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第一章 歪曲の掟、匡正の罪
光ありき
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昼間の暖かさが嘘のような底冷えする夜。この世界が地球であれば、この気候は秋の終わりがけを示している。元いた世界では聞いたことのない声の虫がキリキリと泣きわめき、その不明瞭さがロバートの心象に追いついては恐れを煽っていた。
彼が放り込まれた、土を掘り抜いて作られたであろう牢獄は極めて恐ろしいものだった。何故なら、人間が気をつけの姿勢を取った状態ほどの広さしかない3mほどの深さの竪穴であり、体格が良いとは決して言えない細身のロバートですら数cm腕を動かすことしか出来ない状態に、否応なく固定されてしまう形状だからだ。
全身の動きが一切取れないという環境は、生物にとって多大なストレスを与えうる。当初は手や脚をなるべく強く動かして少しでも掘れないかと考えていたロバートも、この土牢に閉じ込められて数時間経った今では半ば狂乱の中にあった。
土牢の中に立ち込めるアンモニア臭は、恐らく彼の小便のみではなくこの場所に入れられた歴代の哀れな捕縛者のものでもあるのだろう。鼻をつく不浄の臭気は、冷気と共に肺を冒して彼の全身を巡るようだった。
既に何かを考えられる状態ではなく、少しでも身体を動かさずにはいられなかった。そして彼を捕えた食人族は、時折ロバートを見物に訪れては品性を捨てて笑い転げ、悪質な者は石や枝などをぶつけては怯える虜囚を眺めることで嗜虐心を満足させていた。斯様に、彼の歩む未来は既に暗澹たるものであることは強く約束されていた。
夜半も過ぎて騒がしさや音楽が鳴り止んだ頃、彼は発狂寸前の精神力を振り絞って考え事をしていた。人は死の淵に立たされると大抵は母のことを想うという。彼も例外ではなかった。
田舎に残した編み物が趣味の母。父親とは反りが合わないまま数十年を過ごし、ロバートが大学を卒業したときには老いて少し縮んだように見えた母。買い物をする度に不味いキャベツの塩漬けを買ってきては夕食に出してきたせいで、ロバートに些末なトラウマを植え付けた母。
思い返そうとする度に下らないことばかり回顧される。この状況で呑気なものだ、と心の片隅で自嘲するだけの思考力が残っていたことは、きっと称賛されるほどのメンタリティなのだろう。だがそれもあくまで常人の範疇であり、彼の心はあと5分後には失われ、狂人となった彼は朝には南とやらへ送られてしまうだろう。
そんな中思い返された一つの光明。正しく光だった、半日前の出来事。この瞬間まで忘れつつあった、決して忘れてはならぬ大切な記憶。
『人よ、吾の無き世にも吾を想え。さすれば吾が叡智は汝を救い、豊かなる友を得、多くを護るだろう。この身は在らず、この能は届かずとも、吾は汝と共に在る』
厳かで、慈愛そのもののような声が、はっきりとロバートの脳裏をよぎり、それは耳元で囁かれたかのようにありありと思い出された。
(神様…無神論者だった僕が言うのは烏滸がましいことではありますが、最後かも知れないので言わせてください)
「きっと…僕を、お救い下さいますよう…」
その時、牢の外から耳をつんざくような絶叫が響いた。ロバートは顎を冷たい土壁に擦りつけながら、精一杯上を見た。
銃声、悲鳴、怒号。そして銃声。
何度も何度も響き渡るそれらが複雑に混じり合い、轟音と化して降り注いだ。
「男のエルフは全員殺せ!この虫ケラ以下のクソったれ蛮族どもに思い知らせろ!」
聞き覚えのある言葉がそう遠くない所で聞こえ、銃声の爆音と絶叫に掻き消された。
間違いない。英語だ。それも聞き慣れた彼自身の母国の英語。この土地へ来ていたアメリカ人は、ロバートだけではなかったのだ。
それを聞いたとき彼の胸に去来したのは、まるでノスタルジーのような懐かしさと、長い旅から住み慣れた家に帰ってきた時のような安堵の気持ちだった。それは自分でも驚くほどの力強い声となって、胸から喉、喉から口を通って突き上げるように叫び放たれた。
「おおおーーーーーい!!ここにアメリカ人がいるんだ!!助けてくれ!!」
何度も繰り返して叫ぶ。
時々聞こえる下劣な悪態でさえ、知った言葉である限り彼を落ち着かせて力を与えてくれる。
「聞こえてるだろう!僕を助けてくれ!!誰か!!」
数分間只管に叫び続けた。彼の魂を全て込めたような悲痛だが力強い叫び声は、一人の耳に届き、その人物が土牢を覗き込んだ。
その覗き込んできた顔は、禍々しい程美しく、そして悪辣な笑みを浮かべていた。その顔にロバートは覚えがあり、身体が強張った。
日中彼を担いでいた、セールゲイと呼ばれる食人族がこの上なく邪悪な表情で彼を見据えて笑っていた。
『この人間を盾にしてやれば良いだろう!生きている者は、こっちへ集まれ!』
言うが早いか、セールゲイの長い腕が猛禽類のようにロバートの顔を掴んで、引きずり出した。全身が擦れて灼熱が走る。
しかし、今度はされるがままにはならなかった。
両手が自由になった瞬間、ロバートは叫んでセールゲイの目を両手の人差し指と中指で突き刺した。邪悪なる美男子は水風船をつついたような感触の後、痛みのあまり音を上げて顔を覆って倒れた。すると彼の左手から研ぎ澄まされた石製のナイフが落ちて、甲高い音を立てた。それを見るやロバートはすぐに拾い上げ、のたうち回って苦しむ狩猟者の首に押し当て、一息に振り抜いた。
まさに一閃、一瞬の出来事だった。
首の傷が開いて血液が流れると同時に、暴れていたセールゲイは事実を認められないかのように血まみれの目を見開き、一言二言何かを言おうとして、それきりだった。
ロバートはそれを見届けると、全身の力が抜けてその場にへたり込んだ。
極限の集中力の中、いつの間にか水を打った無音のように感じていた周囲の騒乱がいきなり舞い戻って、彼の鼓膜を殴りつけてきた。
肩で息をしていた。全身、長時間の拘束に加えて全霊で目の前の敵を討ち滅ぼしたのだ。まして彼は喧嘩や争いとは無縁の人間であり、血の通うものを殺害したことは初めてだった。その実感が怒涛のように押し寄せ、手にした得物すら取り落とさせるほどに一人の男を疲弊させた。
『セールゲイ!貴様、殺してやる!!』
背後から殺意の乗った雄叫びが聞こえ、弾かれたように振り返るロバート。そこには一人の女が身を震わせて立っていた。その手には細い弓矢が携えられ、今まさに彼に向けられようとしていた。
銃声が静寂を招いた。
最後の銃弾が、女の食人族の右のこめかみに食い込み、左のこめかみから血液を噴出させながら飛び出した。女の視線が瞬時に覚束無くなって虚空を見つめ、糸の切れた操り人形の様態で倒れ伏した。
その顔は最後の恨みだろうか、ただロバートに向けられており、力を失った瞳は反射的に痙攣する瞼の内に、ゆっくりゆっくりと隠されていくのだった。
彼が放り込まれた、土を掘り抜いて作られたであろう牢獄は極めて恐ろしいものだった。何故なら、人間が気をつけの姿勢を取った状態ほどの広さしかない3mほどの深さの竪穴であり、体格が良いとは決して言えない細身のロバートですら数cm腕を動かすことしか出来ない状態に、否応なく固定されてしまう形状だからだ。
全身の動きが一切取れないという環境は、生物にとって多大なストレスを与えうる。当初は手や脚をなるべく強く動かして少しでも掘れないかと考えていたロバートも、この土牢に閉じ込められて数時間経った今では半ば狂乱の中にあった。
土牢の中に立ち込めるアンモニア臭は、恐らく彼の小便のみではなくこの場所に入れられた歴代の哀れな捕縛者のものでもあるのだろう。鼻をつく不浄の臭気は、冷気と共に肺を冒して彼の全身を巡るようだった。
既に何かを考えられる状態ではなく、少しでも身体を動かさずにはいられなかった。そして彼を捕えた食人族は、時折ロバートを見物に訪れては品性を捨てて笑い転げ、悪質な者は石や枝などをぶつけては怯える虜囚を眺めることで嗜虐心を満足させていた。斯様に、彼の歩む未来は既に暗澹たるものであることは強く約束されていた。
夜半も過ぎて騒がしさや音楽が鳴り止んだ頃、彼は発狂寸前の精神力を振り絞って考え事をしていた。人は死の淵に立たされると大抵は母のことを想うという。彼も例外ではなかった。
田舎に残した編み物が趣味の母。父親とは反りが合わないまま数十年を過ごし、ロバートが大学を卒業したときには老いて少し縮んだように見えた母。買い物をする度に不味いキャベツの塩漬けを買ってきては夕食に出してきたせいで、ロバートに些末なトラウマを植え付けた母。
思い返そうとする度に下らないことばかり回顧される。この状況で呑気なものだ、と心の片隅で自嘲するだけの思考力が残っていたことは、きっと称賛されるほどのメンタリティなのだろう。だがそれもあくまで常人の範疇であり、彼の心はあと5分後には失われ、狂人となった彼は朝には南とやらへ送られてしまうだろう。
そんな中思い返された一つの光明。正しく光だった、半日前の出来事。この瞬間まで忘れつつあった、決して忘れてはならぬ大切な記憶。
『人よ、吾の無き世にも吾を想え。さすれば吾が叡智は汝を救い、豊かなる友を得、多くを護るだろう。この身は在らず、この能は届かずとも、吾は汝と共に在る』
厳かで、慈愛そのもののような声が、はっきりとロバートの脳裏をよぎり、それは耳元で囁かれたかのようにありありと思い出された。
(神様…無神論者だった僕が言うのは烏滸がましいことではありますが、最後かも知れないので言わせてください)
「きっと…僕を、お救い下さいますよう…」
その時、牢の外から耳をつんざくような絶叫が響いた。ロバートは顎を冷たい土壁に擦りつけながら、精一杯上を見た。
銃声、悲鳴、怒号。そして銃声。
何度も何度も響き渡るそれらが複雑に混じり合い、轟音と化して降り注いだ。
「男のエルフは全員殺せ!この虫ケラ以下のクソったれ蛮族どもに思い知らせろ!」
聞き覚えのある言葉がそう遠くない所で聞こえ、銃声の爆音と絶叫に掻き消された。
間違いない。英語だ。それも聞き慣れた彼自身の母国の英語。この土地へ来ていたアメリカ人は、ロバートだけではなかったのだ。
それを聞いたとき彼の胸に去来したのは、まるでノスタルジーのような懐かしさと、長い旅から住み慣れた家に帰ってきた時のような安堵の気持ちだった。それは自分でも驚くほどの力強い声となって、胸から喉、喉から口を通って突き上げるように叫び放たれた。
「おおおーーーーーい!!ここにアメリカ人がいるんだ!!助けてくれ!!」
何度も繰り返して叫ぶ。
時々聞こえる下劣な悪態でさえ、知った言葉である限り彼を落ち着かせて力を与えてくれる。
「聞こえてるだろう!僕を助けてくれ!!誰か!!」
数分間只管に叫び続けた。彼の魂を全て込めたような悲痛だが力強い叫び声は、一人の耳に届き、その人物が土牢を覗き込んだ。
その覗き込んできた顔は、禍々しい程美しく、そして悪辣な笑みを浮かべていた。その顔にロバートは覚えがあり、身体が強張った。
日中彼を担いでいた、セールゲイと呼ばれる食人族がこの上なく邪悪な表情で彼を見据えて笑っていた。
『この人間を盾にしてやれば良いだろう!生きている者は、こっちへ集まれ!』
言うが早いか、セールゲイの長い腕が猛禽類のようにロバートの顔を掴んで、引きずり出した。全身が擦れて灼熱が走る。
しかし、今度はされるがままにはならなかった。
両手が自由になった瞬間、ロバートは叫んでセールゲイの目を両手の人差し指と中指で突き刺した。邪悪なる美男子は水風船をつついたような感触の後、痛みのあまり音を上げて顔を覆って倒れた。すると彼の左手から研ぎ澄まされた石製のナイフが落ちて、甲高い音を立てた。それを見るやロバートはすぐに拾い上げ、のたうち回って苦しむ狩猟者の首に押し当て、一息に振り抜いた。
まさに一閃、一瞬の出来事だった。
首の傷が開いて血液が流れると同時に、暴れていたセールゲイは事実を認められないかのように血まみれの目を見開き、一言二言何かを言おうとして、それきりだった。
ロバートはそれを見届けると、全身の力が抜けてその場にへたり込んだ。
極限の集中力の中、いつの間にか水を打った無音のように感じていた周囲の騒乱がいきなり舞い戻って、彼の鼓膜を殴りつけてきた。
肩で息をしていた。全身、長時間の拘束に加えて全霊で目の前の敵を討ち滅ぼしたのだ。まして彼は喧嘩や争いとは無縁の人間であり、血の通うものを殺害したことは初めてだった。その実感が怒涛のように押し寄せ、手にした得物すら取り落とさせるほどに一人の男を疲弊させた。
『セールゲイ!貴様、殺してやる!!』
背後から殺意の乗った雄叫びが聞こえ、弾かれたように振り返るロバート。そこには一人の女が身を震わせて立っていた。その手には細い弓矢が携えられ、今まさに彼に向けられようとしていた。
銃声が静寂を招いた。
最後の銃弾が、女の食人族の右のこめかみに食い込み、左のこめかみから血液を噴出させながら飛び出した。女の視線が瞬時に覚束無くなって虚空を見つめ、糸の切れた操り人形の様態で倒れ伏した。
その顔は最後の恨みだろうか、ただロバートに向けられており、力を失った瞳は反射的に痙攣する瞼の内に、ゆっくりゆっくりと隠されていくのだった。
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