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第5話 公爵邸の精霊たちが大歓迎してくれました
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「アリア、私の婚約者として、何も遠慮することはない。屋敷のものは好きに使ってくれ。使用人たちにも君の命令は私の命令と同じだと伝えてある」
翌朝、執務室へ向かう前のヴァルド様は、玄関ホールで私の手を握りしめ、真剣な眼差しでそう言った。
背後の騎士団や使用人たちがずらりと整列している前でのことだ。
私は少し頬が熱くなるのを感じながら、精一杯背筋を伸ばして頷いた。
「はい、ありがとうございます、ヴァルド様。いってらっしゃいませ」
「ああ……行ってくる。本当は一日中君のそばにいたいのだが、魔獣の討伐報告を確認せねばならなくてな」
名残惜しそうに私の手を見つめるヴァルド様に、周囲の精霊たちがはやし立てる。
『ヴァルド、デレデレだー!』
『仕事行きたくないって顔してる!』
『アリアのポケットに入っていけばいいのに』
クスクスと笑う精霊たちの声を聴きながら、私は苦笑いで彼を見送った。
重厚な扉が閉まり、馬車の音が遠ざかっていくと、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
「さて……アリア様。旦那様がお戻りになるまで、いかがなされますか?」
メイド長のマーサさんが、柔和な笑みで問いかけてくる。
昨日、私がヴァルド様の暴走しかけた冷気を鎮めた一件以来、使用人たちの私を見る目は劇的に変わっていた。
以前のような「得体の知れない客」を見る目ではなく、まるで「救世主」を見るような、期待と尊敬の入り混じった眼差しだ。
「そうですね……。せっかくですから、お屋敷の中を案内していただけますか? これからここで暮らすのですから、皆さんの邪魔にならないよう、勝手を知っておきたいのです」
「邪魔だなんてとんでもない! 喜んでご案内いたします」
マーサさんが合図をすると、若いメイドたちが嬉しそうに頷いた。
こうして、私の公爵邸探検が始まった。
アイスバーグ公爵邸は、外観のいかめしい城塞のような雰囲気とは裏腹に、内装は洗練された美しさを持っていた。
長い歴史を感じさせる絵画や彫刻、磨き上げられた大理石の床。
ただ一つ、他の貴族の屋敷と違うのは、至る所に「氷」の意匠があること――いや、意匠ではなく、本物の氷が張っている場所があることだ。
「ここは図書室です。……申し訳ありません、窓際が少し凍りついておりまして」
案内された図書室は圧巻の蔵書数を誇っていたが、窓ガラスにはびっしりと霜が降り、カーテンの裾が凍り付いていた。
ヴァルド様がリラックスして本を読む場所なのだろう。彼が無防備になると、魔力が漏れ出して周囲を凍らせてしまうのだ。
「いいえ、綺麗ですね。まるでレース模様みたい」
私がそう感想を漏らすと、マーサさんは驚いたように目を丸くした。
「綺麗、とおっしゃるのですか? この、忌々しい氷を」
「ええ。ほら、見てください。ただ凍っているだけじゃなくて、雪の結晶が花の形を描いているでしょう? これは精霊たちが、ヴァルド様に綺麗な景色を見せようとして作ったものなんですよ」
私は窓に近づき、凍りついたガラスに指先で触れた。
『わっ、アリアだ!』
『冷たくない? 大丈夫?』
窓枠の隙間から、小さな雪の精霊たちが顔を出した。綿毛のように白く、ふわふわとした姿をしている。
「こんにちは。素敵な模様ね。でも、あんまり凍らせすぎると、ヴァルド様が寒がっちゃうわよ」
『えへへ、ごめんなさい』
『ヴァルドが本読んでる時、退屈そうだったから』
『もっと綺麗にしようと頑張っちゃった』
精霊たちの無邪気な言い訳に、私は思わず微笑んだ。
彼らはヴァルド様を苦しめようとしているわけではない。ただ、彼への好意の示し方が「凍らせること」しか知らないだけなのだ。
「マーサさん、少しだけ窓を開けてもいいですか?」
「は、はい。構いませんが……寒くありませんか?」
「大丈夫です」
私は窓を開け放ち、精霊たちに語りかけた。
「ねえ、風の精霊さんたち。部屋の中の空気を少し入れ替えてくれる? それから、光の精霊さん、窓の氷を少しだけ溶かして、雫にしてあげて。きっとその方がキラキラして綺麗よ」
私のお願いに、精霊たちが一斉に動き出した。
爽やかな風が吹き抜け、澱んでいた冷気を外へ押し出す。
窓ガラスの分厚い氷は、光を受けて薄くなり、表面が水滴となって朝日に輝き始めた。
まるでダイヤモンドを散りばめたように、図書室全体が明るくなる。
「まあ……!」
マーサさんとメイドたちが感嘆の声を上げた。
「いつもの薄暗い図書室が、こんなに明るくなるなんて……」
「アリア様は、本当に魔法使いのようですね」
「魔法使いではありません。ただ、精霊にお願いしているだけですよ」
私が照れくさそうに言うと、天井の梁からドサッと何かが落ちてきた。
「きゃっ!」
メイドが悲鳴を上げる。
落ちてきたのは、真っ白な毛玉のような生き物――いや、精霊だった。
『いてて……。おや、新入りか?』
その毛玉は起き上がると、つぶらな瞳で私を見上げた。
体長は猫くらいだが、手足は短く、頭には小さな氷の角が生えている。
北国特有の精霊、イエティの幼体だ。
「こんにちは。私はアリアです」
『ふむ。アリアか。俺様はここの主みたいなもんだ。名前は……まあ、ない』
イエティの精霊は偉そうに胸を張ったが、その仕草が可愛らしくて、私はしゃがみ込んで目線を合わせた。
『お前、あの黒いの――ヴァルドの嫁になったんだってな?』
「ええ、まあ、婚約者ですけれど」
『そうかそうか! やっとあいつにも春が来たか! 長かったなあ』
イエティは感慨深げに頷くと、私の足元にすり寄ってきた。
『あいつはな、ガキの頃から俺たちが見えなくて、いつも独りで泣いてたんだ。俺たちが遊ぼうとして雪玉を投げると、いじめられてると勘違いしてな』
その話を聞いて、胸が締め付けられるようだった。
精霊たちは遊んでいるつもりでも、幼いヴァルド様にとっては、突然雪玉が飛んでくる恐怖体験でしかなかっただろう。
『だからよ、アリア。あいつのこと、頼んだぞ。あいつは不器用で、顔も怖いけど、中身はとろけるチーズみたいに甘っちょろいからな』
「ふふ、とろけるチーズだなんて。……ええ、任せてください」
私がイエティの頭を撫でると、彼は気持ちよさそうに目を細めた。
それを見ていた他の精霊たちも、『私も!』『僕も撫でて!』と次々に集まってくる。
氷の妖精、雪ウサギの精霊、霜の精霊……。
いつの間にか私は、図書室の真ん中で精霊たちのモフモフ天国に埋もれていた。
「あ、アリア様……? 何もない空間を撫でておられますが……」
マーサさんたちが不思議そうに見ている。
はたから見れば、私が虚空に向かって微笑みかけ、エア撫でをしている奇妙な図だろう。
「あ、ごめんなさい。屋敷中の精霊たちが挨拶に来てくれて……歓迎してくれているみたいです」
「歓迎……。精霊たちが、アリア様を」
マーサさんは目を細め、感慨深げに呟いた。
「この屋敷で『歓迎』という言葉を聞くのは、いつぶりでしょう。誰もがこの寒さに恐れをなし、早々に去っていきましたから」
彼女の言葉には、長い冬を耐えてきた者特有の重みがあった。
私は立ち上がり、スカートについた見えない精霊の毛を払った。
「もう誰も去りませんよ。私がここを、世界で一番温かい場所にしますから」
◇
屋敷の案内は続き、最後に私たちは裏庭へと出た。
そこには、巨大なガラス張りの建物があった。
「温室……ですか?」
「はい。先代の奥様――ヴァルド様のお母上が大切にされていた温室です。南国の珍しい花々を育てていらっしゃったのですが……」
マーサさんの声が曇る。
ガラス越しに見える内部は、完全に凍りついていた。
枯れた蔦、色のない花壇、噴水すらも氷像となって時を止めている。
「旦那様の魔力が強くなるにつれ、この場所を維持することが難しくなりまして。奥様が亡くなってからは、誰も手入れをせず、この通りです。旦那様も、ここに来ると辛い顔をされるので、封鎖しておりました」
ヴァルド様のお母様の思い出の場所。
それが、息子の魔力のせいで凍りついてしまったなんて。
彼が自分を「呪われている」と思い込むのも無理はない。
私は温室の扉に手をかけた。
錆びついたノブは冷たく、びくともしない。
「アリア様、無理です。鍵も凍りついておりまして……」
「いいえ、開きます。……ねえ、ウンディーネ、ノーム。力を貸してくれる?」
私が呼びかけると、地面から水と土の精霊が現れた。
彼らは私の意図を汲み取り、扉の隙間に入り込む。氷を内側から溶かし、錆を土に還す。
カチリ、と小さな音がして、重い扉が軋みながら開いた。
中に入ると、冷気が肌を刺す。
けれど、そこには不思議な静寂があった。
凍りついた花々は、死んでいるのではなく、眠っているように見えた。
『アリア、ここは悲しい匂いがする』
『でも、根っこは生きてるよ!』
土の精霊が、花壇の土の中から顔を出して教えてくれた。
「生きてるのね。……よかった」
私は花壇の前に膝をつき、凍った土に両手を当てた。
自分の魔力を、ゆっくりと、優しく注ぎ込む。
私の魔力は精霊たちにとって極上の栄養分だ。それを媒介にして、彼らに働きかける。
「土の中で眠っている命たち。そして、ここを守ってきた氷の精霊たち。お願い、少しだけ場所を譲って。もう一度、ここに春を呼びたいの」
私の言葉に、温室中の空気が震えた。
天井に張り付いていた氷柱が、キラキラと光の粒子になって消えていく。
カチカチだった土がふわりと緩み、温かさを取り戻す。
そして――。
「あっ……!」
メイドの一人が指差した先で、茶色い枝の先から、小さな緑色の芽が顔を出した。
一つ、また一つ。
見る見るうちに、枯れ木だと思われていた木々に緑が戻り、花壇からは色とりどりの蕾が膨らみ始めた。
もちろん、完全に元通りとはいかない。でも、白と透明だけの世界に、確かな「色彩」が戻ったのだ。
「信じられない……。奇跡だわ……」
「奥様が愛した薔薇が、また……」
使用人たちの中には、涙を流す者もいた。
マーサさんも目元をハンカチで押さえている。
私は額の汗を拭った。少し魔力を使いすぎたかもしれない。
ふらりと体が傾いた瞬間、誰かの腕が私を支えた。
「――アリア!」
焦燥に満ちた声。
見上げると、そこには息を切らせたヴァルド様がいた。
いつの間にか帰宅していたらしい。鎧も脱がず、執務着のまま駆けつけてくれたようだ。
「ヴァルド、様……」
「無茶をするな! 倒れたらどうする!」
彼は私を抱き上げると、怒ったように、けれど泣き出しそうな顔で私を見た。
「私が帰ってきたら、君が温室にいると聞いて……肝が冷えた。ここは私の魔力が特に濃く溜まる場所だ。普通の人間なら、入っただけで凍傷になる」
「平気ですよ。私は、精霊に愛されていますから」
私は彼の胸に頬を寄せ、温室を指差した。
「見てください、ヴァルド様」
彼は私の視線を追って、息を呑んだ。
そこには、氷の中で健気に咲き誇る、一輪の真紅の薔薇があった。
かつて彼の母が愛した花だ。
「……母上の、薔薇……」
「氷を全て溶かすことはできませんでした。でも、氷と共存することはできるんです。あなたの魔力は、命を奪うだけじゃない。こうして、永遠の美しさを閉じ込めて守ることもできるんですよ」
ヴァルド様は震える手で、その薔薇に触れようとし、ためらった。
また凍らせてしまうのではないかと恐れているのだ。
私は彼の手を取り、薔薇の花弁へと導いた。
「大丈夫。精霊たちが、ヴァルド様のことを歓迎していますから」
指先が花弁に触れる。
薔薇は凍ることなく、その柔らかな感触を彼に伝えた。
ヴァルド様の瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちた。それは頬を伝い、氷の床に落ちても、凍ることはなかった。
「……ありがとう。アリア」
彼は私を強く、痛いほどに抱きしめた。
「君は、私の光だ。凍りついた私の世界を溶かしてくれる、たった一つの太陽だ」
『ヒューヒュー!』
『プロポーズだ!』
『もう結婚しちゃえよ!』
周りの精霊たちがまた騒ぎ出す。
でも今だけは、その騒がしさも愛おしかった。
◇
その頃、王都では。
「どういうことだ! また雨か!」
王城の一室で、第二王子ギルバートは窓ガラスを叩き割らんばかりの勢いで叫んでいた。
外はバケツをひっくり返したような豪雨。もう一週間も太陽を見ていない。
王都の下町では浸水被害が出始め、農作物は根腐れを起こし、市場の価格は高騰していた。
「ミラ! 君の祈りはどうなっているんだ! 聖女の力でなんとかしろ!」
部屋の隅で、ミラが縮こまっていた。
彼女の自慢のピンクブロンドは湿気で広がり、豪華なドレスもどこか湿っぽく見える。
「や、やってますわ! 毎日毎日祈っています! でも、精霊たちが全然答えてくれないんですもの!」
ミラはヒステリックに叫び返した。
「きっと、お姉様のせいですわ! あの陰気な女が、出て行く時に何か呪いをかけたに決まっています!」
「呪いだと? 精霊の加護を持たぬ無能な女に、そんなことができるはずが……」
ギルバートは苛立ちながら部屋を歩き回る。
しかし、現実は残酷だ。アリアがいなくなってから、天候は狂い、城内の空気は澱み、なぜか彼の体調も優れない。
かつては常に適温に保たれ、美しい花が咲き乱れていた王宮が、今ではカビ臭く、薄暗い場所に変わり果てていた。
「くそっ……。父上も『アリアを連れ戻せ』とうるさい。あんな地味な女、今さら戻ってきたところで何ができるというんだ」
ギルバートは認めたくなかった。
自分が捨てた女が、実はこの国の繁栄を支えていた要石だったなどと。
そんなことを認めれば、彼の王位継承権に関わる大失態となる。
「そうだ……。これはアリアの陰謀だ。あいつが精霊を唆して、僕たちを困らせているんだ」
彼は歪んだ笑みを浮かべた。
「ならば、罪人として捕らえればいい。国に害をなす魔女として、断罪してやる。そうすれば、精霊たちも正気を取り戻すはずだ」
愚かな王子は、まだ気づいていない。
精霊たちがアリアを慕い、彼らを憎んでいるという単純な事実に。
そして、そのアリアの背後には今や、世界最強の「氷の公爵」がついているということに。
王都の雨は、アリアの涙が乾くその日まで、止むことはないだろう。
続く
翌朝、執務室へ向かう前のヴァルド様は、玄関ホールで私の手を握りしめ、真剣な眼差しでそう言った。
背後の騎士団や使用人たちがずらりと整列している前でのことだ。
私は少し頬が熱くなるのを感じながら、精一杯背筋を伸ばして頷いた。
「はい、ありがとうございます、ヴァルド様。いってらっしゃいませ」
「ああ……行ってくる。本当は一日中君のそばにいたいのだが、魔獣の討伐報告を確認せねばならなくてな」
名残惜しそうに私の手を見つめるヴァルド様に、周囲の精霊たちがはやし立てる。
『ヴァルド、デレデレだー!』
『仕事行きたくないって顔してる!』
『アリアのポケットに入っていけばいいのに』
クスクスと笑う精霊たちの声を聴きながら、私は苦笑いで彼を見送った。
重厚な扉が閉まり、馬車の音が遠ざかっていくと、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
「さて……アリア様。旦那様がお戻りになるまで、いかがなされますか?」
メイド長のマーサさんが、柔和な笑みで問いかけてくる。
昨日、私がヴァルド様の暴走しかけた冷気を鎮めた一件以来、使用人たちの私を見る目は劇的に変わっていた。
以前のような「得体の知れない客」を見る目ではなく、まるで「救世主」を見るような、期待と尊敬の入り混じった眼差しだ。
「そうですね……。せっかくですから、お屋敷の中を案内していただけますか? これからここで暮らすのですから、皆さんの邪魔にならないよう、勝手を知っておきたいのです」
「邪魔だなんてとんでもない! 喜んでご案内いたします」
マーサさんが合図をすると、若いメイドたちが嬉しそうに頷いた。
こうして、私の公爵邸探検が始まった。
アイスバーグ公爵邸は、外観のいかめしい城塞のような雰囲気とは裏腹に、内装は洗練された美しさを持っていた。
長い歴史を感じさせる絵画や彫刻、磨き上げられた大理石の床。
ただ一つ、他の貴族の屋敷と違うのは、至る所に「氷」の意匠があること――いや、意匠ではなく、本物の氷が張っている場所があることだ。
「ここは図書室です。……申し訳ありません、窓際が少し凍りついておりまして」
案内された図書室は圧巻の蔵書数を誇っていたが、窓ガラスにはびっしりと霜が降り、カーテンの裾が凍り付いていた。
ヴァルド様がリラックスして本を読む場所なのだろう。彼が無防備になると、魔力が漏れ出して周囲を凍らせてしまうのだ。
「いいえ、綺麗ですね。まるでレース模様みたい」
私がそう感想を漏らすと、マーサさんは驚いたように目を丸くした。
「綺麗、とおっしゃるのですか? この、忌々しい氷を」
「ええ。ほら、見てください。ただ凍っているだけじゃなくて、雪の結晶が花の形を描いているでしょう? これは精霊たちが、ヴァルド様に綺麗な景色を見せようとして作ったものなんですよ」
私は窓に近づき、凍りついたガラスに指先で触れた。
『わっ、アリアだ!』
『冷たくない? 大丈夫?』
窓枠の隙間から、小さな雪の精霊たちが顔を出した。綿毛のように白く、ふわふわとした姿をしている。
「こんにちは。素敵な模様ね。でも、あんまり凍らせすぎると、ヴァルド様が寒がっちゃうわよ」
『えへへ、ごめんなさい』
『ヴァルドが本読んでる時、退屈そうだったから』
『もっと綺麗にしようと頑張っちゃった』
精霊たちの無邪気な言い訳に、私は思わず微笑んだ。
彼らはヴァルド様を苦しめようとしているわけではない。ただ、彼への好意の示し方が「凍らせること」しか知らないだけなのだ。
「マーサさん、少しだけ窓を開けてもいいですか?」
「は、はい。構いませんが……寒くありませんか?」
「大丈夫です」
私は窓を開け放ち、精霊たちに語りかけた。
「ねえ、風の精霊さんたち。部屋の中の空気を少し入れ替えてくれる? それから、光の精霊さん、窓の氷を少しだけ溶かして、雫にしてあげて。きっとその方がキラキラして綺麗よ」
私のお願いに、精霊たちが一斉に動き出した。
爽やかな風が吹き抜け、澱んでいた冷気を外へ押し出す。
窓ガラスの分厚い氷は、光を受けて薄くなり、表面が水滴となって朝日に輝き始めた。
まるでダイヤモンドを散りばめたように、図書室全体が明るくなる。
「まあ……!」
マーサさんとメイドたちが感嘆の声を上げた。
「いつもの薄暗い図書室が、こんなに明るくなるなんて……」
「アリア様は、本当に魔法使いのようですね」
「魔法使いではありません。ただ、精霊にお願いしているだけですよ」
私が照れくさそうに言うと、天井の梁からドサッと何かが落ちてきた。
「きゃっ!」
メイドが悲鳴を上げる。
落ちてきたのは、真っ白な毛玉のような生き物――いや、精霊だった。
『いてて……。おや、新入りか?』
その毛玉は起き上がると、つぶらな瞳で私を見上げた。
体長は猫くらいだが、手足は短く、頭には小さな氷の角が生えている。
北国特有の精霊、イエティの幼体だ。
「こんにちは。私はアリアです」
『ふむ。アリアか。俺様はここの主みたいなもんだ。名前は……まあ、ない』
イエティの精霊は偉そうに胸を張ったが、その仕草が可愛らしくて、私はしゃがみ込んで目線を合わせた。
『お前、あの黒いの――ヴァルドの嫁になったんだってな?』
「ええ、まあ、婚約者ですけれど」
『そうかそうか! やっとあいつにも春が来たか! 長かったなあ』
イエティは感慨深げに頷くと、私の足元にすり寄ってきた。
『あいつはな、ガキの頃から俺たちが見えなくて、いつも独りで泣いてたんだ。俺たちが遊ぼうとして雪玉を投げると、いじめられてると勘違いしてな』
その話を聞いて、胸が締め付けられるようだった。
精霊たちは遊んでいるつもりでも、幼いヴァルド様にとっては、突然雪玉が飛んでくる恐怖体験でしかなかっただろう。
『だからよ、アリア。あいつのこと、頼んだぞ。あいつは不器用で、顔も怖いけど、中身はとろけるチーズみたいに甘っちょろいからな』
「ふふ、とろけるチーズだなんて。……ええ、任せてください」
私がイエティの頭を撫でると、彼は気持ちよさそうに目を細めた。
それを見ていた他の精霊たちも、『私も!』『僕も撫でて!』と次々に集まってくる。
氷の妖精、雪ウサギの精霊、霜の精霊……。
いつの間にか私は、図書室の真ん中で精霊たちのモフモフ天国に埋もれていた。
「あ、アリア様……? 何もない空間を撫でておられますが……」
マーサさんたちが不思議そうに見ている。
はたから見れば、私が虚空に向かって微笑みかけ、エア撫でをしている奇妙な図だろう。
「あ、ごめんなさい。屋敷中の精霊たちが挨拶に来てくれて……歓迎してくれているみたいです」
「歓迎……。精霊たちが、アリア様を」
マーサさんは目を細め、感慨深げに呟いた。
「この屋敷で『歓迎』という言葉を聞くのは、いつぶりでしょう。誰もがこの寒さに恐れをなし、早々に去っていきましたから」
彼女の言葉には、長い冬を耐えてきた者特有の重みがあった。
私は立ち上がり、スカートについた見えない精霊の毛を払った。
「もう誰も去りませんよ。私がここを、世界で一番温かい場所にしますから」
◇
屋敷の案内は続き、最後に私たちは裏庭へと出た。
そこには、巨大なガラス張りの建物があった。
「温室……ですか?」
「はい。先代の奥様――ヴァルド様のお母上が大切にされていた温室です。南国の珍しい花々を育てていらっしゃったのですが……」
マーサさんの声が曇る。
ガラス越しに見える内部は、完全に凍りついていた。
枯れた蔦、色のない花壇、噴水すらも氷像となって時を止めている。
「旦那様の魔力が強くなるにつれ、この場所を維持することが難しくなりまして。奥様が亡くなってからは、誰も手入れをせず、この通りです。旦那様も、ここに来ると辛い顔をされるので、封鎖しておりました」
ヴァルド様のお母様の思い出の場所。
それが、息子の魔力のせいで凍りついてしまったなんて。
彼が自分を「呪われている」と思い込むのも無理はない。
私は温室の扉に手をかけた。
錆びついたノブは冷たく、びくともしない。
「アリア様、無理です。鍵も凍りついておりまして……」
「いいえ、開きます。……ねえ、ウンディーネ、ノーム。力を貸してくれる?」
私が呼びかけると、地面から水と土の精霊が現れた。
彼らは私の意図を汲み取り、扉の隙間に入り込む。氷を内側から溶かし、錆を土に還す。
カチリ、と小さな音がして、重い扉が軋みながら開いた。
中に入ると、冷気が肌を刺す。
けれど、そこには不思議な静寂があった。
凍りついた花々は、死んでいるのではなく、眠っているように見えた。
『アリア、ここは悲しい匂いがする』
『でも、根っこは生きてるよ!』
土の精霊が、花壇の土の中から顔を出して教えてくれた。
「生きてるのね。……よかった」
私は花壇の前に膝をつき、凍った土に両手を当てた。
自分の魔力を、ゆっくりと、優しく注ぎ込む。
私の魔力は精霊たちにとって極上の栄養分だ。それを媒介にして、彼らに働きかける。
「土の中で眠っている命たち。そして、ここを守ってきた氷の精霊たち。お願い、少しだけ場所を譲って。もう一度、ここに春を呼びたいの」
私の言葉に、温室中の空気が震えた。
天井に張り付いていた氷柱が、キラキラと光の粒子になって消えていく。
カチカチだった土がふわりと緩み、温かさを取り戻す。
そして――。
「あっ……!」
メイドの一人が指差した先で、茶色い枝の先から、小さな緑色の芽が顔を出した。
一つ、また一つ。
見る見るうちに、枯れ木だと思われていた木々に緑が戻り、花壇からは色とりどりの蕾が膨らみ始めた。
もちろん、完全に元通りとはいかない。でも、白と透明だけの世界に、確かな「色彩」が戻ったのだ。
「信じられない……。奇跡だわ……」
「奥様が愛した薔薇が、また……」
使用人たちの中には、涙を流す者もいた。
マーサさんも目元をハンカチで押さえている。
私は額の汗を拭った。少し魔力を使いすぎたかもしれない。
ふらりと体が傾いた瞬間、誰かの腕が私を支えた。
「――アリア!」
焦燥に満ちた声。
見上げると、そこには息を切らせたヴァルド様がいた。
いつの間にか帰宅していたらしい。鎧も脱がず、執務着のまま駆けつけてくれたようだ。
「ヴァルド、様……」
「無茶をするな! 倒れたらどうする!」
彼は私を抱き上げると、怒ったように、けれど泣き出しそうな顔で私を見た。
「私が帰ってきたら、君が温室にいると聞いて……肝が冷えた。ここは私の魔力が特に濃く溜まる場所だ。普通の人間なら、入っただけで凍傷になる」
「平気ですよ。私は、精霊に愛されていますから」
私は彼の胸に頬を寄せ、温室を指差した。
「見てください、ヴァルド様」
彼は私の視線を追って、息を呑んだ。
そこには、氷の中で健気に咲き誇る、一輪の真紅の薔薇があった。
かつて彼の母が愛した花だ。
「……母上の、薔薇……」
「氷を全て溶かすことはできませんでした。でも、氷と共存することはできるんです。あなたの魔力は、命を奪うだけじゃない。こうして、永遠の美しさを閉じ込めて守ることもできるんですよ」
ヴァルド様は震える手で、その薔薇に触れようとし、ためらった。
また凍らせてしまうのではないかと恐れているのだ。
私は彼の手を取り、薔薇の花弁へと導いた。
「大丈夫。精霊たちが、ヴァルド様のことを歓迎していますから」
指先が花弁に触れる。
薔薇は凍ることなく、その柔らかな感触を彼に伝えた。
ヴァルド様の瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちた。それは頬を伝い、氷の床に落ちても、凍ることはなかった。
「……ありがとう。アリア」
彼は私を強く、痛いほどに抱きしめた。
「君は、私の光だ。凍りついた私の世界を溶かしてくれる、たった一つの太陽だ」
『ヒューヒュー!』
『プロポーズだ!』
『もう結婚しちゃえよ!』
周りの精霊たちがまた騒ぎ出す。
でも今だけは、その騒がしさも愛おしかった。
◇
その頃、王都では。
「どういうことだ! また雨か!」
王城の一室で、第二王子ギルバートは窓ガラスを叩き割らんばかりの勢いで叫んでいた。
外はバケツをひっくり返したような豪雨。もう一週間も太陽を見ていない。
王都の下町では浸水被害が出始め、農作物は根腐れを起こし、市場の価格は高騰していた。
「ミラ! 君の祈りはどうなっているんだ! 聖女の力でなんとかしろ!」
部屋の隅で、ミラが縮こまっていた。
彼女の自慢のピンクブロンドは湿気で広がり、豪華なドレスもどこか湿っぽく見える。
「や、やってますわ! 毎日毎日祈っています! でも、精霊たちが全然答えてくれないんですもの!」
ミラはヒステリックに叫び返した。
「きっと、お姉様のせいですわ! あの陰気な女が、出て行く時に何か呪いをかけたに決まっています!」
「呪いだと? 精霊の加護を持たぬ無能な女に、そんなことができるはずが……」
ギルバートは苛立ちながら部屋を歩き回る。
しかし、現実は残酷だ。アリアがいなくなってから、天候は狂い、城内の空気は澱み、なぜか彼の体調も優れない。
かつては常に適温に保たれ、美しい花が咲き乱れていた王宮が、今ではカビ臭く、薄暗い場所に変わり果てていた。
「くそっ……。父上も『アリアを連れ戻せ』とうるさい。あんな地味な女、今さら戻ってきたところで何ができるというんだ」
ギルバートは認めたくなかった。
自分が捨てた女が、実はこの国の繁栄を支えていた要石だったなどと。
そんなことを認めれば、彼の王位継承権に関わる大失態となる。
「そうだ……。これはアリアの陰謀だ。あいつが精霊を唆して、僕たちを困らせているんだ」
彼は歪んだ笑みを浮かべた。
「ならば、罪人として捕らえればいい。国に害をなす魔女として、断罪してやる。そうすれば、精霊たちも正気を取り戻すはずだ」
愚かな王子は、まだ気づいていない。
精霊たちがアリアを慕い、彼らを憎んでいるという単純な事実に。
そして、そのアリアの背後には今や、世界最強の「氷の公爵」がついているということに。
王都の雨は、アリアの涙が乾くその日まで、止むことはないだろう。
続く
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