毒炎の侍女、後宮に戻り見えざる敵と戦う ~泣き虫れおなの絶叫昂国日誌・第三部~

西川 旭

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第十四章 新しい力、未だ知らぬ世界

百二十一話 塀紅猫貴人と除葛漣美人

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 河旭(かきょく)城下の、深夜。
 息の音が止まった野良犬を背中の籠に負い、私たちは皇城の通用門を潜り、中に戻る。

「宦官の作業場を借りましょう。誰かしら、起きて詰めているはずです」

 雅の極致である後宮の中で、殺した犬の解体作業なんてするわけにはいかない。
 私たちは詰め所で寝ずの番をしていた宦官さんたちに事情を話し、水場の一角を借りて犬を捌くことにした。

「必要なのは肩甲骨だけですし、首のあたりの皮を裂きましょうか。と言ってもどうしたものですかね」

 孤氷(こひょう)さんも獣の解体に慣れているわけではなさそうだ。
 用意していた小刀だけではまったく手に負えないので、宦官さんからノコギリなども借りる。
 私と二人で、ああでもない、こうでもないと言いながら、首を落とし、皮を剥ぎ、肉を削ぎ、血まみれに悪戦苦闘し、なんとか目的の肩甲骨を取り出すことができた。
 作業そのものに集中してハイになっていたから、取り掛かっている間は怖いとか気持ち悪いとか、あまり感じなかったのだけれど。

「ふう……」

 付着した血液を水で洗い流している孤氷さんの手は、震えていた。
 私も同様に、奥歯がガタガタ鳴りっぱなしである。
 寒さのせいだけではあるまい。
 私が確認を怠ったばかりに、私が無知だったばかりに。
 殺さなくても良かったはずの犬が一匹、余計に死んだ。
 作業をしている私も孤氷さんも、平気であるわけではないのだ。

「ほ、本当にごめんなさい、私が迂闊だったせいで」

 今になって、ボロボロと涙が零れてきた。
 買い物リストを見たときに、どんな骨が必要なのか、前もって聞いておけばこんなことにはならなかった。
 孤氷さんは喜怒哀楽の判別が難しい顔を浮かべ。

「私たち二人の業、ということにしましょう。あなた一人が抱えることではありません」

 疲れと優しさの混じった声で、そう言ってくれた。
 続けて、私にお説教するのではなく、あくまでも自分自身に確認するように、孤氷さんは淡々と説く。

「犬が憎い害獣だから打ち殺したのではないのです。犠と言うのは義に通じ、神に『善いもの』として捧げられるのですから」
「犠牲となる捧げものは、善いもの、ですか」

 ああ、いつか月の夜に、ヤギの毛並みを整えていた軽螢(けいけい)を思い出す。
 悪いものは取り込まず、善いものだから、天地に捧げ、私たちもその命をありがたく頂くのだ。
 ま、あのときのヤギは今でも元気いっぱいで、むしろ周囲の人間をからかうような振る舞いをしているけれどね。

「ええ。犬は強く賢く勇敢で、邪を払い魔を退ける力があります。その命を祈りの中に捧げることで、私たちもその力を分けてもらうのです」

 死なねば一粒の麦。
 死ねば多く実るだろうという、有名な説話を思い出した。

「めそめそ泣いて後悔するんじゃなく、感謝しなきゃいけないんですね」
「そういうことだと、私も思います。なんにせよ殺してしまったものは、取り返しがつかないのですから。せめてその命が善いものとして天地に迎えられるよう、私たちには祈ることしかできないのです」

 犬の解体作業を終えた私たちは、完全に徹夜の状態で日の出を迎えた。

「おはよーさん。今日は忙しいんやったっけね」

 昨日に引き続き上機嫌で口数も多い漣(れん)さま。
 私と孤氷さんの憔悴などあずかり知らぬという、にこやかな顔で起床なされた。
 この人、日中はダラダラしてる割に、寝覚めは抜群に良いんだよな。
 侍女の誰に起こされることもなく、日の出前には自分でしっかり寝台から起きて出て、毎日の祈祷の号令をかける。
 侍女たちから「お祈りのお時間です」なんてことは、絶対に言わないのだ。
 漣さまが部屋にいる日々において、太陽への祈祷は完全に彼女の主導と監督下で行われており、侍女たちは文字どり、そこに侍って雑用をこなすだけの存在である。
 この日もまず、昇りつつある太陽に十六回の拝礼を漣さまは捧げた。

「朝食の後で、塀(へい)貴妃がお越しになります」
「うん」

 早めの朝ごはんを済ませ、漣さまに孤氷さんが報告した。
 もうすっかり日は昇り、他の部屋の妃や侍女たちも活動を始めている。
 春の訪れを祈念する祭事のために、南苑統括の塀(へい)紅猫(こうみょう)貴妃が、漣さまの部屋にいらっしゃるそうだ。
 椿珠(ちんじゅ)さんから渡されたルビー玉の使いどころは、ここかな。

「孤氷さん、私、環(かん)貴人に関係する方から、こういうものを預かっているんですけど」

 きらりと輝くルビーの小石を見せる。
 私個人が勝手に、漣さまの頭越しに、塀貴妃へこれをプレゼントするわけにはいかない。
 体裁としては「漣美人を通して、環貴人の宝を塀貴人に贈る」としなければ、秩序にもとるからね。

「紅玉ですか」

 クールな孤氷さんでも目を見張るくらいに、この宝石は美しい。

「はい、塀殿下は赤いものが特にお好きと聞いたので、南苑に勤めている私を通して、塀殿下に贈って欲しいと、環家の方が」
「環貴人の……確かに、あの方にふさわしく、素晴らしい品物です」

 称賛の言葉に似つかわしくなく、孤氷さんは渋い顔をしてしまった。

「なにか、問題でもありますかね?」
「漣さまにこれを見せたら、おそらく塀貴妃に差し上げるのを渋って、自分の懐に入れてしまうでしょう」
「ぶっ」

 漣さま、ごうつくばりかよ~!
 いや、確かに誰でも欲しくなるくらいのお宝だけどさ。
 塀貴妃に届かないと意味がないので、この段取りは不味いな。
 孤氷さんは少し考て。

「あなた、銀月(ぎんげつ)太監と親しいのでしたよね」
「おかげさまで、仲良くさせてもらってます」
「では彼から塀貴妃に渡してもらいましょう。そうすればどこにも角は立ちません」

 結局そうなるんかーい!
 なら昨日の段階で、銀月さんに預けてしまっても良かったな。
 とにかく宝石の処置はそのように決まり、私は多少の消沈を心に抱えながら、次の仕事に取り掛かる。
 南苑の中庭で「希春(きしゅん)」という、季節の祭事が行われるので、その準備である。
 冬に別れを告げ、春を希(ねが)うための、年中行事だね。
 主催者が塀貴妃で、お祈りに実働するのが漣さま、という構図だ。
 要するに後宮南苑としての公務であり、自分の部屋単位で漣さまが自主的に行っている毎日のお祈りとは、行事の性格が少し異なる。
 お部屋では段取りの確認として、塀貴妃と漣さまがお話し合いをされている途中のはず。
 二人がどういう関係性なのか、目にしたことがない私にはわからなかったのだけれど。

「紅(こう)ちゃん、少し肥ったんちゃうかあ? ほっぺたぷにぷにやで~」
「あ、朝だからむくんでいるだけです。それより、その呼び方はやめなさいと、何度言ったら……」

 凄いぴったりとくっついてイチャつきながら、二人が中庭に出て来た。
 漣さまに頬を突っつかれている、私よりさらに背の低い女性。
 着ているものの立派さから、その方が南苑統括の貴人、塀殿下だとすぐにわかった。
 けれど想像していたのとは大きく違い、眉も薄く細く、髪の色も薄く、適度に日焼けした肌。
 まるで童女のような容姿をしていた。
 本当にこんな、運動系部活帰りの女子みたいな人が、呪縛、結界術のスペシャリストなのだろうか?
 なんか、中学校みたいな平和なノリだよ、このお二人さん。
 私の出身中学は、実はそこまで平和でもなかったけれどね。

「お、お初にお目にかかります。麗と申す、新しく来た下働きです」

 初対面なので深く拝跪し、塀貴妃に自己紹介する私。

「翼州(よくしゅう)から来たんやで~。元々は司午(しご)さんとこの子やねんけどな。お産の里帰り中で人が余っとる言うて、うちらが借りてるんや」

 塀貴妃にしなだれかかりながら、漣さまが補足情報を説明してくれた。
 漣さまが他人とこれほどコミュニケーションを取っている姿を、私ははじめて見た。
 腰を曲げて控える私を見て、あっ、と軽く驚いた小声を塀貴妃は放ち。

「確か、神台邑(じんだいむら)の」
「は、はい。そうです。運良く、生き残りました」
「そう……」

 憐れみと労わりの混在した面持ちで、塀貴妃は私を見やった。
 神台邑で起こったことを、知ってくれているんだな。
 
「お勉強がよくできるらしいわ。姜(きょう)のおいちゃんが言うとった」

 私にまったく興味がなさそうだった漣さまが、珍しくそんなことまで話す。
 ああ、漣さまはきっと、塀貴妃が大好きなんだな。
 にこにこしながら塀貴妃に甘えるように話しかける漣さまは、本当に子どものように、純粋で邪気がなかった。
 見た目は圧倒的に、漣さまの方がお姉さんなのにね。

「いいことです。努力したのですね」
「あ、ありがたいお言葉、恐縮でございます」

 すっかり縮こまってへこへこしている私を観察し。
 寂しそうに笑って、塀貴妃は意外な名前を口にした。

「邑の長老だった応(おう)老人も、お亡くなりになられたのですね」

 軽螢(けいけい)の祖父、雷来(らいらい)おじいちゃんのことだ。
 え、知ってるの?
 あんな小さな邑の住民、その個人名を、塀貴妃が?

「は、はいっ。邑を守るために最後まで必死に戦い、私たち子どもを逃がしてくれて……」
「なんという勇士でしょう。なにもできなかった私たちを、さぞ怨んでいるでしょうね。遠慮なく、面罵してくれていいのですよ」
「い、いえ、とんでもございません。妃殿下からこのように温かいお言葉を頂けただけで、身に余る光栄です」

 神台邑が滅茶苦茶にされたからって、塀貴妃になんの責任があるものか。
 悪いのは覇聖鳳のクソッタレだし。
 私がそう混乱していると、塀貴妃も怪訝な顔を浮かべ。

「まさかあなた、私が翼州公爵家の娘だということを、知らないのですか」

 私たちの会話の間にある齟齬を、見事に看破した。

「え、あ、あの、ええぁ?」

 塀、という珍しくもある姓。
 どこかで、聞き覚えがあると思ったら。
 神台邑の入り口にあった、石柱の碑文!
 翼州公の塀さんが、濠を掘って土地を囲み、結界と成したという、あれだ!!
 私たちが住んでいた翼州を治める、一番のお偉いさんの家系が、塀貴妃殿下の出自なのだ!!

「ありゃま、そないなことも知らんかったんかい。常識やろ~」

 けらけらと、楽しそうに漣さまに笑われた。
 うううう。
 無知は、恥である!!
 少し離れたところで、ハァと力弱く、孤氷さんが溜息を吐くのだった。
 顔、顔から火が出て燃えそうに、熱い~~!!
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