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3.指令書 A (Aggravation)(1)
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もう嫌だ。俺は金輪際レポートなんつーものは書かん。何があっても書かんぞ。あたら貴重な人生を、何が悲しくて白紙の段々畑に文字を植え続けるようなことをせにゃならんのだ。俺はレポートを書かなたくったって生きていける。そーだ、そーだとも。
「……はぁ」
だが、現実は目の前にどっしりと腰を据えて動こうという気はない様子だった。そうして俺は、あいも変わらず見事に真っ白な『現実』を前に、2日徹夜で蕩けかけた脳みそを酷使している最中だった。
溜息をついてシャーペンを取り上げる。んっ、と気合いを入れて椅子の背から身をおこし、今後こそ、とシャーペンをレポート用紙の上に持っていき……あ、だめだ、文字がミミズになっている。俺の字は、確かに上手くはないが読めないことはないはずだった。けれども、今シャーペンが書いていく線は、縄文式土器よりも訳の分からない、のたうったミミズの大群を作り出すだけだ。
「…ふぅ……」
諦めてシャーペンを放り出し、再び椅子の背に持たれ、腕を頭の後ろで組んで天井を見上げる。ぼんやりと窓の外に目をやり、机の上に目を戻す。静まり返った朝倉家の中では、ことりとも物音がしない。じっとしていると、俺もまた無音の夜の一つになったようで、呼吸も次第にゆっくりになり、瞼が下がり、腕から力が抜け、そうして安らかな眠りへと………落ち込まなかった。
頭の隅の一ヶ所に異様に冴え渡ったところがあって、それが俺を眠らせない。レポートを書こうとして書けない一因も、実はそこにあった。
「……」
椅子から身を起こす。手を解き、机の上、右端に雑然と積まれたノートの隙間に落ち込んでいた、白い飾り気のない封筒を引っ張り出す。宛名は、達筆な男文字で『滝志郎様』とあった。裏を返せば、紺色の印鑑で『K出版』と住所、付け加えて表書きと同じ整った男文字で『浅田国彰』と書かれている。
その手紙は一昨日の昼間、高野に手渡された。何回も読み直し、物覚えの悪さでは名人級の俺でも、さすがに内容をしっかりと覚えている。
「ふぅぅぅ…」
溜息を重ねて中身を見ないまま、再び封筒をノート類の谷間に落とし込んだ。
(これを知ったら、周一郎の奴、さぞ怒るだろうな)
俺にとっても、予想外の出来事だったのだ。
封筒の中身は、できるだけ早く返事をくれ、と伝えていた。
「ふ……う……うぅ…ぅ…」
いつか、別れは来るのだろう。出会った以上、そして俺と周一郎が違う人間である以上。けれども、それがこれほど身近に、それも予想もしていなかったような衣装をつけて現れると、戸惑いばかりが先に立つ。『いつか』ということばは、いつも不確定などこか遠い未来のことで、隣の席からこんな風ににんまりと笑いかけて来るものだとは思っていなかった。それとも、これも、俺の人生に様々なゲームを持ち出して来る、運命の神様とやらの気まぐれなのだろうか。
けれども、俺も半分は、その気まぐれに付き合ってみるのも悪くない、と思い始めている。
「ふ…んむっ」
溜息をつきかけて、途中で止めた。
んなことを今考えている時じゃなかったのだ。俺はどうにかして、今夜中にこのレポートを何とかしないと……。
「よしっ」
頭を切り替えて机に向かう、とその途端。
コンコン。
「!!」
レポート用紙に、ようやく『人類の文字』を書き始めた俺の耳に、唐突にノックの音が聞こえてぎょっとした。バシャッと氷水を浴びせられた気がして怖かったが、周一郎かも知れないと思い直し、そろそろドアを振り返る。それ青待っていたように、もう一度。
コン…コン。
「どうぞ」
響いたノックに、そうっと答えた。
「志郎兄さん…」
「セイヤ…」
入ってきたのは枕を抱えたセイヤ、俺の古い寝間着の上だけを細身に被った格好で、おどおどとドアの隙間から首を出す。
「どうした?」
「…怖い夢、見たら……眠れなくなっちゃって…」
「怖い夢で……眠れなくなった……?」
俺はぽかんと相手を見つめた。少なくともセイヤは13、4歳には見える。それぐらいの男が夢で眠れなくなったと言うのは、あまり聞かない気がする。
「だって…」
視線の意味を察したのか、セイヤは見る見る赤くなった。耳たぶまで紅に染めて、蚊が鳴くように、
「あの男の人達が追いかけて来るんだもん……」
「あ、ああ…」
そうか、そういう夢か。そりゃ、仕方ないかもしれない。
ようやく納得して椅子を離れ、ドアまで迎えに立つ。セイヤは潤んだ瞳で俺を見上げ、懇願した。
「今晩、志郎兄さんの所で寝ちゃダメ?」
「かまわんが…」
ベッドを振り返り、セイヤに目を戻す。
「あんまりきれいじゃないぞ」
「ううん、いい。志郎兄さんの側に居られるなら」
「そうか。じゃ、入れよ、寒いだろ」
「………」
「セイヤ?」
「あ…うん」
セイヤはなぜか一瞬、呆気に取られたように俺を見ていたが、慌ててにこっと笑い、頷いた。そのままベッドまで急ぎ足に進んで枕を放って乗せ、自分もぽん、と飛び乗る。周一郎と4、5歳は違うからか、ひどく子どもっぽい……ま、いいか。
「……」
集中が途切れて(そもそも集中はしていなかったが)吐息をつき、部屋の明かりを消した。
びくっ、とベッドに座り込んでいたセイヤが、体を強張らせてこちらを見る。
しまった、怖い夢を見たんだっけ。
「明るいほうがいいか?」
「え…ううん……僕…暗い方がいい」
セイヤはどぎまぎしたように応じる。やっぱり夢に怯えたなんて、子どもっぽいと我に返ったのか。まあそれでも、怖い体験をしたのは確かだし、それを恥ずかしがる必要はないだろう。大丈夫だ、気にするなと直接言うと気にするだろうし、とことさらあっさりと頷いて見せる。
「そうか、うん、まあ、明るくないとダメな奴もいるからな」
そうだそうだ、俺だって巨大ゴキブリの島とかの映画を見た後なら、絶対明るいままで眠りたい。
「…そうなの?」
セイヤは驚いたように目を見張った。
「僕、今まで、暗い方がいい人ばっかりだったから」
「暗い方がいい人ばっかり?」
怖い夢を見た後で、体験談を語り合って一晩過ごすのか? 暗い中で? 猛者達だな。
「え、ううん、何でもない」
セイヤが慌てた様子で首を振る。
どうも話が噛み合っていない気もするが。
「まあいいか、早く寝ろよ」
「うん…」
頷くセイヤに背中を向けて、机の上の灯をつける。
「……そこは点けるの?」
「……眩しいか?」
一つ一つに拘るな?
振り返って尋ねる。
どうしても眩しいなら、最悪この部屋をこいつに譲って……ああ、それじゃ一緒に居ることにはならないか。毛布かけるとか、俺が毛布を被って灯りを抱え込むとか。悩みつつ答えを待つと、
「ううん…」
「眩しかったら言えよ」
「うん」
こくんとセイヤは首を縦に振った。もぞもぞとベッドに潜り込むのに、ようやく納得してくれたかと背中を向けて、座り直す。
さて、レポートだ。
「…志郎兄さん」
「ん?」
「僕、服、脱いでてもいい?」
暑いのかな……まあ、子どもは体温が高いって言うけどな。
「いいけど、タオルぐらいは着ておけよ、風邪引くぞ」
「…うん。………優しいね……志郎兄さん」
「そうか…?」
で、そうなるとタイトルがこれは、まずいかな。
「そんなこと言われたの……初めてだ」
「ふうん…」
じゃあこいつも孤児なのかな、とレポートに集中しながらぼんやりと思う。背中越しに聞こえて来るセイヤの声は、囁き混じりの甘い声音だった。しっとりしてて部屋の空気に紛れ込むような。静かな声だけれど、耳にははっきり届く。けれど、できればもう少し、黙っててくれると有難いんだが。ここのところ周一郎に付きっきりだったから、寂しがっているのかも知れないが。俺にも事情がレポートが。
「…志郎兄さん……来ないの?」
「うーん…こっちが上がらんことにはなあ…」
そうとも、せめて、下書きぐらいは仕上げておかないと、後に待っているのが天国じゃないことは想像がつく。安眠できるわけもない。
「でも…夜は短いよ」
「だろ? さすがに一晩中ってのは堪えるからなあ」
俺もいつまでも若くないし。少なくとも、3日徹夜は避けたい。
「一晩……中……?」
セイヤの声が不安そうに震えた気がして、振り返る。
「どうした?」
「う…ううん…何でもない……何でもないっ…」
ベッドで半身を起こしていたセイヤが、はっとしたように頭を振る。
「志郎兄さんが……そう言うなら……僕…」
「お前? いや、お前は先に寝てていいから」
俺は急いで手を振った。そうか、俺のレポートに付き合って起きていなけりゃならないとでも思ったのか。
「一晩中は耐えられんだろ?」
「う…ん………だけど…そんなの、嫌だ」
「は?」
「僕が……そんな……何も知らないまま……って言うの…」
「仕方ないだろ」
セイヤって、こんな義理堅い性格だったっけ? タオルケットを肩から被って俯くセイヤを見つめる。
「それに、お前が寝ててくれた方が、こっちも気が楽だし」
なまじ付き合って起きていられると、俺の方が落ち着かない。
「そうなの……わかった」
なぜかセイヤはしょんぼりして肩を落とし、横になった。妙に光る眼で見返したかと思うと、覚悟を決めたように眉を寄せて目を閉じる。
「いいよ……僕…」
「ああ、とにかく寝ててくれ。こっちはレポートに一晩中かかりそうだし、付き合って起きててくれなくていいから」
「…へ?」
背中を向けると同時に、セイヤが頓狂な声を出した。
「志郎兄さん?」
「何だ?」
「……そのつもり、で僕を入れたんじゃないの?」
「……そのつもりって、どのつもりだ?」
意味がわからず振り返る。んなろ、最近は謎かけ遊びでも流行ってるのか?
「どの、つもりって」
「……だからな」
口ごもったセイヤに説明する。
「お前は怖い夢を見て眠れない。で、俺の所へ来た。俺は一晩中このレポートを書くのに起きてるだろうし、その片手間に出てくる化け物の相手ぐらいしてやれる。だからお前はぐっすり眠れる。以上、ほかに何がある?」
セイヤが目を見開く。
「僕を……眠らせてくれるために、部屋に入れてくれたの?」
「……」
根本的な何かが違うのか?
「…お前がそう言ったんだろーが」
それとも何か、このレポートを仕上げる間に、俺の脳がストレスによって壊滅的な被害を受けて、言語能力が破綻したのか。
「…そう言ったけど」
「よし、じゃあ問題ない。さっさと大人しく寝てろ」
このままだとやばいまずい、確実に3日徹夜へまっしぐらだ。殺気立って唸る。
「こっちはレポートに集中したい」
「…志郎、兄さん」
目と一緒にほんわり口を開いていたセイヤが、ふっと唇をすぼめて笑った。
「はいはい、志郎兄さんです。よくわかっただろ、おやすみ、おやすみ」
忙しく会話を切り上げて、レポートに向き直る。
さてつまりだな、こう言う章分けにしていくと、この内容がはみ出てしまう……てことは……こいつは先にきてないと……だな。
「……はぁ」
だが、現実は目の前にどっしりと腰を据えて動こうという気はない様子だった。そうして俺は、あいも変わらず見事に真っ白な『現実』を前に、2日徹夜で蕩けかけた脳みそを酷使している最中だった。
溜息をついてシャーペンを取り上げる。んっ、と気合いを入れて椅子の背から身をおこし、今後こそ、とシャーペンをレポート用紙の上に持っていき……あ、だめだ、文字がミミズになっている。俺の字は、確かに上手くはないが読めないことはないはずだった。けれども、今シャーペンが書いていく線は、縄文式土器よりも訳の分からない、のたうったミミズの大群を作り出すだけだ。
「…ふぅ……」
諦めてシャーペンを放り出し、再び椅子の背に持たれ、腕を頭の後ろで組んで天井を見上げる。ぼんやりと窓の外に目をやり、机の上に目を戻す。静まり返った朝倉家の中では、ことりとも物音がしない。じっとしていると、俺もまた無音の夜の一つになったようで、呼吸も次第にゆっくりになり、瞼が下がり、腕から力が抜け、そうして安らかな眠りへと………落ち込まなかった。
頭の隅の一ヶ所に異様に冴え渡ったところがあって、それが俺を眠らせない。レポートを書こうとして書けない一因も、実はそこにあった。
「……」
椅子から身を起こす。手を解き、机の上、右端に雑然と積まれたノートの隙間に落ち込んでいた、白い飾り気のない封筒を引っ張り出す。宛名は、達筆な男文字で『滝志郎様』とあった。裏を返せば、紺色の印鑑で『K出版』と住所、付け加えて表書きと同じ整った男文字で『浅田国彰』と書かれている。
その手紙は一昨日の昼間、高野に手渡された。何回も読み直し、物覚えの悪さでは名人級の俺でも、さすがに内容をしっかりと覚えている。
「ふぅぅぅ…」
溜息を重ねて中身を見ないまま、再び封筒をノート類の谷間に落とし込んだ。
(これを知ったら、周一郎の奴、さぞ怒るだろうな)
俺にとっても、予想外の出来事だったのだ。
封筒の中身は、できるだけ早く返事をくれ、と伝えていた。
「ふ……う……うぅ…ぅ…」
いつか、別れは来るのだろう。出会った以上、そして俺と周一郎が違う人間である以上。けれども、それがこれほど身近に、それも予想もしていなかったような衣装をつけて現れると、戸惑いばかりが先に立つ。『いつか』ということばは、いつも不確定などこか遠い未来のことで、隣の席からこんな風ににんまりと笑いかけて来るものだとは思っていなかった。それとも、これも、俺の人生に様々なゲームを持ち出して来る、運命の神様とやらの気まぐれなのだろうか。
けれども、俺も半分は、その気まぐれに付き合ってみるのも悪くない、と思い始めている。
「ふ…んむっ」
溜息をつきかけて、途中で止めた。
んなことを今考えている時じゃなかったのだ。俺はどうにかして、今夜中にこのレポートを何とかしないと……。
「よしっ」
頭を切り替えて机に向かう、とその途端。
コンコン。
「!!」
レポート用紙に、ようやく『人類の文字』を書き始めた俺の耳に、唐突にノックの音が聞こえてぎょっとした。バシャッと氷水を浴びせられた気がして怖かったが、周一郎かも知れないと思い直し、そろそろドアを振り返る。それ青待っていたように、もう一度。
コン…コン。
「どうぞ」
響いたノックに、そうっと答えた。
「志郎兄さん…」
「セイヤ…」
入ってきたのは枕を抱えたセイヤ、俺の古い寝間着の上だけを細身に被った格好で、おどおどとドアの隙間から首を出す。
「どうした?」
「…怖い夢、見たら……眠れなくなっちゃって…」
「怖い夢で……眠れなくなった……?」
俺はぽかんと相手を見つめた。少なくともセイヤは13、4歳には見える。それぐらいの男が夢で眠れなくなったと言うのは、あまり聞かない気がする。
「だって…」
視線の意味を察したのか、セイヤは見る見る赤くなった。耳たぶまで紅に染めて、蚊が鳴くように、
「あの男の人達が追いかけて来るんだもん……」
「あ、ああ…」
そうか、そういう夢か。そりゃ、仕方ないかもしれない。
ようやく納得して椅子を離れ、ドアまで迎えに立つ。セイヤは潤んだ瞳で俺を見上げ、懇願した。
「今晩、志郎兄さんの所で寝ちゃダメ?」
「かまわんが…」
ベッドを振り返り、セイヤに目を戻す。
「あんまりきれいじゃないぞ」
「ううん、いい。志郎兄さんの側に居られるなら」
「そうか。じゃ、入れよ、寒いだろ」
「………」
「セイヤ?」
「あ…うん」
セイヤはなぜか一瞬、呆気に取られたように俺を見ていたが、慌ててにこっと笑い、頷いた。そのままベッドまで急ぎ足に進んで枕を放って乗せ、自分もぽん、と飛び乗る。周一郎と4、5歳は違うからか、ひどく子どもっぽい……ま、いいか。
「……」
集中が途切れて(そもそも集中はしていなかったが)吐息をつき、部屋の明かりを消した。
びくっ、とベッドに座り込んでいたセイヤが、体を強張らせてこちらを見る。
しまった、怖い夢を見たんだっけ。
「明るいほうがいいか?」
「え…ううん……僕…暗い方がいい」
セイヤはどぎまぎしたように応じる。やっぱり夢に怯えたなんて、子どもっぽいと我に返ったのか。まあそれでも、怖い体験をしたのは確かだし、それを恥ずかしがる必要はないだろう。大丈夫だ、気にするなと直接言うと気にするだろうし、とことさらあっさりと頷いて見せる。
「そうか、うん、まあ、明るくないとダメな奴もいるからな」
そうだそうだ、俺だって巨大ゴキブリの島とかの映画を見た後なら、絶対明るいままで眠りたい。
「…そうなの?」
セイヤは驚いたように目を見張った。
「僕、今まで、暗い方がいい人ばっかりだったから」
「暗い方がいい人ばっかり?」
怖い夢を見た後で、体験談を語り合って一晩過ごすのか? 暗い中で? 猛者達だな。
「え、ううん、何でもない」
セイヤが慌てた様子で首を振る。
どうも話が噛み合っていない気もするが。
「まあいいか、早く寝ろよ」
「うん…」
頷くセイヤに背中を向けて、机の上の灯をつける。
「……そこは点けるの?」
「……眩しいか?」
一つ一つに拘るな?
振り返って尋ねる。
どうしても眩しいなら、最悪この部屋をこいつに譲って……ああ、それじゃ一緒に居ることにはならないか。毛布かけるとか、俺が毛布を被って灯りを抱え込むとか。悩みつつ答えを待つと、
「ううん…」
「眩しかったら言えよ」
「うん」
こくんとセイヤは首を縦に振った。もぞもぞとベッドに潜り込むのに、ようやく納得してくれたかと背中を向けて、座り直す。
さて、レポートだ。
「…志郎兄さん」
「ん?」
「僕、服、脱いでてもいい?」
暑いのかな……まあ、子どもは体温が高いって言うけどな。
「いいけど、タオルぐらいは着ておけよ、風邪引くぞ」
「…うん。………優しいね……志郎兄さん」
「そうか…?」
で、そうなるとタイトルがこれは、まずいかな。
「そんなこと言われたの……初めてだ」
「ふうん…」
じゃあこいつも孤児なのかな、とレポートに集中しながらぼんやりと思う。背中越しに聞こえて来るセイヤの声は、囁き混じりの甘い声音だった。しっとりしてて部屋の空気に紛れ込むような。静かな声だけれど、耳にははっきり届く。けれど、できればもう少し、黙っててくれると有難いんだが。ここのところ周一郎に付きっきりだったから、寂しがっているのかも知れないが。俺にも事情がレポートが。
「…志郎兄さん……来ないの?」
「うーん…こっちが上がらんことにはなあ…」
そうとも、せめて、下書きぐらいは仕上げておかないと、後に待っているのが天国じゃないことは想像がつく。安眠できるわけもない。
「でも…夜は短いよ」
「だろ? さすがに一晩中ってのは堪えるからなあ」
俺もいつまでも若くないし。少なくとも、3日徹夜は避けたい。
「一晩……中……?」
セイヤの声が不安そうに震えた気がして、振り返る。
「どうした?」
「う…ううん…何でもない……何でもないっ…」
ベッドで半身を起こしていたセイヤが、はっとしたように頭を振る。
「志郎兄さんが……そう言うなら……僕…」
「お前? いや、お前は先に寝てていいから」
俺は急いで手を振った。そうか、俺のレポートに付き合って起きていなけりゃならないとでも思ったのか。
「一晩中は耐えられんだろ?」
「う…ん………だけど…そんなの、嫌だ」
「は?」
「僕が……そんな……何も知らないまま……って言うの…」
「仕方ないだろ」
セイヤって、こんな義理堅い性格だったっけ? タオルケットを肩から被って俯くセイヤを見つめる。
「それに、お前が寝ててくれた方が、こっちも気が楽だし」
なまじ付き合って起きていられると、俺の方が落ち着かない。
「そうなの……わかった」
なぜかセイヤはしょんぼりして肩を落とし、横になった。妙に光る眼で見返したかと思うと、覚悟を決めたように眉を寄せて目を閉じる。
「いいよ……僕…」
「ああ、とにかく寝ててくれ。こっちはレポートに一晩中かかりそうだし、付き合って起きててくれなくていいから」
「…へ?」
背中を向けると同時に、セイヤが頓狂な声を出した。
「志郎兄さん?」
「何だ?」
「……そのつもり、で僕を入れたんじゃないの?」
「……そのつもりって、どのつもりだ?」
意味がわからず振り返る。んなろ、最近は謎かけ遊びでも流行ってるのか?
「どの、つもりって」
「……だからな」
口ごもったセイヤに説明する。
「お前は怖い夢を見て眠れない。で、俺の所へ来た。俺は一晩中このレポートを書くのに起きてるだろうし、その片手間に出てくる化け物の相手ぐらいしてやれる。だからお前はぐっすり眠れる。以上、ほかに何がある?」
セイヤが目を見開く。
「僕を……眠らせてくれるために、部屋に入れてくれたの?」
「……」
根本的な何かが違うのか?
「…お前がそう言ったんだろーが」
それとも何か、このレポートを仕上げる間に、俺の脳がストレスによって壊滅的な被害を受けて、言語能力が破綻したのか。
「…そう言ったけど」
「よし、じゃあ問題ない。さっさと大人しく寝てろ」
このままだとやばいまずい、確実に3日徹夜へまっしぐらだ。殺気立って唸る。
「こっちはレポートに集中したい」
「…志郎、兄さん」
目と一緒にほんわり口を開いていたセイヤが、ふっと唇をすぼめて笑った。
「はいはい、志郎兄さんです。よくわかっただろ、おやすみ、おやすみ」
忙しく会話を切り上げて、レポートに向き直る。
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