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第106話 後日談

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「昨日、引っ越しました。これ、新しい住所です」
 月曜日、九時四十分。坂巻は転居の報告のため、安堂の部屋から真っ直ぐ会社へ来ている。安堂は現場事務所だ。
 経理の締め日が近いせいもあり、ちょうど木田が集金で来社し、女性社員達とお喋りに興じている。だがその目はひっきりなしに坂巻をチラ見する。もちろん坂巻は無視している。
「部屋はもう、整っているのかい」
 住所の書かれたメモを受け取った年輩の総務部長が聞く。
「いいえ全然。なので家具の荷受けとかが落ち着くまで、安堂係長の部屋に居候しているんです」
「そうかい。そうだよねえ。引っ越しは本当に大変だもんね。でも安堂君となら現場も一緒で都合もいいよね。じゃ、正式にそこで住むようになったらまた連絡下さい。次は電話だけでいいからね」
「はい。ありがとうございます」
 坂巻は木田のねちっこい視線を全身で受けつつ、次は工事部へ向かう。自分と安堂宛てに宅急便や書類がたまっていないか見るためだ。
  途中、営業部へ目をやると、意外にも誰もいない。いつもなら佐藤が席でふんぞり返ってスポーツ新聞やゴシップ雑誌を読み、佐藤に追従する一部の営業部員達もスマホのゲームやネットサーフィンに没頭しているはずなのに。
  もしや高稲が現場事務所で話していた「あの話」が現実となったのか。彼らが社内外で不評を買い、降格か減給かの瀬戸際まで追い込まれているという話。となれば、その警告に恐れおののき、慌てて営業に出かけているという状況か。 また、あれから佐藤による高稲と安堂への陰湿な嫌がらせの話もぱたりと聞かない。自分達が現場に出ずっぱりで会社へ顔を出していないせいもあるが、それでも耳にしない。これも何か関係があるのだろうか。
 加えて、木田の幼稚な戯言を面白がっていた連中もいいかげん飽きてきたらしく、坂巻が取引先の会社へ打ち合わせで訪問しても変な目で見られなくなった。けれど当の本人は相変わらず安堂への恨み節を垂れ流しているが。
  まあ、先程の粘ついた視線を含め、放っておくのが一番。坂巻はそう考えつつ、先日の焼鳥屋での、安堂との会話を思い出す。
  あの晩、安堂はつくね片手に木田と別れた理由を坂巻へ包み隠さず説明し、みっともない話だから笑っていいぞと肩をすくめた。けれどもちろん坂巻は笑わなかった。それよか自身の過ちとトラウマを認め、泥を被ってでも木田と別れる決断をし、なおかつすぐに行動に移した安堂の強さに畏敬の念を抱いたからだ。
  対する自分はそうではない。石橋との関係にただ悶々と悩み、しかも誰かにどうにかしてもらおうと責任回避。なので結局は安堂に背中を押してもらってここまでたどりつけたのだ。
  実に自分は情けない男だ――坂巻は自己嫌悪に陥りながら工事部のドアを開けた。すると予想通り、皆、各々の担当工事現場に行って空っぽだ。唯一、珍しくいた高稲も、これから現場へ出かけるようで、慌ただしい様子。
「よう。ごくろうさん。消耗品でも取りに来たのか」
 高稲が手を止めて言う。
「いえ。同じ市内ですけど引っ越したんで、総務課へ連絡しに来たんです。でもまだ物が揃わなくて、安堂係長の所に居候してます」
「へえ、そうか。オレもそんなことあったな。荷物の解体がめんどくさくて、しばらく友達んとこに転がりこんでさ。でも引っ越しっていいよな。気分転換になるし」
「ええ。本当に」
 事実、石橋の匂いのない生活は多少の寂しさも時折感じるものの、大半が軽快で自由だった。むろん、安堂の多大なる気配りと協力があってのことだ。
「それと営業部、誰もいなくて驚きました。もしかして、前に高稲部長が言ってた事と関係があるんですか」
「そうさ」
 高稲がニヤリと笑う。
「坂巻も安堂もあれから会社に来てないから知らんだろうが、あの日オレが会社に戻って社長達へ報告したら、佐藤が難癖つけて騒ぎ出してな」
「難癖?」
「言葉じゃ信用できんから、物的証拠を見せろってさ」
 どこまでもいやらしくて、しつこい男だ。坂巻は辟易する。
「あの野郎、オレが部下可愛さで、かばってんじゃねえかってゲスな勘ぐりしやがってよ。本当はあの家にも行ってないんだろうってぬかしやがったんだ」
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