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たまたま、ほんとにたまたまだったのだけど、事故の前日、私は隣の秋子を叱ったのだ。マンションの共同のゴミコンテナをがさごそ引っかき回していたから。
「そんなところで遊ばないで」と注意すると、「遊んでないもん。探してるんだもん」「何を?」「死ぬときに着てく服」「え?」。
からかわれたのかとむっとすると、相手は丸い大きな目で、うっとうしそうな前髪の向こうから私を睨んだ。「だって、もう小さくなるからって捨てられたんだもん。あれ、気に入ってたのに。大きくなるから着られないよっておかあさん言うけど、もう大きくならないからいいのに」。
それだけ言うと、またがさがさとゴミコンテナをかき回し始めた。「う…ん…でも、汚いからね、あんまりやらないほうがいいよ」。
おかしなことを言うんだな、けれど、何か意味があるのかもしれないな、そう思いながら、とりあえず注意して、私はその場を離れた。どうやら秋子はその後で管理人さんに見つかって、ひどく怒られたらしい。
それがどこでどうねじ曲がったのか、マンションの情報通達には、いつに間にか秋子をこっぴどく怒鳴ったのが私だということになってしまった。
秋子が事故死した直後、隣の畑中さんが両親そろってやってきて「聞くところによると、秋子をきつくしかられたようですね」とねっとりと責めた。他愛ない子どもの遊び、それほどまできつく叱るから、秋子が事故にあったのだと言いたげな口調に、私はほとほとうんざりして、これほど子どものことを心配しているふうなのに、秋子の不思議なふるまいには全く気がつかなかったのか、むしろそっちを考えるべきじゃなかったのかと思い出し、「死ぬときに着る服を探してるって言ってましたよ」。
言わなくてよかった一言は、打ち消すには強すぎた。
真っ青になった畑中さんの奥さんが一瞬体を背後に引いて、次にはふりこ人形のように指をかぎ爪のように曲げながら体を起こして「人でなし!」、叫び出したのにとっさに必死にドアを閉めた。
ガンガンガン! 背中を当てたドアが激しく鳴った。ガンガンガン! 「出てらっしゃいよ、人でなし!」「やめろよ、お前」「秋子が死んだのはあんたのせいだ!」「やめろって!」
もみあう音が聞こえて、叫ぶ奥さんを引きずるようにだんなさんが部屋に消えていくのを背中で聞きながら、つまらぬことを言ってしまったと後悔したのだが……。
あんなことまでするなんて。
今日は日曜、朝の新聞を取ったのも、部屋の空気の入れ替えにドアを開けたのも、いつもよりうんと早い。なのに、足跡は今つけられたばかりのように濡れていた。
死んでしまった娘の靴を泥で汚したまま、私がドアを開ける寸前に足跡をつけようと待ち続けている奥さんの姿を思うと、ぞっとする。大切なものを失った、その原因となる相手を陥れる瞬間を待ち続けている執念、粘り着く思いの強さが怖い。
まさか、直接攻撃はしてこないだろうけど。
溜め息をもう一度ついて、立ち上がり、コーヒーを入れた。
引っ越すかな、とぼんやり思う。
どうせ気軽な独り身、不況のせいか、中年の女一人でも勤めがあればそうそう断る不動産会社もいない。いざとなったら、少し苦労はするだろうけど、元の看護師に戻って病院の寮に入ってもいいことだし。
コーヒーの香りが静かな部屋を漂い流れていく。
でも、この部屋を出て行くのは惜しいな、と思い直した。
そう、この部屋には不思議な流れがある。玄関から入ってまっすぐに続く廊下のせいか、一直線に窓へ抜ける造りのせいか、何かがぼんやりと通っているような感じ。
流しに立っていると、ときどきすい、と廊下とダイニングを隔てる扉の辺りを過ぎる影のようなものを感じるときがある。かけているメガネに光が跳ねたかと思うのも、自分をごまかしているとわかっている。確かに今、影が通った。けれど、それは追いかけては見えないもの、ただわずかに微かな気配がダイニングを横切り、居間のテレビの前をするすると、窓がたとえば閉まってしても巧みに我が身の体を揺すって溶け込むように、外へあっさり逃れていく。
霊道だ、と言われたことがある。霊を視る力があると言われている友人がいて、遊びに来たときに驚いていた。「まったくきれいに通ってるね。何も感じないの?」「感じるときもあるけど、関係ないから」「ふうん、そっちを気にしてないから影響ないのかな」。不思議そうに首をかしげていたのを思い出す。
龍が寝そべっているとも言われたことがある。ホールが開いているのだよとも。
龍でも霊道でもホールでもいいし、つまりはそれらはここらへんの何かをそれぞれのやり方で説明してるということだよねと解釈している。私には形としては見えないし、何かの見えない存在がいるとも言いきれない。だからといって、私のまったく気のせいなのだと思うのも、肘をついているテーブルが私の認識の産物だということを納得しろと言われるように受け入れがたいものであって。
ただそこには、何かの筋があって、そこをまた何かが通っていくというふうに私は感じている、ということぐらい。それはまたひょっとすると、私の内面にはある種のものを通す道のような心理的反応があって、それを外界に「流れ」として感じ取っているということかもしれない、あえて現実に近い説明と言われれば、こちらの方が私にはそれこそ筋の通った話だが。
「そんなところで遊ばないで」と注意すると、「遊んでないもん。探してるんだもん」「何を?」「死ぬときに着てく服」「え?」。
からかわれたのかとむっとすると、相手は丸い大きな目で、うっとうしそうな前髪の向こうから私を睨んだ。「だって、もう小さくなるからって捨てられたんだもん。あれ、気に入ってたのに。大きくなるから着られないよっておかあさん言うけど、もう大きくならないからいいのに」。
それだけ言うと、またがさがさとゴミコンテナをかき回し始めた。「う…ん…でも、汚いからね、あんまりやらないほうがいいよ」。
おかしなことを言うんだな、けれど、何か意味があるのかもしれないな、そう思いながら、とりあえず注意して、私はその場を離れた。どうやら秋子はその後で管理人さんに見つかって、ひどく怒られたらしい。
それがどこでどうねじ曲がったのか、マンションの情報通達には、いつに間にか秋子をこっぴどく怒鳴ったのが私だということになってしまった。
秋子が事故死した直後、隣の畑中さんが両親そろってやってきて「聞くところによると、秋子をきつくしかられたようですね」とねっとりと責めた。他愛ない子どもの遊び、それほどまできつく叱るから、秋子が事故にあったのだと言いたげな口調に、私はほとほとうんざりして、これほど子どものことを心配しているふうなのに、秋子の不思議なふるまいには全く気がつかなかったのか、むしろそっちを考えるべきじゃなかったのかと思い出し、「死ぬときに着る服を探してるって言ってましたよ」。
言わなくてよかった一言は、打ち消すには強すぎた。
真っ青になった畑中さんの奥さんが一瞬体を背後に引いて、次にはふりこ人形のように指をかぎ爪のように曲げながら体を起こして「人でなし!」、叫び出したのにとっさに必死にドアを閉めた。
ガンガンガン! 背中を当てたドアが激しく鳴った。ガンガンガン! 「出てらっしゃいよ、人でなし!」「やめろよ、お前」「秋子が死んだのはあんたのせいだ!」「やめろって!」
もみあう音が聞こえて、叫ぶ奥さんを引きずるようにだんなさんが部屋に消えていくのを背中で聞きながら、つまらぬことを言ってしまったと後悔したのだが……。
あんなことまでするなんて。
今日は日曜、朝の新聞を取ったのも、部屋の空気の入れ替えにドアを開けたのも、いつもよりうんと早い。なのに、足跡は今つけられたばかりのように濡れていた。
死んでしまった娘の靴を泥で汚したまま、私がドアを開ける寸前に足跡をつけようと待ち続けている奥さんの姿を思うと、ぞっとする。大切なものを失った、その原因となる相手を陥れる瞬間を待ち続けている執念、粘り着く思いの強さが怖い。
まさか、直接攻撃はしてこないだろうけど。
溜め息をもう一度ついて、立ち上がり、コーヒーを入れた。
引っ越すかな、とぼんやり思う。
どうせ気軽な独り身、不況のせいか、中年の女一人でも勤めがあればそうそう断る不動産会社もいない。いざとなったら、少し苦労はするだろうけど、元の看護師に戻って病院の寮に入ってもいいことだし。
コーヒーの香りが静かな部屋を漂い流れていく。
でも、この部屋を出て行くのは惜しいな、と思い直した。
そう、この部屋には不思議な流れがある。玄関から入ってまっすぐに続く廊下のせいか、一直線に窓へ抜ける造りのせいか、何かがぼんやりと通っているような感じ。
流しに立っていると、ときどきすい、と廊下とダイニングを隔てる扉の辺りを過ぎる影のようなものを感じるときがある。かけているメガネに光が跳ねたかと思うのも、自分をごまかしているとわかっている。確かに今、影が通った。けれど、それは追いかけては見えないもの、ただわずかに微かな気配がダイニングを横切り、居間のテレビの前をするすると、窓がたとえば閉まってしても巧みに我が身の体を揺すって溶け込むように、外へあっさり逃れていく。
霊道だ、と言われたことがある。霊を視る力があると言われている友人がいて、遊びに来たときに驚いていた。「まったくきれいに通ってるね。何も感じないの?」「感じるときもあるけど、関係ないから」「ふうん、そっちを気にしてないから影響ないのかな」。不思議そうに首をかしげていたのを思い出す。
龍が寝そべっているとも言われたことがある。ホールが開いているのだよとも。
龍でも霊道でもホールでもいいし、つまりはそれらはここらへんの何かをそれぞれのやり方で説明してるということだよねと解釈している。私には形としては見えないし、何かの見えない存在がいるとも言いきれない。だからといって、私のまったく気のせいなのだと思うのも、肘をついているテーブルが私の認識の産物だということを納得しろと言われるように受け入れがたいものであって。
ただそこには、何かの筋があって、そこをまた何かが通っていくというふうに私は感じている、ということぐらい。それはまたひょっとすると、私の内面にはある種のものを通す道のような心理的反応があって、それを外界に「流れ」として感じ取っているということかもしれない、あえて現実に近い説明と言われれば、こちらの方が私にはそれこそ筋の通った話だが。
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