『コニファーガーデン』

segakiyui

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『コニファーガーデン、いつか見た景色』
「っ」
 ギターに続いて響いた歌声に息を呑む。クリスもマリアの指を捉えたまま、視線を静かに歌い手へ送った。
『コニファーガーデン、君が走り去った昔』
 店主の居るカウンターの右隅、小さな椅子が置かれていて、1人の女性が座ってギターを抱えている。波打つ甘い茶色の髪、ふわふわ膨らむ薄物の紫のチュニックをジーンズの上に着て、首には金属と革と鮮やかな紅の石を組み合わせたネックレスを幾重にもかけている。
『コニファーガーデン、あれは未来あれは過去、あれは君が見せた夢』
 白い喉を見せて女性が歌い上げる声は嗄れているのによく響いた。細い指先が弦を弾き、時に軽くギターを叩く。
「スパニッシュみたいね」
「…そうだね」
 クリスは女性から目を離さない。マリアの指も離さない。
『コニファーガーデン……幻と知って重ねた恋
 いつか消える、いつか戻る、いつかいつか、時の輪の巡る間に
 いつか君は駆け寄ってくる……』
「出よう」
「え?」
「申し訳ない、奥様。家で食事にしよう」
「クリス?」
 立ち上がったクリスを、店主は引き止めない。慌ててナプキンをテーブルに置いて、マリアも席を立った。既に戸口で扉を開けて待っているクリスに、小走りに駆け寄る。
「どうしたの?」
「すまない、楽しみにしてくれたのに……急用を思い出したんだ」
 マリアの顔を見ないように背けるクリスの顔は険しい。
 急用を思い出した、となれば、続く台詞は決まっている。
「…今夜は1人で食べてくれる?」
「……わかったわ」
 『樫と雄牛亭』を出て行く直前、女性の悲しげな声がもう一度繰り返された。
『コニファーガーデン、あれは夢あれは幻、あれが僕が望んだ優しい結末
 いつか消える、いつか戻る、いつかいつか、時の輪の巡る間に
 いつか僕は君を捜し出す…』

 1人で食事しろなんて、ふざけてるわね、ほんと。
 マリアは広々とした食堂の長々しいテーブルの片端で、豪奢な銀食器と格闘しながら呟く。側には黒服の男が控えていて、もういいわと何度も言ったのに離れない。銀器を扱う手順の指摘はしないが、食べた気がしない、たぶんとてもおいしいはずなのに。
「……2日目もだめね」
「何か?」
「いえ、独り言」
 もう。独り言も好きに言えないのね、ここでは。
「よいしょ」
 口の中でぼやきながら、分厚い肉を切った。とろりと溢れる肉汁、ソースに混ざり込む美しい赤のマーブル模様を眺める。
 クリスは部屋から出ていない。
 確かめなくてもわかっている。甘く指先を捉えた気配が、まだ屋敷に残っている。
 急用じゃなかったの、と部屋に踏み込めば、静かに微笑んで、こんな場所でもIT環境は整ってるんだよ、奥様と返される。
 1人じゃ淋しいわ、とごねれば、明日の朝食は一緒にできるよ、奥様と微笑むだろう。
 今夜はどうするの?
 ねえ、クリス。
 今夜は1人で泣く気なの? 
 フォークで肉を突き刺し口に運んでもぐもぐ噛む。
 幾度1人で泣いてきたの?
 誰も側に居なかったの?
「…ねえ」
「はい」
「『コニファーガーデン』という歌を知ってる?」
 振り向けば、黒服の男は微かにためらった。
「知ってるのね?」
「…このあたりではよく知られた歌ですので」
「全部知ってる?」
「ええ」
「聴きたいわ」
「楽団を呼びましょうか?」
「は?」
「急なのでフルオーケストラとはいきませんが」
「…何を考えているのよ」
 思わず眉を寄せた。
「あなたが歌ってくれればいいの」
「…私が、ですか」
「他に誰がいるの」
「……しかし」
「騒音を気にしてるの? 大丈夫、賭けてもいいけれど、この部屋の周囲にはほとんど人が居ないはずよ」
「……では」
 こほんと、男は咳払いした。口元の髭に触れる。
「あ、ちょっと待って」
「はい?」
「あなたの名前は?」
「アルディッドと申します」
「じゃあ、アルディッド、よろしく」
「では、お耳汚しを」
 アルディッドは両脚を軽く開いて口を開いた。
『コニファーガーデンに私は立っていた…』
 朗々たるバリトン、マリアは驚いて瞬きする。
 どういうこと? あの歌詞じゃないわ。
『永遠なる緑、胸が傷む
 永遠なる緑、声が詰まる
 忘れるはずもない想い出が
 私の全てを打ちのめす』
 そっくりな曲調、同じ音律、鳴り響く切々とした想い。
『コニファーガーデンで私は泣いていた…
 悠久の緑、体が震える
 悠久の緑、脚が竦む
 消えるはずもない罪が
 私の全てを打ちのめす』 
 アルディッドは眉を寄せ目を閉じ歌い続ける。尋ねるまでもなくわかる、これは彼のお気に入りの歌だ。
 マリアも銀器を置き、目を閉じた。
 目の奥の闇、大樹に額を押し付けて泣くクリスの姿が甦る。
 細い手足、震える体、必死に目元を擦りながら声を堪える小さな子ども。
『問えばいいのか?
 過ちはどこにあったのか
 問えばいいのか?
 愛はどこにあったのかと』
 少し間があいた。
 マリアが目を開くと、アルディッドもまた、目を開いてマリアを見返してくる。一転して、声は囁きに近い静けさを帯びた。
『コニファーガーデン、いつか見た景色
 コニファーガーデン、君が走り去った昔
 コニファーガーデン、あれは未来あれは過去、あれは君が見せた夢

 コニファーガーデン、幻と知って重ねた恋
 いつか消える、いつか戻る、いつかいつか、時の輪の巡る間に
 いつか君は駆け寄ってくる……

 コニファーガーデン、あれは夢あれは幻、あれが僕が望んだ優しい結末
 いつか消える、いつか戻る、いつかいつか、時の輪の巡る間に
 いつか僕は君を捜し出す…
 いつか僕は君を捜し出す………』
 歌い終わったアルディッドが微かに目を潤ませている。
「アルディッド」
「はい」
「あなたもアシュレイ?」
「……ええ、そうです」
「……たくさんのものを失った?」
「……おそらくは」
 マリアは食事に戻った。
「尋ねてごめんなさい。ありがとう。素晴しかった」
「いえ…ありがとうございます」
 一礼するアルディッドを見られなかった。
 間違いない。
 『樫と雄牛亭』の歌はクリスへのメッセージだ。
 同じことを繰り返す気なのかという警告だ。
「…ごちそうさまでした。デザートはいいわ。もう入らない」
「承知いたしました」
 立ち上がって決心する。
 明日、芽理に会いに行こう。
 クリスの話を聞かなくては。
 誰が止めたって知るもんですか。
 
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