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ああ、と頷いて顔を上げたカシームの視線から、私はさり気なく顔を逸らす。
地味なみつ編みに、銀縁の眼鏡をかけた私の姿は彼が見知ったミリーゼ・シュトラトフとは似ても似つかない別人のはず。
普段は白く見せるために肌に乗せる粉はむしろ肌よりもワントーン濃いものを軽く叩き、日焼けして見せている。
鼻の上には筆でソバカスを描き、声音も変えている。姿勢だって少し猫背ぎみ。
靴もペッタリとしたものを履いているから、普段カシームと向き合うよりも拳一つ分ほど視線が低い位置にある。
わからないはず、だ。
私が自身の婚約者で職場の後輩でもある、ミリーゼ・シュトラトフであるとは、気づかないはず。
普段カシームの前で見せるミリーゼ・シュトラトフは常連の一人の言葉を借りるなら「盛りに盛っている」という姿で。
私だとはわからないはずだし、わかってもらっては困る。
なのだけれど。
「王宮魔法師団長からの紹介で寄らせてもらった」
と、これっぽっちも気づく様子もなく続けられた言葉に、少しだけ消沈してしまう。
どんな姿でも一目で気づけとは言わないけれど。
吐き出してしまいそうなため息を喉の奥に押し込めた私は、その後に続けられたカシームの言葉に今度こそ心の奥が一瞬で冷えたのを感じた。
震えてしまいそうな指先をきつく握りしめることで耐える。
今、カシームは、彼はなんと言った?
そっと懐からあきらかに読み込まれた本を取り出して――。
「ここは本の翻訳をしていると聞いた。これをナジール語に翻訳して、写してもらいたい」
カウンターに置かれた本は私も見慣れたタイトルの専門書だ。
同じタイトルを、同じ装丁の本を私も持っている。何度も何度も読み返して、書き写して、そこに記された魔法をひたすらに練習した。
もう何年も前のこと――。
すでに近頃では開くことさえほとんどなくなって久しい。
《簡単!初級魔法の基礎》
カシームはきっと覚えてもいないだろうが、この本を私に勧めてくれたのは彼だった。
このまま唯々諾々と祖父母に言われるがまま貴族の令嬢らしく相手をあてがわれて婚約して結婚して――何もないままただ流されるのに疑問を感じて。
ろくすっぽ魔法のことも魔法師のこともわからないのに何故かストンと「そうだ、魔法師になろう」だなどと、思いついて。
魔法師になれば、王宮魔法師団に入ることができれば、きっと何かが変わる気がしたのだ。
そう、それこそ好きな小説の主人公たちのように。
何をどうすればいいのかもわからなくて、とりあえず図書館に行って魔法書の並ぶ棚を睨みつけていた時に。
「初心者ならこれがおすすめだ」
と、棚に並んでいた本の中から一冊を抜き出して私の手に乗せてくれた。
その時のカシームにしてみれば自身も本を探している棚の前でいかにも初心者丸出しな小娘がウロウロしているのが邪魔で、さっさと追い払おうというつもりだったのだろうけれど。
「できるだろうか?」
どこか遠いところから聞こえてくるような声に私はこくりと頷いてみせる。
私ですらもう開くこともない初心者向けの本だ。
カシームなら読み直すまでもなくすべて頭に入っているだろう。
ならば何故。
なんのために?
誰のために?
わざわざ母国語で書かれた本を他国語に翻訳して写してくれというのか。
――彼女のため。
きゅっ、と胸がつまる。
「大丈夫です。ただ少しお時間を頂くことになりますがよろしいですか?」
事務的に告げた声が微かに震えているのにはどうか気づかないで、不審に思わないでと、痛いほど手を握りしめて祈った。
◇◇◇◇
ほとり、と手にしていた《簡単!初級魔法の基礎》をデスクの上の積み上げた本の上に置いて、ぽてぽてとソファまで歩いた。
そのまま背もたれに掛けたブランケットを背に、私は気の抜けた動作でソファに身を沈める。
かかる期間と、費用の説明をして、前金を受け取って。
店を出るカシームの背をカウンターの中から頭を下げて見送った。
接客用の作り笑顔を保つのはそこまでが精一杯だった。
崩れるように椅子に腰を落とし、しばらくただぼんやりと見慣れた本棚の隙間を眺める。
けれど手元では半ば無意識に《簡単!初級魔法の基礎》と表記された本の上に横にあった《ローズガーデンの秘めやかな約束》を隠すように乗せていた。
――いや。
隠すように、ではなく隠したのだ。
見たくなかったから。
カシームが彼女のために私に翻訳と写しを依頼した本を。
これが一月ほど前の出来事であったならば、私は単にまだ物慣れない新人のために親切心を発揮したのだなと、ほんの少しカシームにしては気を使ったものだ、と思うだけだっただろう。
けれど今は…………。
苦しさに両手で目を覆うと、目蓋の奥に近頃よく目にしてしまう情景が浮かぶ。
魔法師団の研修室で、奥庭で、上手くできないと俯く彼女の頭を優しく撫でるカシームの手が。
恥ずかしそうに頬を染める彼女の目に宿る確かな熱が。
他に誰もいない休憩室でしがみつくようにカシームの胸に身を寄せる小柄な背と、その背に回された見知ったプラチナの指輪がはめられた手が。
そのあとはあまり記憶がない。
まだ早い時間だったけれど、店を閉じたことはぼんやり覚えている。
ふと気づいた頃にはシュトラトフ家の屋敷に辿り着いていたけれど、誰かに声をかけられたり声をかけたりしていればさすがに記憶にあるだろうから、いつも通り認識阻害の魔法を自分にかけて帰路につき、屋敷の裏口から中に入ったのだろう。
でなければ屋敷の門番に見咎められているはずだから。
地味なみつ編みに、銀縁の眼鏡をかけた私の姿は彼が見知ったミリーゼ・シュトラトフとは似ても似つかない別人のはず。
普段は白く見せるために肌に乗せる粉はむしろ肌よりもワントーン濃いものを軽く叩き、日焼けして見せている。
鼻の上には筆でソバカスを描き、声音も変えている。姿勢だって少し猫背ぎみ。
靴もペッタリとしたものを履いているから、普段カシームと向き合うよりも拳一つ分ほど視線が低い位置にある。
わからないはず、だ。
私が自身の婚約者で職場の後輩でもある、ミリーゼ・シュトラトフであるとは、気づかないはず。
普段カシームの前で見せるミリーゼ・シュトラトフは常連の一人の言葉を借りるなら「盛りに盛っている」という姿で。
私だとはわからないはずだし、わかってもらっては困る。
なのだけれど。
「王宮魔法師団長からの紹介で寄らせてもらった」
と、これっぽっちも気づく様子もなく続けられた言葉に、少しだけ消沈してしまう。
どんな姿でも一目で気づけとは言わないけれど。
吐き出してしまいそうなため息を喉の奥に押し込めた私は、その後に続けられたカシームの言葉に今度こそ心の奥が一瞬で冷えたのを感じた。
震えてしまいそうな指先をきつく握りしめることで耐える。
今、カシームは、彼はなんと言った?
そっと懐からあきらかに読み込まれた本を取り出して――。
「ここは本の翻訳をしていると聞いた。これをナジール語に翻訳して、写してもらいたい」
カウンターに置かれた本は私も見慣れたタイトルの専門書だ。
同じタイトルを、同じ装丁の本を私も持っている。何度も何度も読み返して、書き写して、そこに記された魔法をひたすらに練習した。
もう何年も前のこと――。
すでに近頃では開くことさえほとんどなくなって久しい。
《簡単!初級魔法の基礎》
カシームはきっと覚えてもいないだろうが、この本を私に勧めてくれたのは彼だった。
このまま唯々諾々と祖父母に言われるがまま貴族の令嬢らしく相手をあてがわれて婚約して結婚して――何もないままただ流されるのに疑問を感じて。
ろくすっぽ魔法のことも魔法師のこともわからないのに何故かストンと「そうだ、魔法師になろう」だなどと、思いついて。
魔法師になれば、王宮魔法師団に入ることができれば、きっと何かが変わる気がしたのだ。
そう、それこそ好きな小説の主人公たちのように。
何をどうすればいいのかもわからなくて、とりあえず図書館に行って魔法書の並ぶ棚を睨みつけていた時に。
「初心者ならこれがおすすめだ」
と、棚に並んでいた本の中から一冊を抜き出して私の手に乗せてくれた。
その時のカシームにしてみれば自身も本を探している棚の前でいかにも初心者丸出しな小娘がウロウロしているのが邪魔で、さっさと追い払おうというつもりだったのだろうけれど。
「できるだろうか?」
どこか遠いところから聞こえてくるような声に私はこくりと頷いてみせる。
私ですらもう開くこともない初心者向けの本だ。
カシームなら読み直すまでもなくすべて頭に入っているだろう。
ならば何故。
なんのために?
誰のために?
わざわざ母国語で書かれた本を他国語に翻訳して写してくれというのか。
――彼女のため。
きゅっ、と胸がつまる。
「大丈夫です。ただ少しお時間を頂くことになりますがよろしいですか?」
事務的に告げた声が微かに震えているのにはどうか気づかないで、不審に思わないでと、痛いほど手を握りしめて祈った。
◇◇◇◇
ほとり、と手にしていた《簡単!初級魔法の基礎》をデスクの上の積み上げた本の上に置いて、ぽてぽてとソファまで歩いた。
そのまま背もたれに掛けたブランケットを背に、私は気の抜けた動作でソファに身を沈める。
かかる期間と、費用の説明をして、前金を受け取って。
店を出るカシームの背をカウンターの中から頭を下げて見送った。
接客用の作り笑顔を保つのはそこまでが精一杯だった。
崩れるように椅子に腰を落とし、しばらくただぼんやりと見慣れた本棚の隙間を眺める。
けれど手元では半ば無意識に《簡単!初級魔法の基礎》と表記された本の上に横にあった《ローズガーデンの秘めやかな約束》を隠すように乗せていた。
――いや。
隠すように、ではなく隠したのだ。
見たくなかったから。
カシームが彼女のために私に翻訳と写しを依頼した本を。
これが一月ほど前の出来事であったならば、私は単にまだ物慣れない新人のために親切心を発揮したのだなと、ほんの少しカシームにしては気を使ったものだ、と思うだけだっただろう。
けれど今は…………。
苦しさに両手で目を覆うと、目蓋の奥に近頃よく目にしてしまう情景が浮かぶ。
魔法師団の研修室で、奥庭で、上手くできないと俯く彼女の頭を優しく撫でるカシームの手が。
恥ずかしそうに頬を染める彼女の目に宿る確かな熱が。
他に誰もいない休憩室でしがみつくようにカシームの胸に身を寄せる小柄な背と、その背に回された見知ったプラチナの指輪がはめられた手が。
そのあとはあまり記憶がない。
まだ早い時間だったけれど、店を閉じたことはぼんやり覚えている。
ふと気づいた頃にはシュトラトフ家の屋敷に辿り着いていたけれど、誰かに声をかけられたり声をかけたりしていればさすがに記憶にあるだろうから、いつも通り認識阻害の魔法を自分にかけて帰路につき、屋敷の裏口から中に入ったのだろう。
でなければ屋敷の門番に見咎められているはずだから。
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