドニスは言いよどむことが多いようだ。
「俺が好きなのか?」
「えっ」
何を今さら、と言おうとした。
照れ臭くなってエウリッタは視線を泳がせる。けれど夫の視線は彼女の顔に縫いつけられたまま。辛抱強く彼女の返事を待っているようだが、じっと見つめられると返事なしでは逃がさないと威圧されているようでもあって、エウリッタはとうとう観念した。
「……好きよ。決まってるじゃない。今さら?」
「俺のこれまでの話を聞いた今でも?」
もちろんだ。ファルマンデイの戦場で会ったあの師団長はロドニスだった。それを聞いて、もっと好きになってしまうことはあれど、好きじゃなくなることはありえない。
なのに、こんな近くで見つめながら聞くなんて拷問みたいだ。
羞恥に身を震わせながら黙ってうなずく。すると夫が視線を伏せた。
「旦那様……?」
意外なその反応に戸惑う。
ロドニスは照れている様子ではない。嬉しそうでもない。まるで彼もエウリッタと同じで戸惑っているかのようだ。何か言いたいことがあって、でも、それから目を逸らしているように思えた。
「あなたが死神卿でも好きよ」
ロドニスが顔を上げた。
「あなたは? わたしが青い血の女でも好き?」
ロドニスがほんのかすかに笑う。安堵の息を吐いたようにも見えた。その手が伸びてくるとやや強引にエウリッタのうなじを掴んで引き寄せる。
青い瞳が睫毛を伏せたのを見て、エウリッタは慌てて目を閉じた。ちゅ、と熱い唇がじぶんの唇を吸って背筋がぞくぞくする。男の舌先がねっとりと唇の間を撫でた。
「……初夜のときみてえな気分だ」
「しょ、初夜?」
「緊張でがぶがぶ酒を飲んでた」
「……え、あれはそういうこと? 寝室でまっすぐラム酒を飲みに行かれたから困ったのだけれど」
「呑み過ぎだった。勃ってよかった」
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笑ったら、ロドニスも額をつきあわせながら笑った。
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