《美術館奇譚》

神田 双月

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第二章 《静かな彫像》

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 夜のアルセナ美術館は、昼のそれとはまるで別の顔を見せる。
 展示室に満ちるのは、人の声も足音もない沈黙。
 ただ、冷たい空気の中に、微かに石の香りが漂っていた。

 私はその夜、館の警備室で一人の男の話を聞いていた。
 名前は森下。ここで夜勤をしていた元警備員だ。
「もう、二度と夜の見回りはしない」と言って辞めたという。

「翔太さん、信じてもらえるか分かりませんが……あの彫像、動くんですよ」

「動く?」私は眉をひそめた。

「ええ。見回りのときは確かに“眠ってる”姿なんです。でも、朝になると腕の位置が違う。まるで、何かを抱きしめるように腕を伸ばしてるんです。」

 彫像の名は《眠る少年》。
 白大理石で作られた、10歳ほどの少年の像だった。
 柔らかな表情で胸に手を当て、目を閉じている。
 しかし、その像に関わった職員が次々と退職しているという噂が、最近になって私の耳に入っていた。

「彫像の作者は誰ですか?」
「神原透(かんばらとおる)という彫刻家です。二年前に亡くなっています。」

 私はその名前に覚えがあった。
 神原透――かつて“魂を刻む彫刻家”と呼ばれた天才だ。
 だが晩年、彼は突然創作をやめ、孤独死したと伝えられていた。


 ---

 翌日、私は美術館の展示室に足を運んだ。
 《眠る少年》は中央に鎮座していた。
 柔らかい照明に照らされたその姿は、まるで本当に眠っているようだ。
 だが、不思議なことに、私はその顔に“疲れ”のようなものを感じた。

「この像の設置以来、夜になると妙な音がするんです」と、案内係の斎藤美咲が言った。
 彼女は前回の事件《赤い庭》の後もこの館に残っていた。
「カリ…カリ…と、石を削るような音。監視カメラには何も映らないのに。」

「その音は、どの辺から?」
「いつもこの展示室の奥です。でも、音がする夜は決まってこの像の近くの温度が少し下がるんです。」

 私は《眠る少年》の足元を覗き込んだ。
 大理石の台座に、何かが刻まれている。
 埃を拭うと、そこに薄く文字が浮かび上がった。

 > “いまも眠れぬ者へ”



 それは、祈りの言葉にも、呪いのようにも読めた。


 ---

 神原透について調べるため、私は旧知の美術評論家・榊原に連絡した。
「神原透の晩年? ああ、彼は“ある子どもの死”をきっかけに壊れたんだ。」
 榊原の声は重かった。
「その子は神原の弟子の息子だった。事故で亡くなったが、神原は“まだ生きている”と信じていた。最後の作品が《眠る少年》だ。」

「つまり、その少年像は……」
「亡くなった子どもがモデルだろう。だが神原は完成後、『あの子は帰ってきた』と呟いたそうだ。」

 私はぞっとした。
 “帰ってきた”――
 それは、彫像に“何か”が宿ったという意味なのか。


 ---

 その夜、私は美術館に泊まる許可を得て、展示室の隅にカメラを仕掛けた。
 深夜0時。時計の音だけが静かに響く。
 私はライトを落とし、闇の中でじっと耳を澄ませた。

 ――カリ……カリ……

 微かな音が聞こえた。
 確かに、石を削るような音。
 私は懐中電灯を手に、そっと音の方へ歩いた。

 彫像のそばで立ち止まると、確かに何かが動いた気配がした。
 ライトを向けると、少年像の右手が――わずかに開いていた。
 それは、まるで誰かに触れようとするような仕草だった。

 私は喉が乾くのを感じた。
 だがその瞬間、展示室の温度が一気に下がった。
 息が白くなる。背中に冷たい汗が流れた。

「神原透……お前は、何を彫ったんだ?」

 私は心の中で呟いた。

 翌朝、カメラを確認すると、午前2時14分。
 映像には、彫像の周囲に淡い影が立ち上るような瞬間が映っていた。
 それは、人影のようにも見える。
 しかし、映像の最後には彫像が微かに“笑っている”ように見えた。


 ---

 後日、私は神原透の自宅跡を訪ねた。
 そこは山奥の古いアトリエで、既に荒れ果てていた。
 埃をかぶった作業台の上に、一冊のノートが残されていた。
 そこには震える筆跡で、こう書かれていた。

 > 「この手で眠らせてやれなかった。
 だから私は彫る。
 眠れるように。
 でもあの子はまだ、目を覚ましてしまう。」



 ページの隅には、少年の顔を描いたスケッチがあった。
 その瞳は、まるで《眠る少年》と同じものだった。


 ---

 美術館に戻ると、斎藤が青ざめた顔で私を待っていた。
「翔太さん……彫像の手が、抱くように動いていました。
 台座の前に……小さな石の欠片が落ちていたんです。」

 私はその欠片を拾い上げた。
 手に取ると、わずかに温かかった。
 まるで、誰かの体温が残っているかのように。

「この像は、完成していないんです。」私は静かに言った。
「神原透は、“眠らせる”ことができなかった。
 この少年は今も、眠りを探して動き続けている。」


 ---

 その後、《眠る少年》は展示を中止され、地下倉庫に封印された。
 だが奇妙なことに、封印されたはずの倉庫から、時折“カリ、カリ…”という音が聞こえるという。
 まるで誰かが、まだ彫り続けているように。

 美術館の地下に響くその音を、私は一度だけ耳にしたことがある。
 ――それは、どこか優しい、子守唄のようだった。
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