笑わないこけし

序章:元芸人・健太（29歳）

東京・渋谷。  
夜の十時。  
スクランブル交差点は、ネオンと人間の流れで満ちていた。  
歩道に立つ男が、スマホの画面をじっと見つめていた。  
その目は、光を吸い込むようにして、小さな液晶に張りついていた。  
画面には、自分の顔写真が映っていた——  
髪は整えられ、スーツの襟はシャープに立ち、背景は高級ホテルのロビー。  
キャプションはこうだ。  

> 「年収2000万円。スタートアップのCTO。30歳で上場。今は静かに次のプロジェクトを構想中。」  

実際の健太（けんた）は、29歳。  
年収382万円。  
勤務先は「株式会社リーファイブ」——  
都内某所のオフィス街にひっそりと佇む、名ばかりの営業代理店。  
社名に「リーフ」が入っているのは、代表が「葉っぱを広げるように事業を伸ばす」という比喩を好んで使ったからで、実際には法人向けのクラウド会計ソフトの導入支援を、1件あたり1万5千円で請け負う、薄氷の上を歩くような会社だった。  

健太の「営業成績」は、会社内でも最下位。  
だが、彼はそれを「才能の埋没」と呼んでいた。  
「俺は、舞台の上では、笑いを取る技術を身につけた男だ。  
でも、あの会場の客は、バカだった。  
笑いの本質を理解できなかった。  
だから俺は、舞台を降りた。  
——ただの敗走じゃない。戦略的撤退だ。」  

彼はそう信じていた。  
信じていたからこそ、夜な夜なマッチングアプリを立ち上げ、  
「年収2000万円の経営者」を装い、  
「海外留学経験あり（語学学校3週間）」と記し、  
「趣味はワインとアート（コンビニで買った赤ワインを、ボトルの写真を撮ってSNSに上げた）」と書いた。  

嘘は、息をするようについた。  
嘘をついて女を誘い、嘘で場を切り抜け、嘘で金を浮かせ、嘘で支配する。  
それが、彼にとっての「笑い」の代償だった。  

舞台では笑わせられなかった。  
だが、マッチングアプリでは、  
——彼の嘘は、毎回、ちゃんと「ウケた」。  

「ウケる」＝「支配されている」  
という構造を、健太は気づかなかった。  
気づこうともしなかった。  
なぜなら、彼には「観客」がいたから。  
彼の嘘を、笑って、うなずいて、信じて、そして、金を払う——  
「観客」がいたから、彼はまだ、芸人だった。