『朱の狩人』

segakiyui

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9.月の未来図(1)

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「かわいそうにね、仁」
 気がつけば、両腕は垂らしたまま首だけを朱乃の指に支えられ、地面に膝をついた姿勢で、涙で濡れた頬を撫でられていた。
 朱乃の指はひんやりとして冷たかった。そっと静かに、唇に張りついていた桜を拭うように輪郭を辿っていく。蘇った記憶に呼吸を乱れさせている仁の口にときおり深く指を差し入れながら、2度3度と撫でさする。
「どうして皆と生きていけるなんて……・愚かなことを考えたの……・」
 哀れみを込めて朱乃が唇を寄せてきた。血の気配を濃厚に漂わせた口が唇を吸い込み、仁の体の中に別の記憶が弾けていく。
 ドコマデ、イッテモ、1人ダカラ。

 私は産道をようやく通り抜けた。きつく締め上げられていた痛みと苦しさから解放されて、ほっとして泣き声をあげると、「よしよし」と誰かが温かなものでくるんでくれた。
 しばらくすると寒くてひもじくなってきた。お腹が空いたのだ。もう一度声を上げて呼ぶと、また誰かがやってきて、ぬくぬくと抱きかかえてくれたばかりか、口に甘くておいしいものを入れてくれた。見る見る体が温まり、ふくふくと満たされていく。とろけるような感覚。
 うれしくなって私は笑う。光が開いた視界に弾けた。まばゆい。でも楽しい。
 急いで飛び込んでくるさまざまな刺激に意識と感覚を再構築する。私の声に何かの音が応じて、その音と私の声が重なって響き合い、また柔らかな振動を私に与えてくれた。よかった。ここにいて、ほんとうによかった。
 私は安堵し、眠りにつく。
 また、お腹が減って目が覚めた。体も半分濡れているようだ。気づくとすぐに寒くなった。誰か、と呼んだ。またあのぬくぬくをちょうだい。
 けれど、いつまでたっても誰もこない。どうしたのだろう。声が届かないのだろうか。
 もう少し大きな声で泣いてみる。でもまだ来ない。寒さがつのり、体が震え出す。命が失われていきそうな不安と恐怖が押し寄せてくる。ねえ、どうしたの、どうして誰もこないの。
 やがてようやく抱き上げられ、私は息を吐いた。よかった。少し遅れただけだったんだ。大丈夫、また温めてもらえて安心できる。体にべっとりくっついていた冷たくて気持ち悪い濡れたものを剥がされて、ごしごし擦られ、再び包まれる。うん、気持ちよくなった。少しほっとして、空腹を強く感じた。
 お腹が空いたよ。泣き声を上げて、両手を伸ばし、訴えてみる。開いた口に甘いものが入ってきた。でも……・どうしたのだろう、おいしくない。確かに温かくて甘いのだけど。
 私は眉をしかめる。口を閉じ首を振る。違う、と泣く。これじゃない。さっきのをちょうだい。甘くておいしくて、体中がぬくぬくしたの。
 唐突に私は放り出された。どすっと激しい衝撃に一瞬息が詰まりそうになる。私は驚き怯える。お腹はまだ空いている。体も冷えて震えている。一生懸命泣く。何かまずかったのだろうか。こうやって泣くことだろうか。それとも、両手を伸ばしたことだろうか。ひょっとして、ぬくぬくを求めたこと自体、ほんとうはよくないことだったのだろうか。
 私は黙って周囲をうかがう。回りは静まり返っている。誰もいない。少し泣く。でも、何も動かない。静かでひんやりした空間に私は1人で置かれている。どれだけ呼んでも、必死にもがいても、私はどこにも行けず、何も与えられない。
 そうか、と突然納得する。誰もいないのか。誰もいないから、誰も来ないのか。でも、そう納得しても、寒さは減らない、ひもじさも減らない。
 ふと不安が過る。このまま死ぬのだろうか。それはみるみる胸を圧迫する。私は1人で動けない。何がまずかったのか、何がだめだったのか。混乱し、震え出す。私は風の通り過ぎる場所に、まるでモノみたいに置かれている。

(これは……・朱乃の記憶……?)
「あなたのことをわかるのはあたしだけよ、仁。あたしだけがあなたの傷みをわかる。なのに、どうして逃げ回るの? あたしのことだけ考えて?」
 囁かれた声が、朱乃の指から皮膚を通って肌の下に、耳から滑り込み体の奥に、拒みようのない強さでしみ通り入り込み、仁の意識を侵していく。朱乃と自分の境界が、つながっている部分から蕩けて混じりあい消えていく。朱乃の感じた苦痛が怒りが悲しみが、仁の心に刷り込まれる。自分の感覚があやふやになり、曖昧になり、力を奪われる。
 一瞬だけ口が解放されて、また深く奪われた。重なった口から入り込んだ朱乃の舌が、ぴちゃ、と濡れた音を響かせて確かめるように唇をなぞる。柔らかな熱い感触が蠢きながら、仁の唇を味わい辿り、再び逃げようのない深さで口の中を這い回っていく。それと同時に流し込まれてくる感覚と記憶が、仁の意識と思考を紅の渦に巻き込んでいく。
 動けない。手足から力が抜けていく。
「ねえ? 気持ちいいでしょ、仁……? 女の子とキスしたこともないんでしょう?」
 また少し口が離れ囁き声が耳に届いた。吐息が吹きつけられ、首筋を指が触れるか触れない程度で撫で上げていく。ぞくりとした感覚が下半身から這い上がって、視界が眩み、仁は眉を寄せた。自分がもう、朱乃の前に晒されたたった1つの感覚器になってしまったような気がする。仁の感覚の全てが朱乃の神経に繋がれ、朱乃の感情が仁の心に張りつき重なり、自分がどこにいるのか見失い彷徨い始める。
 朱乃は微笑み、仁を見下ろしている。
「仁……ようやく見つけた……もう放さない……あなたはあたしのものよ」
 朱乃は3度唇を落としてきた。するりと動いたもう片方の手が仁の体を這いはじめる。まるで筋肉と骨格を1つ1つ確かめていくように。口を塞がれて呼吸が乱れていく仁を楽しむように、朱乃は唇を離さない。頭の芯が熱くなり、胸が焼けついていく。
 ソウヨ、コレハ、アタシノモノ。

 猫を拾った。
 生まれてまもない小さな猫。空き地の隅のぐずぐずと崩れかけた段ボールの中に入っていた。
 先日の雨で濡れそぼっていたから、抱き上げてスカートで包んで拭いてやると、なう、と小さく鳴いて私を見上げた。真っ青な澄んだ目。ふわふわと膨らんだ細くて柔らかな毛に包まれた、細くて頼りない、けれど温かな感触。ふいに思った。そうだ、この猫を飼おう。
 家に戻っておかあさんに訴えた。ねえ、捨てられてたの、誰も気にしてないの、このままだと死んじゃうから、飼ってもいいでしょ? 前に犬は飼っていたから、ひょっとすると大丈夫かもと思っていたのに、おかあさんは困った顔をして口ごもった。でも、おとうさんが猫は嫌いなのよ、と言った。でも、と私は必死に猫を掌に乗せて差上げた。このままだと死んじゃうよ、ほら、こんなに小さくて、何にもできなくて、震えてるの。言いながら私もなぜだろう、緊張し震えていた。でもおかあさんは首を振った。だめよ、おとうさんが嫌いだし、おかあさんも好きじゃないから。
 でも、と私はなおも頼んだ。不安で息苦しいほどだった。見捨てられると思った。でも、そんなこと、とても受け入れられなかった。私が世話をするから、庭の端に、ね、お願い、お願い、お願い。必死に頼んだ、訴えた。ほんの少しでいい、ほんの1日でもいい、そうね、かわいそうだから置いてみてもいいかもね、と言ってほしかった。でも。
 だめよ、もうこれ以上困らせないで、それでなくても迷惑をかけてるのよ。おかあさんは言い捨てて立ち上がった。元のところへ戻してらっしゃい。
 元のところへ? 私はショックを受けた。あのぐずぐずに潰れた段ボール箱の中に? 死ぬかもしれないのに、戻しておく? 立ち竦んだ私に苛立ったように、おかあさんは声を強めた。さあ、早く。
 何だか体中が震えてなかなか歩けなかった。空き地に戻って段ボールを見た。このままここに戻したら、きっとこの子は死んでしまう。誰にも気づかれないままで、少しずつ声もでなくなって、身動きできなくなって、お腹が空いて寒くて凍えて、1人ぼっちで死んでしまう。
 ぞっとした。体中が強ばって、私も身動きできなくなった。そんなことはいやだ。そんなことは許せない。ならばどうする?
 子猫を抱いて決心した。ならいい、私がここで飼おう。
 新しい段ボール箱を用意した。雨が入らないように雨避けもつくって、毛布を入れて、毎日ミルクとビスケットを持って通った。細い針金みたいな手足、ふかふかの羽毛みたいな毛、何かを問いかけるようなきれいな瞳、大きな柔らかな耳。
 かわいい、かわいい、すごくかわいい。触って抱き上げほおずりすると、胸がどきどきして涙が出そうだった。大丈夫、大丈夫、きっと大丈夫。死なない、私が頑張れば。そうだ、絶対大事にして、絶対守ろう。
 ところがある日出かけていくと、子猫は箱の中でひくひくと震えていた。うろたえて抱き上げる、苦しそうになあぅ、と鳴く。何かがきっとまずかったのだ。私のやり方がきっと何かまずかった。けれど、何がまずいのかわからない。
 必死に意識をこらすと、子猫の中が透けて見えた。入り組んだ内臓と骨と筋肉、血管の神経、それらのどこかがおかしいのだろうに、どこがおかしいのかわからない。焦っていると、ひぅう、と強く息を引いて、ふいに子猫は動かなくなってしまった。え? 何? どうしたの? 重なる視界に動かなくなった小さな赤い木の実のような心臓があった。赤くてぴくぴくしていたのに、どんよりと濁り曇った血が滞り、薄黒い靄が立ち込めている。そして、それはもう2度と動かない。
 立ち竦む私の掌の中、小さな体がどんどん冷たくなってくる。これは何? これは、この掌に乗っている重くて痛い感覚は何? この足下を攫うような頼りなさは何? へたへたと座り込む。体ががくがく震えている。これはどこからやってきたの、どうして私の掌の中に蹲っているの。
 雨が降り出した。私は子猫を濡れさせまいと懐に庇った。もう2度と動かない、それは死というもので、子猫はとっくに死んでいるのだとわかっていたのに、薄目を開けたその瞳の中に何もなくなったとわかっているのに、そうしなくてはいられなかった。強ばった細い手足を傷めぬように、そっと包み込み、胸元に抱く。
 ばたばたと激しい雨に打たれながら、そうか、この猫は私なんだとふいにわかった。
 好きじゃないから。嫌いだから。犬じゃないから。猫だから。猫でしかないから。
 こんなふうに放っておかれて、死にそうだって言っていても誰も気にしてくれないんだ。毎日毎日どんどん死んでいってしまっているのに、誰も気づいてくれないんだ。猫に生まれたのはこの子のせいじゃないのに、猫だとここで死んでもいいんだ。ただただ、好かれなかった、だけで。
 私の回りには人がいない。幼稚園のときにバスの乗り口から友達を突き落としたって言われたときから、どんどん人がいなくなった。
 でも、あのとき、あの子が、私の背中に芋虫を入れて、それを服の外から思いっきり叩いたのだ。こわくてつらくて哀しくていやだった。泣きながらおとうさんとおかあさんに言ったけど、「そういうことをされるような子」なんだって。だから仕方ないんだって。私がおかしくて奇妙な力を持っていて、気味が悪いから「そう」されても仕方ないんだって。
 私だから。きらわれても仕方ない子だから。おかしな奇妙な子どもだから。いじめられてもからかわれても、どんなに辛くて哀しい思いをしても、それは仕方ないことなんだって。
 大きな家に住んで、おもちゃも服もいっぱいあって、五体満足で、ほしいものは全部手に入るから、何が不満なんだと言われる。他に恵まれない子どもはいっぱいいて、私はその子ども達より遥かに幸せなはずで、楽しく過ごせるはずで、満たされて豊かになってなくちゃいけないはずで。
 けど、おかしいよね? 私1度も聞いたことがないの、誰かが私のこと好きだっていうことば。おかしいのかな、やっぱり。おとうさんやおかあさんが、私のこと好きだって言ったことはない。真実それはそうなのかな。おとうさんもおかあさんも、私のことは好きじゃないのかな。だから、思ってもないことは言えない、たったそれだけのことなのかな。
 たったそれだけのことなのに、どうしてこんなに寂しいんだろう。どうしてこんなに辛いんだろう。どうしてこんなに、もう死んでるような気がするんだろう。子猫の心臓みたいに、私の心臓ももう止まってしまってるのかな。どくどく言ってるこれは、機械仕掛けの幻で、私は自分が生きてると思ってただけの人形なのかな。
 そうかもしれない。だって、ほら、人形に好きだなんて繰り返し言わないものね、大人って。
 好きじゃないなら、死んでもいいんだって。好きじゃないから、放っておいても、何が起こっても気づかないし平気なんだ。壊れても欠けても崩れても、またどこからか別のもの、好きなものを拾ってくればいい。
 そうか、世界はそういうふうに動いてるんだ。世界がそういうふうに動いてるなら、私もそういうふうに生きればいいんだ、きっと。
 好きなものだけ生き延びさせて、嫌いなものは殺してしまえ。世界を始めから組み変えて、私の好きな世界にすればいい、そうすればきっと生きていける、私が私のままでも。
 掌の中で子猫がぼう、と黒い炎に包まれた。肉のこげる臭い、内臓がただれる臭い、その同じ臭いがきっと私の体の中に巣くってる。深く静かに広がった黒い炎が、私の中を焼き尽くし、ひどい臭いを放っている。けれど、それは止められない。どれだけぽろぽろきれいな涙を流したところで、私の中は汚れてきたない。でも、それはみんな同じこと。この世界に生きているということはそういうことだから。
 自分の欲望のために、他の命を消費していく、醜い生命体の集合。
 私はその1人だというだけ。

「う……っ」
 胸の中の酸素が使い尽くされる寸前、仁は唇を解放された。朱乃の内側を焼いている炎が仁の内側も焼き尽くしていくようだ。視界に閃光が飛び交っている。朦朧として喘ぎながら見上げると、朱乃は大きな黒い瞳に揺らめくような憂いを満たしていた。
「仁……・どうしてあんな人間達と一緒にいるの? いつ裏切るかわからない、あなたのことを化け物扱いしていて、あなたがどんなに傷ついているか知らない……知ろうともしないのに」
 呼び掛けてくる声は悲しみに満ちていた。仁に呼び掛けているというよりも、自分に言い聞かせているようにも聞こえる。答えは求めていない。ただ聞いてもらうことを望む声。
「あ……けの……」
 整わない呼吸はキスのせいばかりではない、凄まじい何かが急速に自分のエネルギーを奪っていくのに仁は気づいていた。傷ついた体の内側が、回復に向けるはずの力を引き抜かれて再び次々と口を開けていく。閉じかけた傷が口を開き、なお押し広げられて血と体液を溢れさせる。
「く……う……う」
 呻き声が思わず漏れた。それは内側から引き裂かれていくような傷みとなって感覚を叩きつけた。仁の体だけでなく、心も屠ろうとするように、朱乃は冷ややかな微笑を浮かべた。
「誰もあなたを必要としてはいないのよ? ダリューはあなたを罵倒したんでしょう? さとるはあなたから逃げたんでしょう?」
 気力が萎えていく。朱乃に境界を侵された心が防御することさえできないままに、朱乃の敵意を害意を、煮えたぎるような憎悪を無理やり呑み込まされていく。
(つぶ……される……)
 仁は弱々しく身もがいた。限界が近い、体も心も。
 すぐ側に地獄へ通じるまっすぐな縦穴が開き、仁が崩れ落ちてくるのを待つように、紅蓮の炎を底に波打たせながら待ち構えている。仁の中の金色の獣が立ち上がり、その深淵を覗き込んでいる。満足そうな唸り声、底に逆巻く激情が気持ちを煽り誘惑してくる。
 崩レテシマエ……手放シテシマエ……コレ以上ノ苦痛ニ耐エルコトニ、一体何ノ意味ガアル。
「あなたが見ないふりをしていることを教えてあげるわ……仲間なんていない……すべて『敵』よ……あなただってわかっているでしょう……?」
 仁は唇を噛み、蠱惑的な朱乃の瞳を封じるように目を閉じた。だが、逆にそれは鮮やかで厳しい現実を仁の中に突きつけてくる。
 カンファレンスルームに出現した仁にさとるはなぜ跳ね起きたのか。それは『敵』だと判断したからだ。自分を襲った正体不明の『敵』が追ってきたと感じて迎撃態勢に入ったのだ。
 城崎が仁がケロイドを消した能力に興味を抱いているのも知っている。傷を治癒させる能力は医学分野において、命と肉体の新しい天地を開く因子を提供するかもしれない。仁の同意さえあれば、研究に取り組め、城崎の傷んだ自尊心がかなり回復されるのは確かだ。
 紺野は仁の存在に戸惑っている。それなりにうまく社会に適応してきた自分の暮らしが、仁の出現で乱されていくのを感じ取っている。ひたすらに隠してきたわけではない、けれども『気配りのきいた優秀な看護師』が、実は『相手の心象を感じ取れるために要求への反応が早い』のだと知った患者が、今までのように無邪気な信頼を寄せることはないはずだ。
 マイヤは自分がようやく手に入れたダリューとの新生活を仁が守ってくれたと信じていた。けれど、彼女を襲った朱乃は仁が諸刃の剣であることを教え知らしめた。仁が側にいることは単に平和をもたらすだけではなく、多くの兵器がそうであるように、別次元の災厄も引き起こし呼び寄せるということだ。既に子どもを失ったマイヤが、この先もそういった人間の側で子育てできると考えることはないだろう。
 ダリューは仁をはっきり『敵』だと認識している。仁が自分達にしつこく関わっていなければ彼もマイヤも、彼らの子どもも酷い目に合わずに済んだのだと伝えてきている。何よりつらいのは、ダリューが本当はそうは言いたくなかったのだと感じ取れてしまうことだ。仁を傷つけたくないのに、傷つけなければ自分が壊れてしまうこと、そういう瀬戸際を味わってしまうこと、仁は二重にダリューを傷つけている。
 そして。
(内田……)
 潰れそうになるたびに支えてくれた、壊れかけた仁の気持ちの唯一の拠り所である彼を、仁は仁であるかぎり、繰り返し破滅の淵に追いやってきた。そしてこれからもたぶん、繰り返し追い詰めてしまうだろう。それにいつまで内田が耐えられるだろうか。普通の人間なら無理なはずだ、安定も平穏もない緊張感の続く毎日、やがては内田の進むべき人生も食い潰してしまうのが仁の存在だとすれば。
(切り捨てられるのは……時間の問題……)
 そのときどこまで平静でいられるのか、今の仁には自信がない。ずっと側にいてくれるといつのまにかすっかり安心してしまい、内田が自分の人生を選び取ったときに激情に駆られてしまいはしないか。あるいはまた、内田がいまさらながらに危険性に気がついて、安全な道を選びたいと言ったときに、怒りに任せて仁自身が内田を傷つけてしまうのではないか。
「そうよ、仁……『敵』だと最初に決めたのは、あたしやあなたじゃない。あたしやあなたが、自分達とは違うと言い出したとき……彼らはもうあたし達を『敵』にしたの……」
 朱乃の声が甘く掠れる。
「そう……あなたの大切な……きしんもね?」
「く……」
 ずきりと一際強い痛みが体を貫いて、仁は耐え切れず口を開いた。朱乃に顎を固定されたまま咳き込むと、ぬるっとした熱いものが逆流してくる。それを待ち構えていたように朱乃が唇を当てて溢れた仁の血を吸い取った。鉄の味が生温かく広がる仁の口を朱乃のぬめった舌が塞ぎ、深く犯してくる、今度こそ、意識の底まで奪うように。
(内……田……!)
 仁の呼吸が一瞬止まった。
 ダレモ、タスケテクレハシナイ。

 私は周囲を切り捨てた。
 小学校の間はささやかな脅しで誰も近寄ってはこなかったが、中学に入るとそうもいかなかった。中学校には近隣の4つの小学校が集まってくる。
 朱乃のことを十分に知らない人間も多く、なかでも『印怒羅』というグループはしつこかった。ことあるごとに総長のところへ来いとか、一緒に出かけろとか命じてくる。それでもそっけなくあしらい続けてしのいでいると、1人とりわけしつこいのが残ってしまった。
 その男はおかしかった。初めてあったときから奇妙な振る舞いを続けていて、朱乃をじっと凝視しているだけかと思うと、馴れ馴れしく体をすり寄せてきたりする。お前はいったい誰なんだなどとわけのわからないことを聞かれたこともあった。
 ある日、その男が私に映画のチケットを渡した。『スタンド・バイ・ミー』とかいうおかしな名前の映画で、ひどく生真面目な顔をして、下心はない、ただ一緒に見てほしい、と言ってきた。
 私は鼻で笑ってチケットを男の目の前で破り捨て、屑篭に捨てた。誘いを断るのなんていつものことだったのに、そのとき、相手は真っ青になって私と屑篭を交互に見つめると、凍りついた顔をして出て行った。
 襲われたのはその日の帰りだった。
 あの男が空き地に連れ込もうとしたので抵抗したら、数人に羽交い締めにされ殴られて、ぼうっとしたところを押し倒された。服を破られ両手を押さえられもがく私を、あの男はなぜか自分もパニックになったみたいにひきつった顔で犯していた。どこにいっちまったんだ、どうして消えちまったんだ、どうしたら戻れるんだ、なあ、なあ、教えてくれ、教えてくれよ、教えてくれ、どうしたらおれはあいつのところの戻れるんだよ、そう泣きながら体を動かしていた。私は必死に傷みに耐えながら顔を背け、空き地の隅にぐずぐずになった段ボールの残骸があるのに気がついた。
 堪えていたものはもう限界だった。
 力のリミッターを外す。のしかかっていた男の両手足を引きちぎりはね飛ばし、間近の地面に埋め込み融合させてやった。残った仲間が悲鳴を上げて逃げるのも、1人たりとも逃さなかった。ことごとく手足をちぎり飛ばし、いつか背中に叩きつけられた芋虫みたいに地面に叩きつけて、融合させ蕩かしていく。けれど相手の意識は吹き飛ばさないようにした。最後の最後まで、自分がどうなっているのか感じ取ってほしかった。自分達が何をしたのか、どれほどの災厄を目覚めさせたのか、理解し覚えていてほしかった。楽しかった、面白かった。これほどの遊びをどうして今まで放棄していたのかと不思議だった。
 空き地を立ち去るときに始めの男の顔を見つけた。草むらの中で半身突き出してだらだらと涙と汗を流している。切れ切れの悲鳴が哀れを誘う。私はその男の唇に口づけた。悲鳴を遮るためではなくて、その幼く頼りない声を私の体にしっかりと感じ取れるように。そのとき、男の胸の中で小さな灯がともっていた。ずるずると人の感覚を失っていく男の中に、そこだけほんわりと温かく灯る、ずっと昔の心をくつろがせた温もりにそっくりな傷み。
 仁……仁……ゴメン……ゴメンヨォ。
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