2 / 13
2
しおりを挟む
たまたま、ほんとにたまたまだったのだけど、事故の前日、私は隣の秋子を叱ったのだ。マンションの共同のゴミコンテナをがさごそ引っかき回していたから。
「そんなところで遊ばないで」と注意すると、「遊んでないもん。探してるんだもん」「何を?」「死ぬときに着てく服」「え?」。
からかわれたのかとむっとすると、相手は丸い大きな目で、うっとうしそうな前髪の向こうから私を睨んだ。「だって、もう小さくなるからって捨てられたんだもん。あれ、気に入ってたのに。大きくなるから着られないよっておかあさん言うけど、もう大きくならないからいいのに」。
それだけ言うと、またがさがさとゴミコンテナをかき回し始めた。「う…ん…でも、汚いからね、あんまりやらないほうがいいよ」。
おかしなことを言うんだな、けれど、何か意味があるのかもしれないな、そう思いながら、とりあえず注意して、私はその場を離れた。どうやら秋子はその後で管理人さんに見つかって、ひどく怒られたらしい。
それがどこでどうねじ曲がったのか、マンションの情報通達には、いつに間にか秋子をこっぴどく怒鳴ったのが私だということになってしまった。
秋子が事故死した直後、隣の畑中さんが両親そろってやってきて「聞くところによると、秋子をきつくしかられたようですね」とねっとりと責めた。他愛ない子どもの遊び、それほどまできつく叱るから、秋子が事故にあったのだと言いたげな口調に、私はほとほとうんざりして、これほど子どものことを心配しているふうなのに、秋子の不思議なふるまいには全く気がつかなかったのか、むしろそっちを考えるべきじゃなかったのかと思い出し、「死ぬときに着る服を探してるって言ってましたよ」。
言わなくてよかった一言は、打ち消すには強すぎた。
真っ青になった畑中さんの奥さんが一瞬体を背後に引いて、次にはふりこ人形のように指をかぎ爪のように曲げながら体を起こして「人でなし!」、叫び出したのにとっさに必死にドアを閉めた。
ガンガンガン! 背中を当てたドアが激しく鳴った。ガンガンガン! 「出てらっしゃいよ、人でなし!」「やめろよ、お前」「秋子が死んだのはあんたのせいだ!」「やめろって!」
もみあう音が聞こえて、叫ぶ奥さんを引きずるようにだんなさんが部屋に消えていくのを背中で聞きながら、つまらぬことを言ってしまったと後悔したのだが……。
あんなことまでするなんて。
今日は日曜、朝の新聞を取ったのも、部屋の空気の入れ替えにドアを開けたのも、いつもよりうんと早い。なのに、足跡は今つけられたばかりのように濡れていた。
死んでしまった娘の靴を泥で汚したまま、私がドアを開ける寸前に足跡をつけようと待ち続けている奥さんの姿を思うと、ぞっとする。大切なものを失った、その原因となる相手を陥れる瞬間を待ち続けている執念、粘り着く思いの強さが怖い。
まさか、直接攻撃はしてこないだろうけど。
溜め息をもう一度ついて、立ち上がり、コーヒーを入れた。
引っ越すかな、とぼんやり思う。
どうせ気軽な独り身、不況のせいか、中年の女一人でも勤めがあればそうそう断る不動産会社もいない。いざとなったら、少し苦労はするだろうけど、元の看護師に戻って病院の寮に入ってもいいことだし。
コーヒーの香りが静かな部屋を漂い流れていく。
でも、この部屋を出て行くのは惜しいな、と思い直した。
そう、この部屋には不思議な流れがある。玄関から入ってまっすぐに続く廊下のせいか、一直線に窓へ抜ける造りのせいか、何かがぼんやりと通っているような感じ。
流しに立っていると、ときどきすい、と廊下とダイニングを隔てる扉の辺りを過ぎる影のようなものを感じるときがある。かけているメガネに光が跳ねたかと思うのも、自分をごまかしているとわかっている。確かに今、影が通った。けれど、それは追いかけては見えないもの、ただわずかに微かな気配がダイニングを横切り、居間のテレビの前をするすると、窓がたとえば閉まってしても巧みに我が身の体を揺すって溶け込むように、外へあっさり逃れていく。
霊道だ、と言われたことがある。霊を視る力があると言われている友人がいて、遊びに来たときに驚いていた。「まったくきれいに通ってるね。何も感じないの?」「感じるときもあるけど、関係ないから」「ふうん、そっちを気にしてないから影響ないのかな」。不思議そうに首をかしげていたのを思い出す。
龍が寝そべっているとも言われたことがある。ホールが開いているのだよとも。
龍でも霊道でもホールでもいいし、つまりはそれらはここらへんの何かをそれぞれのやり方で説明してるということだよねと解釈している。私には形としては見えないし、何かの見えない存在がいるとも言いきれない。だからといって、私のまったく気のせいなのだと思うのも、肘をついているテーブルが私の認識の産物だということを納得しろと言われるように受け入れがたいものであって。
ただそこには、何かの筋があって、そこをまた何かが通っていくというふうに私は感じている、ということぐらい。それはまたひょっとすると、私の内面にはある種のものを通す道のような心理的反応があって、それを外界に「流れ」として感じ取っているということかもしれない、あえて現実に近い説明と言われれば、こちらの方が私にはそれこそ筋の通った話だが。
「そんなところで遊ばないで」と注意すると、「遊んでないもん。探してるんだもん」「何を?」「死ぬときに着てく服」「え?」。
からかわれたのかとむっとすると、相手は丸い大きな目で、うっとうしそうな前髪の向こうから私を睨んだ。「だって、もう小さくなるからって捨てられたんだもん。あれ、気に入ってたのに。大きくなるから着られないよっておかあさん言うけど、もう大きくならないからいいのに」。
それだけ言うと、またがさがさとゴミコンテナをかき回し始めた。「う…ん…でも、汚いからね、あんまりやらないほうがいいよ」。
おかしなことを言うんだな、けれど、何か意味があるのかもしれないな、そう思いながら、とりあえず注意して、私はその場を離れた。どうやら秋子はその後で管理人さんに見つかって、ひどく怒られたらしい。
それがどこでどうねじ曲がったのか、マンションの情報通達には、いつに間にか秋子をこっぴどく怒鳴ったのが私だということになってしまった。
秋子が事故死した直後、隣の畑中さんが両親そろってやってきて「聞くところによると、秋子をきつくしかられたようですね」とねっとりと責めた。他愛ない子どもの遊び、それほどまできつく叱るから、秋子が事故にあったのだと言いたげな口調に、私はほとほとうんざりして、これほど子どものことを心配しているふうなのに、秋子の不思議なふるまいには全く気がつかなかったのか、むしろそっちを考えるべきじゃなかったのかと思い出し、「死ぬときに着る服を探してるって言ってましたよ」。
言わなくてよかった一言は、打ち消すには強すぎた。
真っ青になった畑中さんの奥さんが一瞬体を背後に引いて、次にはふりこ人形のように指をかぎ爪のように曲げながら体を起こして「人でなし!」、叫び出したのにとっさに必死にドアを閉めた。
ガンガンガン! 背中を当てたドアが激しく鳴った。ガンガンガン! 「出てらっしゃいよ、人でなし!」「やめろよ、お前」「秋子が死んだのはあんたのせいだ!」「やめろって!」
もみあう音が聞こえて、叫ぶ奥さんを引きずるようにだんなさんが部屋に消えていくのを背中で聞きながら、つまらぬことを言ってしまったと後悔したのだが……。
あんなことまでするなんて。
今日は日曜、朝の新聞を取ったのも、部屋の空気の入れ替えにドアを開けたのも、いつもよりうんと早い。なのに、足跡は今つけられたばかりのように濡れていた。
死んでしまった娘の靴を泥で汚したまま、私がドアを開ける寸前に足跡をつけようと待ち続けている奥さんの姿を思うと、ぞっとする。大切なものを失った、その原因となる相手を陥れる瞬間を待ち続けている執念、粘り着く思いの強さが怖い。
まさか、直接攻撃はしてこないだろうけど。
溜め息をもう一度ついて、立ち上がり、コーヒーを入れた。
引っ越すかな、とぼんやり思う。
どうせ気軽な独り身、不況のせいか、中年の女一人でも勤めがあればそうそう断る不動産会社もいない。いざとなったら、少し苦労はするだろうけど、元の看護師に戻って病院の寮に入ってもいいことだし。
コーヒーの香りが静かな部屋を漂い流れていく。
でも、この部屋を出て行くのは惜しいな、と思い直した。
そう、この部屋には不思議な流れがある。玄関から入ってまっすぐに続く廊下のせいか、一直線に窓へ抜ける造りのせいか、何かがぼんやりと通っているような感じ。
流しに立っていると、ときどきすい、と廊下とダイニングを隔てる扉の辺りを過ぎる影のようなものを感じるときがある。かけているメガネに光が跳ねたかと思うのも、自分をごまかしているとわかっている。確かに今、影が通った。けれど、それは追いかけては見えないもの、ただわずかに微かな気配がダイニングを横切り、居間のテレビの前をするすると、窓がたとえば閉まってしても巧みに我が身の体を揺すって溶け込むように、外へあっさり逃れていく。
霊道だ、と言われたことがある。霊を視る力があると言われている友人がいて、遊びに来たときに驚いていた。「まったくきれいに通ってるね。何も感じないの?」「感じるときもあるけど、関係ないから」「ふうん、そっちを気にしてないから影響ないのかな」。不思議そうに首をかしげていたのを思い出す。
龍が寝そべっているとも言われたことがある。ホールが開いているのだよとも。
龍でも霊道でもホールでもいいし、つまりはそれらはここらへんの何かをそれぞれのやり方で説明してるということだよねと解釈している。私には形としては見えないし、何かの見えない存在がいるとも言いきれない。だからといって、私のまったく気のせいなのだと思うのも、肘をついているテーブルが私の認識の産物だということを納得しろと言われるように受け入れがたいものであって。
ただそこには、何かの筋があって、そこをまた何かが通っていくというふうに私は感じている、ということぐらい。それはまたひょっとすると、私の内面にはある種のものを通す道のような心理的反応があって、それを外界に「流れ」として感じ取っているということかもしれない、あえて現実に近い説明と言われれば、こちらの方が私にはそれこそ筋の通った話だが。
0
あなたにおすすめの小説
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
意味がわかると怖い話
邪神 白猫
ホラー
【意味がわかると怖い話】解説付き
基本的には読めば誰でも分かるお話になっていますが、たまに激ムズが混ざっています。
※完結としますが、追加次第随時更新※
YouTubeにて、朗読始めました(*'ω'*)
お休み前や何かの作業のお供に、耳から読書はいかがですか?📕
https://youtube.com/@yuachanRio
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる