『桜の護王』

segakiyui

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12.召命(1)

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(だめ)
 夢の中で洋子はつぶやいた。
 洋子が殺されているかもしれない、そう考えて殺気立ち、我を忘れていく護王の瞳に揺れ始めた紅に不安が募っていく。
(だめだ、護王)
 その色は、あの破壊の限りを尽くした鬼の瞳と同じ色だ。同じ気配、同じ破滅を望む色だ。
 もうええんや。
 そうつぶやく声が聞こえる気がする。
 あんたがおらへんのやったら、この世界ごと破壊してもええ。
(違う…違うよ)
 それは護王をも傷つける。自分がどうしようもないバケモノだと自分自身に思い知らせてしまう。
 何が何でも戻らなくてはならない、けど、それよりもまず。

 洋子は目を開けた。つる、と額に滲んでいた汗がこめかみを流れ落ちていった。
 体がさっきより冷えている。頭の出血と左肩の出血が止まらない。残った血液では、もう体温が維持できない、出血が止められない。
 けれど、何としてでも生きて戻らなくては、護王が壊れてしまう。自分と周囲に破壊の限りを尽くしてしまう。ならば、まず洋子がすることは。
(消耗する気持ちを封じる)
 苦痛と不安と恐怖に揺れ動く気持ちを凍らせ箱に詰めて胸の底へ沈めてしまう。難しくはない。あの家で繰り返し受け止めた暴力をいつもしのいだ方法だ。
(外部の感覚を封じる)
 痛みも寒さも外部から入ってくる感覚を切り離す。全ての感覚を内側に向けてのみ開く。
(不必要な思考を封じる)
 この先の未来、過去へのこだわりを遮断して、現在の状況だけに意識を開く。
(目的は、生存)
 生き延びること。そのために必要な手立ては止血と循環の確保、体温の保持。
 一つずつ今の状況から自分を切り離し、解離させ、適切な処置と対応の分析に意識を移行させていく。
 まるで、自分が一個の機械になったような気がした。
(不思議だな…あの家で身につけた力が全部…今助けになってくれる…)
 両親から心身ともに受けた暴力が洋子の体の中に非常時を耐え抜くシステムを作り上げている。どんな状況の中でも生き抜きしのぐこと、その目的のために全て計画されてでもいたようだ。それは、看護師をしていただけでは、こんなにはっきりとその流れを確認できなかったものだろう。
 そうすると、あの桜の夢を見始めたこと、花王紋が現れたこと自体が、洋子の能力をより磨きあげるための大きな計画だったようにさえ思えてくる。
(何のために?)
 どんな危機でもたじろがず、状況を確認し把握し、取れる方法、取るべき方法を探し求め、傷みを越えて実行していく。生き延びるために磨き上げられていく能力はなんと回復に似ていることだろう。
 ぎりぎりの崖から命を引き剥がして戻ってくる、医療の働きにそっくりではないか。
 慰めや労りでは届かない深みに落ち込んだ命を掴みとるには、それが含まれる危機を理解していなくてはならない。生死の境にいる状況を越えていかなくてはならない。澱みを知り、傷みを知り、闇を知り、呪いを知り、そこで人は初めて光満ちる世界の豊かさを知るのだ。
(ああ……そういうこと…なのか…)
 何度も失い幾つも失った。けれどその経験が今の洋子を支えている。
 そして、その経験こそが、嵯峨が越えようとして越えられなかったもの、『病み』に落ち込んだ彼方にあるものを指し示す力に繋がっている。
 自分の一部を切り捨ててでも前へ進もうとする力、それこそが命の根元にある力なのだ。それが結果的には生き延びる道に繋がる、何も捨てずに抱え込める力量に繋がってくる。
(そうか……崖が終わりじゃなかったんだ……飛び出すことは……その先へ飛ぶ羽根を得られる機会だったんだ)
 洋子は深く息をついた。身体が柔らかく解けていく気がした。弱っていたエネルギーが、見えない場所から補充されてくる。
 呼吸が穏やかになり、心拍が緩やかになってくるのと平行して、身体の中に細かな糸が少しず張り巡らされていく感覚があった。
 それはいつか護王の舌の傷を治したのと同じ感覚だ。洋子の体を精査し、傷ついているところ、対処が必要なところを確かめながら癒しながら、全身に広がりエネルギーを再配分していく。
 そしてまさに今、血膿でぬるついた右の人さし指と中指に、その一番はっきりした感覚が零れ出すように蘇ってきつつあった。
(ああ……戻ってきた)
 洋子は微笑んだ。
 この前の偶然の産物とは違い、今度はどうやってその感覚を取り戻していくのかがよくわかった。指先だけではなく、身体の中の回復能力が溢れ出すほどに満たされ、しかもその流れがうまくコントロールされて初めて、この力が働くのだ。
(今ならきっと…)
 洋子はちりちりとした感覚がニ本の指先に満ちたところで、ゆっくりと体に添って持ち上げていき、右の頭に傷を探すように当てた。
「!」
 一瞬電気が流れたような衝撃に体が勝手に跳ねた。指先にべたべたした畝のようになった髪と、もっとぬめった皮膚が触れる。麻痺していて痛みがよくわからないのをいいことに、強く指先を押し付ける。指先の微かな電流のようなものが徐々に皮膚から奥へ流れ込んでいくのがわかる。
 が、それは同時に痛みをぶり返すことにもなった。
 痛みは回復のために使えるセンサーだ。それが復活したということは確かに回復過程にあるという合図だ。
 だが、一旦切り離したはずの痛覚を激しく叩きつけられて、洋子は歯を食い縛って、もう一度感覚を解離させなくてはならなかった。
 頭がどうにか落ち着いたら、詰めていた息を吐いて、一旦手を降ろす。
 体のあちこちが潤んだように痺れている。どこまで持つだろう、という不安を振り切りながら、今度は左肩に指を伸ばす。
「つ…っつ」
 こっちはまだ痛みが生きていた。触れたとたん、視界を白く灼くほど強烈なものが走って、一瞬唇を噛んだ。強ばった体から必死に指を話さないようにして、傷口へ押し当てる。
「っ…!!」
 沸いた痛みにさすがに吐きそうになって動きを止めた。じりじりしている指から意識を傷に向ける。
 電流のような流れは見る見る傷から奥へ、皮膚のささくれた表面へ広がり流れ込んでいく。無理な移動で思ったよりもひどく傷めてしまったらしい。繰り返し満たす流れがすぐに傷の奥に吸い込まれて消えていき、指先の感覚も回復してくれなくなっていく。
(思ってるより…深いんだ…)
 もう少し痛みがましになってくれないと、とてもじゃないが動けない…そう思ったとたん、
「何してんの」
 ふいに上から声が降ってきて、洋子は目を開けた。

 あまりにも身体の内側に集中していたせいで、一瞬、自分の居る場所がどこなのかわからなくて、ぼんやりと相手の顔を見上げる。
「傷に指突っ込んで、あんたヘンタイ?」
 いつの間に戻ってきていたのか、洋子を覗き込んで、憎らしげに綾香がせせら笑っていた。
 必死に培った集中を遮られて気力が途切れた。ふつふつと体に巡らされていた糸が脆く崩れて消え失せていく。滑り落ちた手からみるみる気力が逃げていく。気力だけではない、床に落とした手からためかけていた体力まで奪われていくような気がした。
(せっかく少し…わかった気がしたのに…)
 思わず吐息をもらして目を閉じる。
 けれどなぜか、さっきほど重い絶望感は感じなかった。
(ぎりぎりまで……粘ろう)
 胸の中でそっとつぶやく。脳裏を掠めた不安そうな護王の顔に久しぶりの温もりを得て、もう一度つぶやく。
(ぎりぎりまで……諦めないで)
 そしてきっと伝えるのだ。綾がどれほど護王を大事に思っていたか。歴代の姫さんがどんな思いで護王と過ごし、どんな切なさで護王を残して逝ったのか。護王がときに苛立って放り出すように扱う彼自身の命を、どれほど守りたいと願っていたのか。
 護王がどんなものだろうと、どれほど愛しく思っているのか。
(うん、きっと、伝える)
 自分に強く言い聞かせて洋子は目を開いた。
 綾香はうっそりとした顔で奇妙な物体でも眺めるように洋子を見下ろしていた。
「手……どしたん……ああ、これで紐、切ったんか」
 けだるそうにつぶやいて、洋子の側に転がっているカッターナイフを取り上げた。どこか疲れた顔で、洋子とその周囲の床を眺める。
「カッターナイフ見つけて……あそこから移動してきたんか…?…ようやるなあ……血まみれやんか、床もあんたも」
 綾香は巫女衣装を着替えていた。春物のふわっとしたワンピース、淡いピンクがそれこそ桜の妖精のようだ。柔らかそうな髪の毛を同色のカチューシャで止めて、けれど、どうしたのだろう、その表情は恐ろしいほど虚ろだ。さっきの覇気がどこにもない。
「なんで、そんなことしたん…? ここから出られるわけあらへんやん……あたしが出すわけ、あらへんやん」
 話し掛けてくる声も鈍い疲れに倦んでいた。
 さっきとは全く違う相手の急な変化に戸惑って、洋子はじっと綾香を見上げた。
「護王のため、なんか…? 傷、痛ないの?」
 綾香が不安そうに顔を歪ませ、もう一度周囲を見回す。
「なんぼ血ィ流すつもりやったん……真っ赤やん」
 ことばに出して改めて気づいたように、微かに体を震わせながら、
「頭も、肩も、ひどい傷やで? じっとしてても痛いんちゃうの……動けるわけ……あらへんやん」
 ふっくらした唇を噛んで、眉をしかめた。
「あんたがそんなことしたって……護王にはわからへんやん。あんたはここで死ぬんやで? ……あほちゃうの」
 再び洋子を見下ろし、嘲ろうとして笑い損ねたように引き攣った。
「そんなことしても……護王はあたしのもんえ? 桜の姫はあたしやもん。小さいときから、ずっとそう決まってたんや、ずっと護王の姫なんや」
 何があったのか、いつのまにか、綾香の瞳は今にも泣き出しそうに濡れていた。
「花王紋、あんの、あたしだけや。もう今あたしだけや」
 ゆら、ゆら、と不安定にカッターナイフを持った手が揺れる。もう一度貫かれたら、今度こそ打てる手立てはないかもしれないと、さすがに洋子も身体が竦んだ。
「なあ、怖ないの? あたし、これであんたをもう一回刺すかもしれへんで?」
 ふわりと綾香はしゃがみ込んだ。
(綾香?)
 ワンピースの裾が見る見る毒々しい紅を吸う。それに頓着した様子もない綾香の挙動に洋子は眉をしかめた。どうにも様子がおかしい。さきほどまでは、洋子を殺意と憎しみで眺めていたのに、今はそれらががさがさと内側から抜け落ちて、まるで綾香の見かけをした中身の入ってない人形のようだ。
(これは…知ってる…)
 洋子は気づいた。内側が崩壊していくようなこの表情は一度見たことがある。寮の風呂場で。洋子に笑いかけた嵯峨のきれいな微笑の裏に。
(そうだ…これは……)
 綾香の中で何かが崩れて潰れつつある、綾香の生きている世界に大きな亀裂が走っているのだ。
「何か…あったの…?」
 自分の首を掻き切ったという嵯峨の死に様が重なって、思わず尋ねてしまっていた。
「うるさい」
 綾香は持っていたカッターナイフの刃を押し出した。それが血で汚れているのを洋子の頬にあてて拭く。
「ほんっまに……うるさいなあ、あんた…人のこと、気にしてる場合やないやろ」
 近づいてみてわかった。綾香の左頬がわずかに腫れている。唇も少し切れているようだ。
「誰かに……殴られた…?」
「!」
 びくっと綾香は体を強ばらせた。きつい目つきで洋子を睨み付ける。
「嫌いや……あんたも……親も……護王も……日高も!」
 苦い悲鳴じみた声で吐く。
「みんなあたしを無視するんや…あたしは桜の姫なんやで? 花王紋もあるんやで? そやのに……なんで…なんで…みんな…あんたばっかり…!」
「!」
 ちき、と音がして頬に痛みが走り、洋子は一瞬目を閉じた。頬に食い込む冷たい刃、それがじりじりとした速度で頬から顎へ動いていく。その後を追うように生温いものが流れ出した。涙と汗に入り交じって口元へ流れてくる、その強烈な塩辛さが舌を刺す。
 そのまま首まで押し下げられるか、それを何とか遮れるか、と手を上げようとした矢先、ふいに刃から力が抜けた。顔から今度はするりと外されて、我知らず入っていた力を抜く。どっと汗がにじんできた。止めていた息を吐きながら、静かに目を開けると、綾香は覆いかぶさるように洋子を覗き込んでいた。
 真っ赤に染まった目許、震える乾いた唇で呻くように囁きかける。
「なんでなん…? あたし、ちゃんとやったやんか? 護王も里へ連れ戻したやんか? 日高もかくまったやんか? 村上もだましたやんか? あんたを閉じ込めたやんか? ……そやのに…あんたを刺したぐらいで……なんで殴られんのや?」
 ぼろぼろぼろっと大きな涙が綾香の頬を伝った。
「何が違うん……あんたと何が違うんや…? あたしの花王紋がにせものやから? おかあはんがこてで焼いたやつやから?」
 洋子はぎょっとした。思わず体を強ばらせてしまって痛みに顔をゆがめる。
「こてで…焼いた?」
「しゃあないやん、護王が里を捨てる言うんやもん! 花王紋のある女が里におらへんかったんやもん! そやけど、姫さんの記憶かてあるねんで! あたし、前の生でちゃんと護王と寝たんやで! おとうはんにもそう言うたのに…!」
 綾香は堪えかねたように泣き崩れた。
 洋子は思いもかけない告白を聞いてことばを失ってしまった。
 前の『姫さん』は護王と契っていない。体を繋いだのは、綾ではなく妹の茜の方だ。それが自分だったと言った時点で、綾香はおそらく『姫さん』候補から外されるしかなかっただろう。
 しかし、あのときの女が綾ではなくて茜だったと知っているのは、綾と茜、そして大西康隆と日高幸一郎だけのはず、護王本人は姫さんだったと思いこんでいる。そのまま、綾香に言い含めて、事を進めてしまっても大丈夫だったのではないか。今回わざわざ花王紋の姫など探してこなくても、綾香で十分間にあっただろう。
 なぜ、そうしなかったのか?
(花王紋の女)
 それは、洋子がわかっている以上、説明された以上に大きな意味を持っている、ということではないのか。
 考えてふと、洋子は奇妙な感覚に囚われた。
(大西、康隆?)
 綾が生きていたときに、あの男は既に五十歳を越えているように見えた。あれから二十年はたっているのに、今いる大西康隆はどう見ても七十代の老人には見えない。単純に歳からいけば、あのときの康隆の息子にあたるはずなのだが。
(同姓同名…?)
 外国ならまだしも、いくら何でも同じ家に住む親子が同じ名前を名乗ることはないだろう。
(どういうこと…なんだ?)
 頭がぐるぐるしてきて、洋子は目を閉じた。
(大きなことを見のがしてる…何か、とんでもないことを)
 その何かは綾、という『姫さん』に関わることだ。ずっと引き継ぎ繋がれてきた転生が、綾のところで大きく揺さぶられ狂わされている。全ての混乱の根元はそこにあるのだ。
「綾香…綾香さん…」
 泣きじゃくっている綾香に洋子は声をかけた。
「ねえ…教えて…なぜ……あなたは護王と契ったの…?」
「…え…?」
 綾香は洋子の質問に虚をつかれたらしい。涙で汚れた顔で洋子を見た。カッターナイフを持ったままの右手の甲で、目許を拭う。その仕草が不思議なほどに綾子にそっくりで、そしてまた、遠い記憶の彼方のあやこにもよく似ていて、洋子の胸の底に切ない痛みを呼び起こした。
 もう戻ってこない、失われてしまった、小さな可愛い女の子の命。
「どうして…って…」
 綾香は泣き顔で目を瞬いた。
「護王は寝床で姫さんを待ってたんだよね…?」
「うん……そやし、おとうはんに言われたん、今ならいけるで、明かりを消して暗うして、言うてから入るんやでって。それがたしなみやろって」
「今ならいける…?」
「うん……今なら……。……え…? でも…ほな…今、やなかったら…あかんかったん…?」
 綾香が思いもかけない答えを見つけたように顔を強ばらせた。
「そや……護王は……明かりつけて待ってたんや…あたしが入ろうとしたら……姫さんかって…聞いた……うん、て応えたんや…そやけど…そやけど」
 どこか別の時間と繋がってしまったように、ぼんやりと遠い目になる。内側を探って何かを確かめているような表情で、低く小さくつぶやいた。
「そや……あたし、自分が姫さんと違うの……知ってた……護王が待ってたん姫さんやけど……あたしを見抜けるんかいな、って試してやろうて思ったんや…」
 ぽとりとカッターナイフが綾香の手から零れた。
「なあんや……そおか……あたし姫さんとちごたんか……」
 ふふ、と奇妙に虚ろな笑みがもれる。
(大西康隆が)
 茜を護王の元へ差し向けたのだ、と洋子は愕然とした。護王が茜を引き込んだのではなく、康隆が茜を焚き付けて護王と一夜を過ごさせた。
 でも、なぜ、そんなことをしたのだろう。なぜ、護王と茜を契らせたのだろう。
(ううん…ひょっとして…)
 綾と護王を契らせまい、としたのか?
(でも…なぜ…?)
「やっぱりなあ…あたしは抱けへんでも……護王、あんたは抱くんやもんなあ…」
 漂うような声で綾香がつぶやいて、洋子は我に返った。
「それ……どうして知ってるの…?」
「あんたに、もう花王紋…あらへんもん」
 幼い声で綾香はつぶやいた。つい、とカッターナイフを離した右の指を洋子の左肩に伸ばして傷に触れる。
「!」
 きれいに磨いて伸ばした爪が傷の中心を捉えて、洋子は思わず身体を強ばらせた。眉をしかめた洋子をじっと眺めていた綾香が奇妙な笑みを浮かべて、もう片方の手を洋子の首にあてる。
(殺される…?)
 身体はまだ復調していない。両手を上げて綾香をはねのけても、その後が動けないだろう。
 だが、綾香は右手で傷を掴んだまま、そろそろと首筋を滑らせて血で汚れた顎から唇へ指先を滑らせた。
「護王と契った姫さんの身体からはなあ……花王紋が消えるんや」
 涙ににじんで濡れていた声がふいになまめかしい艶を帯びる。こく、と白くて細い喉が動いて、綾香は少し顔を近付けた。
「ふふ……日高もかわいそうになあ…」
「日高……?」
「花王紋のない姫さんを食べても……何の意味があることやら……」

「!!」

 一瞬にして、ぞわ、と体中の毛が逆立ったような気がした。
(食べ……る…? 姫さんを……食べる…?)
『うまく切り分けられるといいですな。必要なのは何人分でしたかな』
 ふいに夢の中の日高医師の淡々としたことばが耳元に蘇ってきた。
『子どもはええ、ただ、里を支える大人達、年寄りにも分けなあかん。このままでは遠からず、みんないんようになってしまう。そうなったら、ここは終わりや』『しかし、まさか、護王の不死が、「姫さん」にあるとは思いませんでしたな』
(不死……?)
 連れ攫われて桜の根元で首を切られた綾の身体は一体その後どうなったのだろう。
 切り分ける。
 必要な分を。
 里を支える大人達に。
 不死を…得る…ために…?
 同じ名前の大西康隆。あの男は単に同姓同名なのか、それとも本当ならば、とっくに七十歳に老いていなくてはならなかった、あのときの大西康隆なのか。
 もし、そうだとしたら。
 もし、あの祭礼で振舞われたのが屠られた『姫さん』だったとしたら。
 そしてまた、今また祭礼を迎えて儀式に供されるのが不死を求めての肉体ならば。
 正真正銘、『花王紋の姫』でないと意味がない……。
(ご……おう…)
 無意識に守りを求めて呼んでいた。あまりと言えばあまりな現実に、あまりと言えばあまりな運命を、必死に理解しようとするのに洋子の頭が、感覚がついていかない。
(護王……姫さんは……綾さんは……)
 体が震える。底の底から押さえようのない震えが込み上げてきて止められない。
「あ…や……」
「護王はなあ……死なへんね……ずっと若くてきれいなままや……なんでやろうって皆が考えてなあ……」
 にぃ、と綾香が唇を吊り上げた。禍々しい邪悪な喜びに満ちた笑みだった。
「きっと姫さんのせいや、って考えついたん……花王紋を持ってる姫さんは護王と契る……そのときに、何かが護王に宿るんやって……ほなら…護王に伝わる前に、あたしらがそれをもろたら……?」
「そ…んなこと…」
 あるはずがない、と言いたかった。いくら超自然な転生を果たす『姫さん』だとはいえ、その体を食べることで不死が得られるわけがない、と。
 第一、護王がゆっくりとしか歳を取らないのは『姫さん』と出逢う前からそうだったのだ。『姫さん』の存在はただ、そうやって時の狭間に置き去りにされていく護王を憐れんで、桜の不思議な力に頼り、未来永劫の転生を願った結果にしか過ぎない。
(でも…それをどうやって…説明できる…?)
 それこそ、転生を繰り返す『姫さん』が体に貯えている記憶そのものでしか証明できない事実なのに。
「ちが……」
 体が震えて歯の根が合わない。声が掠れてことばにならない。抵抗しようのない運命が、それも鮮血に彩られた深淵が今すぐそこに口を開けている恐怖に、本能が悲鳴を上げて思考を寸断していく。
「あんたにはもう……花王紋があらへん…」
 くすくすと綾香は嬉しそうに笑った。
「あんたを食べても、何にもならへん……あんたの肉は無駄になるんや」
 くくくっ、と堪え切れないように体を揺らせて目を細めた。肉、とつぶやかれたとたん、自分が既に切り刻まれた塊になってしまった気がして、視界が眩んで吐き気がした。同時に、もう一つの恐ろしい結末に気がつく。
(姫さんを…食べた……なんて…)
 そんなことを護王が知ったら。
 頭の中に朱紅の瞳が燃え上がる。
 闇に吠えていた一匹の鬼。
 ただでさえ、洋子を攫われて、護王の制御は危うい位置で揺らいでいる。
 確かに洋子が傷つけられていることは護王を激怒させるだろう。
 だが、たとえ洋子が生きて戻ったにせよ、もし、前の姫さん、綾が護王を嫌って姿を消したのではなく、大西と日高に拉致されて、しかも里の栄えのためにとその身体を切り分けられ、人々の食に供されたのだなどと知らされたなら。
 しかも、その綾が護王に応じられなかったのは、大西が茜を差し向けたせいで、綾はただの一度も護王を拒んでいなかったばかりか、その死ぬ瞬間に一目だけとまで想いを向けていた、などと知ったなら。
(護王…!)
 ただ自然の習いとして逝ってしまった姫さんさえ、あれほど悼んで忍んでいた護王が、自分が守り切れなかったせいで姫さんを逝かせてしまったのだとわかったら。
『姫さん…!』
 切なげな悲鳴が幻聴で聞こえる。
『…俺が…俺のせいで…?』
 護王の心はきっともたない。
(どうしよう……どうしたらいい…)
 必死に思いを巡らせる洋子に何を思ったのか、
「そやけど…ふふっ……ふふふっ」
 綾香はより楽しそうに笑い声を上げた。
「そやけどなあ……あんたは、ほら……ここに傷があるやろ…?」
「!」
 ふいにきゅ、と傷を掴まれて、眩んだ視界に火花が散り、呼吸が乱れた。
「傷で皮膚が刻まれて……花王紋がないなんて……わからへんやろなあ……?」
 くふ、くくくっ、とふわふわの髪を揺らせて綾香が笑っている。
「あたししか知らへん……花王紋があんたにないこと……なにせ、契る儀式は明日のはずやしなあ…? ほんに護王は行儀悪いわ、こんなにはように手ぇつけてしもて……そやからこんなことになるんや」
 つい、と綾香はふいに何かに誘われたように洋子の唇を撫でた。
「護王がキスした…口なんやな」
 じっと見つめる目が妖しい光を宿して洋子を射抜く。
「護王は…どうやった?」
 痛みと恐怖に我を失うまいと必死に呼吸を繰り返す洋子に、異様に静かな声で問い直す。
「この口で……何を味おうたんや」
「あっ…!」
 肩の痛みを逃そうと、必死に空気を吸い込んでいた口に指を突っ込まれた。とっさに唇を締めてそれを拒んだとたん、傷に爪を立てられ強く握り込まれる。がくっ、と体が勝手に跳ね上がった。悲鳴に開いた口から声が飛ぶ前に綾香の口で塞がれる。
「?!…っ」
 たじろぐ間もなく、滑り込んだ舌が容赦なく唇を押し開いた。抜き取られた指が喉に押し付けられ、洋子の首を固定する。
「ん…っ」
「な…あ…護王は…どんなキス…した…?…」
 熱い吐息と切れ切れの声を漏らしながら、綾香は繰り返し洋子の唇に吸いついた。柔らかで弾力のある唇が何度も押し付けられ、うねり蠢く綾香の舌が護王の痕跡を探すように、痛みに喘ぐ洋子の口の中を這い回る。血の味が口の中に広がって喉の奥へと流れ込んでくる。
(息が…できない…)
 覆いかぶさった綾香を押し退けようと上げた手を、思いきり膝で押さえられた。手首が砕けるような痛み、洋子が硬直して身動きしなくなったのをいいことに、綾香が息を荒げながら口を離してつぶやく。
「あたしに……それ…ちょうだい……」
(綾、香…)
「な…護王……護王…」
「!」
 再び唇を合されて、けれど今度はきつく噛みつかれもして、洋子は顔を歪めた。とろりとした血の味が濃厚に口に流れ込んでくる。
 与えられない酸素に肺が焼け付き、それと呼応するように頭の芯も焦がされ焼けていく。呼ばれているのは護王の名前、組み敷いているのが洋子であるのは百も承知のはずなのに、まるで恋しい男の唇を貪るように、綾香は口付けを繰り返している。ただでさえ循環を奪われた体が冷えきり、火のような息に焙られた口と肺だけが燃え上がる。気を失う寸前の息苦しさに耐え切れず、それでも必死に顔を振り綾香から逃れようとしたとたん、左肩にぎりっ、と指が食い込んだ。
「……っっっ!!」
 ことばにならない悲鳴を上げて、洋子は仰け反った。
(ご…おう……)
 そのとき、朗々とした声が頭上の岩の天蓋を響かせて振り落ちてきた。
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