19 / 25
(19)
しおりを挟む
夢を見ていた。
砂糖菓子のようにどこまでも甘く優しい夢。
「…んー…何……?」
けたたましく鳴り響くアラーム。
違う、携帯の呼び出し音だわ。
「はい…マリアです」
『ずいぶん早く休んでいるのね、マリア』
冷ややかな声に一気に目が覚めた。
『それとも任務遂行中だったかしら』
「ニア…」
呟いて慌てて周囲を見た。クリスはいない。アラームのせいだけじゃない、人の温もりがなくなって寒くなったから目が覚めたのだ。時間はたぶん夜中、いや夕方か。
『3日目終るわね、成果は?』
「まだ、です」
『…』
溜め息と沈黙。
下着は気持ち悪いけど、最後まで及ばなかったのはクリスが手控えたのか、それともマリアの遠回しな拒否を感じ取ってくれたのか。
「1週間でないとだめでしょうか?」
『どういうこと?』
「1ヶ月、いえ、1年頂ければ」
違う、そんなことじゃない。
耳の奥に静かな囁きが戻ってくる。
私はもうあなたを手放す気はなくなったの。
『マリア』「奥様?」
「っ」
ぞっとしながら、引き開けられたレースのカーテンを、その間に覗くプラチナブロンドを見上げる。
『どういう意味?』「どういう意味?」
携帯の奥と目の前の唇が同時に動く、同じニュアンスで。
疑いと不審。
『あなたは何のためにやってきたの?』「君は何のためにやってきたの?」
ときどき、人生にはこういうことがあるわね。
前後左右ぎっちり取り囲まれて、何も動きようがない時。
何を訴えても何を望んでも、認められず叶わないとわかる時。
両親が事故死した時。
弟が死んだ時。
奨学金を失って、仕事も見つからなくなった時。
私に何が残ってるかしら。
胸の中に痛みが残る。
私、あなたに会いたかったわ。
もう一度、家族が欲しかったわ。
ふいにそれが真実だと気づく。
お金も欲しかった。仕事も欲しかった。
けれどクリス・アシュレイと結婚したのは、何より喪った家族を取り戻したかったから。
溜め息をつく。
「また、後で」『マリア…』
携帯を切った。
「マリア」
冷静で頑なな声が突きつけられる。
また喪うのね。
得てもいなかったものでも、こんなに苦しいわ。
脳裏に芽理の顔が思い浮かんだ。
あなたもそうだったわね、芽理。
遠い異国で、命を引き換えにしてもいいと思った相手にののしられて拒まれて、傷心のまま帰国して。
それでもあなたは留まらなかった。まっすぐ前を向いて、自分の人生を歩き続けた、マースへの愛情を胸に。
不思議ね、芽理。
あなたの存在が、今これほど心強い。
大人にもならないあなたが為遂げたことだもの、私もまたやり遂げてみせる。
「おはよう、クリス」
にっこりと微笑んだ。
約束したわ、どんな時でも笑って見せるって。
「それとも、こんばんはかしら。もう夕方なのね」
「マリア、話したい」
そう、話そうとしてくれるのね。
あなたが優しくて本当に辛い。
「夕ご飯は食べた? まだ? じゃあ一緒に食べましょうか。私ができる数少ない手料理を御馳走するわ」
マリアの挙動を理解しかねたように、首を傾げてクリスが身を引く。少し長めのプラチナブロンドは、後ろで一つに纏められていて、ちょっぴりの房が愛おしい。
茶色のリボンがいいわ。後で探して結んであげよう。
立ち上がってクリスの横を通り抜けようとする。
手首を掴まれた。
「マリア」
「シャワーを浴びたいわ」
「1週間って何?」
「時間の長さ」
「1ヶ月って?」
「1週間より長い時間」
「1年って?」
「1ヶ月よりも長い時間」
「じゃあ10年は?」
「え?」
ふいに、クリスが何を言っているのかわからなくなって見上げた。
「答えて、10年は?」
「…1年より長い時間ね」
「じゃあ、100年は?」
「……人の一生ね」
「俺は、その後ずっと1人になるよ?」
クリスが少し微笑んだ。
「マリア…俺がもう嫌いになった?」
ずるい。
「顔も見たくない?」
ずるいわ、クリス。
「触れ合うのも嫌?」
「あなた、すごく、ずるい」
思わず唇を尖らせると、その先をちょいとついばまれた。
「もう少し、一緒に居よう」
「今の相手はニア・スティングレイよ」
「まだ3日しかたってない」
「私は彼女と契約したの」
「君の手料理も食べてない」
「仕事と居場所を引き換えに、でも」
「まだ君の本当の姿も知らない」
「っ」
引き寄せられ、そっと膝で押された部分に体が熱くなる。
「私は引き渡すと約束したのよ!」
ひどい女。
何を考えて、あんなことを納得したのかしら。
涙がにじむ。
「あんなに可愛い子をどうして渡せるなんて思ったのかしら!」
「あんな可愛い子?」
キスを続けようとしたクリスが訝しそうに眉を寄せる。
「誰のこと?」
「決まってるでしょ、私達の娘よ!」
むっとして言い返した。
「あなたに似たプラチナブロンドの! 凄く可愛いの! ああもう、ほんと私って,何て馬鹿なの、何て愚かな母親なのかしら、絶対許せないわ!」
「…っ」
ぷっといきなりクリスが吹き出し笑い出す。
戸惑って口を噤むマリアに笑いを堪えかねたクリスが、それでもマリアの手首をしっかり掴まえたまま涙目で尋ねた。
「あのね、奥様。俺と君の間には、まだ何にもないんだよ?」
一瞬痛みを感じたような表情がクリスの顔を掠めた。
「まだ産まれてもいない娘のために、どうしてそこまで怒ってるの?」
「だって!」
だって。
だって。
「だって、私、もう、あの娘を愛してるわ!」
「…マリア」
そっとクリスが両手を掴んで胸の中に引き寄せた。
初めて気づく。
クリスががたがた震えていることを。
「クリス?」
慌てて掴まれた両手を振りほどいて抱き締めた。
「どうしたの? 気分が悪いの? 何かあったの? あ、いえ、あったわよね、そうよね、ごめんなさい」
途中ではっとして謝罪を繰り返した。
「ごめんなさい、クリス。ごめんなさい、ほんと馬鹿よね、ののしっていいわ」
「奥様……奥様…」
「ベッドに横になる? あなたの部屋まで支える?」
「奥様…マリア……マリア……マリア…だめだよ」
クリスが体を抱く力を強める。
「今そんなことをしたら、俺は君にうんとひどいことをしてしまう」
「ごめんなさい、そうよね、怒ってるわよね、そうよね」
しょんぼりしたマリアはいきなり顎を持ち上げられて唇を封じられる。繰り返し奥まで求める激しいキス。呼吸も許されないほど重ねられて、息苦しさにもがく。
「っ、あっ…っ」
「ま、り、あ……っ」
ようやく口を離したクリスが、肩に顔を埋めながら呻いた。
「君は、俺を、愛してる…っ」
砂糖菓子のようにどこまでも甘く優しい夢。
「…んー…何……?」
けたたましく鳴り響くアラーム。
違う、携帯の呼び出し音だわ。
「はい…マリアです」
『ずいぶん早く休んでいるのね、マリア』
冷ややかな声に一気に目が覚めた。
『それとも任務遂行中だったかしら』
「ニア…」
呟いて慌てて周囲を見た。クリスはいない。アラームのせいだけじゃない、人の温もりがなくなって寒くなったから目が覚めたのだ。時間はたぶん夜中、いや夕方か。
『3日目終るわね、成果は?』
「まだ、です」
『…』
溜め息と沈黙。
下着は気持ち悪いけど、最後まで及ばなかったのはクリスが手控えたのか、それともマリアの遠回しな拒否を感じ取ってくれたのか。
「1週間でないとだめでしょうか?」
『どういうこと?』
「1ヶ月、いえ、1年頂ければ」
違う、そんなことじゃない。
耳の奥に静かな囁きが戻ってくる。
私はもうあなたを手放す気はなくなったの。
『マリア』「奥様?」
「っ」
ぞっとしながら、引き開けられたレースのカーテンを、その間に覗くプラチナブロンドを見上げる。
『どういう意味?』「どういう意味?」
携帯の奥と目の前の唇が同時に動く、同じニュアンスで。
疑いと不審。
『あなたは何のためにやってきたの?』「君は何のためにやってきたの?」
ときどき、人生にはこういうことがあるわね。
前後左右ぎっちり取り囲まれて、何も動きようがない時。
何を訴えても何を望んでも、認められず叶わないとわかる時。
両親が事故死した時。
弟が死んだ時。
奨学金を失って、仕事も見つからなくなった時。
私に何が残ってるかしら。
胸の中に痛みが残る。
私、あなたに会いたかったわ。
もう一度、家族が欲しかったわ。
ふいにそれが真実だと気づく。
お金も欲しかった。仕事も欲しかった。
けれどクリス・アシュレイと結婚したのは、何より喪った家族を取り戻したかったから。
溜め息をつく。
「また、後で」『マリア…』
携帯を切った。
「マリア」
冷静で頑なな声が突きつけられる。
また喪うのね。
得てもいなかったものでも、こんなに苦しいわ。
脳裏に芽理の顔が思い浮かんだ。
あなたもそうだったわね、芽理。
遠い異国で、命を引き換えにしてもいいと思った相手にののしられて拒まれて、傷心のまま帰国して。
それでもあなたは留まらなかった。まっすぐ前を向いて、自分の人生を歩き続けた、マースへの愛情を胸に。
不思議ね、芽理。
あなたの存在が、今これほど心強い。
大人にもならないあなたが為遂げたことだもの、私もまたやり遂げてみせる。
「おはよう、クリス」
にっこりと微笑んだ。
約束したわ、どんな時でも笑って見せるって。
「それとも、こんばんはかしら。もう夕方なのね」
「マリア、話したい」
そう、話そうとしてくれるのね。
あなたが優しくて本当に辛い。
「夕ご飯は食べた? まだ? じゃあ一緒に食べましょうか。私ができる数少ない手料理を御馳走するわ」
マリアの挙動を理解しかねたように、首を傾げてクリスが身を引く。少し長めのプラチナブロンドは、後ろで一つに纏められていて、ちょっぴりの房が愛おしい。
茶色のリボンがいいわ。後で探して結んであげよう。
立ち上がってクリスの横を通り抜けようとする。
手首を掴まれた。
「マリア」
「シャワーを浴びたいわ」
「1週間って何?」
「時間の長さ」
「1ヶ月って?」
「1週間より長い時間」
「1年って?」
「1ヶ月よりも長い時間」
「じゃあ10年は?」
「え?」
ふいに、クリスが何を言っているのかわからなくなって見上げた。
「答えて、10年は?」
「…1年より長い時間ね」
「じゃあ、100年は?」
「……人の一生ね」
「俺は、その後ずっと1人になるよ?」
クリスが少し微笑んだ。
「マリア…俺がもう嫌いになった?」
ずるい。
「顔も見たくない?」
ずるいわ、クリス。
「触れ合うのも嫌?」
「あなた、すごく、ずるい」
思わず唇を尖らせると、その先をちょいとついばまれた。
「もう少し、一緒に居よう」
「今の相手はニア・スティングレイよ」
「まだ3日しかたってない」
「私は彼女と契約したの」
「君の手料理も食べてない」
「仕事と居場所を引き換えに、でも」
「まだ君の本当の姿も知らない」
「っ」
引き寄せられ、そっと膝で押された部分に体が熱くなる。
「私は引き渡すと約束したのよ!」
ひどい女。
何を考えて、あんなことを納得したのかしら。
涙がにじむ。
「あんなに可愛い子をどうして渡せるなんて思ったのかしら!」
「あんな可愛い子?」
キスを続けようとしたクリスが訝しそうに眉を寄せる。
「誰のこと?」
「決まってるでしょ、私達の娘よ!」
むっとして言い返した。
「あなたに似たプラチナブロンドの! 凄く可愛いの! ああもう、ほんと私って,何て馬鹿なの、何て愚かな母親なのかしら、絶対許せないわ!」
「…っ」
ぷっといきなりクリスが吹き出し笑い出す。
戸惑って口を噤むマリアに笑いを堪えかねたクリスが、それでもマリアの手首をしっかり掴まえたまま涙目で尋ねた。
「あのね、奥様。俺と君の間には、まだ何にもないんだよ?」
一瞬痛みを感じたような表情がクリスの顔を掠めた。
「まだ産まれてもいない娘のために、どうしてそこまで怒ってるの?」
「だって!」
だって。
だって。
「だって、私、もう、あの娘を愛してるわ!」
「…マリア」
そっとクリスが両手を掴んで胸の中に引き寄せた。
初めて気づく。
クリスががたがた震えていることを。
「クリス?」
慌てて掴まれた両手を振りほどいて抱き締めた。
「どうしたの? 気分が悪いの? 何かあったの? あ、いえ、あったわよね、そうよね、ごめんなさい」
途中ではっとして謝罪を繰り返した。
「ごめんなさい、クリス。ごめんなさい、ほんと馬鹿よね、ののしっていいわ」
「奥様……奥様…」
「ベッドに横になる? あなたの部屋まで支える?」
「奥様…マリア……マリア……マリア…だめだよ」
クリスが体を抱く力を強める。
「今そんなことをしたら、俺は君にうんとひどいことをしてしまう」
「ごめんなさい、そうよね、怒ってるわよね、そうよね」
しょんぼりしたマリアはいきなり顎を持ち上げられて唇を封じられる。繰り返し奥まで求める激しいキス。呼吸も許されないほど重ねられて、息苦しさにもがく。
「っ、あっ…っ」
「ま、り、あ……っ」
ようやく口を離したクリスが、肩に顔を埋めながら呻いた。
「君は、俺を、愛してる…っ」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
20
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる