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その三
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その三
農耕を主な産業としているこの国では、人口に比して土地の面積が広大である。
豊かであるこの国を狙う諸国は多い。しかし、古くから守りに重きを置くこの国を攻めることは容易ではなかった。
加えて、守りに重きを置くと言っても、戦力は決して弱くはない。
そのため、先代の大名から、大規模な戦はなかったのだった。
隣国からの使者が帰った後、家老は各地へ使いを走らせた。
「殿」
「言うな。わしとて無用の争いはしたくなどない。なれど、今回はそうも言ってはおれぬ」
村を納めている庄屋の元へその知らせがもたらされたのは、翌日であった。それからすぐに各村の顔役へと知らせが広がった。
「戦じゃと」
「ご家老様からの言が下ったそうじゃ」
「なんで戦なんて」
「守るためじゃ。お殿様もご家老様方もどなたも、外を攻めようなどとは思ってはおらぬ。だが、攻め入られて、みすみす国を明け渡すような腰抜けでは断じてない」
収穫が終わった後であり、本来であれば、今年も労を労うための様々な報酬を検討する時期であったが、そうしていられる時間はなかった。城からの使者が持ってきたのは、迅速をもって兵を収集せよとのお達しであったからだ。
この国の大名が冗談や酔狂でこのようなことをするはずもないことは、知らぬ者はいなかった。
「吉郎が…どうして」
「吉郎は昔の戦でも武勲を立てている猛者だ。まいの年では知らぬだろうが、呼ばれぬことはないだろう」
祝言の日取りのわずか五日前のことであった。この国は豊かであるため、農民でも祝言をあげるところが多い。内容そのものは簡素であるが、祝宴は家だけではなく、近隣にも食事が振る舞われる盛大さだ。
そしてまいは昨日、吉郎の家に越してきたばかりでもあった。
「案ずるな、まい。戦を知っているからこそ、できることもある」
顔色一つ変えずに語る吉郎であったが、戦で手柄を立てたのは十五年も前のこと。当時は血気に満ちた男盛であり、夕とも所帯を構える前の独り身で、思い切りもあった。
だが今は果たしてどうなのか。
村の十数名の男が鎧に身を固めて出立したのは、使者が来てよりわずか二日後の事だった。
流石に刀や槍はなかったのだが、鎧があったこと自体に、まいは驚いていた。しかも、それのどれ一つとっても、埃を被ったり、古びた様子のない手入れをされたものだった。
馬子にも衣装という言葉はあるが、吉郎が鎧をつけた姿は、田をゆっくりと往来する今までの姿とは全く違うものだった。
「ご…ご武運を」
本当は、無事に帰ってきてほしいと言いたかった気持ちを、まいは懸命に抑えて、教えてもらった言葉を言うのが精一杯だった。それ以上何かを言おうとすれば、言葉だけでは済まず、すがりついて泣き叫んでしまうかもしれなかった。
それは、吉郎のためにもできなかった。
吉郎たちが戦に向かって三月。季節は冬になっていた。
戦端が開かれてから、終焉は見えていない。攻めを得意とする敵軍と守りを得意とする自軍の戦術的効果が拮抗していたために、一進一退を繰り返すばかりであった。冬になり、戦況に変化が出てくるとも思われていたが、雪が殆ど降らぬ地であったために、戦術のある程度の変更だけで効果があり、双方共にほとんど弱体化がみられなかったのであった。
それでも、ここまで長期化すると、双方の国共に疲弊が出てきてしまう。敵方は攻め入っているのであるから、戦線が長くならざるを得ない。この国くらいに防御が徹底していれば、それだけで相手に対して有利なのである。
その点は敵国も考えていないわけはないだろう。投入される戦力は大きい。また、一時大きく攻め入ることができても、すぐに領土化することなく、じわじわと攻めるのだった。
そして、その侵攻方向には、まだ遠いものの、まいたちの住む村もあったのだった。
戦が長引くに連れて、不安が広がり始めていた。
「この村も危なくなってきているのではないか」
「与平のところは、疎開したということだ」
「ツテがある者はいい…。だが、ない者はどうすればいい」
不安は広がる一方で、静まる様子はなかった。これには、敵方の謀略もあった。土地の不安を煽ることで、平定に働きかける労力が戦だけでなく、国の中に施さねばならなくなる。
まいの実家も冬の内は、戦地からより遠い所にある親類を頼る話も出ており、まいにも同行の打診があった。だが、まいは頑なであった。
「わたしは吉郎の嫁だ。祝言はあげてはいないが、それが何だ。嫁は家を守るものだ」
「バカを言うな。お前をひとり置いてなど行けぬ。万一のことがあったら、吉郎に合わせる顔がない。お前が吉郎の家を守りたいという気持ちは痛いほどわかる。だが、そのために命を落とすような事にでもなれば 吉郎はどうなる。また愛する者を失わせるつもりか」
「吉郎のほうが危ない所にいるんだ。帰ってきたときに出迎える私が居なくて、何のための嫁だ。吉郎の苦難を思えばこれくらいのことなんでもない。食べるものもちゃんと蓄えがある。でも、ひつ(兄嫁)はお腹に子供がいるんだろ。兄ちゃんは戦には行かずに済んだんだ。安心していられるようにしてやってくれ」
ついに戦局が大きく動いた。
敵軍は部隊の一部を割り、側面攻撃を二方面から仕掛けてきた。戦況が分析された、非常に効果的な時間と戦力の投入であった。
このままでは、押し切られると判断した本陣は、すぐさま後退を選択。しかし、それには、殿を務める部隊無しには適わない。攻められての撤退戦における殿は、命の保証はない。自らの命を盾に味方を生かすことが戦略上、求められるのだ。
その殿を買って出たのは家老、田澤邦乃守であった。
その働きのおかげで他の部隊は逃走の形ではなく、戦略的な後退を行なう時間を持つことができ、撤退地点で再編された部隊は見事に敵を押し返すことに成功した。
そして、この戦局の動きが、敵将に撤退を決心させる働きとなったのだった。
だが、田澤が率いる部隊は全滅であった。生き残ったのは、田澤邦乃守の討死の報告を命じられた伝令のみだったという。その伝令も重傷を負っており、報告を終えると意識を失い、そのまま後方へと送致された。
吉郎は、田澤邦乃守の部隊の三番頭だった。農兵が頭を務めるのは、異例中の異例と言ってよい。だが、吉郎は見事なまでにその責務を務め、下に立つ武家の者からも信頼を得ていたという。
敵軍はついに撤退。戦は終わりを告げ、戦へ行っていた者も帰ってきた。だが、その中に吉郎の姿はなかったのだった。
「吉郎は…吉郎は、必ず戻ると言った。信じない理由など何一つない」
(続く)
農耕を主な産業としているこの国では、人口に比して土地の面積が広大である。
豊かであるこの国を狙う諸国は多い。しかし、古くから守りに重きを置くこの国を攻めることは容易ではなかった。
加えて、守りに重きを置くと言っても、戦力は決して弱くはない。
そのため、先代の大名から、大規模な戦はなかったのだった。
隣国からの使者が帰った後、家老は各地へ使いを走らせた。
「殿」
「言うな。わしとて無用の争いはしたくなどない。なれど、今回はそうも言ってはおれぬ」
村を納めている庄屋の元へその知らせがもたらされたのは、翌日であった。それからすぐに各村の顔役へと知らせが広がった。
「戦じゃと」
「ご家老様からの言が下ったそうじゃ」
「なんで戦なんて」
「守るためじゃ。お殿様もご家老様方もどなたも、外を攻めようなどとは思ってはおらぬ。だが、攻め入られて、みすみす国を明け渡すような腰抜けでは断じてない」
収穫が終わった後であり、本来であれば、今年も労を労うための様々な報酬を検討する時期であったが、そうしていられる時間はなかった。城からの使者が持ってきたのは、迅速をもって兵を収集せよとのお達しであったからだ。
この国の大名が冗談や酔狂でこのようなことをするはずもないことは、知らぬ者はいなかった。
「吉郎が…どうして」
「吉郎は昔の戦でも武勲を立てている猛者だ。まいの年では知らぬだろうが、呼ばれぬことはないだろう」
祝言の日取りのわずか五日前のことであった。この国は豊かであるため、農民でも祝言をあげるところが多い。内容そのものは簡素であるが、祝宴は家だけではなく、近隣にも食事が振る舞われる盛大さだ。
そしてまいは昨日、吉郎の家に越してきたばかりでもあった。
「案ずるな、まい。戦を知っているからこそ、できることもある」
顔色一つ変えずに語る吉郎であったが、戦で手柄を立てたのは十五年も前のこと。当時は血気に満ちた男盛であり、夕とも所帯を構える前の独り身で、思い切りもあった。
だが今は果たしてどうなのか。
村の十数名の男が鎧に身を固めて出立したのは、使者が来てよりわずか二日後の事だった。
流石に刀や槍はなかったのだが、鎧があったこと自体に、まいは驚いていた。しかも、それのどれ一つとっても、埃を被ったり、古びた様子のない手入れをされたものだった。
馬子にも衣装という言葉はあるが、吉郎が鎧をつけた姿は、田をゆっくりと往来する今までの姿とは全く違うものだった。
「ご…ご武運を」
本当は、無事に帰ってきてほしいと言いたかった気持ちを、まいは懸命に抑えて、教えてもらった言葉を言うのが精一杯だった。それ以上何かを言おうとすれば、言葉だけでは済まず、すがりついて泣き叫んでしまうかもしれなかった。
それは、吉郎のためにもできなかった。
吉郎たちが戦に向かって三月。季節は冬になっていた。
戦端が開かれてから、終焉は見えていない。攻めを得意とする敵軍と守りを得意とする自軍の戦術的効果が拮抗していたために、一進一退を繰り返すばかりであった。冬になり、戦況に変化が出てくるとも思われていたが、雪が殆ど降らぬ地であったために、戦術のある程度の変更だけで効果があり、双方共にほとんど弱体化がみられなかったのであった。
それでも、ここまで長期化すると、双方の国共に疲弊が出てきてしまう。敵方は攻め入っているのであるから、戦線が長くならざるを得ない。この国くらいに防御が徹底していれば、それだけで相手に対して有利なのである。
その点は敵国も考えていないわけはないだろう。投入される戦力は大きい。また、一時大きく攻め入ることができても、すぐに領土化することなく、じわじわと攻めるのだった。
そして、その侵攻方向には、まだ遠いものの、まいたちの住む村もあったのだった。
戦が長引くに連れて、不安が広がり始めていた。
「この村も危なくなってきているのではないか」
「与平のところは、疎開したということだ」
「ツテがある者はいい…。だが、ない者はどうすればいい」
不安は広がる一方で、静まる様子はなかった。これには、敵方の謀略もあった。土地の不安を煽ることで、平定に働きかける労力が戦だけでなく、国の中に施さねばならなくなる。
まいの実家も冬の内は、戦地からより遠い所にある親類を頼る話も出ており、まいにも同行の打診があった。だが、まいは頑なであった。
「わたしは吉郎の嫁だ。祝言はあげてはいないが、それが何だ。嫁は家を守るものだ」
「バカを言うな。お前をひとり置いてなど行けぬ。万一のことがあったら、吉郎に合わせる顔がない。お前が吉郎の家を守りたいという気持ちは痛いほどわかる。だが、そのために命を落とすような事にでもなれば 吉郎はどうなる。また愛する者を失わせるつもりか」
「吉郎のほうが危ない所にいるんだ。帰ってきたときに出迎える私が居なくて、何のための嫁だ。吉郎の苦難を思えばこれくらいのことなんでもない。食べるものもちゃんと蓄えがある。でも、ひつ(兄嫁)はお腹に子供がいるんだろ。兄ちゃんは戦には行かずに済んだんだ。安心していられるようにしてやってくれ」
ついに戦局が大きく動いた。
敵軍は部隊の一部を割り、側面攻撃を二方面から仕掛けてきた。戦況が分析された、非常に効果的な時間と戦力の投入であった。
このままでは、押し切られると判断した本陣は、すぐさま後退を選択。しかし、それには、殿を務める部隊無しには適わない。攻められての撤退戦における殿は、命の保証はない。自らの命を盾に味方を生かすことが戦略上、求められるのだ。
その殿を買って出たのは家老、田澤邦乃守であった。
その働きのおかげで他の部隊は逃走の形ではなく、戦略的な後退を行なう時間を持つことができ、撤退地点で再編された部隊は見事に敵を押し返すことに成功した。
そして、この戦局の動きが、敵将に撤退を決心させる働きとなったのだった。
だが、田澤が率いる部隊は全滅であった。生き残ったのは、田澤邦乃守の討死の報告を命じられた伝令のみだったという。その伝令も重傷を負っており、報告を終えると意識を失い、そのまま後方へと送致された。
吉郎は、田澤邦乃守の部隊の三番頭だった。農兵が頭を務めるのは、異例中の異例と言ってよい。だが、吉郎は見事なまでにその責務を務め、下に立つ武家の者からも信頼を得ていたという。
敵軍はついに撤退。戦は終わりを告げ、戦へ行っていた者も帰ってきた。だが、その中に吉郎の姿はなかったのだった。
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◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
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