トラウマ持ちの探偵といじめっこの高校生が半生を語り合う話

黒い白クマ

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「先生なんて?」
「あー、なんか、推薦被っちゃったみたい。成績で決まったから私ダメだったや。」
「うっそ!まだ締め切ってなかったの?」
「うん、ギリギリでもう一人来たみたい。多分決まりだと思うって言われてたから、ちょっとショックだな。」

その日職員室から戻って、推薦の枠が他の人に取られたことをカッキーに伝えたんです。近くにいたマサトも、それを聞いて振り返りました。

「まぁ、仕方ないっちゃ仕方ないよな。他の推薦取るのか?」
「ううん、志望校は変えたくないから。」
「じゃあノノも試験組だね。一緒に頑張ろ。」
「うん。」
「それにしても誰だよ、そんな駆け込みで。どうせなら余裕もって出せって話だろ。だいたいノノがここ受けたいってことは知ってるだろうしよ。」

今思えばそれもどうなんだって話ですけど……私、結構友人達に「取れると思う」って言って回ってたんですよね。浮かれてたのかな。あんまり、なんでなんて考えてなかったけど。他の人は受験中なんだから、割合無神経な奴だったとは思いますよ。

「いいよ、そんな。別に締め切り破ったわけじゃないんだから。私の成績が悪かっただけだし。その人も行きたかったならしょうがないよ。」

気持ちの切り替えは難しかったですけど、これ以上話していても何か変わるわけじゃないし。怒ることじゃないと思ったから、マサトを宥めたんですけど。

「あぁ、それ私。私が出したの。どこでも良かったけど、成績がちょうど良かったから。」

真後ろで声がしたんです。ミクに話しかけられる事自体久々で、言っている意味も分からなくて、私、咄嗟に言葉が出せませんでした。そしたら、私よりも先にマサトとカッキーが声を上げたんです。

「は?お前さ、こいつが前から、」
「知ってたわよ。知ってたから出したんだもの。」
「ちょっと、自分が何言ってるか分かってるの?」
「私の方がノノより頭良かっただけでしょ。何か問題ある?」

マサトが腕を伸ばしました。でも彼の方を見ずに、ミクはまっすぐ私を見て随分変な笑顔を浮かべたんです。

「人のこと笑ってないで勉強してたら良かったのにね?」

マサトがそのままミクを引っ張って、彼女はバランスを崩して机にぶつかって倒れました。落ちた彼女の鞄を踏みつけてから、カッキーは私の腕を引いて教室を出ました。

***

「それから、分かるでしょう?下火になったはずのいじめがまた酷くなりました。ホントに、人のことに構ってる場合じゃないはずなのにね。受験のストレスの捌け口にもなってるんだと思いますよ。」

これはどんな感情だろうか、と幸也はノノの表情を見ながら眉を上げた。随分、変な笑顔。ミクもこの顔だったのかもしれない。彼女は、ミクに、カッキーに、マサトに、一体どんな気持ちを。

「君は?どうしたの。」
「私は、何もしてません。いじめてる所には近づかないようにしてるし、二人がその話題を出そうとすれば話を逸らしています。でも誰かに言うことは出来ていません。」
「ミク本人に何か言われたりした?」
「いえ。相変わらず口をきいてません。」

ノノは、小さく首を振った。

「話が出るたびにもういいって言ってるんです。でも、ノノは気にしなくていいからって。どうしたら収まるのか、分からない。」

幸也はしばし、言葉を探して黙り込んだ。一つ思ったことがあったが、伝えるべきか迷う。結局、上手い言い方も分からず、やや冷たいとも取れる言葉をそのまま投げた。

「ノノちゃんはさ、その、今いじめを止める理由がないでしょ。」
「え?」

丸く見開かれた目に、苦笑いが浮かぶ。

「正直なところ、どうしていじめを解決したいの。」
「それは、どう考えてもあれはやりすぎで、」
「うん、そう。やりすぎ、でしょ?」

彼女の言葉を復唱する。つい目線は彼女から逸れた。そう、これは、幸也の「加害者」としての気持ち。

「どういうことですか。」
「制裁が加えられている事自体に、疑問は?物を返さないカッキー。過去のいじめを謝らず、挙句わざわざ挑発するような言い方をしたミク。」

やられたから、やり返す。お前が先に手を出したんじゃないか、と。幸也は、やり返して、その結果に怯えて、抵抗を放棄した。でも、やられたらやられっぱなしが正解なんて、そんなのあんまりじゃないか?

これが正解なのか?正解を選んで、挙句、このザマなのか?

「もちろんいじめられていい人は存在しないはずだけど、そのまま見過ごして仲良くするのもおかしい。どう?」
「そう、思います。」

では逆に、お前が先に、とその感情を今まさに振りかざしている彼女が正解だとしたら。やり過ぎ、なんて線引きは、どこから?

結局、正解なんて、分かりゃしない。

「うん、俺も聖人君子じゃあないからそう思うよ。文句の一つや二つ言いたい。で、ノノちゃんは言った?」
「え?」
「カッキーになんで教科書返してくれなかったか聞いた?ミクがカッキーのいじめにどう思ってるか聞いた?なんでわざわざ志望校を被せてきたか聞いた?」

どんなに、嫌でも。結局、歩み寄るしかない、のかもしれない。幸也は、聞けなかったけれど。幸也はノノに語りかけながら、昔の自分の影を見た。

「いえ……聞いてないです。」
「じゃあ、ノノちゃん、文句言えてないんだよね。その状態で、さ。なんとなくいけ好かない人のために動くのってめちゃくちゃエネルギーいるんじゃないかな。」
「私、やっぱりどこかで、カッキーがいじめられたのも仕方ないって、ミクがいじめられているのも仕方ないって、思ってるんでしょうか。」

彼女の声が震えていた。幸也は顔を上げずにテーブルの木目に目を滑らせながら、口を開く。耳に届く自分の声が、やけに優しかった。

「それは俺には分かんないよ。でも、俺なら思うだろうなぁって話。実際俺、見ず知らずの人が目の前でピンチだったら慌てて助けに行くけど、嫌いな奴とかだったら迷う……いや、見殺しにするかも。」

自分が我慢して何とかなるなら。誰かの身代わりに自分がなるなら。そうやって問題事を受け止めてきたけれど、幸也だって聖人君子じゃないのだ。

あの時亮介にやり返したことを酷く後悔している気持ちは本物だ。けれど、では今、もう一度同じことが目の前に起こったとしたら。あの怒りを、押し込めておけるとも思えない。

きっともう一度彼を崖から突き落として、そして後悔に叫ぶのだ。

「俺もきっと、やりすぎなのが分かっても足踏みするよ。」

ざまぁねぇなと、見ないふりをして。二度と口をききたくなくて、彼と話すこともしなかった。

「まず、君が、ミクやカッキーを嫌う原因を除いた方がいいかもね。喧嘩、するべきだったんだよ。」
「喧嘩、ですか。」
「そう。根っこはシンプルな気がするよ。『何故、そんなことをしたのか』が分からないから、ノノちゃんは二人に嫌な気持ちが残ってる。」

ようやく顔を上げて、幸也は少女と目を合わせた。彼女の手に持たれたフォークは、パスタに刺さったまま止まっている。

「返して、って言っても返してもらえなかった時、理由は聞いてない。というか、教えてもらえなかったのか。喧嘩して聞く代わりに、みんなで無視した。」
「確かに……あんまりちゃんと話さなかったかもしれないです。というか、カッキーが物を返してくれなかったのは、意地悪しているんだとばかり。」

かたんと金属の当たる音がした。食事は完全に後回しになったらしい。早々に食べ終わった幸也は、皿を端に避けながら水のグラスに手を伸ばした。何気ない調子で、淡々と話を続ける。

「うん。それでミクの事も、どうでもいいと思ってるって決めつけたところから始まってるでしょ。謝ってもらおう、っていう流れになる代わりに分からせてやれ、ってなった。」

自分の嫌いな奴を助けることは、きっと、酷く疲れる。黙って見ている方が、きっと、ずっと楽で。

「だから、ホントになんとなく気にくわなくて、みたいないじめより質が悪かったかも。一見筋が通ってる。でもまぁ本質的には変わらないと思う。話し合いを飛ばしてる時点で『なんとなく気にくわない』ってことだから。」

正義、という言葉は便利だ。本当に。

「じゃあ、まず、カッキーとミクと話さなきゃいけないですね。」

独り言のように呟いた少女に幸也は頷いた。

「……そうだね。ノノちゃんがいけ好かないと思っていることを、解決しちゃうほうがいいかも。でもあんまり即戦力ではないか。」

現状のいじめが解決する訳では無いな、と腕を組む。徐に顔を上げたノノが、大丈夫ですとやけに力強く言った。

「なんとか、します。自分が積極的に動けなかった理由が、分かったので。」
「……糸口にはなったみたいで、良かった。」
「ともかく、カッキーに小学校の頃の事を聞いてみようと思います。でも、理由って、やっぱり私には分かって意地悪しているようにしか……」

悪意がないなんてこと、あるのか。そう言って首を捻った少女に、幸也は苦笑いを浮べる。

「ああ、意外と根っこは不可抗力かも?どう頑張っても忘れちゃう人とかいるし、もしかしたら例の教科書も、何か借りた理由を達成することを忘れちゃっててさ、もう少し借りたかったのを正直に言えなかっただけかもしれないよ。まぁ、先生に言われたら返した、って時点で不可抗力だけじゃなくて向こうにも非がありそうだけど。」

普通、が通用しないことは思いの外多い。

なんでこれが出来ないのか、出来ないはずなかろう、わざとだな。

そういう思考につい流れ着くが、その実、個人差という隔たりは大きい。聞かなきゃ分からないし、最悪聞いても分からない。ままならないな、と思う。

「ホントのところは分かんない、からこそ聞かないと。」

そして、聞いて分からなければ、離れるしかないんだろう。その言葉はあまりにも悲観的な気がして、幸也は喉元に引っかかったそれを飲み下した。

「不可抗力、ですか。」
「うん。ノノちゃんは絶対に忘れないかもしれないけど、それはみんなに当てはまることじゃないから。」

聞いてみなよ、と幸也はもう一度繰り返した。

「今なら、小学校の頃よりお互い語彙も知識も経験も増えている。当時は聞けなかった理由も、言語化出来るようになってるかもね。」
「でも、なんていうか、そういうのって……」
「ん?」
「なんて言えばいいんでしょうか、彼女の行動がそういう、不可抗力から来ていたなら、今なんで彼女はいじめている側なんですか?彼女はつまり、普通じゃない人、っていう言い方は良くないかもしれないけど……」

幸也は一瞬言葉に詰まった。ぼんやりとしたその言葉に確かなバイアスを感じて、はくりと息を吐き出す。

「カッキーは、守られる側じゃないかってこと?」

普通じゃ、無い。それは概ねマイノリティで、弱者で、攻撃対象で、庇護されるもので。

いつか受け取った、侮蔑の言葉に混ざった憐れみを思い出す。

「そう、なりますね。」
「それは、違う、と思う。あー……なんて言えばいいかな。」

色んな言葉が過ぎって、散った。嫌な汗が浮かぶ。彼女に悪気がないことは分かっていたし、当時かけられた言葉だって、親切心によるものだった。それでも。

――俺がバイだから良い人とは限らないだろ、と、思ったことは、何度あっただろう。

「人と違うことは、その人の側面の一つだ。彼女の忘れ物に罪がないからって、彼女が良い人だという話にはならないよ。君の言う『普通の人』はみんな良い人かい?」
「いえ。そう、ですね。ごめんなさい。」
「……いいよ。無知が罪だとは一概には言えないから。」

ホットコーヒーに少し口をつける。デカいサイズ頼むんじゃなかった、全然冷めてない。ひりついた舌をグラスの水で誤魔化しながら、幸也はふと、思い出したように付け足した。

「俺をいじめてた奴は、ある意味では『虐げられている人』だったよ。実際、俺が反撃したから……いや、いいや。」

「普通の人」が、「普通の人」を思いやれないように。同じカテゴリーにいるから、その仲間内なら思いやれるかといえばそうじゃない。そのつらさが分かるから手を差し伸べられることもあるし、そのつらさが分かるからこそ手をかけてしまうことが、ある。

結局赤の他人同士だから、当然か。

「……あの。ユキヤさんが何故虐められるようになってしまったのかは、やはり教えてもらえませんか。」
「あー。そう、だね。」
「話せたほうが楽かなって、思ったんですが。」

親切心。良い子なのだ、本当に。そして、悪い子。幸也も、きっとそう。とてもどっちつかず。

「まぁ、なんつーか、俺がね、ノノちゃんと同じような状況だった時に、いじめを止められるかって言ったら自信がないんだよ。ただ、もしノノちゃんがあの時俺の友達だったら、多分疎遠になっちゃったんだろーな、とも思う。」

幸也は、被害者で、加害者だった。

己もそうだったと言われればそれまでだ。分かっている。それでもやはり、「いじめっ子」が、怖い。

ノノが、怖い。

「だから、言えない。言えないけど、責められない。……それは、ごめん。こればっかりは、しょうがない。お互いにね。」
「なんで、それでも一緒に悩んでくれるんですか。私は『いじめっ子』なのに。」

ノノが少し体を乗り出して尋ねた。一瞬目を見開いて、幸也はすぐに笑った。

「だって、ノノちゃん俺の話聞くって言ってくれたでしょう。」
「え?」
「大丈夫ですか、って言ってくれたでしょう。」
「それだけ、ですか。」

納得していなさそうな顔に、思わず笑い声が漏れる。笑い声に、ノノがますます不服そうな顔をした。

「それだけ、じゃないよ。すごく大きいことだよ。そりゃ、悩んでるなら助けたいって最初に思ったのは一般的な良心だけど。俺あの時の電話でだいぶ救われたから、今はお返ししたいなぁっていう気持ち。俺にとっては、大きかったの。」
「……そう、でしたか。すみません。」
「今のは謝るところじゃないよ。」

少し咎めるような言い方になってしまった自覚はあった。でも、幸也にとって大きかったという感覚はあくまで幸也個人のもので、それがノノの感覚と齟齬を起こしたとて謝る必要は無いのだ。幸也は眉を下げて説明を加えた。

「今のは、ノノちゃんが自分で自分のことを『それだけ』って下げるのを止めただけ。ノノちゃんが自分で自分の首絞めるのを止めるのって、俺の自己満足だから。」
「どういうことですか?」
「ノノちゃんは絞めたくて絞めてるでしょ。止めるのなんて俺の自分勝手だよ。その自分勝手に申し訳ないなんて思う必要はない。」

助ける、という行為が、どれほど自分本位なものかは、よく見てきたから。君も見ただろう、と囁けば、彼女は目を伏せた。

「……ユキヤさんは、なんで、私が首を絞めるのを止めたいんですか。」
「苦しんでるの、見たくないから。」

一瞬、彼女の口が謝罪を作ろうとした。気持ちは嫌というほど分かる。自分の無価値さを感じているから、人に手を伸ばされると申し訳なさが湧き上がるのだ。自分のためなんかに、と。

他人のことなら分かるのに、自分となると同じように考えられないのはなんでだろう。

「ありがとう、ございます。」

ちゃんとお礼の言葉に切り替えた少女に、幸也は少しだけ笑った。彼女の方が、ずっと前を向いている、ような気がした。

「ま、多分ブーメランなんだけどね。」
「え?」
「いや、いいや。」

誤魔化すように笑って、幸也は首を振った。

「なんかあんまり上手く相談に乗れてないかな。結論は出そう?」
「そう、ですね。ともかく、カッキーとミクと話してみます。ユキヤさんの言う通り、その過程を飛ばしちゃったのがいけなかったんだろうなって。……そしたらその後、ユミチとも、連絡取ってみようと思います。」

幸也は黙って頷いた。彼女は、答えを出した。自分は、どうしようか。人のことなら分かるのに、自分のことは、分からない。

「食器、下げてきましょうか。」

彼女の声に、あれ、いつの間に食べ終わったの、と幸也は顔を上げた。ペロリと完食されている。それだけ自分がボーっとしていたのか、単に食べることに集中すりゃ早いのか。

「俺、行ってくるよ。」

少し驚いて、慌てただけなのだ。お互いの手が当たって、ドミノ倒しみたいにグラスとカップが傾いた。咄嗟に近かった手を出せば、止められたものの思い切り手にコーヒーがかかった。一拍遅れて痛みが来る。

「っつぃ!」
「大丈夫ですか!」
「へーきへーき、あーびっくりした。」

手袋をしている方で良かったかも、と一瞬考えたが、予想よりも熱かったのかすぐにジンジンと痛みだした。こういう時どうするんだっけ、と首を捻る。

「冷やさないと、」
「大丈夫だよ。結構経ってるし、むちゃくちゃ熱いってわけじゃ、」
「今熱いって言ったじゃないですか!」

ギャンと吼えるノノに肩を竦める。これじゃどちらが大人か分かったものでは無い。

「どこにかかったんですか。」
「左、まぁ手袋してたし、」

ノノが幸也の腕を引いて立ち上がった。振り払おうと思えば払える力だったが、抵抗する気になる隙すら与えられず、ただ彼女について歩く。御手洗の方に進んでいることに気がついて、ようやく彼女の意図が分かった。

「すぐ冷やさないと悪化しますよ。」

引っ張られた腕はそのまま蛇口の下に突き出されて、コーヒーまみれになった手袋ごと勢いよく水に当てられる。

「あはは、ごめんね。でもほんとに平気。」

熱でヒリヒリとしていた感覚が弱まって、思考が落ち着いてくる。落ち着いてくると同時に、焦りが込み上げる。次に来る言葉に脅えて、幸也は必死に頬を持ち上げた。

「ユキヤさん。」

落ち着いた声音だった。彼女の手が、レザーを軽く掴んだ。

「これ。取って下さいって、言っていいですか。」

幸也は、予想通りの言葉に唇を噛んだ。正しい。彼女は、正しい。分かっている。それでも、人前で外すのには戸惑いがあった。一人の時でさえ、外した手は見られないのに。

「……後で文句は聞くので。」

待って、と声を上げる前にするりと手袋が引かれる。咄嗟に目を逸らして、空いた右手を台につく。冷えた偽物の大理石の温度を、必死に脳で辿る。彼女は何も言わずに、幸也の左手を水で冷やした。

「赤くはなってないですね。」

布の感触がした。何か言わなくては、そこまでしなくていいと、伝えなくては。喉が上手く、機能しない。

「ごめんなさい、手袋外したくなかったんですよね。」
「……ごめん。」

随分掠れた声が出た。

「なんでユキヤさんが謝るんですか。」
「だって、気持ち悪いでしょ、傷が。」
「少しでこぼこしてることですか?言われなきゃ分かんないくらいですよ。」

まずハンカチが左手から離れて、次に彼女がようやく腕から手を離した。ゆっくり下ろして、幸也は左手をそのままズボンのポケットに突っ込む。肺の息を全部吐き切るように、呻いた。

「そ、だよね。そのはずなんだよね。」

ノノの手から、ぐしゃぐしゃになった手袋を取る。

「ユキヤさん?」
「とっくに治ってんだよね。ホントは。」
「どういう、ことですか?」

二、三度何かを言おうと幸也は口を開けた。結局音を作らずに閉じる。一度頭を振って、席に戻ろう、とノノを促した。左手は、ポケットの中のままだった。

席に戻って、予備の手袋を引っ張り出した。汚れることは珍しくない。外出先で、取り換えることだって。ただ、昔の話をしたばかりだったことと、突然のことだったあまりに、思いの外動揺している自分に呆れた。

ようやく自分の視界から左手を隠すことに成功して、幸也は力を抜いた。ビニール袋にさっきの手袋を放り込んで、リュックに投げ入れる。顔を上げれば、酷く心配そうな表情と目が合った。

幸也は、とっくに治ってんだよね、と繰り返した。喉から引き攣った笑い声が落ちる。ほとんど独り言のように、そのまま言葉が滑り落ちた。

「分かってんの。だって、ねぇ、二年以上前よ。直で手袋して痛くねぇんだし。てか一回治ったし。」
「ユキヤさん、」
「俺ね、アホみたいだと思うだろうけどさ。一回見てんのよ。」

また笑い声が落ちた。勝手に。何に対する笑いかも、分からない。声が震えた。

「その、ちゃんと治ったの、見たの。ちゃんと医者にもう大丈夫って言われたよ。えぐれた痕は二本ばっちりあったけどさ、ちゃんと肌色になってたし。でもね、ああ治ったんだな、ようやく終わったんだな、って、思ったらさ。」

終わるわけないだろ、と。何かが。何かが、幸也を許さなかった。

「そしたら手からバーって血が出てきて、いや出てねぇんだけど、多分。ともかく痛くて、うん、見なきゃ平気なんだけど。左手見ると駄目で。」

治ったはずの手から止めどなく血が流れて、いつかみたいに手が、腕が、暖かく濡れていく。脳を刺すみたいな痛みが連鎖的に記憶をひっくり返して、脇腹まで痛み始める。

咄嗟に近くにあったハンカチを巻けば、馬鹿みたいにあっさりと痛みが消えた。

ずっと、ずっと。薄いペラペラの布一枚で、気が狂れるのを防いでいるのだから、ああ本当に、笑えない。

「さっき、話してくれた時の……傷、ですよね。」
「うん、そう。」

幸也が落ち着くのを待って、ノノが静かに問う。顔を覆ったまま、幸也は頷いた。笹野のナイフを、掴んだ時の傷。

「まぁ、多分、トラウマみたいな感じ。見ないことにしてるから、逃げてるだけなんだけどね。」
「誰かに相談したこと、あるんですか。」
「いや……初めて言った。」
「ミユキさんには……」

彼女の言葉を遮るように首を横に振る。

「たいしたことじゃないし。」
「たいしたことじゃないって、そんなわけ!」
「ごめ、」

反射的に、口が謝罪を吐いた。言い切らぬうちに、ノノが静かに、はっきりとそれを遮る。

「謝ることじゃないです。」

驚いて、幸也は顔を上げた。目線がこちらを射抜く。

「さっき、私にはそう言ったじゃないですか。私は別に迷惑してないですから謝ることじゃないです。貴方が自分の首を絞めるから……だって、ユキヤさんこそ、すぐ、謝る。」

口を開きかけて、咄嗟に覆った。他人のことなら分かるのに。思った以上に、謝罪は口に馴染んでいた。

「口癖なのかと思うくらい。最初の電話の時から気になってたんです。」

ふっと、表情を緩めてノノが笑った。

「なんでですか。今、なんで謝ったんですか。」

何故。自分の思考を意識したことなんて、なかった。ゆっくりとそれを辿って、のろのろと口を開く。

「だって、俺なんかのために心配してくれるのも、怒ってくれるのも、悪いなって。」
「ねぇユキヤさん。大切じゃなきゃ、怒らないですよ。」

やけに大人びた表情で、彼女が笑う。自嘲じみたその笑みは、多分幸也に向けたわけじゃない。

「今日、話を聞いて、ユキヤさんに幸せになってほしいなって思ったから、怒るんです。謝ってほしいんじゃなくて、首絞めるの、やめてほしいんです。」

自分がノノに伝えた事と、よく似ていた。

苦しんでいるのを、見たくないから。

「ユキヤさん、自分の事あんまり好きじゃないでしょう……分かりますよ。私なんかのために手を煩わせたくなくて、申し訳なくなります。でも、ユキヤさんが私のために悩んでくれるのは、ユキヤさんのためなんでしょう。」
「うん。」
「ミユキさんもきっとそうです。心配だから怒るんです。ミユキさん自身のために怒るんです。」

今出てくると思っていなかった名前に、幸也は眉を上げた。

「美由紀が?」
「ミユキさんが怒った理由がよく分からないって言ってたでしょう。危なっかしいから見ていられなかったのかなって。」
「だと、思ってるけど。」

きっと、ちょっと違うとノノが頬杖をついてこちらを見た。咎めるような視線に、幸也は思わず背筋を伸ばす。

「どうせ、ごめんって言ったんでしょう。ナギさんの事件の後。」
「……言った。」
「脳震盪起こした時は。」
「い、言いました。」

怒られたようにきゅうと背中を丸めた幸也にノノがくすりと笑った。

「多分、謝ってほしかったんじゃなくて、やめてほしかったんですよ。自分の首絞めるの。」
「でも、さ。いつ危ないことが起こるかなんて分からないじゃない。どの仕事でも殉職のリスクはあるでしょ。」
「死ぬかもしれないのと、死に急ぐことは違いますよ。」

怒ったような声に、幸也は動きを止めた。

「せめて、自分を大切にして下さい。たいしたことじゃないなんて、言わないで。」
「お、れは、大切にされるようなもんじゃないよ、ほんとに。」

絞り出すように、呟いた。自分本位と、自己防衛の境目が分からなくて。誰かが自分のせいで傷つくなら、自分が傷つけばいいと思って。それが、誰かを傷つけていたのなら、どうすればいいのだろうか。

「ユキヤさんが絞めたくて絞めてるのを止めるのは、私の自分勝手です。苦しんでるの、見たくないから。きっと、私以外にも、沢山いますよ。止めたい人が、沢山。」

愛されてますね、と。ノノが囁くように、呟いた。一度目に言われた時は受け入れられなかったその言葉に、幸也は小さく頷いた。

まだ、素直に受け入れられる訳では無いけれど。どうすればいいのかも、分からないけれど。それでも、目の前の彼女の労りだけでも、信じなくてはならないような気がした。

自分より、きっと他人の方が、自分を知っているから。

「……ありがとう。」
「持てましたか、半分。」
「軽くなった。半分より。」
「奇遇ですね。私もです。」

ほとんど意地で、涙を落とさぬように幸也は笑った。

「……ただ、少し不安なんです。私一人の行動で、止められるか。」
「そう、だね。うん、正直に言えば、無数の可能性があるからなんとも言えないな。この先なんて何も決まってないから。やっぱり他の子達の行動でかなり変わってしまうとは思うよ。」

話さなくてはいけないと、そう二人が腹を括ったところで、何か現状が動いたわけじゃない。相手がいて、初めて話が動くのだから。

「上手くいくでしょうか。」
「無数の可能性があるってことは、明るく考えることも出来るよ。俺がここで何か言ったことでノノちゃんの未来が変わってもおかしくないし、逆にノノちゃんに言われたことで俺の未来も変わり得ると思う。だから、ノノちゃんの行動は必ず他の子達に影響して、その先に影響する。……と、俺は思うな。」
「そう思うとむしろ気が重くなります。折角ここで決意しても、直前で結局躊躇ってしまう気がするし。ユキヤさんはちゃんと話せそうですか?」
「の、つもりだけど。……ちょっと自信はないかな。」
「今日、お話聞いてもらって、自分の気持ちに納得は出来ました。でも、怯えずに聞けるか分からない。」

気持ちはよく分かる。それでも、前に進む必要がある。相手と向き合う時は、お互い一人で戦わなくてはならないし。そこまで考えて、幸也はじゃあこうしようか、と手を打った。

「良い方向に行くように、約束しようか。一人の決意じゃなくて、二人の連帯責任。」
「約束、ですか。」
「俺はね、」

少し、口にするのに躊躇する。出来ないことは言いたくないし、かといって逃げたくもなかった。

「明日から自分をないがしろにしないよ。約束する。」
「出来ますか。」

じっと、ノノがこちらを見た。決意を固めるように一度目を伏せて、幸也は彼女に笑いかけた。人当たりの良い笑顔ではなく、どちらかと言えば好戦的な顔で。

「俺の……今までの俺を賭けよう。出来るよ。君は、どうする。」

一瞬、彼女は言葉を探して黙った。

「今までの私を賭けます。自分の正義に従います。」
「連帯責任だね。」

ノノが深く頷いた。

「上手く、行くでしょうか。」
「約束が果たされたからって良い方向に行くとは限らない。でも、無数の可能性が後悔のない方にある程度絞られただろ?」
「そう、願います。」
「俺ら、完全に立ち止まっちゃってるから。やることやって、それからだよ。君の為にも約束を守るから、俺の為にも、約束を守って。」

ノノが笑った。幸也と、同じように。

「……必ず。」
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赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

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