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「大崎さん」
「ああ、こんにちは。珍しいね、こんな時間に。ほら、順、こんにちは、しなさい」
「……ちは」
大柄な大崎は、連れていた子どもに命じた。弘とも仲のいい子どもが笑顔を向ける。弘がはしゃいだ声をたてた。
「どうしたの?」
「うん…何か……入りにくくって…」
「え…」
大崎はひょいと砂場を見てにやりと笑った。
「ああ、春組さんか。この時間はそうだね。何かあったの?」
「ちょっと……弘がトラックを欲しがって…」
容子が視線で示した先の母親を見て、大崎は苦笑いをした。
「あのお母さんなら、気にしない方がいいよ。ああいう人なの。子どもが他の子どもをぶってても気がつかないしね。この間も、真理子ちゃんがあの子に砂かけられたのに、あの人、『あら大変』で済ましちゃったのよ。子ども叱りもしないで。何しに来てんだか、ねえ。…あ、そっちは駄目、危ないよ」
大崎は、一緒に遊び始めた弘と順が道路側に行くのを制しながら、肩をすくめて振り返った。
「いろんな母親がいるわよ、ほんと。よくテレビでさ、『近頃の若い母親』とか、『まだ年若い母親』ってすぐに言うけどさ、自分で一度育ててご覧なさいって言うのよ。あたし、それをちゃんと子ども育てたおばさんが言うのは我慢できるけど、事件の被害者に『おつらいですか』なんてわけのわかんないこと聞くアナウンサーや、いい年のおっさんに言われたくないわね。その年代の男なんて、子育てなんかは妻任せ、赤ん坊は夜中にお乳を飲むってことも知らないに決まってるんだから」
いつもながら、明快な大崎の口調に、容子は思わずくすくす笑った。
「迷ってるのも…確かなんだけどね」
つい、そう呟く。大崎が聞きつけて、すぐに頷いた。
「そ、ね。でも経験がないことだもの、迷って当然でしょ。おまけにいろんな人や本が聞いてもいないのに好き勝手なことを教えてくれるしね。あたしの友達、親類のおばさんからね、子どもの性格が悪いのは、あんたが妊娠中に笑い過ぎたせいだって言われたんだって」
「えー…それはあんまりよねえ」
「あんまりだから無視してたら、今度はことごとく『忠告』してくれるんだって。麦を食べさせないと背が伸びないとか、朝夕お風呂にいれないと、おへそから『ばい菌』が入って死んでしまうとか。その子が風邪でもひこうものなら、『ああ、ほら、言ったとおりだ』って」
「たまらないわね…」
「そう、たまらないわよね……責任はこっち持ち、だもの。これでケガでもさせた日には、きっとテレビで言われるのよ、『無帰任な若い母親』が、って」
「誰が若いの?」
「言ったわねえ……でも、よくあるじゃない。子ども置いてパートに出る母親。あたし、あれは何か許せないなあ」
容子はどきりとした。
「母親が働かなくちゃ食べていけないならまだしも、そうじゃない母親もいるでしょ。自己実現だの何だの、って。でも、一応何があろうと、母親は母親なわけじゃない。子どもに手がかかることぐらい、わかりそうなもんでしょう? 子どもにとっては代用がないのよ。それを自分のために放っていくなんて、それなら初めから産まなきゃいいのよ。受胎調節なんて、よーく知ってるでしょうに」
どこか皮肉な大崎のことばに、容子は自分のことを言われているような気がして、そうね、と小さく頷いた。
容子が書き続けたいと思う気持ちは、やっぱりどこか身勝手なのだろうか。子供を産んだ母親ならば、その子どもが無事育つことだけを祈って、日々を楽しみ暮らせばいいのだろうか。
もし、そうだとしたら、子どもを育てている間の容子個人はどこにいってしまうのだろうか。それとも、自分にこだわり続けてしまうのは、よく言われるように、公の役割を意識していない、戦後教育で作られた甘えん坊の証ということになるのだろうか。
「えー? なあにぃ…ごめんなさいね、順が呼んでるみたい」
「どうぞ、行ってあげて」
いそいそと駆け出して行く大崎の後ろ姿を見る容子の頭の中には、貴子と大崎、まったく立場を逆にした2人の友人のことが巡っている。
子どもを育てながら、自分の能力や趣味も伸ばして動き回っている貴子。自分のことより、まず子どもを育てるという役目を果たすべきだという大崎。
どちらも自信に満ちているし、どちらの言うこともそれぞれに正しくふさわしく思える。その2人の間で、ぶざまに揺れ動いたままの自分が、一番みっともなくて情けない。
「まー!」
座り込んでアリの行列を見ていた弘が声を上げて容子を呼んだ。ことさらゆっくり近づいてくる容子を待ち兼ねて立ち上がり、足元を指さしてもう一度しゃがみこむ。
「何? それはありさん」
「あい……あいあん。あいさん」
「そう、上手ねえ、弘、どんどんいろんなこと、覚えるのねえ……お母さんよりよっぽど賢いわよねえ」
呟きながら、容子は膝を抱えた。
いつまでたっても、容子は同じところをぐるぐると巡っているように思える。
「あ、石津さあん!」
遠くに居た大崎が叫んだのに、容子は立ち上がった。
「なあにい」
「明日、牛乳パックの回収なの、お手伝いお願いねえ」
「はあい」
答えながら、一層気分が重くなった。
「ああ、こんにちは。珍しいね、こんな時間に。ほら、順、こんにちは、しなさい」
「……ちは」
大柄な大崎は、連れていた子どもに命じた。弘とも仲のいい子どもが笑顔を向ける。弘がはしゃいだ声をたてた。
「どうしたの?」
「うん…何か……入りにくくって…」
「え…」
大崎はひょいと砂場を見てにやりと笑った。
「ああ、春組さんか。この時間はそうだね。何かあったの?」
「ちょっと……弘がトラックを欲しがって…」
容子が視線で示した先の母親を見て、大崎は苦笑いをした。
「あのお母さんなら、気にしない方がいいよ。ああいう人なの。子どもが他の子どもをぶってても気がつかないしね。この間も、真理子ちゃんがあの子に砂かけられたのに、あの人、『あら大変』で済ましちゃったのよ。子ども叱りもしないで。何しに来てんだか、ねえ。…あ、そっちは駄目、危ないよ」
大崎は、一緒に遊び始めた弘と順が道路側に行くのを制しながら、肩をすくめて振り返った。
「いろんな母親がいるわよ、ほんと。よくテレビでさ、『近頃の若い母親』とか、『まだ年若い母親』ってすぐに言うけどさ、自分で一度育ててご覧なさいって言うのよ。あたし、それをちゃんと子ども育てたおばさんが言うのは我慢できるけど、事件の被害者に『おつらいですか』なんてわけのわかんないこと聞くアナウンサーや、いい年のおっさんに言われたくないわね。その年代の男なんて、子育てなんかは妻任せ、赤ん坊は夜中にお乳を飲むってことも知らないに決まってるんだから」
いつもながら、明快な大崎の口調に、容子は思わずくすくす笑った。
「迷ってるのも…確かなんだけどね」
つい、そう呟く。大崎が聞きつけて、すぐに頷いた。
「そ、ね。でも経験がないことだもの、迷って当然でしょ。おまけにいろんな人や本が聞いてもいないのに好き勝手なことを教えてくれるしね。あたしの友達、親類のおばさんからね、子どもの性格が悪いのは、あんたが妊娠中に笑い過ぎたせいだって言われたんだって」
「えー…それはあんまりよねえ」
「あんまりだから無視してたら、今度はことごとく『忠告』してくれるんだって。麦を食べさせないと背が伸びないとか、朝夕お風呂にいれないと、おへそから『ばい菌』が入って死んでしまうとか。その子が風邪でもひこうものなら、『ああ、ほら、言ったとおりだ』って」
「たまらないわね…」
「そう、たまらないわよね……責任はこっち持ち、だもの。これでケガでもさせた日には、きっとテレビで言われるのよ、『無帰任な若い母親』が、って」
「誰が若いの?」
「言ったわねえ……でも、よくあるじゃない。子ども置いてパートに出る母親。あたし、あれは何か許せないなあ」
容子はどきりとした。
「母親が働かなくちゃ食べていけないならまだしも、そうじゃない母親もいるでしょ。自己実現だの何だの、って。でも、一応何があろうと、母親は母親なわけじゃない。子どもに手がかかることぐらい、わかりそうなもんでしょう? 子どもにとっては代用がないのよ。それを自分のために放っていくなんて、それなら初めから産まなきゃいいのよ。受胎調節なんて、よーく知ってるでしょうに」
どこか皮肉な大崎のことばに、容子は自分のことを言われているような気がして、そうね、と小さく頷いた。
容子が書き続けたいと思う気持ちは、やっぱりどこか身勝手なのだろうか。子供を産んだ母親ならば、その子どもが無事育つことだけを祈って、日々を楽しみ暮らせばいいのだろうか。
もし、そうだとしたら、子どもを育てている間の容子個人はどこにいってしまうのだろうか。それとも、自分にこだわり続けてしまうのは、よく言われるように、公の役割を意識していない、戦後教育で作られた甘えん坊の証ということになるのだろうか。
「えー? なあにぃ…ごめんなさいね、順が呼んでるみたい」
「どうぞ、行ってあげて」
いそいそと駆け出して行く大崎の後ろ姿を見る容子の頭の中には、貴子と大崎、まったく立場を逆にした2人の友人のことが巡っている。
子どもを育てながら、自分の能力や趣味も伸ばして動き回っている貴子。自分のことより、まず子どもを育てるという役目を果たすべきだという大崎。
どちらも自信に満ちているし、どちらの言うこともそれぞれに正しくふさわしく思える。その2人の間で、ぶざまに揺れ動いたままの自分が、一番みっともなくて情けない。
「まー!」
座り込んでアリの行列を見ていた弘が声を上げて容子を呼んだ。ことさらゆっくり近づいてくる容子を待ち兼ねて立ち上がり、足元を指さしてもう一度しゃがみこむ。
「何? それはありさん」
「あい……あいあん。あいさん」
「そう、上手ねえ、弘、どんどんいろんなこと、覚えるのねえ……お母さんよりよっぽど賢いわよねえ」
呟きながら、容子は膝を抱えた。
いつまでたっても、容子は同じところをぐるぐると巡っているように思える。
「あ、石津さあん!」
遠くに居た大崎が叫んだのに、容子は立ち上がった。
「なあにい」
「明日、牛乳パックの回収なの、お手伝いお願いねえ」
「はあい」
答えながら、一層気分が重くなった。
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