『コニファーガーデン』

segakiyui

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「だめよ」
 マリアは首を振った。
「とても無理。このヒール、きっと10cm以上あるわ」
「とても綺麗だよ」
「それにこのスーツ。クリームホワイト? どうしてこんなにウェストが細いの? ぎりぎりよ?」
「うん、ほんとに綺麗だ、他の男が見ると思うと不愉快だし悔しいよ」
 さあ、奥様お手をどうぞ。
 リムジンのドアを開けたクリスがうやうやしく片手を差し伸べているから降りざるを得ない。そういえば、夢の中で高いヒールを鳴らして走っていたわ。あれも1つの奇跡よね。
 唇を尖らせながらシートから脚を伸ばし、アスファルトに降り立つ。
 目の前に聳えるのはスティングレイ財団の本拠、天辺にはニア・スティングレイが居て、マリアが来るのを今か今かと待っているはず。
「胸を張って、俺のマリア」
 側に立ったクリスが、怯えながら建物を見上げているマリアに囁き、こめかみにキスをした。
「今日の君は一番綺麗だ。行こう? ニア・スティングレイから離脱するんだろ?」
「ええ、クリス」
 唇を引き結ぶ。レースとシルクリボンで飾られたヘッドドレスに通りかかった人が目を丸くしている。ビジネスの場になんて場違い、なんて華やかで傲慢な装い。
「離脱し、交渉するのね」
「そうだよ奥様」
 クリスが静かに指を掬って唇に当てた。
「交渉が終れば、バルディアに戻って、もう一度ちゃんとした結婚式を挙げよう。今度こそ、君の本当の名前を俺に捧げてもらうよ?」
「マリア・ビズコッド・グランシアとしてね?」
「その通り」
「期待しててくれていいわよクリス」
 どんな時でも笑顔で居られる自信があるわ。
 にっこり笑うと、クリスも笑み返してくれる。
 近づいてきた2人を驚いた顔で受付の女性が見返してきた。金色の髪、真っ青な瞳。鮮やかな色の唇はクリスに、マリアに、そしてクリスに向かって物欲しげに開かれる。
「スティングレイ財団へようこそ。お約束はおありでしょうか?」
 軽く首を傾げる、その仕草もクリスに向けられる。
「もちろん」 
 けれどクリスはにこりともせずに応じた。
「ニア・スティングレイと約束している。案内を頼めるかな」
「お名前を伺っても?」
「クリス・アシュレイ」
「こちらの方は」
 ヘッドドレスのレースを透かしても、値踏みする視線はあからさまだった。
「私は」「マリア・アシュレイ。妻だが?」
「失礼いたしました」
 相手の顔が強張った。クリスの声に軽蔑が響いたからだ。
「こちらへ」
 先に立って歩き始める彼女の揺れる腰を見やりながら、マリアはクリスに囁く。
「ちょっと」
「何?」
「ニアに会う前から臨戦態勢?」
「君を不愉快な目で見た」
 クリスがむっつりと応じる。本当に怒っているらしい。
「君の価値をわからない人間がどれぐらいいるかと思うと不快だ」
「クリス」
 呆れて眉を上げる。
「全ての人にわかってもらうのは無理よ」
「全ての人間がわかっては困る」
 クリスは唇を曲げる。
「少なくとも全ての男にはわからなくていい」
「凄く矛盾してるけど」
 囁き交わす2人の前で案内は奥まったドアへ取り次いだ。
 扉が開く。これもまた鮮やかな金髪の長身の男性が微笑む。
「受付のものが失礼をしましたか、ミスターアシュレイ?」
「いや」
 同じ身長からじろりと相手を見やったクリスは冷笑した。
「ものの価値がわからない相手は気にしないことにしているよ」
「…確かに」
 ちらりとマリアを見た男が淡い空色の瞳を細めて笑みを深めた。
「お美しい方ですね」
 クリスの気配が一層固くなったのに溜め息をつく。
 はいはい、いいから大人しくしてて。まるで闘争心むきだしの大きな猫を連れている気分。
「通して、ダルブラン」
「はい、ニア様」
 奥から声が響いて、金髪の男はうやうやしくもう1枚のドアを開けた。
 既視感。けれど、中に居たニア・スティングレイにマリアは息を呑んだ。
「…何か言いたげね、マリア」
 最後にあってからきっちり1週間しかたっていないはず。なのに、笑顔に伴ってニアの唇の端にはくっきりと皺が見えた。
「いえ、あの」
「はっきり言っていいのよ、老けたわね、ニア?って」
 輝くようなあなたと比較されるとほんとに辛いわ。
 冷ややかな口調には疲れが聞こえた。
「マリア」
 背後からクリスに囁かれて顔を上げる。
 そうだった。いくら弱々しく見えたとしても、それがたった1週間のことでも、手加減してはならない、相手はニア・スティングレイだから。
「お別れを言いに来ました」
「そのようね。クリス・アシュレイを従えるなんて想像もしてなかった」
「たくさんの訪問客をありがとうございました」
 ニアに負けず劣らずの冷えた声音でクリスが応じる。
「あまりにも不愉快な方々には遠方への旅行を勧めましたが、数人には戻って頂いたはずです」
「クリス」
 思わず振り向く。
 スティングレイ財団からアルディッドが忍び込んでいたとは聞いたけれど、もっと他にも居たなんて。
「君に約束した野菜ジュースを準備できなかったから馘にしたよ」
 ではあれがそうだったのね。
 ニアをまっすぐ見つめるクリスの目は動かない、まるで一瞬でも気を逸らせば、噛みつかれる猛獣の前に居るように。
「アルディッドは戻って来ていないわ。遠方への旅行者の1人?」
 ニアが眉を上げる。
 アルディッド・ベレンス・リンク。
 調べてみればすぐにわかった。昔クリスが失った婚約者の幼かった弟。今は病気で寝付いている妹を入院させ、その代わりにスティングレイ財団に尽くしていた。
「いえ、彼にも戻ってもらったはずですが」
「では、いなくなったのね」
 ニアは小さく吐息を重ねた。
「それであなたは、私がマリアに強いた酷い仕事の始末をつけに来たの? アシュレイはスティングレイと手を切るというのね?」
 一瞬唇を噛んだニアは、吐き出すように続けた。
「不老不死が必要なのはあなた達じゃない、私なのよ。私なら世界を発展させ幸福に出来る。あなた達はそこに居るだけじゃないの」
 クリスが静かに言い放つ。
「あなたに話があるのは僕ではない」
 ニアが視線を上げる。
「ニア。私は提案を持ってきました」
 震えそうになる声を張って、マリアは口を開いた。
「まあ、それは素敵ね。見事に不老不死一族の奥方に納まったあなたが、哀れな死にかけた老人に何を要求するの」
「私をスティングレイから自由にして下さい」
「あなたはとっくに自由よ。契約はあなたに用立てた資金の回収が済むか、あなたがアシュレイの遺伝子を持ち帰るかすれば、終了となる。先日、資金の回収は終ったと知らされてるわ」
 なのに、今更何を。
「契約だけではなく、アシュレイにつけた監視や拘束全てからです」
「それはできないわ」
 ニアは一言の元に撥ね付ける。
「一体どれほどの資本をアシュレイに注いできたと思っているの」
 どうしても自由になりたいなら、アシュレイを出ることね。
 薄笑みを浮かべてニアは唇を歪ませる。
 怯みかけた心が、その嘲笑に決まった。
「その代わり、アシュレイはスティングレイ財団の宇宙事業への協力を提案します」
「…え?」
「アシュレイはスティングレイが今後行う宇宙開発と長期にわたる宇宙旅行、はっきり言えば、他惑星への探査事業に資金と人材の提供を行います」
「人材…」
 ニアがマリアを見つめ、クリスに目をやり、もう一度マリアを見直す。
「あなたはこの数年、美容や医療の部門でアシュレイの協力を求めてきた。けれど、同時に宇宙開発にも力を入れていますね? 成果ははかばかしくない、何せ国家が行う規模の事業だ」
 クリスがことばを継いだ。
「けれど私達」
 マリアは背筋を伸ばした。ヒールまで伝わる力を溜めて、胸に指先を当て、繰り返す。
「私達、アシュレイならば、事業資金だけではなく、その不死の命をもって宇宙へ旅立てる」
「私は…」
 いつの間にか軽く浮き上がりかけた腰を、ニアはふいにすとんと落とした。瞳を彷徨わせ、のろのろと俯く。
「…ギル・スティングレイは、荷物を運んだわ」
 掠れた声が響いた。
「『必要なものを必要な人の手に』。私の体には骨の髄までその教えが詰まってる」
 だからいつからか考えていたのよ、地球全土に届けられるようになった、ならば次は宇宙だわ、って。
「…夢物語だと思ってた……夢物語にしかならないはずだった……だって、私はもう…死ぬもの……」
 幼い小さな声だった。
「宇宙開発は立ち上げるだけでも20年30年かかる……時間とお金を食い尽くす幻のような事業よ。けれど、どうしても、どうしても、運びたかった、あの空の向こうへ、私の荷物を…だって、私は、スティングレイだもの……ギル・スティングレイの末裔だもの…」
 のろのろと上げたニアの顔が紅潮していた。
「他惑星への有人探査だなんて、国家もまだ手をつけていないわ」
「アシュレイを知らないからでしょう」
 僕達は宇宙から来たと言われているんです。
「っ…」
 ふいに、ニアはくしゃくしゃと顔を歪めた。70歳を超え大企業のCEOでさえ太刀打ち出来ないと言われた老女が、まるでほんの小さな子どものように目を細めて笑う。
「大博打よ、クリス・アシュレイ」
「大丈夫です、マリアさえ下さるなら」
 クリスが微笑みマリアを見やる。
「両方の翼が揃うのだから、空ぐらい飛べる」
 一瞬、ニアの頬を輝く光が伝い落ちた。
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