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第2話 俺のデバフが切れた瞬間、勇者たちがゴブリンに苦戦し始めた
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砕け散った水晶の欠片が、月光を受けてキラキラと輝きながら舞い落ちる。
その幻想的な光景の中心で、長い封印から解き放たれた魔王の娘――セリスが、優雅に大地へと降り立った。
「ふぅ……。久方ぶりに吸う外の空気は格別だな」
彼女はしなやかに背伸びをすると、艶やかな銀髪を指で梳いた。
その動作一つ一つが絵画のように美しいが、同時に背筋が凍るような魔圧を孕んでいる。
これが、魔王の血を引く者の威圧感か。
「封印を解いてくれたこと、改めて礼を言うぞ、クロウ。……それにしても」
セリスは赤い瞳を細め、俺の顔を覗き込むように近づいてきた。
整った顔立ちが目の前に迫る。甘い花の香りが鼻孔をくすぐった。
「お主、本当に人間か? その身に纏う呪いの瘴気……我が父ですら、これほど濃密な闇の魔力は持っていなかったやもしれん」
「俺はただの人間だよ。ついさっきまで、役立たずと言われてパーティーを追い出されたばかりのな」
「ほう? この力を役立たずと判断するとは、人間の『勇者』とやらは余程の節穴らしいな」
セリスは愉快そうにクスクスと笑った。
その笑顔は無邪気だが、瞳の奥には冷徹な光が宿っている。
「気に入ったぞ、クロウ。我は長い眠りで魔力が枯渇している。完全な力を取り戻すまで、お主のそばにいてやろう。……いや、違うな」
彼女は俺の胸元に白魚のような手を這わせ、熱っぽい視線を送ってきた。
「お主の魔力、実に美味そうだ。そばに置いてやるから、その魔力を我に供給せよ。それが契約だ」
「魔力の供給? どうやるんだ?」
「決まっているだろう。……こうするのだ」
セリスは背伸びをすると、俺の首筋に顔を埋めた。
柔らかい唇が触れたかと思うと、チクリとした痛みが走る。
彼女の小さな牙が、俺の皮膚を僅かに突き立てていた。
「ん……っ、甘い……。極上だ……」
ドクン、と心臓が跳ねるのと同時に、俺の体内から魔力が吸い出されていく感覚がある。
だが、不快ではない。むしろ、溢れすぎて制御に苦労していた過剰な魔力が適度に抜けていき、体が軽くなるような感覚だった。
俺の『災厄の呪い』は常に周囲へ垂れ流し状態だったから、こうして吸収してくれる存在は、むしろタンク役としてありがたいかもしれない。
しばらくして、セリスは満足げに唇を離した。
その口元には、俺の血が一筋、艶かしく残っている。
彼女はそれを舌でぺろりと舐め取った。
「ふふっ、契約成立だな。我が下僕よ」
「下僕になった覚えはないが……まあいい。相棒(パートナー)としてなら歓迎する」
「生意気な口を利く。だが、それもまた良い」
俺たちは視線を交わし、ニヤリと笑い合った。
不思議と波長が合う。
少なくとも、あの上辺だけの勇者パーティーよりは、よほど信頼関係が築けそうだった。
「さて、行くかセリス。ここに長居していると、また面倒なのが寄ってくるかもしれない」
「そうだな。お主の魔力に惹かれて、雑魚どもが集まってきている気配がする。……ん? 待てよ」
セリスがふと、森の南の方角を見やった。
そこは、俺が来た道――つまり、勇者カイルたちが逃げていった方向だ。
「あちらから、ひどく無様で怯えた気配がするな。まるで、捕食者に追われる哀れな鼠のようだ」
「……ああ、元仲間たちだ。さっき俺が追い払った狼の群れに襲われたらしい」
「ククッ、愉快だな。最強を気取っていた者たちが、たかが獣ごときに追われるとは」
俺は肩をすくめた。
獣ごとき、と言うが、あのシャドウウルフは本来Sランク相当の魔物だ。
俺のデバフがあった頃は『Cランク程度の雑魚』にまで落ちていたが、今は本来のスペックに戻っている。
「放っておこう。自業自得だ」
「違いない」
俺たちは勇者たちがいる方向とは逆に、森の奥深くへと歩き出した。
背後で微かに聞こえる悲鳴のような風の音も、今の俺には心地よいBGMでしかなかった。
◇
一方、勇者カイル率いる『光の剣』は、悪夢のような撤退戦を強いられていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……! くそっ、ここまでくれば大丈夫か……!?」
カイルは巨木に背を預け、荒い息を吐いた。
自慢のミスリルの鎧はあちこちが凹み、爪痕が刻まれている。
聖剣の刃も毀(こぼ)れ、かつての輝きは見る影もない。
「い、嫌ぁ……もう歩けないぃ……」
聖女アリシアがその場にへたり込む。
彼女の真っ白だった聖職者のローブは泥と血で汚れ、髪も振り乱されていた。
足には裂傷を負っており、ヒールをかけ続けているが、魔力切れ(ガス欠)寸前で傷の塞がりが遅い。
「しっかりしろアリシア! ここで止まったら追いつかれるぞ!」
重戦士ガンツが怒鳴るが、彼自身のダメージが最も深刻だった。
盾役として攻撃を一手に引き受けた結果、巨大なタワーシールドはひしゃげ、左腕はだらりと力なく垂れ下がっている。骨が折れているのは明白だった。
「うるさいわね! ガンツがあの狼たちを止められないから、私たちがこんな目に遭ってるんじゃない!」
魔法使いのリナがヒステリックに叫ぶ。
彼女もまた、魔力枯渇による頭痛に顔を歪めていた。
「なんだと!? 俺だって必死に止めたさ! だが、あいつらおかしいんだよ! 一撃一撃が、まるでドラゴンの尻尾ではたかれたみたいに重かったんだ!」
「言い訳しないでよ! あんた『鉄壁のガンツ』でしょ!? Sランクの盾使いが、たかが野良犬の攻撃を防げないなんてありえないわ!」
「お前の魔法だって全然当たってなかったじゃねぇか!」
醜い言い争いが始まる。
これまで彼らが上手くいっていたのは、圧倒的な余裕があったからだ。
俺が敵を弱らせ、彼らが一方的に蹂躙する。
その「楽勝」な状況下では、彼らの仲は良く見えた。
だが、一度窮地に陥ればこの有様だ。
「やめろお前ら! 内輪揉めしてる場合か!」
カイルが叫び、なんとか場を収める。
だが、その表情には焦燥感が張り付いていた。
(おかしい……絶対におかしい。なんで急に魔物が強くなったんだ?)
カイルは自身の聖剣を見つめた。
今までなら、鉄の塊だろうが岩だろうが、豆腐のように切り裂けたはずだ。
それが、狼の皮一枚すら満足に切れない。
(まさか、本当にクロウの……いや、認めるものか。あんな陰気な男に、そんな力があるわけがない。これは何かの一時的な異常事態だ。ダンジョンの魔力が活性化したとか、そういう現象に違いない)
自分にそう言い聞かせることで、カイルは崩れそうなプライドを必死に保っていた。
「……とにかく、ここはまだ危険だ。街道まで出れば、騎士団の巡回もある。そこまで行けば安全だ」
「で、でもカイル様、私もうMPが……ポーションも、クロウさんが持っていた予備袋に入っていたから、手持ちがもうありませんの」
アリシアが涙目で訴える。
そう、彼らは荷物持ちである俺を追放する際、最低限の食料だけを投げてよこし、ポーションや素材、予備装備が入ったマジックバッグは自分たちで確保したつもりだった。
だが、肝心のそのバッグの管理パスワードは俺が設定していたため、彼らには開けることができなかったのだ。
そのことに気づいたのは、戦闘が始まって回復薬を取り出そうとした時だった。
「くそっ、あの役立たずめ! 最後の最後まで俺たちの足を引っ張りやがって!」
カイルが木を殴りつける。
その時だった。
「ギギャギャギャ!」
「ゲッゲッゲッ!」
茂みの奥から、下卑た笑い声が聞こえてきた。
現れたのは、小柄な緑色の肌を持つ魔物――ゴブリンの集団だ。
腰蓑をつけただけの粗末な格好で、手には錆びた剣や棍棒を持っている。
数は十匹ほど。
「な、なんだ……ゴブリンか」
カイルは安堵の息を漏らした。
ゴブリンといえば、冒険者になりたての初心者が最初に戦う、最弱ランクの魔物だ。
今のボロボロの状態でも、さすがに負ける相手ではない。
「驚かせやがって。……おい、お前ら。ちょうどいい、憂さ晴らしだ。あいつらを皆殺しにして、ついでに持ってる食料でも奪うぞ」
カイルは聖剣を構え直した。
リナも杖を構える。
「そうね、ゴブリンなら私一人でも十分よ。……『ファイアボール』!」
リナが杖を振るい、拳大の火球を放つ。
普段なら、この一撃でゴブリン数匹が吹き飛ぶはずだった。
しかし。
「ギャッ!」
狙われたゴブリンは、驚くほど俊敏な動きで横に跳び、火球を回避した。
火球は地面に着弾し、小さな焦げ跡を作るだけに終わる。
「は……? 避けた?」
リナが呆然とする間に、ゴブリンたちは一斉に襲いかかってきた。
その動きは、彼らの知っている「のろまなゴブリン」ではなかった。
野生動物のように敏捷で、殺意に満ちている。
「舐めるなッ!」
カイルが先頭のゴブリンに斬りかかる。
相手は錆びたショートソードで受け止めた。
ガキンッ!
「なっ!?」
聖剣が止められた。
腐りかけのような粗悪な剣に、聖剣が押し負けているのだ。
(重いッ!? こいつ、なんて腕力だ!?)
カイルの腕が悲鳴を上げる。
俺のデバフがかかっていた頃のゴブリンは、筋力も耐久力も10分の1。赤子同然の強さしかなかった。
だが、本来のゴブリンは、成人男性と同等かそれ以上の筋力を持つ魔物だ。
ましてやここは魔の樹海。外のゴブリンよりレベルも高い。
疲労困憊のカイルたちが、舐めてかかって勝てる相手ではなかった。
「ウギャッ!」
別のゴブリンが、横からカイルの脇腹を棍棒で殴りつけた。
鎧の上からでも衝撃が内臓に響く。
「ぐはっ……!?」
カイルがもんどり打って倒れる。
「カイル様ッ! いや、こっちに来ないで!」
アリシアが悲鳴を上げる。ゴブリンの一匹が、いやらしい目つきで彼女に飛びかかった。
彼女が展開した防御結界が、ゴブリンの爪撃一発でガラスのように砕け散る。
「キャアアアアアッ!!」
「アリシア! くそっ、どけェッ!」
ガンツが盾を振り回すが、小柄なゴブリンたちはすばしっこく懐に入り込み、鎧の隙間からナイフを突き立ててくる。
「ぐあっ! 痛ぇ! 装甲の上から通るのかよ!?」
地獄絵図だった。
Sランクパーティーが、たかがゴブリン相手に防戦一方。
いや、一方的に蹂躙されていた。
「なんでだ……なんでゴブリンがこんなに強いんだよォォッ!!」
カイルは泥にまみれながら叫んだ。
理解できなかった。理解したくなかった。
自分たちが最強だったのは、すべてクロウという土台があったからだという真実を。
ゴブリンの棍棒がカイルの頭をかすめ、血が流れて視界を奪う。
死の恐怖が、再び彼を支配した。
「逃げるぞッ! 全員撤退だ! 逃げろ逃げろ逃げろォォッ!!」
プライドもクソもなかった。
彼らはゴブリンに背を向け、無様に森の中を逃げ惑う。
後ろからは、獲物を追い立てるゴブリンたちの嘲笑うような鳴き声が続いていた。
Sランクの栄光は、一夜にして地に落ちた。
彼らが「雑魚敵」と見下していた魔物たちによって。
◇
そんな元仲間たちの悲惨な状況など、知るよしもなく。
俺とセリスは森を抜け、開けた場所に出ていた。
そこには、巨大な岩でできたゴーレム――『ロックガーディアン』が道を塞ぐように立っていた。
本来ならAランクの冒険者がパーティーを組んで挑む強敵だ。
「ほう、番人か。どうするクロウ? 我が魔法で粉砕してやってもよいが」
セリスが楽しそうに提案するが、俺は首を横に振った。
「いや、俺がやる。新しい力の試し撃ちがしたい」
俺は一歩前に出る。
ロックガーディアンが侵入者を排除すべく、巨大な拳を振り上げた。
その質量は数トン。直撃すればミンチは免れない。
だが、俺は避けない。
「お前の硬度はどれくらいだ?」
俺は振り下ろされる拳に向かって、右手をかざした。
意識するのは『編集』に近い感覚。
対象の状態(ステータス)に干渉し、強制的に書き換える。
スキル発動、『脆弱化の呪い』――いや、もっと強力な『崩壊付与』。
俺の掌から放たれた黒い波動が、ロックガーディアンの拳に触れた。
ズズズズズ……ッ!
一瞬だった。
触れた箇所から亀裂が走り、岩の巨体が砂のようにサラサラと崩れ去っていく。
強固な魔法防御も、物理耐性も関係ない。
物質としての結合そのものを呪いで解かれたゴーレムは、悲鳴を上げる間もなく、ただの砂山へと変わった。
「……なるほど。無機物相手でも『死』を与えることは可能か」
俺は自分の手を見つめて呟く。
敵の能力を下げるだけだったかつての俺とは違う。
今の俺は、対象を『終わらせる』ことができる。
「見事だ、クロウ」
セリスが感嘆の声を上げて拍手した。
「岩塊を一瞬で砂に変えるとはな。その力、やはりただの呪術師ではない。……フフッ、やはりお主を選んで正解だった」
彼女は満足そうに俺の腕に抱きついた。
柔らかい感触が腕に伝わる。
「さあ、行こうか我が主よ。この先にある人間の街で、まずは美味しい食事と、ふかふかのベッドを用意してもらうぞ?」
「ああ、そうだな。……金はないけどな」
「む? ならば奪うか?」
「いや、魔物の素材がある。こいつらを売れば、当面の生活費にはなるはずだ」
俺は砂山の中に残った、ロックガーディアンの核(コア)を拾い上げた。
Aランク魔物の素材。これ一つで、カイルたちが必死にゴブリンから逃げ回っている間に、俺たちは遊んで暮らせるほどの金が手に入る。
「行くぞ、セリス」
「うむ!」
俺たちは朝日の昇る街道を、希望に満ちた足取りで歩き出した。
その背後には、かつての仲間たちが味わっている地獄が広がっているとも知らずに。
こうして、俺の『追放』から始まった第二の人生は、最高のパートナーと共に幕を開けたのだった。
その幻想的な光景の中心で、長い封印から解き放たれた魔王の娘――セリスが、優雅に大地へと降り立った。
「ふぅ……。久方ぶりに吸う外の空気は格別だな」
彼女はしなやかに背伸びをすると、艶やかな銀髪を指で梳いた。
その動作一つ一つが絵画のように美しいが、同時に背筋が凍るような魔圧を孕んでいる。
これが、魔王の血を引く者の威圧感か。
「封印を解いてくれたこと、改めて礼を言うぞ、クロウ。……それにしても」
セリスは赤い瞳を細め、俺の顔を覗き込むように近づいてきた。
整った顔立ちが目の前に迫る。甘い花の香りが鼻孔をくすぐった。
「お主、本当に人間か? その身に纏う呪いの瘴気……我が父ですら、これほど濃密な闇の魔力は持っていなかったやもしれん」
「俺はただの人間だよ。ついさっきまで、役立たずと言われてパーティーを追い出されたばかりのな」
「ほう? この力を役立たずと判断するとは、人間の『勇者』とやらは余程の節穴らしいな」
セリスは愉快そうにクスクスと笑った。
その笑顔は無邪気だが、瞳の奥には冷徹な光が宿っている。
「気に入ったぞ、クロウ。我は長い眠りで魔力が枯渇している。完全な力を取り戻すまで、お主のそばにいてやろう。……いや、違うな」
彼女は俺の胸元に白魚のような手を這わせ、熱っぽい視線を送ってきた。
「お主の魔力、実に美味そうだ。そばに置いてやるから、その魔力を我に供給せよ。それが契約だ」
「魔力の供給? どうやるんだ?」
「決まっているだろう。……こうするのだ」
セリスは背伸びをすると、俺の首筋に顔を埋めた。
柔らかい唇が触れたかと思うと、チクリとした痛みが走る。
彼女の小さな牙が、俺の皮膚を僅かに突き立てていた。
「ん……っ、甘い……。極上だ……」
ドクン、と心臓が跳ねるのと同時に、俺の体内から魔力が吸い出されていく感覚がある。
だが、不快ではない。むしろ、溢れすぎて制御に苦労していた過剰な魔力が適度に抜けていき、体が軽くなるような感覚だった。
俺の『災厄の呪い』は常に周囲へ垂れ流し状態だったから、こうして吸収してくれる存在は、むしろタンク役としてありがたいかもしれない。
しばらくして、セリスは満足げに唇を離した。
その口元には、俺の血が一筋、艶かしく残っている。
彼女はそれを舌でぺろりと舐め取った。
「ふふっ、契約成立だな。我が下僕よ」
「下僕になった覚えはないが……まあいい。相棒(パートナー)としてなら歓迎する」
「生意気な口を利く。だが、それもまた良い」
俺たちは視線を交わし、ニヤリと笑い合った。
不思議と波長が合う。
少なくとも、あの上辺だけの勇者パーティーよりは、よほど信頼関係が築けそうだった。
「さて、行くかセリス。ここに長居していると、また面倒なのが寄ってくるかもしれない」
「そうだな。お主の魔力に惹かれて、雑魚どもが集まってきている気配がする。……ん? 待てよ」
セリスがふと、森の南の方角を見やった。
そこは、俺が来た道――つまり、勇者カイルたちが逃げていった方向だ。
「あちらから、ひどく無様で怯えた気配がするな。まるで、捕食者に追われる哀れな鼠のようだ」
「……ああ、元仲間たちだ。さっき俺が追い払った狼の群れに襲われたらしい」
「ククッ、愉快だな。最強を気取っていた者たちが、たかが獣ごときに追われるとは」
俺は肩をすくめた。
獣ごとき、と言うが、あのシャドウウルフは本来Sランク相当の魔物だ。
俺のデバフがあった頃は『Cランク程度の雑魚』にまで落ちていたが、今は本来のスペックに戻っている。
「放っておこう。自業自得だ」
「違いない」
俺たちは勇者たちがいる方向とは逆に、森の奥深くへと歩き出した。
背後で微かに聞こえる悲鳴のような風の音も、今の俺には心地よいBGMでしかなかった。
◇
一方、勇者カイル率いる『光の剣』は、悪夢のような撤退戦を強いられていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……! くそっ、ここまでくれば大丈夫か……!?」
カイルは巨木に背を預け、荒い息を吐いた。
自慢のミスリルの鎧はあちこちが凹み、爪痕が刻まれている。
聖剣の刃も毀(こぼ)れ、かつての輝きは見る影もない。
「い、嫌ぁ……もう歩けないぃ……」
聖女アリシアがその場にへたり込む。
彼女の真っ白だった聖職者のローブは泥と血で汚れ、髪も振り乱されていた。
足には裂傷を負っており、ヒールをかけ続けているが、魔力切れ(ガス欠)寸前で傷の塞がりが遅い。
「しっかりしろアリシア! ここで止まったら追いつかれるぞ!」
重戦士ガンツが怒鳴るが、彼自身のダメージが最も深刻だった。
盾役として攻撃を一手に引き受けた結果、巨大なタワーシールドはひしゃげ、左腕はだらりと力なく垂れ下がっている。骨が折れているのは明白だった。
「うるさいわね! ガンツがあの狼たちを止められないから、私たちがこんな目に遭ってるんじゃない!」
魔法使いのリナがヒステリックに叫ぶ。
彼女もまた、魔力枯渇による頭痛に顔を歪めていた。
「なんだと!? 俺だって必死に止めたさ! だが、あいつらおかしいんだよ! 一撃一撃が、まるでドラゴンの尻尾ではたかれたみたいに重かったんだ!」
「言い訳しないでよ! あんた『鉄壁のガンツ』でしょ!? Sランクの盾使いが、たかが野良犬の攻撃を防げないなんてありえないわ!」
「お前の魔法だって全然当たってなかったじゃねぇか!」
醜い言い争いが始まる。
これまで彼らが上手くいっていたのは、圧倒的な余裕があったからだ。
俺が敵を弱らせ、彼らが一方的に蹂躙する。
その「楽勝」な状況下では、彼らの仲は良く見えた。
だが、一度窮地に陥ればこの有様だ。
「やめろお前ら! 内輪揉めしてる場合か!」
カイルが叫び、なんとか場を収める。
だが、その表情には焦燥感が張り付いていた。
(おかしい……絶対におかしい。なんで急に魔物が強くなったんだ?)
カイルは自身の聖剣を見つめた。
今までなら、鉄の塊だろうが岩だろうが、豆腐のように切り裂けたはずだ。
それが、狼の皮一枚すら満足に切れない。
(まさか、本当にクロウの……いや、認めるものか。あんな陰気な男に、そんな力があるわけがない。これは何かの一時的な異常事態だ。ダンジョンの魔力が活性化したとか、そういう現象に違いない)
自分にそう言い聞かせることで、カイルは崩れそうなプライドを必死に保っていた。
「……とにかく、ここはまだ危険だ。街道まで出れば、騎士団の巡回もある。そこまで行けば安全だ」
「で、でもカイル様、私もうMPが……ポーションも、クロウさんが持っていた予備袋に入っていたから、手持ちがもうありませんの」
アリシアが涙目で訴える。
そう、彼らは荷物持ちである俺を追放する際、最低限の食料だけを投げてよこし、ポーションや素材、予備装備が入ったマジックバッグは自分たちで確保したつもりだった。
だが、肝心のそのバッグの管理パスワードは俺が設定していたため、彼らには開けることができなかったのだ。
そのことに気づいたのは、戦闘が始まって回復薬を取り出そうとした時だった。
「くそっ、あの役立たずめ! 最後の最後まで俺たちの足を引っ張りやがって!」
カイルが木を殴りつける。
その時だった。
「ギギャギャギャ!」
「ゲッゲッゲッ!」
茂みの奥から、下卑た笑い声が聞こえてきた。
現れたのは、小柄な緑色の肌を持つ魔物――ゴブリンの集団だ。
腰蓑をつけただけの粗末な格好で、手には錆びた剣や棍棒を持っている。
数は十匹ほど。
「な、なんだ……ゴブリンか」
カイルは安堵の息を漏らした。
ゴブリンといえば、冒険者になりたての初心者が最初に戦う、最弱ランクの魔物だ。
今のボロボロの状態でも、さすがに負ける相手ではない。
「驚かせやがって。……おい、お前ら。ちょうどいい、憂さ晴らしだ。あいつらを皆殺しにして、ついでに持ってる食料でも奪うぞ」
カイルは聖剣を構え直した。
リナも杖を構える。
「そうね、ゴブリンなら私一人でも十分よ。……『ファイアボール』!」
リナが杖を振るい、拳大の火球を放つ。
普段なら、この一撃でゴブリン数匹が吹き飛ぶはずだった。
しかし。
「ギャッ!」
狙われたゴブリンは、驚くほど俊敏な動きで横に跳び、火球を回避した。
火球は地面に着弾し、小さな焦げ跡を作るだけに終わる。
「は……? 避けた?」
リナが呆然とする間に、ゴブリンたちは一斉に襲いかかってきた。
その動きは、彼らの知っている「のろまなゴブリン」ではなかった。
野生動物のように敏捷で、殺意に満ちている。
「舐めるなッ!」
カイルが先頭のゴブリンに斬りかかる。
相手は錆びたショートソードで受け止めた。
ガキンッ!
「なっ!?」
聖剣が止められた。
腐りかけのような粗悪な剣に、聖剣が押し負けているのだ。
(重いッ!? こいつ、なんて腕力だ!?)
カイルの腕が悲鳴を上げる。
俺のデバフがかかっていた頃のゴブリンは、筋力も耐久力も10分の1。赤子同然の強さしかなかった。
だが、本来のゴブリンは、成人男性と同等かそれ以上の筋力を持つ魔物だ。
ましてやここは魔の樹海。外のゴブリンよりレベルも高い。
疲労困憊のカイルたちが、舐めてかかって勝てる相手ではなかった。
「ウギャッ!」
別のゴブリンが、横からカイルの脇腹を棍棒で殴りつけた。
鎧の上からでも衝撃が内臓に響く。
「ぐはっ……!?」
カイルがもんどり打って倒れる。
「カイル様ッ! いや、こっちに来ないで!」
アリシアが悲鳴を上げる。ゴブリンの一匹が、いやらしい目つきで彼女に飛びかかった。
彼女が展開した防御結界が、ゴブリンの爪撃一発でガラスのように砕け散る。
「キャアアアアアッ!!」
「アリシア! くそっ、どけェッ!」
ガンツが盾を振り回すが、小柄なゴブリンたちはすばしっこく懐に入り込み、鎧の隙間からナイフを突き立ててくる。
「ぐあっ! 痛ぇ! 装甲の上から通るのかよ!?」
地獄絵図だった。
Sランクパーティーが、たかがゴブリン相手に防戦一方。
いや、一方的に蹂躙されていた。
「なんでだ……なんでゴブリンがこんなに強いんだよォォッ!!」
カイルは泥にまみれながら叫んだ。
理解できなかった。理解したくなかった。
自分たちが最強だったのは、すべてクロウという土台があったからだという真実を。
ゴブリンの棍棒がカイルの頭をかすめ、血が流れて視界を奪う。
死の恐怖が、再び彼を支配した。
「逃げるぞッ! 全員撤退だ! 逃げろ逃げろ逃げろォォッ!!」
プライドもクソもなかった。
彼らはゴブリンに背を向け、無様に森の中を逃げ惑う。
後ろからは、獲物を追い立てるゴブリンたちの嘲笑うような鳴き声が続いていた。
Sランクの栄光は、一夜にして地に落ちた。
彼らが「雑魚敵」と見下していた魔物たちによって。
◇
そんな元仲間たちの悲惨な状況など、知るよしもなく。
俺とセリスは森を抜け、開けた場所に出ていた。
そこには、巨大な岩でできたゴーレム――『ロックガーディアン』が道を塞ぐように立っていた。
本来ならAランクの冒険者がパーティーを組んで挑む強敵だ。
「ほう、番人か。どうするクロウ? 我が魔法で粉砕してやってもよいが」
セリスが楽しそうに提案するが、俺は首を横に振った。
「いや、俺がやる。新しい力の試し撃ちがしたい」
俺は一歩前に出る。
ロックガーディアンが侵入者を排除すべく、巨大な拳を振り上げた。
その質量は数トン。直撃すればミンチは免れない。
だが、俺は避けない。
「お前の硬度はどれくらいだ?」
俺は振り下ろされる拳に向かって、右手をかざした。
意識するのは『編集』に近い感覚。
対象の状態(ステータス)に干渉し、強制的に書き換える。
スキル発動、『脆弱化の呪い』――いや、もっと強力な『崩壊付与』。
俺の掌から放たれた黒い波動が、ロックガーディアンの拳に触れた。
ズズズズズ……ッ!
一瞬だった。
触れた箇所から亀裂が走り、岩の巨体が砂のようにサラサラと崩れ去っていく。
強固な魔法防御も、物理耐性も関係ない。
物質としての結合そのものを呪いで解かれたゴーレムは、悲鳴を上げる間もなく、ただの砂山へと変わった。
「……なるほど。無機物相手でも『死』を与えることは可能か」
俺は自分の手を見つめて呟く。
敵の能力を下げるだけだったかつての俺とは違う。
今の俺は、対象を『終わらせる』ことができる。
「見事だ、クロウ」
セリスが感嘆の声を上げて拍手した。
「岩塊を一瞬で砂に変えるとはな。その力、やはりただの呪術師ではない。……フフッ、やはりお主を選んで正解だった」
彼女は満足そうに俺の腕に抱きついた。
柔らかい感触が腕に伝わる。
「さあ、行こうか我が主よ。この先にある人間の街で、まずは美味しい食事と、ふかふかのベッドを用意してもらうぞ?」
「ああ、そうだな。……金はないけどな」
「む? ならば奪うか?」
「いや、魔物の素材がある。こいつらを売れば、当面の生活費にはなるはずだ」
俺は砂山の中に残った、ロックガーディアンの核(コア)を拾い上げた。
Aランク魔物の素材。これ一つで、カイルたちが必死にゴブリンから逃げ回っている間に、俺たちは遊んで暮らせるほどの金が手に入る。
「行くぞ、セリス」
「うむ!」
俺たちは朝日の昇る街道を、希望に満ちた足取りで歩き出した。
その背後には、かつての仲間たちが味わっている地獄が広がっているとも知らずに。
こうして、俺の『追放』から始まった第二の人生は、最高のパートナーと共に幕を開けたのだった。
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どんなに周りが勇者だと持て囃してもレンは認めようとしない。
※小説家になろうにも随時転載中。
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それでも皆はレンが勇者だと思っていた。
突如日本という国から彼らが転移してくるまでは。
はたして、レンは本当に勇者ではないのか……。
ざまぁあり・友情あり・謎ありな作品です。
※小説家になろう、カクヨム、ネオページにも掲載。
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