『朱の狩人』

segakiyui

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9.月の未来図(2)

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 朱乃の感じたその傷みは、仁の胸にも広がった。強く切ない激しい哀願として。
 許シテクレヨナァ……オレハオ前ヲ壊シタカラ……コンナ目ニ会ウンダキット……。
(きしん……)
 今にも気だるく溶け崩れていきそうな仁の意識の中で、その哀願が光を放ち、明滅しながら呼び掛けてきた。心身共に蹂躙されて自分を手放そうとした仁の心を、守るようにいたわるように、淡い光に輝きながら包み込みささやきかけてくる。
 オ前ニ会イタカッタナァ…………コレデ死ンデシマウナラ……オ前ニモ1度……会イタカッタナァ。
(きし……ん……)
 どろりとした熱い感覚の中に、きしんの声が清冽に響いた。よく冷えた谷川の水さながらに、炎を巻く流れに注ぎ込まれてきたそれが、熱を取り、傷みを和らげ、仁の心を朱乃の怒りから少しずつ少しずつ切り離していく。
 小学校に入って初めて隣になった子どもは、にかっと笑うと歯が1本抜けていた。鉛筆を次々折ってしまう不器用な仁を見兼ねて、これ使え、と2本差し出してくれた。おれ、おおつかよしのぶ。けど、きしんでいいぜ、そう呼ばれるの、きにいってるんだ。明るくて面白くて元気で。
 オレ、ドレダケ、オマエノコト、好キダッタノカ、ズットズット忘レテタ……。
 引っ込み思案だった仁をどんどん外へ引っぱりだしていってくれた。お互いの家も行き来していたけれど、仁の父親が消えてしまってからは、ぱたりと家に来なくなった。それでも学校では一緒にいて、かーちゃんはお前と遊ぶなっていうけれど、おれは遊ぶ、だって、おれとお前は友達だもんな、と笑ってくれた。それでも少しずつ距離が離れていったのは、仁が沈んでいたためだったのだろうか。
 大事ダッテ、気ヅイテタノニ、守ラナカッタ……。
 そんなある日に仁は運動場で転がされたのだ。
 ヒドイコトシカ、デキナカッタ……。
 後で聞いた話だったがきしんの父親はあそこにいた子ども達の1人の会社に勤めていて、リストラになるかどうかという状況だったらしい。仲間はずれにしてもからかっても堪えない仁に焦れた1人が、きしんを焚きつけ脅したらしいが、結局きしんの父親はリストラ対象となり、しばらくしてからどこかへ引っ越したと聞いた。けれど、そのきしんが、こんなふうに荒れて、仁へのこだわりを溜め込んだまま死んでいたとは、仁は全く知らなかった。
 オレ、ヤッパリばかナンダナァ……オ前ニ会イニ行ケバヨカッタナァ……。会ッテゴメンテ言エバヨカッタ……。
 きしんの声は涙を滲ませながら笑っていた。幼いころの声、そのままに。あの日出逢ったときの懐かしさ、そのままに。
 ダカラ、オレガマモッテヤルヨ……オ前ノ心……・。
 清らかで乱れのないその水はじゅうじゅうと激しい熱に焼け焦がされながら消えていく。水の形を失って蒸気になり大気になって消え去っていく。その存在を朱乃の炎に焼き尽くされながら、それでも確かに仁の溶け爛れていく心の外に柔らかで強い膜を作り、仁の崩壊を防いでいく。それを仁ははっきりと感じ取った。
(きし……んん!)
 微かになり消え去っていく声に仁は必死に呼び掛ける。
 モウ、誰モ失イタクナイカラ。
 
「仁……」
 ふいに朱乃の声が耳もとで響いて我に返った。加熱していた感覚が再び自分のものとして取り戻せているのに一瞬気が緩む。次の瞬間、左脇腹に走った朱乃の手からひやりとする殺気が迸った。
「あう!!」 
 ばしゅ、と特撮に使う火薬のような音をたてて、仁の脇腹の肉が弾け飛んだ。衣服ごと、内臓までは達しはしない、けれども表皮から深く剥がれた肉片が血をまき散らしながら周囲に散る。激痛に仰け反った仁を拘束するように抱き締めて、朱乃は掴んだ仁の首に頬をすり寄せながら呟いた。
「あたしのことだけ考えて? あたしだけを見て? あなたの運命はあたしと繋がってるでしょ?」
 言い聞かせるような優しい声とは裏腹に、仁の内側で今までとは比べ物にならない熱い光が跳ね回る。体の中に出現した刃物が内側から仁を攻め立てる。
「くは…っ……っ」
(切り……刻ま……れる……!)
 意識が粉々に砕けていく。きしんの声でようやく保った正気があっさりと彼方の世界に持ち去られていく。
 これが襲われた人間達が味わった苦痛なんだ、と仁は意識の底で理解した。逃げることも、耐えることもできない激痛、自ら体を暴き広げて、中に跳ね回る刃を放り捨ててしまいたいと思う気持ちも、金の閃光に刻まれてばらばらになっていく。
 ばたばたとホースから水が零れていくような音が耳障りに響いている。体が震えて崩折れそうになる、その仁の顔を朱乃はゆっくりと別の方向にねじ曲げた。
「それとも……あっちを片付けた方がいいのかな」
 紅の紗がかかった視界に、ゆるゆると開いていく真駒家の門扉が見えた。そこから辺りを伺うように警戒心を満たして3つの影が入ってくる。そのうちの1つが、まるで何かに呼ばれたようにふいにこちらを振り返り、まっすぐに仁を凝視し、次の瞬間、吠えた。
「仁!!」

 真駒家に問題なく入れるとは思っていなかった。けれど、待ち構えるように開いた門に怯んでいられるほどの余裕もなかった。そろそろと中に進むと、突然濃厚な血の臭いが周囲を満たした。風に吹き乱されてもなお鼻を打つその臭いに振り返る内田の目に、凄惨な光景が飛び込む。
 血の海に沈む仁。
 ワンピースに血を浴びて立つ朱乃に今にも首をねじ切られそうに掴まれて、力なく手足を垂らしている仁の半身はどろどろの赤に染まっている。顔は真っ白に色を失い、穿たれたような穴のような2つの瞳には生気のかけらも見当たらない。
「仁!!」
 吠えた直後に内田は枝折り戸を飛び越えた。池の端を回るのは数秒、体を低めて襲いかかったのは防御と右手の拳を隠すため、伸び上がりざまに放った右ストレートに朱乃が身を引きながら、抱えていた仁を内田に向かって突き飛ばす。ひ、と仁が息を引いてのけぞり、再び鮮血が仁の体から吹きこぼれた。朱乃の指が突き放しざまに仁の脇腹の傷に閃き、傷をひきむしっていったのだ。
「く、そ!」
 かわされて泳いだ内田の腕に、顔を歪めた仁が崩れ落ちてくる。それを重心を後ろに落としてかろうじて左腕1本で抱きとめる、攻撃が弛んだその隙を朱乃は見のがさなかった。仁を抱きとめた内田にするすると吸い込まれるように迫ってくる朱乃に、仁を抱えた内田は反撃できない。
「伏せろ、内田!」
 背後からぴしりと声が響いて、内田は仁を抱きかかえたまま背後に倒れた。その空間を裂いて、朱乃の顔めがけて銀色の点が続けさまに飛ぶ。
「あら、怖い」
 だが、それは朱乃の目前で跳ね返って夜空に飛び去った。朱乃がくすくす笑いながら、空中を滑って桜の根元まで引き下がり、何で濡れたのか考えたくもない、真っ赤に染まった口元に品よく指をあてて微笑んだ。
「そのスリングショット、知っているわ……榊さんね?」
「名前を覚えていてくれたとは光栄だ」
「仁、仁!」
 内田は腕の中で茫然としている仁を呼んだ。体中血に汚れて、顔も涙と血でべたべたになっている。ぐったりとした体はどんどん冷えて強ばっていくようだ。薄く開いた目が全くこちらを見ない。
「くそおおお!」
 吠えながら、内田はTシャツを脱ぎ捨てた。力まかせに引き裂いて、まだどろどろとした紅を吐き続けている仁の脇腹に巻き付け、縛り上げる。焦るあまりに応急の包帯がうまく結べない内田に、駆け寄ってきたダリューが変わって固く締め上げる。その3人を庇って、榊が左手首に装着したスリングショットを構えながら朱乃の前に立ちはだかった。
「ええ、ええ、もちろん、覚えてるわ」
 朱乃はうれしそうにことばを継いだ。
「正義感でいっぱいの心優しいお兄さん。高尾は元気?」
 無言で榊の指が銀球を飛ばした。だが、そのどれ1つとして朱乃には当たらない。さっきのように直前で跳ね返すこともできただろうに、それさえせずに、ふわ、ふわ、と桜の花弁を舞わせながらことごとくかわして見せて、笑い続ける。
「そんなおもちゃは通用しない、高尾1人さえ守れない」
 榊がきり、と歯を噛み締める音がした。与えた衝撃を十分理解してのことだろう、朱乃は薄笑みを広げてことばを続ける。
「ヒーローぶっても、やってることはあたしと同じよ、人を傷つけ弄ぶだけ……高尾はきっとわかってるわよ、あなたがとことん無力だってこと」
 くくくく、と朱乃は体を震わせて笑った。榊の顔が白くなり、怒りからだろう、唇をきつく噛む。
「それに、そこにいるのは、あのときの人ね? 彼女はどうなったの? 子どもは無事?」
 びく、と体を震わせたダリューが激しい勢いで朱乃を振り向き睨みつけた。
「ああ、そうなの、だめだったのね、それは御愁傷さま」
 くすくすくす、と朱乃は気持ちよさそうに笑い続けた。
 仁が呻いて腹を抱えて身を竦め、がふ、と咳き込む。
「仁!」
 少しでも温められないかと抱きかかえていた内田の体に鮮血を吐く。細かく体を震わせながら、そろそろとこちらを見上げた相手の瞳の虚ろさに内田はぞっとした。
「内田……」
「しゃべるんじゃねえ」
 内田は仁の目を睨み据えたまま唸った。
 シャツはすぐに粘度のある血を染み通して重くなっていく。仁も必死に出血を止めようとしているのだろう、零れた汗が幾筋も血に混じって額から歪めた顔を流れ落ちる。
(また、こんなことをしている)
 抵抗できなかったはずがない。そんなにやわな能力ではない。なのに、ここまで傷を受けているのは、仁が朱乃への攻撃を手控えたことに他ならない。
(手加減できるような相手じゃねえとわかってたはずだ)
「ぼ……く……」
「てめえはしゃべらなくていいときにしゃべるんだな」
 冷酷に言い捨てた。
 罵倒でもしなくては耐えられない。口元を濡らす朱色、体を染める紅蓮の赤、ありとあらゆる紅が広がる細い体を守り切れなかった怒りにぶきちれそうだ。だが、続いた仁のことばに、内田の中の最後の一線が音をたてて弾け飛んだ。
「……きしんを……傷つけた……?……」
 ざあっと自分の髪の毛が逆立ったのがわかった。涙に潤む仁の目に内田はきつく眉を寄せて無言で首を振ってみせ、抱えていた体をそっと地面に横たえた。立ち上がる脚が震えているのは恐怖、ただし朱乃の攻撃や仁の死に対してではない、自分がどこまでも限りなく朱乃に残酷になれると感じるゆえの恐怖だ。
 息を深く吸い、気力を丹田に注ぎ込む。脚の震えがおさまり、手足に力が漲っていく。
「ダリュー、仁を頼むな」
「内田?」
「榊ぃ、俺にそいつを譲れ」
 背後からかけた声の異質さに榊はすぐに気がついた。振り返り、開きかけた口を閉じる。肩を竦めてそろそろと、邪神の通り道にいたのにふいに気づいたという顔で、内田に場所を開け渡した。
「朱乃……お前はそれで仁に勝ったつもりなんだろうな?」
 内田はうっそりと声をかけた。笑い返しかけた朱乃がさすがにその殺気を感じたのだろう、僅かに笑みを陰らせて身構える。
「仁をずたずたに引き裂いて……」
 呟いた自分の声に体中の細胞が再び炎を上げた気がした。
 ゆっくりと周囲を見回す。桜の根元まで届くほど、池の傍一面は血で濡れ濡れと光っている。しかもそれはほとんどが仁の流したものに違いない。皮膚がそれを感じてざわざわと粟立っていく。
(こんな状態になるまで……)
 緩やかな動きで仁を振り返る。仁はかろうじて呼吸をしているだけのぼろ屑にしか見えない。
(あいつがあそこまで身動きできなくなるまで弄んで)
 仁の気持ちにつけこんで。
「ただですむなんて……思ってやしねえよな?」
 走り出した内田の動きは滑らかだった。
 血にぬめる地面をものともせずに、まっすぐ朱乃の元へ駆け寄ると同時に、右側からの拳で一閃、さきほどと同じ攻撃と甘く見たのか、僅かに背後に体を逸らせてかわそうとした相手の後頭部を、一連の動きの流れの中、フェイントの右の拳を引きながら左足で蹴り飛ばす。
「きゃう!」
 が、朱乃も完全には食らわなかった。衝撃に顔を歪めながら、あえて内田の懐に飛び込み、白い手を回して内田の首を捉えようとする。
 だが、ここでも反応は内田の方が早かった。絶妙のタイミングで体を背後に逸らせすばやく戻した脚で支え、そのまま体を切り返す。飛び込む朱乃の広がった体に強く踏み込み、顎をめがけて回した右膝で蹴り上げながら、避けようとする相手の動きを上から両手の拳を合わせて叩き落とす。
「ぎゃ!」「ぐ!」
 今度の攻撃は確実にヒットしたと見えた。
 だが、朱乃が空中へ跳ね上がると同時に内田が見えない壁に弾かれるように背後へ飛ばされた。そのまま池の割れ砕けたコンクリートに突っ込もうとした体を、間一髪、直前に動きを予測したように榊が飛び込み、抱えて転がり、何とか防ぐ。
「何よ、何よ、何よ!」
 空中に舞い上がった朱乃は口元から滲んだ血を押さえながら、泣き出しそうな顔になって叫んだ。
「何でこんなひどいことするのよ、どうしてあたしだけ、攻撃するのよ、仁だって、あたしと同じなのよ」
 眉を寄せた切な気な顔は哀れみを誘うほど痛々しい。
「こんなふうに生まれたくて生まれたわけじゃないわ! ただ、力を持って生まれたからっていうだけで、ひどい目にあって、辛くて哀しくて!」
 ぎゅっと体を竦め、ふるふると頭を振ると長い髪の毛が舞った。
「さみしかっただけよ、あたしはあたしと同じ人を探していただけよ、なのに、皆邪魔するから、あたしは仁に会うために殺すしかなかっただけ」
 朱乃はことばに詰まったようにしゃくりあげた。
「あたしが化け物だって言うなら、あたしと同じ力を持ってる仁だって、化け物なのよ! なのに、どうして仁は守るの?」
「てめえと仁を並べるんじゃねえ」
 榊の体を押し退けて、冷えた声で応じて内田は立ち上がった。
「仁はてめえみたいに弱くねえ…………自分が受け入れられないからって……世界を潰そうなんて考えやしねえ……」
 呼吸を整え再度気力を体に溜めていく。
「てめえは勘違いしてる」
 呟いて、息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「……え?」
「俺は仁の制御装置なんだよ……それがどういう意味だかわかるか?」
 内田はできる限り嫌味で皮肉っぽい笑みを浮かべてみせた。
「仁はまだ一度だって全力なんて出していねえよ……俺がいないところで、全力なんか出さねえさ、自分の能力がどれほどのものか、よくわかっているからな」
 そうだ、唯一、仁が『全開』したのは、あの『夏越』との死闘のとき、それも自分を守るためではなく、傷めつけられた仲間を助けたいための一心で。
「仁は自分のために力を使ったりしねえのさ……今だって、てめえをまだ、庇ってる」
 情け容赦なく自分を血の海に沈めようとする刺客を。
 ぱりぱりぱり、とどこか遠い空で微かな雷が鳴った。
「……・てめえみたいな、中途半端な『化け物』を」
 内田は侮蔑を込めて吐き捨てた。
「てめえに、仁の何がわかる」
「わかるわよ!」
 朱乃が眉を吊り上げて顔を歪め、叫び返した。
「少なくとも、あなた達よりはずっとわかってる! あなた達は気づかなかっただけよ、仁は、仁だって、あなた達を『敵』だって感じてたんだからね!」
「何?」
 内田はぎょっとした。
「疑うなら聞いてみればいいわ、仁だって、あなた達が『敵』だと思ってた、だから、1人でここへ来たんじゃない!」
 内田の脳裏に次々と場面が過ぎ去った。内田を拒んだ仁。姿を消した仁。ことばを失い、たった1人で仁が朱乃に向かったのは、内田達を庇うためではなくて、助けにならないと思っていたからなのだろうか。
「内田!」
 ふいに背後からダリューが呼び掛けてきた。
「仁が呼んでる!」
「……」
 じろりと朱乃を睨みつけ、いつでも反応できるように相手を見据えたまま内田は仁の側に戻った。榊が心得て、スリングショットに新しい銀球をセットし、朱乃の鼻先を狙ったまま、同じように仁の側に戻ってくる。
「内田……」
 仁は浅く忙しい呼吸をしていた。真っ青な顔はダメージがほとんど回復していないことを知らせている。苦しそうに腹を抱えた仁の掌あたりで淡い白い光が波打っているように見えた。それをサポートするように、ダリューが仁の手に両手を重ねて目を閉じている。
「だめだ」
 仁が言おうとしたことばが胸に閃いて、内田は言下に拒んだ。
「内田……」
「だめだ」
「……行かせて……くれ……」
「馬鹿なことを言うな」
 冷ややかに吐き捨てる。胸の奥に榊が仁の行方を知っていたときに感じたようなざわざわとしたいら立ちが広がるのがわかった。
「お前を殺すと宣言してるやつのもとへ、俺が行かせると思ってるのか?」
「でも……彼女を止められるのは……僕だけだ……」
「お前がそこまでしてやることはない!」
 内田は怒鳴った。ダリューが体を硬直させ、榊がちら、と妙な微笑を浮かべたようだが、そんなことには構っていられない。
 ようやくこの手に取り返した命を、あっさり相手に手渡してやろうと言い出した仁を殴りつけ、意識を失わせてでもここから連れ出してしまいたいという誘惑に必死に耐える。
「あいつが弱いのはあいつの責任だ、おまえが背負うもんじゃねえ!」
「それでも……」
 滲むように淡く切ない笑みが、血に汚れた仁の唇に広がった。
「ぼくなら……朱乃をわかるから……」
「だめだ!」
 考えるまでもなかった。もうたくさんだった。
「もう十分だ、それだけやられて、血まみれになって、死にそうになって……死にかけてるんだぞ、今だって!」
 内田はきつく言って、顔を背けた。
 また遠くで雷が鳴り、暗い真夜中の空を微かな閃光が走った。大気に溜まった静電気に、体中の毛が逆立っていくような気がする。それともこれは、内田の目の前でこっちの気持ちも知らぬ顔に消えていこうとする仁への怒りだろうか。
(今度こそ、引かねえ、何があっても)
 考えてみれば、いつも庇われ守られ包まれてきたのだ。仁の強さに助けられてきたのだ。
(そうだ、こいつは強い、誰よりも、どんなときでも)
 ふいに内田は自分が小刻みに震えているのに気がついて愕然とした。
 仁を助け守り支えるために追い掛けてきたと思っていた。けれど、その実、あの廃虚でのやり合いのように、遠くから豊かな白い翼でいつも護られてきたのは自分の方だったのではないか? そして今、目の前で傷ついている仁の姿にだけではなく、城崎のあのことばに誰よりも動揺しうろたえているのは、内田自身なのではないか?
(その強さに縋ってきたのは俺、なのか?)
「内田……」
 柔らかな掠れた声が呼び掛けて、内田は我に返った。
「……世界を……壊したくないんだよ……」
 視界の端で、仁ははあはあと息を荒げながら、体を起こした。ダリューが不安そうな顔でそっとその体を支える。途中吐きそうな顔で一度動きを止めた仁の、真っ白になった顔に目の焦点が合わずに揺れる。唇を噛んで何かを飲み下したような仁は、一瞬苦しそうに目を閉じてから顔を上げ、のろのろと内田を見つめ直した。
 今にも消えそうな、儚い微笑が唐突に仁の顔に広がる。
 それは、『夏越』の一件のときに『ケーニッヒ』を出たときに浮かんでいたもの、『デッド・ライン』での一幕の後、内田のマンションから姿を消してしまったときにも見せられたもの、だ。運命を1人でその身に引き受ける覚悟を決めた微笑、内田の胸をざわめかせ落ち込ませる微笑だ。
(止められない)
 ぐ、と胸に詰まったそのことばに内田は痛烈に煙草がほしいと思った。
(俺もこいつを止められない)
 仁が行く、というなら、内田もまたそれを止めることができないのだ。仁が何かをし遂げる覚悟を決めたのなら、内田もまた覚悟を決めるしかない。
(そんなことは……わかっていた……)
 ふいに重い疲れが手足に広がった気がした。
(あの日……『ケーニッヒ』を出た夕暮れの街で)
 だからこそ、2人で行こうと言ったのだ。仁が示す場所、望む未来に続く道を共に歩いて行こうと。置き去られるぐらいなら。重ならない運命に離されていくぐらいなら。
 仁が必要とするものを備えた自分でありたかった。仁を庇い支えたかった。けれど、それは何のことはない、自分の孤独をごまかしたいだけだったのか? 内田もダリューとそれほど違っていたわけではなかったのか?
(だから、仁は1人で行くのか? 俺達が仁にすがりついているだけだから……朱乃の言うように?)
「……戻って……くるから」
 内田ははっとして仁を見下ろした。内田の心の声を読み取っての返事なのか、それともただの偶然なのか、測りかねて眉を寄せる。だが、そのことばが確実に自分を落着かせていくのを感じた。
「仁」
「戻ってくる…………だから……行かせて……」
 柔らかな瞳の中の頼りなげな約束。
 けれど、その仁の体にはじんわりとした緊張感が戻ってきている。
 どれほど儚い約束だとしても、それを口にするのは朱乃の危険性を感じ取っているからに違いない。内田には感じ取れない未来の1つを仁が掴んでいるからだろう。
「内田のところに……戻ってくるよ」
 淡く微笑みを広げながら、仁は静かな低い声で呟いた。ダリューの腕を借りて体を揺らめかせながら立ち上がる。
(俺のところに、戻ってくる)
 危機的な状況のまっただ中なのに、そしてまた、命の保障は全くない状態が続いているのに、そこには深く強い何かがあった。
(そうだ……こいつが戻ってくると言うのなら……戻ってくる、何があっても)
 揺らがない気持ち、この気持ちを人は何と呼んでいただろう?
「行くなって言っても行くんだろう」
 内田は顔をしかめた。
「次にずたぼろにされても助けてやらねえ」
「うん」
 仁の顔に哀し気な色が広がって、内田はますます眉を寄せた。
「死にかけても庇ってやらねえ」
「うん」
「迷惑ばっかりかけやがるやつの面倒なんて見てられねえ。いつかの約束はちゃらにしてくれ」
「……うん、わかった」
 内田の憎まれ口に仁は笑みを深めた。それからダリューの手を離し、ゆらりと朱乃を振り向く。
「朱乃……僕と一緒に行こう……」
 仁の呼び掛ける声に、桜の影に隠れるようにしていた朱乃が顔を出す。目を細めた顔が悪戯っぽい笑みに綻んだ。
「ほんと?」
「ああ……2人だけで話そう……」
「うれしい、仁」
 朱乃は幸せそうに両手を組んでぎゅ、と握りしめて微笑んでみせた。
「じゃあ、誰も邪魔できないところ、ね。先に行くわ」
 ふあ、と紅まだらのワンピースを翻して舞い上がる。桜の花弁が渦を巻いてその朱乃の回りに絡みつきながら闇の虚空へ吸い上げられていく。それを見送った仁はゆっくりと厳しい顔で内田達を振り返った。
「ここから……すぐに離れてくれ」
 暗い瞳はどこか別の次元を見据えているように底知れない色をたたえていた。返事を待たずに体を浮かせる。紅に染まった衣服が重い音をたてて風に翻る。そのままするすると上空に待つ朱乃のところへ舞い上がっていこうとする仁を、内田は深く息を吸って思いっきり呼んだ。
「仁!」
 声にあった何かに搦めとられるように、ふと仁が空中で止まる。訝し気に見下ろす口元はまだ赤く汚れている。満身創痍、今にも夜闇に溶けそうな姿は空中では一層頼りなく小さく見えた。
「戻ってこいよ!」
「……うん……」
 仁がまばゆそうに目を細める。その仁の胸の底に届くように、内田は叫ぶ。
「約束は、生きている!」
 びくっと仁が体を強ばらせた。
「生きてるからな! お前が何をしてても、どこへ行っても!」
「……うん……」
 掠れて今にも消えそうな声が上空から振り落ちてきた。
「……わかってる……」
 そして仁の姿は朱乃を追って遥かな高み、嵐の気配を閃かせる空へと吸い込まれていった。
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