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第九章 思春期

13  ライラ

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 長く思えたエリザベート王妃の、ユングフラウ滞在も残りわずかとなった。

「今夜は、パウエル音楽監督の演出の『ライラ』ですわね。ユーリ嬢はライラを全幕観たことがないと言われていましたから、是非とも観た方が良いと思ってましたの」

 オペラハウスに向かう馬車の中で機嫌の良いエリザベート王妃は、ユーリに名残惜しそうに話しかける。

「このまま、ニューパロマに連れて帰りたいですわ」

 ニューパロマに行くのは困るけれど、エリザベート王妃の帰国には少し感傷的になったユーリだ。

 今夜はエリザベート王妃の非公式の訪問の最終日なので、オペラハウスには、テレーズ王妃とマリー・ルイーズ妃も臨席される。ユーリは、初雪祭からエドアルドを妙に意識した態度をとってしまう。今夜もエスコートしようと馬車から降りる際に手をとらえるだけで、ドキッとして不自然にギクシャクしていまう。

 ロイヤルボックスには、テレーズ王妃や、マリー・ルイーズ妃以外にグレゴリウスも観劇に来ている。ユーリがエリザベート王妃の付き添いとして2週間を過ごした成果で、お淑やかに振る舞うのをテレーズ王妃は気がつく。

「エリザベート王妃様の御薫陶のお陰で、ユーリがお淑やかに振る舞えるようになりましたわ」

 その代わりに見習い竜騎士の実習はさっぱりで、ユーリはさぞかし不満に思っているでしょうと、微笑みながら内心では強引に付き添いなどさせてと文句をつける。

「テレーズ王妃様は、お忙しくていらっしゃいますから。ユーリ嬢をこのまま付き添いとして、ニューパロマに連れて帰りたいぐらいですのよ」

 にこやかな会話だけど、側で聞いていた、グレゴリウス、エドアルド、ユーリは、早く幕が開かないかとひたすら待っている。

「あら、それは私に言われても困りますわ。ユングフラウのユーリの後見人は私ですけど、本来は祖母のモガーナ様なのですから。あの方の許可なく、ニューパロマに行かせることはできませんのよ」

 エリザベート王妃は、テレーズ王妃がユーリの祖母に責任を押し付けて、無理だと逃げようとしてるように感じた。

「まぁ、ではユーリ嬢のお祖母様に、許可を貰えればよろしいのね」

 後ろで会話を聞いていたマゼラン卿は、モガーナの名前を聞いて嫌な予感がする。ロイヤルボックスには、あと数席の余裕があったからだ。

「テレーズ王妃様、遅くなってすみません」

 黒衣の貴婦人が、二人ロイヤルボックスに入ってきた。

「エリザベート王妃様、こちらがユーリのお祖母様のモガーナ・フォン・フォレスト様ですわ。こちらは大叔母のシャルロット・フォン・サザーランド様、私のお友達ですの」

 エリザベート王妃は、ユーリの祖母と紹介された若い貴婦人を見て一瞬驚いたが、竜騎士や魔力の強い方で稀に年を取りにくい方もいると冷静さを失わない。

「エリザベート王妃様、ユーリがお世話になりました。私の教育が不行き届きで、ご迷惑をお掛けしたのではと恥ずかしく思いますわ」

 跳ねっ返りのユーリの祖母とは思えない優雅な立ち振る舞いに、エリザベート王妃はあの娘も少しは見習えば良いのにと溜め息をつく。何故ならお淑やかな化けの皮を脱いで、ユーリはエリザベートに挨拶しているモガーナに抱きついたからだ。

「お祖母様、いつユングフラウにいらしたの?」

 モガーナは困った娘ねと、抱きついているユーリを引き離して席に座らせる。テレーズ王妃は、モガーナのユーリの扱い方は堂にいってるわねと、感心して眺める。

「昨日、ユングフラウに着きましたの。エリザベート王妃様に貴女がお世話になっていると聞き、お礼を申し上げなくてはと思ってましたの。テレーズ王妃様から今夜のオペラに誘われたので、こうしてお礼に参りました」

 マゼラン卿は、エドアルドとユーリが良い雰囲気になりかけている微妙な時期にと、歯軋りしたい気分だ。


『ライラ』の一幕はユーリも知っているライラと幼なじみのリチャードの歌もあり、明るい雰囲気で終わった。歌手は確かにデビュタントのライラを演じるには、年齢はもちろん体重も上に思えたが、歌の世界に引き込まれてユーリは気にならない。

 モガーナはユーリからの手紙でエリザベート王妃の訪問を知っていたが、長期間留守にしていた領地の管理についてターナー夫妻と話し合ったり、新任の管理人の調停に従おうとしない頑固な領民達の問題を解決したりと忙しかったのだ。

 久しぶりに会ったユーリが、猫を上手く被っているのに驚いたが、直ぐに化けの皮がはがれたのに苦笑してしまう。

 ライラの一幕の歌を口ずさんでいるユーリを、愛しそうに見ているエドアルドに、困ったものだわと溜め息をつくモガーナだ。ユーリがエリザベート王妃の付き添いとして、大使館で過ごしているうちに二人の間が少しづつ近づいてきているのにモガーナは気づいた。

 無邪気なユーリが、ライラのように馬鹿な選択をしなければ良いがと案じながらも、恋ばかりは手の打ちようがないのは自分の経験上知っている。


「まあ、そんなに泣かないで、オペラの中のお話ですよ」

 2幕で恋人の裏切りをまだ知らないライラが気の毒だと、前半が終わったので休憩と軽食を取る為に移動しなくてはいけないのにユーリは泣いてしまっていた。エリザベート王妃は泣き出したユーリを諭すが、なかなか泣きやまない。 

「まぁ、ユーリ! 後半を観たら、泣いて寝れなくなりそうね。まだ、貴女にはライラを観るのは早いかもしれませんね、ここで帰りましょうか?」

 こんな中途半端で帰りたくないと、ユーリはピタリと泣き止む。

「最後まで観ないと、気になって寝れないわ。お祖母様、ライラは不実なイーライと一緒になるの?」

 全員が、モガーナのユーリの扱いの上手さに舌を巻く。

「さぁ、どうでしたから? 昔に観ただけなので、忘れましたわ」

 嫣然と笑うモガーナに、他のメンバーは少し怖さを感じながらも魅了されたが、ユーリはケチね教えてとごねる。マゼラン卿はユーリの鈍感さに呆れながらも、彼女自身が可愛い見かけを裏切る魔力を受け継いでいるのだと、気持ちを引き締める。

 後半は涙涙で、ユーリはハンカチを離せなかった。最後のライラのアリアは、聞いてるご婦人方の多数が涙を浮かべる秀逸な出来だった。ぐったりと泣き疲れたユーリを、エドアルドは馬車の中で支えながら、大使館まで帰った。

「なんでライラは、イーライを選ぶのかしら?」

 納得できないと質問されて、エドアルドは返答に困ってしまう。

「ライラは、殿方は心が弱いものだと知っているのですよ。イーライが誘惑に弱い性格だと知っているからこそ、側についていないと駄目になってしまうと考えたのでしょう」

 ユーリは、代わって答えてくれた王妃の意見に、そんなものかしらと考え込む。

「生活能力がないとかなら理解できますけど、浮気癖のある人は嫌だわ。イーライが貧乏だとか、パーティ好きなのに余り働いて無さそうなのはまだ我慢できるけど、すぐに浮気するだなんて信じられないわ」

 プンプン怒っているユーリを、エリザベート王妃は、まだ恋も知らないお子様ねと笑う。せっかく身につかせた淑やかさも、すぐに剥がれてしまったけど、こうして自分の意見をぶつけてくるユーリの方が好ましく思っている自分に、エリザベートは驚く。

「まだ、ユーリ嬢にはライラのアリアは無理ですわね」

 パウエル師に声楽のレッスンを受けてから、ユーリの声の伸びは良くなっていたが、技術ではなくライラの心情が理解できなくては歌えないだろうと残念に思う。

「フランツにも、同じことを言われましたわ。私ならイーライを蹴飛ばしそうだから、ライラのアリアは無理だと。でも、イーライを信じて付いて行こうとする、ライラの思い切った気持ちは少しわかる気持ちもするわ」

 ユーリはママが生まれ育ったマウリッツ公爵家を捨て、パパと駆け落ちした時に、どれほどの覚悟を固めたのだろうかと想像する。


 エリザベート王妃のユングフラウ滞在最後の夜なので、サロンで皆が集まる。ユーリは今夜観たにもかかわらず、エリザベート王妃からライラとリチャードの合唱を求められる。

「でも、素晴らしいプロの歌の後ですのに……」

 少しユーリは躊躇ったが、一緒に指名されたユリアンと共にライラの一幕の合唱を歌う。甘いマスクのユリアンと、可憐なユーリの合唱に、全員がうっとりとする。

 マゼラン卿は同盟締結式典でユーリの歌の上手さに驚いたが、今夜の一流のプロのライラよりも好ましく感じた。

「なるほど、エリザベート王妃様のお気に入りになる筈ですね」

 父親の独り言に気づいたハロルドは、クスクス笑って忠告する。 

「ユーリ嬢の独唱を聞いてから、その言葉を言われた方が良いですよ。心を揺すぶられてしまいますから」

 ハロルドの忠告通り、マゼラン卿はユーリの『冬の大地に』という雪に埋もれた故郷を思う独唱に、カザリア王国への望郷の思いをくすぐられて不覚にも涙を浮かべそうになる。

 エリザベート王妃や、レデールル大使夫人は、涙をハンカチで拭うと、ユーリの歌を絶賛する。

 モガーナに丁重ながらもキッパリとカザリア王国行きを断られたので、エリザベート王妃はユーリの付き添いは諦めた。だが、別れがたく思っているエリザベート王妃は、ユーリに来年の夏休みには絶対に訪ねて来るようにと約束させる。 

 エリザベート王妃のお見送りに来ていた、グレゴリウスやジークフリートは、止めたくて困惑する。しかし、涙もろいユーリは、エリザベート王妃との別れで感傷的になっていたので、あっさりと約束してしまう。

 後は、細々とした注意を述べたりしながらも、ユーリとの別れに涙を浮かべたりと大騒ぎになったが、エリザベート王妃はカザリア王国へと帰って行った。


 ユーリは、久しぶりにフォン・アリストの屋敷でお祖母様と寛ぐ。

「あ~、疲れたわ~」

 行儀悪くダラ~としているユーリを、モガーナは苦笑しながらも、愛しく眺める。礼儀作法など、賢いユーリなら取り繕うのは簡単だろうとモガーナは考える。

 普通の貴族の奥方ぐらいなら、ユーリのお粗末な行儀作法でもやっていけるのだ。生まれつきお淑やかな貴婦人もいるのは知っていたが、自分の孫娘には当てはまらないとモガーナは知っていたので、皇太子妃には向いてないと思う。

 大使館での暮らしでも、道徳観念の強い王妃の監視があったのでエドアルドと不都合な行為が有ったとは考えられなかったが、ユーリは身近な人に好意を持ちやすいので心配する。

「明日からは実習にかえるわ。算盤のモデル校は、もう決定されちゃつたかしら?」

「少しは休んだらいいのに」

 エリザベート王妃の付き添いで、テレーズ王妃との会食やお茶会と、非公式とはいいながらも気の張る行事に参加していたので、疲れただろうとモガーナは心配する。
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