『未来を負うもの』

segakiyui

文字の大きさ
上 下
11 / 18

7.闇からの声(1)

しおりを挟む
 仁は深くなる夜の街をひたひたと歩いている。夜と同じぐらい冷えた心の中に、響く声が繰り返し呼び掛けてくるのがわかる。
ー仁! 助けて! 仁! ここよ!
 胸に響く声は銀色だった。いつか見たあの夕刻の景色、倒れた内田の前に立っていた白いワンピースのマイヤ。そのイメージは、仁が葬った少年の心を掠めた、『夏越』がいる場所のイメージと重なっていた。
(銀色の器材、白い壁、幾つもの部屋、消毒薬と行き交う白衣、)
 そう、『夏越』は病院にいるのだ。
 仁は豊の心から読み取ったイメージを思い出した。
 豊がDNAを超能力で操作していたとするなら、確かに病院ほど適した場所はないだろう。万が一、『夏越』の姿なり実験道具なりが見つかったとしても、新しい医療の開発をしているということでごまかせる。
(病院…どこだ?)
 このあたりには大小合わせて4つある。個人医院はおそらく違う。途中で寄った本屋で見た地図からは病院を特定できなかった。駅の情報検索は人が使っていて使えなかった。
 時間が惜しい。1つ1つあたってみるつもりだったが、ともすれば漂い出し周囲を破壊して回りそうな感覚を締めつけながらの探索はひどく疲れた。だが手綱を緩めればおしまいだ。緊張を高めたとたん、『声』が聞こえ始めた。
ー仁! 
 始めは現実の声だと思った。慌てて周囲を見回した。だが、誰も仁を見ていなかった。
ー仁! 助けて!
 2度目に響いた声が胸から湧くように聞こえて理解した。
(マイヤが僕を呼んでいる)
 おそらくは、『夏越』の居る場所から。
 気づいたとたん、悲鳴の底にある滲んだ涙を感じ取った。
ー仁!(だめよ!)ここよ!(気づかないで!)助けて!(ここに来ないで!)
 テレパシーは幾重もの感情を重ね揺らぎ滲んでいる。
(罠なんだな)
 わかった瞬間に、自分が薄く笑っていることに気づいて眉をしかめた。
 たぶん、テレパシーは仁をおびき出す罠だ。それは、仁が飛び込む場所に危険が待ち構えていることを意味している。あの公園で出逢った少年のように、あるいは内田を襲ったマイヤやさとるのように、人間の命を消し去ることを何とも思っていない能力者達が、自分を屠ろうとしている。
 それなのに、なぜか仁の気持ちは浮き立っていた。マイヤの声を頼りに歩き出しながら、ゆっくりと道を選びだしている自分に気づいていた。
 夜の空気は冷ややかで気持ちがいい。高揚した体と反対に冷えていく心が痛くて、それもまた気持ちいい。
(僕はまた、力を使いたいんだ、きっと)
 マイヤの助けを求める声は仁を闇に引き込む声だ。
(あの公園でやったように、今度は誰を殺そうというんだ、僕は?)
 殺したいのか。
 ぞくりと仁が身を竦めた瞬間、
「仁!」
 今度は紛れもなく、側の路地の隅から呼び掛けられ身構えた。呼んだ相手を探り、繁華街のネオンに呑み込まれて薄暗い小道を覗き込む。
「誰だ?」
「ぼくだよ、何もしないで」
 声にこもった殺気に気づいたのか、うろたえた様子で1人、建物の陰から出て来た。
「さとる?」
 仁はあっけにとられた。半袖のトレーナーに半ズボン、帽子こそかぶっていないがくしゃくしゃに乱れた柔らかそうな髪の下、怯えたように仁を見上げている。
「どうしてこんなところにいる?」
「仁は強いよね?」
 問い返されて、ことばを失った。
「『夏越』様より強いよね?」
 答えられない仁に構わず、さとるは黒々とした目で仁を凝視しながら続けた。
「……わからない」
 さとるの視線から目を逸らせ、仁は呻くように応えた。
 眉をしかめたのは胸に湧いた微かな喜びに気づいたせいだ。
 僕は『夏越』より強いかな。
 今すぐに全力を解放したい気持ちが疼き出すのにぞくぞくする。
(『夏越』より強い)
 それは『夏越』より化け物か、という意味でもあるのだろうに。
「強いよ」 
 さとるはあっさりと言った。それから、目を逸らせた仁の前に回り込むようにして、仁を見上げ直した。
「だから、ぼく、仁につく」
 ぎょっとした。
 さとるはひきつったような、顔だちの幼さに似合わぬ暗い表情になった。
「どっちにしても、ぼくも狙われてる。マイヤも内田もいなくなった。次はぼくだよね?」
 にっと強がった笑みを浮かべる。
「警察もぼくを助けられない……おとうさんも、おかあさんも。でも、仁なら」
「さとる…」
 声に潜んだ信頼に気がついて、思わず仁は首を振った。
(違う、僕は、そんなふうに信じていい存在じゃ、ない)
 あの公園で、仁は相手の死を予測していなかっただろうか。いや、自分が何をしているのか、きっとわかっていた。このまま怯えた相手を見えない柵の中に囲い込んで追いつめれば、相手が何をするかは重々わかっていたのに、仁は包囲をやめなかった。
(どす黒い興味)
 この先にいったい何が起こるのか、それだけを期待する幼児のような。
「だめだ、家に居てくれ」
 自分の声が不安定に掠れている。
「僕は、君を、助けられない」
 豊の笑みが、命の最期が、極彩色の宗教画のようにくるくると視界を覆うのに思わず目を閉じる。と、
 キン。
 いつかの痛みに似た鋭い音が耳を貫いた。
 夜の街に、乱れる視界に、より鮮やかに重なってくる1つの光景1つの顔。
(虹…内田?)
 視界を埋めた渦巻く色が暗い空へ吹き上がって虹を描く。奇妙に美しく平和な空間で、人形のように力のない内田の体が落下する。静かでぐったりとした青い顔。傷ついて身動きできない体の感覚。虚ろな静謐に満たされた光景は、既によく知っている世界のものだ。
(死ぬ? 内田を、僕は、失う?)
「ぼく、仁と行く」
 ふいにさとるが震えながらしがみついてきてはっとした。目の前を覆っていた光景が消える。それが幻であるかのように、けれど、確かにそれが実現する、避けようのない予感を刻み込みながら。
「もう、1人じゃいられないよう」
 仁の体に顔を押しつけてさとるが呻いた。
(きっとそんなに時間は残されてない)
 内田が虹色の空間に吹き飛ばされて死ぬまでに、仁は辿り着けるのだろうか。
(辿り着いても……止められるんだろうか)
 誰を。何を。どうやって。
 今まで見た未来はその光景を再現した。確実性だけははっきりわかっている。
(でも、ひょっとして、起こる直前にでも辿り着けたなら)
 予定されている未来に数秒、あるいは一瞬でも、別の可能性を刷り込むことができるなら。
 それが自分の『強さ』で叶えられるなら。
 仁は俯き、さとるの小さな頭をそっと押さえた。
「さとる」
「はい」
 相手がほっとした顔で見上げる。期待する眩い目に喉が詰まる。
(僕こそ、本当は悪魔かもしれないけど)
「……内田とマイヤを助けに行く。『夏越』のところまで、僕を連れて『飛べる』? 少しでも早く着きたいんだ」
「やってみる」
 さとるはぱっと顔を明るませた。
「そっか、仁は、『それ』はできないんだね」
「うん、君に頼るしかない」
 わずかにさとるは頬を染めた。大きくうなずいて、しがみついたまま路地の奥へ仁を誘う。
 『飛ぶ』ためには周囲に気を配る必要があるのだ、と改めて気づいた。
(そうか)
 『飛ぶ』人間は、周囲からはどう見えるのか想像がつかない。
 導かれるまま、誰にも見咎められないような建物の陰にさとると一緒に滑り込む。
「ぼくの思うことに同調できる?」
「やってみるよ」
 仁は目を閉じた。
 さとるの体の温もりを感じる。周囲の冷えた空気を感じる。温度の落差から、さとるの体を現実として感じ直す。
 さとるの声を耳の奥で再現する。周囲のざわめきを確認し、ゆっくり感覚を離して、自分に寄り添う少年へと向ける。
「じんーっ…強いよぉ」
 堪えかねたさとるの呻き声が聞こえた。
「もっと弱めて…ぼくの頭、ぶっとんじゃう…」
「ああ、ごめん」
 仁は豊とのやりとりを思い出した。力の方向は保ったまま、逆のベクトルを重ねる。
(つう)
 ずきん、と右の頭の奥に痛みが広がった。力を内側に引き込もうとすればするほど、痛みが強く激しくなる。さとるが安堵したように吐息をつくころには、仁の頭は叩きつけるような激痛で意識が薄れそうになっていた。
(どこまで、保つかな)
 痛みに負けてコントロールを手放せば、さとるを巻き込んでとんでもない所に『ぶっとんで』しまうのだろう。さとるが場所を固定してくれる淡い光のような誘導を失わないで、飛ぶ力だけをサポートする必要があるのだ。
「仁…だいじょうぶ?」
 心配そうなさとるの声に目を開けた。
「顔、まっさおだ」
「だい、じょうぶ」
 頭痛は中心に向かって絞り込んでくるような痛みになっている。気を抜けば、仁の体を一瞬にして握り潰しそうだ。
(きっと、これが、『あいつ』の感じた痛みなんだ)
 突然全てを理解した。公園で仁の力の囲いにくるまれた相手の苦痛を、今自らの力を引き込むことで感じている。
(じゃあ、屈するわけには、いかない、よな)
 力を放ったのなら、力を受け入れなくてはならない。それを拒んだ瞬間に、仁は『化け物』になる。自分が満足するためにだけ他の命を犠牲にする存在になる。
 まるで命の連鎖のようだ。命を食べ、食べられる。そうして生命体は生きている。貪り食ったものは貪り食われる。それを拒むのなら自分の欲望に自らが貪り食われるのだ。
「ぐう…」
「仁!」
 意識が遠のき、食いしばった口から全てを吐き出し、もう嫌だ、僕は拒む、そう叫びそうになった。だが地面に膝をつきかけたとき、1つの声が闇を渡ってきた。
ーじ…ん!
「仁!」
「さとる…黙って」
 その声は深く仁を案じている。自分を切り刻むような後悔に満ちている。
ー仁……ここに…来るな…!
(内田!)
 体が軽くなった。声が、夜空に飛行機を解き放つ滑走路の誘導灯のように、1つの方向へ力を制御してくれるのを感じ取る。
「仁? あれ? どうしたの?」
 さとるが戸惑った声を上げた。
「なにかあった? 急になんか軽くなったよ。今なら、うん、ぼく、きっと、1回で『夏越』様のところまで飛べる」
「うん、たぶん、僕も、飛べる」
 答えながら、仁は祈るような内田の声を聞き続けていた。
ー…来る、な(俺のために)…来ないで…くれ(俺なんかの、ために)。
 啜り泣くような、掠れて幼い悲鳴のような、内田の声。それと同時に、頭の痛みがどんどん薄れていく。さとるの示した方向、内田の声が聞こえてくる方向に、もう1つ、力の解放点を得たように。
(来るな、だって?)
 仁は苦く笑った。
「さとる、場所を固定して」 
 つぶやいて、意識を集め直す。
(そんなこと、僕にできるわけがない、内田)
 豊がいなくなって、拠り所のなくなった日々を支えてくれたのは内田だった。そっけない仕草を裏切る温かな笑みが、どれほど大事だったか、きっと内田にはうまく伝えられない。伝えたところで、いつものようにメフィストフェレスを思わせるように笑って煙草をくわえ、疲れてるのか、とからかわれるのがオチだろう。
(だから僕は行く、たとえ、全てが無駄に終わるにしても)
「僕が力を分ける。そこまで飛ぶ、力を」
「う、うん」
 さとるが慌てたように仁の体を抱き直す。
「仁?」
「何?」
「どうして、笑ってる?」
 仁は一瞬目を閉じて唇を噛んだ。目を開き不安そうに自分を見上げているさとるを静かに見下ろす。その目に何を見つけたのか、さとるが僅かに緊張した。優しく囁く。
「うれしいんだ」
「…なにが?」
「……自分が今何をすればいいのか、初めて迷わなかった」
「…ふうん」
しおりを挟む

処理中です...