想いは永遠に

マキノトシヒメ

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その四

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その四

 朝日が登る。
 その中、力無い足取りではあったが、確実に、よろめくことなく、丘の祠に向かう者の姿があった。
 八十八日目。
 吉郎の訃報を聞かされてからも、まいは決して休む事なく祠に向かい、いつも通りの掃除をして、深く、深く、祈りを捧げているのだった。
 季節はもう春にならんとしていた。普段であれば、田植えのための苗を準備する頃である。

 百日目。
 やはり、まいは祠に向かっていた。
 だが、その足取りは重く、遅々として進まなかった。
 二日ほど前から、熱が出ていたのだった。
 最初は体が熱るような感じだけで、悪寒やだるさは感じなかった。だが次の日になって、吐き気が伴い何も食べられなくなった。昨晩はうつらうつらしていた覚えはあるが、眠っていたかどうかもわからない。食欲は全くない。体の気だるさも倍増している気がした。
 それでも、今日は百日目、節目の日となる。行かぬわけにはいかなかった。
 その日はやけに霧が濃かった。かなり近くまで来ているはずだが、まだ祠が見えなかった。道は間違えようがない。道沿いは見えるから、そこで目印になるものは間違いなく目にしている。
 そして、ようやく丘の祠の入り口に着いた。
 祠に向かって歩き始めた時、何かが動いたような気がした。
「…あ」
 まいは泳ぐような体勢で歩を進めた。歩みはほとんど速くはならなかった。だが、急く気持ちを抑えることはできなかった。
 果たして、祠の近くには誰も、何も、姿は見えなかった。
 しかし、その向こう。トチノキの傍に佇むのは、間違いなく人の影だった。そして、その背格好、少し猫背になった姿を見間違えるはずもなかった。
「吉郎!」
 叫びながら、まいは抱きついた。
「吉郎、吉郎、約束…忘れなかったんだね」
「まい」
 吉郎もまいを抱きしめた。しばらくの間、お互いの温もりを確かめるように、無言で立ち尽くしていた。
「信じてたよ…必ず帰ってくるって信じてた」
「すまない。戦が終わって、もう三月になろうというのに。やっと…やっと帰ってこられた」
「田澤様の部隊が全滅して、吉郎も死んじゃったって聞いて…。でも、吉郎は絶対帰ってくるって信じてた。神様にお願いして、百日目に吉郎を…返してくれ…た」
 まいの体から力が抜けて崩れ落ちそうになるのを、吉郎が抱きとめた。
「熱があるじゃないか」
「大丈夫。大丈夫、吉郎が帰ってきたんだから…」
「才覚様」
「その様子ならば大事ない。疲労が溜まっておるだけじゃ。お主の無事な姿を見て気が抜けたんじゃろう。家までおぶって行ってやれ」
(え? 誰…?)
 まいは吉郎の背中で、もう一人の声を聞いたような気がしたが、すぐに眠り込んでしまった。

ーーーーーーーーーー

 旅の僧、才覚が見たものは地獄絵図の如くであった。

 周囲は、両軍の兵士の遺体が転がる、戦の後の当たり前とも言える光景が広がっていた。動く者はいなかった。だが、わずかに動きがあったように見えた。その付近を探ると、胸に槍を突き立てられた遺体に行き着いた。いや、そのような状態でありながら、まだ息があったのは、驚きだった。
 そのような状態からでは、助かる見込みはまずないかと思われた。だが、槍は奇跡的に急所を逸れていた。兜が外れた頭からも血が流れていたが、斬られた様子はない。
 迷うところもあったが、救えるものならばやることをやると決意し、全力で治療にかかった。

 それでも、吉郎が意識を取り戻したのは一週間も経ってからだった。
「皆…死んでしまったのか」
「すまぬな。わしとて救えるものならば救いたかったのだが」
 そして一ヶ月程で起き上がれるようになった吉郎だったが、その気持ちは沈んだままで、食欲も芳しくなかった。
「共に戦った者の中で己一人が生きながらえてしまった気持ちはわからぬでもない。なれど、お主はそれ以上に妻のことが気にかかるのだろう」
「もう…こんな姿で…」
 吉郎は再び黙り込んでしまった。
「なれば、足が使えるようになるとしたらどうじゃ」
 その言葉に吉郎は跳ね起きた。
「足が…足がどうにかなると言うのですか」
「やりようはひとつある。じゃが、お主にも別の決断が必要であるぞ」

 吉郎は右足が動かなかった。
 膝の上を割られて踏ん張れなくなったところを槍で胸を突かれた。その悪かった体勢によって、急所を狙った槍の刺さる箇所が逸れた。
 しかし、より重症であった槍の傷の処置を優先させたために、膝の傷が悪化し、回復した時には右足は全く動かなくなってしまったのだった。
 このひと月で吉郎の体力はかなり回復している。
 だが、仲間を失ったこと、自身も右足を失ったことにおける心労は激しい。そのままでも、まいは吉郎が帰還することを喜んでくれるだろうが、まともに歩けない身は後々まいにとっての決して小さくない重荷になるであろうことが、吉郎の気持ちを上向きにさせてくれなかった。
 それ故に、才覚が提案した方法とは。

 まいが目を覚ました時、最初に目にしたのは見慣れている家の天井だった。家で布団に寝かされているのだった。
「気がついたか」
 声はすぐ近くから聞こえた。聞き間違いようのない、吉郎の声だった。
 まいは起き上がろうとしたが、目が眩んで起き上がれなかった。
「無理をするな。もうどこにも行かない」
「まだ熱は下がっておらぬのだろう。そもそも、食を取らなすぎじゃ。まずは食べて落ち着け。胃の腑がほとんど空じゃから下手に食い物を入れるはまずかろうが、これなら少しは入るじゃろう」
 吉郎が体を支えて起こしてくれた。
 まいが受け取った器には、汁に何か白いものが浮いていた。その他の緑の物はネギとセリが入っているのか。香りはよかった。
 その器を差し出していたのは、鼠色の着物を着た見知らぬ男だった。
「心配しなくていい。私の命の恩人だ。まずはそれを食べてからだ」
「ゆっくりとな」
 まいは言われるままに器に口をつけて、汁を飲んだ。白い固まりは団子ではなく、とても柔らかい物で、汁とほとんど同じように喉を通って行った。飲み込んだあと鼻の奥に大豆の香りが広がった。豆腐よりもさらに柔らかく仕立てた物だったようだ。食べた印象は違ったが、体がとても落ち着く感じがした。
「おいしい…」
「それは何よりじゃ。そう体が受け止めるのであれば、回復も速かろう。もう一杯食べられそうかの。無理はせんでもよいぞ」
「今はいいです。あのう…」
「うむ。落ち着いたようじゃったら、話をするか」

 才覚は吉郎を見つけて治療をするまでの経緯を話した。
「そのために吉郎の右足は捨てねばならなかった。今、吉郎の右足にあるのは作り物。つまり義足なのじゃ」
 吉郎は座ったままで右足を伸ばした。それにまいが触れると確かに硬かった。とても人の足の感触ではなかった。
「作り物…。でも触らなかったら分からなかった」
「その義足自体の詳しいことはわしにもわからぬ。じゃが、そこまでの物は他では見たことはない。旅の途中で知った者が作った物なのだが…」
 話を聞くうち、まいは不意に目眩を感じた。いや、目眩と言うよりは、強烈な眠気に襲われたのだった。
「まだ体力は戻っておらんのじゃ。今は休め。寝て、食え。お主の若さであれば、それだけで体が回復する」
「吉郎…」
 まいの手が吉郎の手を握る。手を握ったままで吉郎は、まいを横にして布団をかけた。
 まいは安心したようで、すぐに目を閉じて寝息を立て始めた。

「やはり、あのことは直ぐには言えぬか」
「まいの顔を見たら、この村を離れるつもりもありましたが…無理でした。覚悟ができたら、話そうと思います。その時、まいが受け入れられないというのであるなら、噓を通してでも出て行こうと思います」
「無理はするな。お主の気性では、騙すのも容易ではあるまい。夫婦のことに口を出したくはないが、このままではお主らは、お互いを愛しいと思い、大事だと思うが故に最悪な形で傷つけ会うことになりかねんぞ」
 吉郎は拳を握りしめた。
「まいは…、まいは、子供が欲しいと…。私はもうそれに応えられない」
「まいはそれでお主を拒絶するような女子おなごかや」
 吉郎はゆっくりとかぶりを振った。
「ですが、だからこそ。それだからこそ、私に縛りつけるようなことは…」
「辛かろうが真実を話せ。勝手に相手のことを決めつけるな。話もなくお主が消えれば、まいはいかに嘆き悲しむかわかっておろう。わしが思うにそれは最悪の手じゃぞ。ここへ戻るだけの意気地はあったのじゃから、あとほんの少しだけ勇気を持って、乗り越えよ。さすれば年月を経れば辛い思いもただの思い出としてくれる」

 吉郎は残る全ての思いを込めて、まいに全てを打ち明けた。命は取り留めたが、男として、まいの夫として、まいに子供を授けることのできぬ体となったことを。
 それでも、その話をするために、才覚が旅立って後、四日の日を要したのであったが。
 まいはその話を聞き終えて、驚きは隠せなかったが、取り乱すようなことはなく、ただ吉郎を抱きしめただけだった。


 数年後、吉郎とまいの家には明るい笑い声が飛び交っていた。
 小さな子供が何人も走り回って遊び、吉郎の背に乗ってはしゃぐ子供もいた。
 かの戦が大きな戦であった故に吉郎の他に戦に赴いた者にも何名も戦死した者がいた。
 まいはその家の子供の面倒を見たり、どうしても手が足りぬところの子供を一時的に引き取って保育をしていたのだった。
 吉郎も義足の具合は良好で、畑仕事はもちろん、時間のある時はこうして子供達の相手をしていた。
 今この村にはまだ戦の混乱は残っている。
 家族を失った者の中には、吉郎が足を失いながらも、生還したことを良くは思えない者もいた。だが、広くはない地域のこと。お互いの気性はなんらかの形で知る者同士である。
 戦の前と変わらず懸命に生き、家族に、この村に尽くす吉郎の姿はその暗い思いを徐々に、だが確実に消すことになっていった。
 吉郎自身は自分が生きる道を迷わなかっただけなのであるが、暗い思いをもっていた者をも救う結果となったのだった。


 年が過ぎ、吉郎も老いた。
 今吉郎は、この世との別れを得ようとしている。
 それは、かねてから望んでいたように、静かに穏やかに迎えることが叶った。
 床の傍にはまいがおり、周りには小さな頃に世話をした子供たちが立派に成人した姿があった。その中には吉郎とまいと同じように、あのトチノキの下で誓いを交わし夫婦となった者もいる。
 吉郎の今際の際の言葉は、皆が幾度となく聞き、心に改めて刻まれる言葉であった。才覚の言葉を心に置き、己の、皆の、生きることの道標となった言葉だった。

「苦しみを恐れるな。正しく生きれば、苦しみもまた時と共に思い出となる。わしとの今生の別れもまた然りだ」

 吉郎が目を閉じ、静かに息を引き取った時も、騒ぐ者はおらず、静かに啜り泣く者がいただけだった。
 心に刻まれた想いは、子へ孫へと、永遠に受け継がれてゆくであろう。

(了)
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