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第十四章 新しい力、未だ知らぬ世界
百十八話 正妃、素乾柳由
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正妃さまに会う。
重大ごとからもたらされる緊張に押し潰されずにいられる理由は、私はすでに皇太后陛下と面会した経験があるからだ。
そのおかげで気持ちに余裕が生まれる。
むしろこっちから正妃の意図や思惑を探ってやろうじゃないか、くらいの考えを抱くことすらできているのだ。
私は経験を糧に、成長する女なのである。
「正妃さまの御前に、小人どもが参る。身に余るご光栄に深々と謝す。万歳、万歳、万々歳」
部屋の前で川久(せんきゅう)太監が大声で述べた。
いや、これはおかしい話だぞ。
万歳、重ねて万々歳と唱和するのは、相手が皇帝陛下や皇太后陛下の場合に限られるのだ。
庶民が雑談で口にするのならともかく、礼と秩序を重んじる皇城の中にあって、一宦官の立場で正妃に万々歳と唱えることは本来、許されないことだ。
皇后として立てられているならともかく、正妃の立場と言うのは流動的で、不変ではない。
状況によっては正妃であっても皇后になれないのが法であり伝統である。
まだ皇族としての尊貴が定まっていない正妃さまに対して、万歳、言い換えれば「永遠」を唱えてはいけない。
永遠の繁栄と治世を祈り、寿(ことほ)いでいい相手は、皇帝、皇太后、皇太子だけなのである。
ちなみに昂国(こうこく)は上皇制度を許していないので、皇帝が引退したいと思ったら臣下、一般貴族の立場に降りなければいけない、と言うのは余談のウンチク。
要するに本来の礼秩序を無視してまで、川久太監は正妃殿下におもねっている、阿諛追従(あゆついしょう)していると思われても、仕方ないのである。
漣(れん)さまのお部屋勤めをするにあたり、私も恒教(こうきょう)と泰学(たいがく)をしっかり読み直したから、わかるもんね。
佞臣(ねいしん)とは、このことか!
私のそんな軽蔑の視線を無視し、川久太監は扉が開かれるのを、薄い笑顔を浮かべて静かに待つ。
やがて女官たちが左右に重そうな扉を押し開き、私たちを室内に招き入れる。
皇太后さまに会った場面と似たように、高座の上に正妃さまは座っていた。
違いがあるとすれば、御簾(みす)などはなく、直接に顔が見えるということだ。
あれ、意外と、と言ったら失礼か。
それなりに、お歳を召していらっしゃる。
三十歳前後だろうか。
皇帝陛下はまだ二十歳そこそこのはずなので、ずいぶんと年上の正妃さまだな。
「南苑(なんえん)は漣(れん)美人の侍女、翼州(よくしゅう)の娘、麗と申します」
名乗って拝跪した私に、注がれている冷たい視線の力がわかった。
なんだろう、ただ、その場にいるだけで。
圧力のようなものが確実に存在するのが、今の正妃さまであるようだ。
昔、世が乱れたときに八州の北側の騒乱を押し留め、戌族(じゅつぞく)の侵入を防ぎ続けた名門、素乾家(そかんけ)。
昂王朝(こうおうちょう)が安定して成り立った歴史のもっとも重要な立役者から輩出された正妃殿下の名は、柳由(りゅうゆう)と言う。
素乾柳由さまから頭の上に無言の目を感じて、私は蛙のようにぺたりと床に伏せるしかできない。
重く分厚い空気の力は、戌族(じゅつぞく)白髪部(はくはつぶ)の大統、阿突羅(あつら)さんを思わせるほどだった。
長い沈黙の後、言葉が出た。
「お前のことを、西苑(さいえん)のものや宦官たちに、聞きました」
翠さまに使えていた時期の話だな。
なにをどう聞いたのかは知らないけれど、私は頭を低くして、次の言葉を待つばかり。
はー、と溜息を吐き、呆れたように柳由正妃は言った。
「誰に聞いても『あいつは頭がおかしいから、審問しても意味はないでしょう』と答えるばかり。まったくわけがわかりません。お前は、本当に狂っているのですか?」
「もごっ」
と私は笑い声を喉の中にこらえた。
覇聖鳳(はせお)が後宮を襲撃したときの私の立ち回りや、その後に出奔した経緯。
あのとき、近くですべてを見聞きした巌力さん、銀月さんを含む宦官さんたちは、私がややこしい尋問に遭わないように「麗は頭がおかしいので」という、イカした脚本を用意してくれたのだ。
後宮に出入りしてる宦官のみなさん、もう、みんな、大好き!
いや、当事者たちの何割かは、作り話ではなしに、本気でそう思っているだろうけれどね。
私は困らないし、むしろそう思われている方が、都合がいいわ。
狂人は自分を狂人と思わない、という格言の通りに私は答える。
「自分では狂っているつもりはございませんが」
「なら、お前が青牙部(せいがぶ)の覇聖鳳を討ち果たしたという話は、いったいどこに真実があるのです。尋常のものが、雪深い地の果てまで行き、勇猛で知られた首領を殺して帰るなど、するはずも、できるはずもありません。そんなことを為そうと思うはずもないのです」
客観的に他人の口から言われると、確かに思うところはあるな。
まともな頭の持ち主なら、そんなことはしないのである。
しかし私はこの質問に対して、あらかじめ答えを用意していた。
「覇聖鳳は先だって、白髪部の勇者である斗羅畏(とらい)どのと一騎打ちを交わしました。その際の怪我が悪化し、さらに厳しい寒波が土地を襲った結果、運尽きて斃(たお)れたのでございます。私たちはその近くにたまたま居合わせ、駆けつけた斗羅畏どのに助けていただいただけのこと」
そう、私たちは覇聖鳳討滅の手柄を、斗羅畏さんにすべて、譲り渡したのである。
斗羅畏さんの直参である将軍たちと、この話はすでに共有済みだ。
年若い刺客の数人ぽっちに覇聖鳳が負けて殺されたって話が広まってしまえば、覇聖鳳の格が下がるし、後を引き継いだ斗羅畏さんの格も同時に下がる。
だとすれば斗羅畏さんが、正々堂々の勝負の結果として覇聖鳳から青牙部の土地を託されたという話を作った方が、万事丸く収まるからね。
この話はまだ、昂国の朝廷にまで伝わっていなかったのだな。
私の話が本当かどうかは、朝廷が斗羅畏さんに照会をかければわかることだし、彼らはちゃんと口裏を合わせてくれるだろう。
嘘なんだけど、みんながそう思えば、それは真実であるのだ。
私の弁解を聞いた正妃さまは、息を軽く吐き。
「……なるほど、邑を焼かれた翼州の子どもたちが国境を越えて覇聖鳳を殺したというのは、巷(ちまた)のものどもが面白がって言っているだけの話なのですか」
「おそらくは、そうであるのかと」
実直激情が売りの斗羅畏さんに、こんな誤魔化しを背負わせるのは、私たちも気が引けた。
けれど、旧青牙部の土地を穏やかに統治するためには、こう言ったわかりやすい伝説が必要なのである。
後事を斗羅畏に託せ、と遺言した覇聖鳳の思惑は、やつが死してもなお様々な形に動き続けて、私たちだけでなく昂国の正妃さますら、惑わせているのだった。
「ふうむ……」
真相はそんなものか。
知ってしまえばつまらない、と言う感情を柳由正妃がわずかに覗かせ、声を漏らした。
よしよし、これでいいのだ。
私に対して、蓋を開けてみれば取るに足らない女、と思ってくれるなら、今はそれで最善である。
正妃さまが環家や司午家に対してどう思っているのかを知りたい気持ちはあるけれど、私の方から質問するという不敬は、この場ではできない。
今はまず、正妃さまは私たちをそれほど警戒してもいないし、敵対視してもいないという現状を把握できただけで、十分に合格点だろう。
私が安心していると、横からどうでもいいやつが、口を挟んだ。
「この女は、環家(かんけ)の一門と深い結びつきを得たという話にございます。そもそも、環貴人が後宮を襲った戌族めらとともに去って行ったのは、なにかしら口裏を合わせた結果でありましょうや」
「はぁン!?」
川久太監のくだらない、悪意の籠った言い分に、私はついうっかり、変な声を出してしまった。
どうやら、玉楊(ぎょくよう)さん一人だけを人質にして覇聖鳳が後宮から引き上げたことに、不審な点があると思っているようだな。
てめえは!
現場を見てねえから、そんなことが言えるんだろうが!!
と、私は叫びたくなる。
あのとき、軍師の姜(きょう)さんも、部隊を指揮していた玄霧(げんむ)さんも、人質になってしまった翠さまを含めて皆殺しを前提に行動していた。
でも、殺さずに済むならそっちのほうが良い、なんとかならないものなのか、という「場の空気」が確かにあり、様々な要因が絡み合った結果として、玉楊さんが連れて行かれたのだ。
それを、知らない、お前が!
軽々しく、玉楊さんの決意と想いを穢すようなセリフを、口にするな!!
死を覚悟してことに臨んでいた翠さまや玄霧さんの代わりに、てめえがあの場で、覇聖鳳と向き合ってみろってんだよお!!
それこそ私は、この場で狂ってしまいそうな怒りの情動を必死にこらえて抑えて付けて、床をガリガリと爪で引っ掻く。
川久太監の言を受けて、ふむ、と呟き。
「玉楊は、息災ですか?」
正妃さまは、まずそれだけを聞いた。
私はこれも予定していた通りに、しらばっくれて返答する。
「連絡を取っていないので、分かりません」
嘘と言うわけでもない。
角州(かくしゅう)の司午家(しごけ)を離れて以来、実際に私は巌力さんや玉楊さんがどうしているのか、知らないのだから。
どうしても知りたいのであれば、司午家の人に聞いてくれ、ということだ。
司午家の人たちも、のらりくらりと返答を躱すと思うけれどね。
腹芸の応酬で、わけがわからなくなって来るな。
伏せたまま横目で眺めると、川久太監が忌々しげに、笑顔を歪めていた。
私の腹時計が、時間切れであることを告げている。
「夕刻のお祈りがございますので、これで失礼したく思います」
「そうですか。しっかりお勤めなさい」
許されて部屋を退出する際に、もう一度わずかだけ、正妃さまの顔を覗き見る。
厳しい目つきで姿勢を正し、一部の隙もないほどに硬質の空気を纏っている。
それでも。
「なんだろう。翠さまや玉楊さんみたいな、生き生きぴちぴちとした感じがしないんだよな。よくできた人形みたいだ」
漣さまが不在のお部屋に戻りながら、私はそう思った。
そして次の朝のことである。
「正妃さん、具合が悪い言うて寝込んどるみたいやな。たまには挨拶したろと思って北の宮に行ったんやけど、会われへんかったわ」
皇帝陛下のところから戻られた漣さまが、侍女たちに着替えさせられながら、そう報告した。
私に会った直後から柳由正妃は体調を崩され、起き上がっても来られないというのだった。
「まだ寒さも厳しいので、感冒でしょうか」
孤氷(こひょう)さんが、いつもより若干、難しい顔を見せて言う。
「今日の夕は正妃さんのぶんも、お祈りしよか」
あっけらかんと言ってのける漣さまの部屋の空気は、いつもとなにも変わらない。
重大ごとからもたらされる緊張に押し潰されずにいられる理由は、私はすでに皇太后陛下と面会した経験があるからだ。
そのおかげで気持ちに余裕が生まれる。
むしろこっちから正妃の意図や思惑を探ってやろうじゃないか、くらいの考えを抱くことすらできているのだ。
私は経験を糧に、成長する女なのである。
「正妃さまの御前に、小人どもが参る。身に余るご光栄に深々と謝す。万歳、万歳、万々歳」
部屋の前で川久(せんきゅう)太監が大声で述べた。
いや、これはおかしい話だぞ。
万歳、重ねて万々歳と唱和するのは、相手が皇帝陛下や皇太后陛下の場合に限られるのだ。
庶民が雑談で口にするのならともかく、礼と秩序を重んじる皇城の中にあって、一宦官の立場で正妃に万々歳と唱えることは本来、許されないことだ。
皇后として立てられているならともかく、正妃の立場と言うのは流動的で、不変ではない。
状況によっては正妃であっても皇后になれないのが法であり伝統である。
まだ皇族としての尊貴が定まっていない正妃さまに対して、万歳、言い換えれば「永遠」を唱えてはいけない。
永遠の繁栄と治世を祈り、寿(ことほ)いでいい相手は、皇帝、皇太后、皇太子だけなのである。
ちなみに昂国(こうこく)は上皇制度を許していないので、皇帝が引退したいと思ったら臣下、一般貴族の立場に降りなければいけない、と言うのは余談のウンチク。
要するに本来の礼秩序を無視してまで、川久太監は正妃殿下におもねっている、阿諛追従(あゆついしょう)していると思われても、仕方ないのである。
漣(れん)さまのお部屋勤めをするにあたり、私も恒教(こうきょう)と泰学(たいがく)をしっかり読み直したから、わかるもんね。
佞臣(ねいしん)とは、このことか!
私のそんな軽蔑の視線を無視し、川久太監は扉が開かれるのを、薄い笑顔を浮かべて静かに待つ。
やがて女官たちが左右に重そうな扉を押し開き、私たちを室内に招き入れる。
皇太后さまに会った場面と似たように、高座の上に正妃さまは座っていた。
違いがあるとすれば、御簾(みす)などはなく、直接に顔が見えるということだ。
あれ、意外と、と言ったら失礼か。
それなりに、お歳を召していらっしゃる。
三十歳前後だろうか。
皇帝陛下はまだ二十歳そこそこのはずなので、ずいぶんと年上の正妃さまだな。
「南苑(なんえん)は漣(れん)美人の侍女、翼州(よくしゅう)の娘、麗と申します」
名乗って拝跪した私に、注がれている冷たい視線の力がわかった。
なんだろう、ただ、その場にいるだけで。
圧力のようなものが確実に存在するのが、今の正妃さまであるようだ。
昔、世が乱れたときに八州の北側の騒乱を押し留め、戌族(じゅつぞく)の侵入を防ぎ続けた名門、素乾家(そかんけ)。
昂王朝(こうおうちょう)が安定して成り立った歴史のもっとも重要な立役者から輩出された正妃殿下の名は、柳由(りゅうゆう)と言う。
素乾柳由さまから頭の上に無言の目を感じて、私は蛙のようにぺたりと床に伏せるしかできない。
重く分厚い空気の力は、戌族(じゅつぞく)白髪部(はくはつぶ)の大統、阿突羅(あつら)さんを思わせるほどだった。
長い沈黙の後、言葉が出た。
「お前のことを、西苑(さいえん)のものや宦官たちに、聞きました」
翠さまに使えていた時期の話だな。
なにをどう聞いたのかは知らないけれど、私は頭を低くして、次の言葉を待つばかり。
はー、と溜息を吐き、呆れたように柳由正妃は言った。
「誰に聞いても『あいつは頭がおかしいから、審問しても意味はないでしょう』と答えるばかり。まったくわけがわかりません。お前は、本当に狂っているのですか?」
「もごっ」
と私は笑い声を喉の中にこらえた。
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あのとき、近くですべてを見聞きした巌力さん、銀月さんを含む宦官さんたちは、私がややこしい尋問に遭わないように「麗は頭がおかしいので」という、イカした脚本を用意してくれたのだ。
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いや、当事者たちの何割かは、作り話ではなしに、本気でそう思っているだろうけれどね。
私は困らないし、むしろそう思われている方が、都合がいいわ。
狂人は自分を狂人と思わない、という格言の通りに私は答える。
「自分では狂っているつもりはございませんが」
「なら、お前が青牙部(せいがぶ)の覇聖鳳を討ち果たしたという話は、いったいどこに真実があるのです。尋常のものが、雪深い地の果てまで行き、勇猛で知られた首領を殺して帰るなど、するはずも、できるはずもありません。そんなことを為そうと思うはずもないのです」
客観的に他人の口から言われると、確かに思うところはあるな。
まともな頭の持ち主なら、そんなことはしないのである。
しかし私はこの質問に対して、あらかじめ答えを用意していた。
「覇聖鳳は先だって、白髪部の勇者である斗羅畏(とらい)どのと一騎打ちを交わしました。その際の怪我が悪化し、さらに厳しい寒波が土地を襲った結果、運尽きて斃(たお)れたのでございます。私たちはその近くにたまたま居合わせ、駆けつけた斗羅畏どのに助けていただいただけのこと」
そう、私たちは覇聖鳳討滅の手柄を、斗羅畏さんにすべて、譲り渡したのである。
斗羅畏さんの直参である将軍たちと、この話はすでに共有済みだ。
年若い刺客の数人ぽっちに覇聖鳳が負けて殺されたって話が広まってしまえば、覇聖鳳の格が下がるし、後を引き継いだ斗羅畏さんの格も同時に下がる。
だとすれば斗羅畏さんが、正々堂々の勝負の結果として覇聖鳳から青牙部の土地を託されたという話を作った方が、万事丸く収まるからね。
この話はまだ、昂国の朝廷にまで伝わっていなかったのだな。
私の話が本当かどうかは、朝廷が斗羅畏さんに照会をかければわかることだし、彼らはちゃんと口裏を合わせてくれるだろう。
嘘なんだけど、みんながそう思えば、それは真実であるのだ。
私の弁解を聞いた正妃さまは、息を軽く吐き。
「……なるほど、邑を焼かれた翼州の子どもたちが国境を越えて覇聖鳳を殺したというのは、巷(ちまた)のものどもが面白がって言っているだけの話なのですか」
「おそらくは、そうであるのかと」
実直激情が売りの斗羅畏さんに、こんな誤魔化しを背負わせるのは、私たちも気が引けた。
けれど、旧青牙部の土地を穏やかに統治するためには、こう言ったわかりやすい伝説が必要なのである。
後事を斗羅畏に託せ、と遺言した覇聖鳳の思惑は、やつが死してもなお様々な形に動き続けて、私たちだけでなく昂国の正妃さますら、惑わせているのだった。
「ふうむ……」
真相はそんなものか。
知ってしまえばつまらない、と言う感情を柳由正妃がわずかに覗かせ、声を漏らした。
よしよし、これでいいのだ。
私に対して、蓋を開けてみれば取るに足らない女、と思ってくれるなら、今はそれで最善である。
正妃さまが環家や司午家に対してどう思っているのかを知りたい気持ちはあるけれど、私の方から質問するという不敬は、この場ではできない。
今はまず、正妃さまは私たちをそれほど警戒してもいないし、敵対視してもいないという現状を把握できただけで、十分に合格点だろう。
私が安心していると、横からどうでもいいやつが、口を挟んだ。
「この女は、環家(かんけ)の一門と深い結びつきを得たという話にございます。そもそも、環貴人が後宮を襲った戌族めらとともに去って行ったのは、なにかしら口裏を合わせた結果でありましょうや」
「はぁン!?」
川久太監のくだらない、悪意の籠った言い分に、私はついうっかり、変な声を出してしまった。
どうやら、玉楊(ぎょくよう)さん一人だけを人質にして覇聖鳳が後宮から引き上げたことに、不審な点があると思っているようだな。
てめえは!
現場を見てねえから、そんなことが言えるんだろうが!!
と、私は叫びたくなる。
あのとき、軍師の姜(きょう)さんも、部隊を指揮していた玄霧(げんむ)さんも、人質になってしまった翠さまを含めて皆殺しを前提に行動していた。
でも、殺さずに済むならそっちのほうが良い、なんとかならないものなのか、という「場の空気」が確かにあり、様々な要因が絡み合った結果として、玉楊さんが連れて行かれたのだ。
それを、知らない、お前が!
軽々しく、玉楊さんの決意と想いを穢すようなセリフを、口にするな!!
死を覚悟してことに臨んでいた翠さまや玄霧さんの代わりに、てめえがあの場で、覇聖鳳と向き合ってみろってんだよお!!
それこそ私は、この場で狂ってしまいそうな怒りの情動を必死にこらえて抑えて付けて、床をガリガリと爪で引っ掻く。
川久太監の言を受けて、ふむ、と呟き。
「玉楊は、息災ですか?」
正妃さまは、まずそれだけを聞いた。
私はこれも予定していた通りに、しらばっくれて返答する。
「連絡を取っていないので、分かりません」
嘘と言うわけでもない。
角州(かくしゅう)の司午家(しごけ)を離れて以来、実際に私は巌力さんや玉楊さんがどうしているのか、知らないのだから。
どうしても知りたいのであれば、司午家の人に聞いてくれ、ということだ。
司午家の人たちも、のらりくらりと返答を躱すと思うけれどね。
腹芸の応酬で、わけがわからなくなって来るな。
伏せたまま横目で眺めると、川久太監が忌々しげに、笑顔を歪めていた。
私の腹時計が、時間切れであることを告げている。
「夕刻のお祈りがございますので、これで失礼したく思います」
「そうですか。しっかりお勤めなさい」
許されて部屋を退出する際に、もう一度わずかだけ、正妃さまの顔を覗き見る。
厳しい目つきで姿勢を正し、一部の隙もないほどに硬質の空気を纏っている。
それでも。
「なんだろう。翠さまや玉楊さんみたいな、生き生きぴちぴちとした感じがしないんだよな。よくできた人形みたいだ」
漣さまが不在のお部屋に戻りながら、私はそう思った。
そして次の朝のことである。
「正妃さん、具合が悪い言うて寝込んどるみたいやな。たまには挨拶したろと思って北の宮に行ったんやけど、会われへんかったわ」
皇帝陛下のところから戻られた漣さまが、侍女たちに着替えさせられながら、そう報告した。
私に会った直後から柳由正妃は体調を崩され、起き上がっても来られないというのだった。
「まだ寒さも厳しいので、感冒でしょうか」
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