『桜の護王』

segakiyui

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11.葛城(2)

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「!」
 べっとりした汗に塗れて洋子は目を覚ました。呼吸が苦しくてうまく息が吸えない。今見た光景がまだ体中に重なって、首が胴体から離れて転がっていきそうな気がする。吐き気がして目を閉じる。耳もとで夢の中の声がまだ鳴り響いている。
(首を……切られた)
 あの桜の下の光景は、綾という『姫さん』が何もかもに絶望して、捕らえられ殺されたとき、最後に見ていたものだったのだ。
 今の夢が今までのものと同様、『姫さん』の記憶の一部であるものだとすれば、綾というのはこの前の『姫さん』だということになる。それは唯一護王と体を繋げた人のはずなのだが、夢の中では違っている。
 しかも、綾は自分で姿を消したのではなく、里長の大西康隆と日高幸一郎という医師に殺されたことになる、満開の桜の下で。
(どれがほんとうなんだ…?)
 第一、あの後、『姫さん』の体はどうなってしまったのだろう。転生したのだから、絶命したのは確かだろうが。
「ふ…」
 目を開けているのが苦しくなって、洋子は目を閉じた。
 どれだけ気を失っていたのか、体は冷えきっていて、頭の血も止まっているようだ。だが、今度は首筋が熱くてねったりとしたものに覆われている。べたべたとした流れが背中も胸も濡らしていて、生臭い血の匂いが濃厚に立ち込めている。
 ともすれば、ふうっと眠くなる。静かでひんやりとしたこの岩屋の中で、血に塗れたままで人知れず忘れられて屍になるのも自然なような、そんなけだるさが広がってくる。思い出したように込み上げてくる吐き気と、次第に詰まってくる息苦しさが、かろうじて意識に波を起こしている感じだ。
(死ぬ…のかな……)
 綾子もこんな感じだったのだろうか。首を切り裂かれて、意識はすぐになくなっただろう。嵯峨はどうだっただろう。自殺ならば傷が浅くてじわじわと体が冷えていったのだろうか。それなら、あやこは。
(あやこ…)
 脳裏に蘇った妹はきつく目を怒らせて洋子を睨んでいる。
 おかしい、と思った。こんなあやこは知らない……そう思った瞬間に、閃光のように別の記憶が蘇る。
 あれはいつだったのだろう。洋子がまだ小学生のとき、だろうか。
 父親に部屋に呼ばれた。二階にある父の部屋に入ると、誰が父親の本を落としたのだと問われた。机の上に積まれていた本の一冊が床に落ちて中のページが折れて傷んでいたのだ。
 洋子は緊張した。父は最近怒りっぽくなっていて、洋子は本のことを知らなかったけれど、知らないといっても済まないことが多かった。知らないと言った瞬間に殴られて、ガラスに突っ込み怪我をしたこともある。額の生え際にはまだその傷が残っている。けれど、そのとき父親はまだあやこにはそれほどきつい手出しをしていなかった。あやこなら、まだわけがわかっていないんだろうと済ませることも多かった。
 洋子は唾を呑み込んだ。
 ガラスに突っ込んだときに、目の前に迫った煌めく凶器を覚えている。医者で顔や手足からガラスの破片を抜かれたときの痛みも恐怖も、まだはっきりと覚えている。瞬間に全身を引き裂かれ、倒れていると起きろと怒鳴られたこと、手をついた下にも破片があってにじむように広がった鮮血の赤を覚えている。それら全ては体が直接に覚えていて、こうして思い出すだけで震えが来る。
 あやこちゃんかも、とつぶやいた自分の声が信じられなかった。けれど、言ってしまってほっとした感覚、なに、じゃあ、下にいってろ、と解放された喜び、それらがすぐに洋子の不安を押し流した。
 階段を降りて、あやこ、おとうさんが呼んでるよ、そう言った。うん、とすれ違いに上がっていくあやこ、ただいつもの怒鳴り声が響くだけ、そう思った瞬間、ぎゃ、と悲鳴が上がって洋子はひっぱたかれたように振り向いた。
 部屋からあやこが突き飛ばされていた。大きな父親の手があやこの首を掴み、猫のように軽々と吊るし上げるのを見た。そして父親は、ゴミでも捨てるように階段の下、洋子に向かってあやこの体を放り投げた。
 とっさに両手を広げていた。自分が後一、二段で降り切るときに体を翻したからたまらない。降ってきた体を受け止めるどころか一緒になって転がり落ち、したたかに体を打って、それでも両手で必死にあやこを抱えた。
 その瞬間、嘲笑う声が降り注いだ。
 いいざまだ、あやこ、姉ちゃんはな、お前を売ったんだぞ、自分が叱られるのが嫌さにな、とんでもないガキだ、本は俺が落としたんだ、それを人になすりつけやがって、汚ねえガキだ、食えねえガキだ、人間以下だな、え、妹を売りやがんだから、そうだと思ってたよ、俺はおまえがはなから汚い奴だってわかってたのさ。
 大笑いした父親を見上げると、おねぃちゃん、と声がした。慌てて腕の中を見ると、あやこがそうだ、きつく目を怒らせて睨んでいた。「ほんと?」。
 ごめん、とつぶやいた。どんな罵倒もどんなののしりも受けるつもりで、身を竦めて目を閉じてじっとあやこの糾弾を待った。けれど。
(けれど)
 あやこは瞳を和らげた。洋子にすがりついて、ただ、怖かったよう、と泣いた。
 その瞬間。
(二度としない)
 洋子はそう思ったのだ。
(二度と、信頼を裏切らない)
 僅か一人でも僅か一瞬でも、自分にかけられた信頼があるのなら。
(そうか……そうなんだ……そうなんです、嵯峨さん)
 村上に見せられた嵯峨の手紙を思い出す。
 看護とは、すばらしいものだと書いてあった。一生をかけ、なお情熱尽きることない鮮やかな命の道、看護師としての洋子が歩くその世界の豊かさ美しさを思い、そのまぶしさを思うことが耐えられないと。自分は日高にこだわり、看護師としての道を見失った、それがつらくて生涯後悔し続けるだろう。結局自分は看護師として生きていなかったのだ、と。
 そして、その輝かしい看護の道を全うするものとして、嵯峨は洋子を名指ししていた。洋子こそ、嵯峨の抱く理想を叶えるものとしての期待を手紙のそこここに漂わせ、それで洋子は押しつぶされそうになってしまった。
 自分はそんなもんじゃない。そんなたいしたものじゃない。人を憎み呪い殺したいと思ったことなど何度もある。嵯峨が知らないだけで、奉仕と献身で望まれる看護師の姿なぞ、仮に目の前にたてている看板にすぎない。
 そうだ、だから冬木の信頼が、なおこの気持ちが、ときに洋子を追い詰めた。繰り返しすがってくる患者達、彼らの役に立ち、支え守るその役割を、ほんとうは彼らのためではなくて、自分の償いや慰めに使っているとわかっていた。
 だからあの嵯峨の手紙はきつかった。抱え切れないほどつらかった。だからきっと村上に託した、嵯峨の汚名を晴らすという格好の理由をつけて。
(私だって、看護師として生きていたわけじゃない)
 看護師という仕事を、自分が生きるために利用していただけだ。
(それを嵯峨さんに話せたら)
 もっと早く話せていたら、嵯峨は死なずに済んだだろうか。日高の中に見つけた自分の弱さに、振り回されずにしのげただろうか。
 洋子もまた揺れながら、たじろぎながらごまかしながら、それでも一片の真実を探して、患者の向けてくれた一瞬の信頼に応えることで何かしらを掴みたいと、そうやってもがいているのだ、と伝わっただろうか。
(だから嵯峨さん、一緒にいきましょう)
 そう呼び掛けられたはずだ。
(一緒に歩いて下さいよ。まだいっぱい教えてほしいことがあるんです)
 ねえ、嵯峨さん。
(いっぱい、教えてほしいことが、あったんです)
 閉じた視界が熱いもので満たされて、次々とあふれて零れ落ちた。
(あなたを失って、これほど私が泣くなんて、きっと思わなかったんでしょう?)
 洋子は唇を噛んだ。
 汚れてない人間なんか、いないのに。
◆ 脳裏に護王の泣き顔が過る。
 何も告げずに姿を消した綾が、どれほど護王の心に深い傷を残していったのか、今の洋子はよくわかる。そしてまた、今見た夢で、綾が本当はどれほど護王を愛しみ大事にしていたのか、それももうよくわかった。
 茜のことはよくわからないが、綾も護王も互いにずっと手を伸ばしあっていた。なのに、それに気づかなかったのだ、引き離されてついには死んでしまっても。
 そうだ、嵯峨と洋子のように。
 嵯峨は自分の中の看護師という理想に縛られていた。
 洋子もまた自分の中で女としての理想を嵯峨に見ていた。
 伝えるべきことばを伝えずに逝くこと、受け取るべきことばを受け取らないままに別れること、そのどちらも人を傷つける。そして、その傷はきっと、時を重ねるほどに深くなるのだ。意識できないほどの深みに沈んで、そこから人を傷つけ続ける。
 綾のことで、嵯峨のことで、洋子にはそれがよくわかった。わかっていながら、ここでまた同じことを重ねるわけにはいかなかった。
(マダ、シンデナイ)
 繰り返し慣れた呪文が体の中で響く。今までは傷みを堪えるためだけに使われていたその呪文が、もっと強いもっと鮮やかな気持ちを呼び起こす。
(まだやれることがある)
 かちん、と二つ目のスイッチが入った。
 きっと、本当の意味では、一度も入ったことのないスイッチ、不可能を可能にする唯一の力への合図が。
(そうだ、まだ、終わってない)
 唇を噛んだ。
(せめて、伝えなくちゃ)
 綾は護王を嫌って姿を消したのではないと。洋子は護王を嫌ったり疎んじたりしていなくなるのではないと。
 目を閉じたまま、ゆっくりと呼吸を整える。
(体を確認する)
 慣れた手順を繰り返す。
 頭、首、肩、胸、腕、腹、腰、大腿、ふくらはぎ、足首、爪先。
(傷はどこにある? どのぐらいの深さだ? どの程度の強さだ?)
 右頭部がまだ痛い。表面にぼんやりと麻痺した傷の感触。それからもっと内側にかなり奥の方まで流れ込んでいる差し込むような痛み。深い。
 けれど、それに繋がる『ライン』はまだそれほど傷ついていない。衝撃に麻痺して凍っているだけだ。むしろ激しく傷ついている『ライン』は左の首筋だ。かなり肩寄りで、大きな血管は切れてないけれど、太めの血管が大きく切られて開いたままだ。だから出血がおさまらない。体温をもたらす貴重な熱源と体力を保つエネルギーがどんどん失われていく。
(どこが動かせる? どこまで動ける? いつまで動ける?)
 両腕は背中に曲げた状態で縛られていて、だるくて重い痛みが広がってきている。指先が冷えて強ばっているのは神経が圧迫されているからだけではなく、循環が悪くなっているからだ。両足はまだ重かった。だが、さっきよりはましになって少し動かすことができる。ただ、肩の傷からの出血が続いていて、全身がどんどん冷えてきている。視界にともすればきらめくような蛍光色の星が飛ぶ。動ける時間はあまりない。
 目を開けた。
(状況を確認する)
 洋子が放り込まれている岩屋には僅かながら覚えがあった。
 と言っても、洋子の記憶ではない。綾の記憶だ。彼女が見た光景から『かおうしづめ』の三日目に護王と一緒に籠った岩屋だとわかる。
 岩屋は桜の近くの地下、大石の裏から入れるようになっていた。本来ならば、祭りの三日目、そこに護王と『姫さん』が籠り、契りが結ばれるはずだった。
 だが、結局、綾は護王と結ばれてはいない。
 おそらくは、始まりが食い違ったせいで、護王もすぐにどうこうする気持ちになれなかったのだろう。加えて、なぜか護王は後に綾の妹、茜と体を重ねてしまう。
(いったい、どうして…ううん)
 心乱れるその記憶を洋子は急いで押しやった。事の真否をゆっくり検討している時間などない。
(もし、あの岩屋だったとしたら)
 大石の裏に作られた木戸があり、そこから数段の石の階段があり、大石の真下にあたるところが石室になっている。背後から明かりが射しているところを見ると、洋子は階段と逆に顔を向けて倒れていることになる。木戸には鍵はかからなかったはずだ。綾香や日高のいない今、言い換えれば今しか脱出する機会はないかもしれない。
◆「ん…っ…く…」
 のろのろと頭を起こした。石の床に顎を擦り付け、顔の向きを変えていく。
 幸いに、とは言い切れないが、流れた血のおかげで滑って、それでもまだ楽に向きを変えられた。左側に必死に視線を流して、確かに上へ続く階段をかろうじて見つけた。それほどは離れていない。もう少し体が動かせれば這っていけるぐらい、1メートルか2メートルか。
 だが、その手前に何かが落ちている。
(カッターナイフ)
 目を凝らした。薄ぼんやりとした光の中で、片隅にカッターナイフが転がっている。洋子の肩に突き立てられたもののようだ。
 綾香が放り捨てていったのか。たぶん、気を失ってしまった洋子が、これ以上何をするはずもないと思い込んだのだろう。
 洋子は薄く笑った。
 ゆっくりと足を曲げていく。体の重みが上半身、特に頭にかかってくる。
「く…う…っ」
 呻きを殺しながら、曲げた足を今度は床を蹴り出すように伸ばした。が、肩が引っ掛かってうまく動かない。床に押し付けられて急激に痛みを増す頭をなお押し付け、右肩を体の下に入れ、足を蹴る。数センチ、体が動いた。もう一度頭を押し付け、肩を入れて床を捉え、足を曲げて蹴り出す。
「うっ…あ…っ」
 貫くような痛みが頭から首へ走って、洋子は動きを止めた。激痛に堪え切れず、体を竦めてえづく。意識が今にも焼き切れそうだ。数分、あるいはもっとたったか。視界に飛び交っていた金銀の星が退いていき、洋子は目を開けた。
 頭の下がぬるぬるし始めた。再び出血し出したのかもしれない。
(でも)
 日高か綾香が戻ってくれば、遅かれ早かれ屠られるだろう。ならば今多少の無茶をしたところで、失うものなどない。乱れた呼吸が整うのを待って、今度はカッターナイフと平行になった体を床から蹴って押し上げ、カッターナイフの上に転がろうとする。
「あ……ああああっ!」
 左肩に全体重かけて無理矢理に転がる形になって、思わず悲鳴を上げた。一瞬怯んで足から力が抜けかけたが、もう一度やる時間も体力も気力さえも残っていない。歯をきつく食いしばって最後の力を足に込めて蹴り飛ばす。どん、と落とされるように体が石の床に落ちて、呼吸が止まった。反り返った体が寒さからか衝撃からかひどく震える。
 耐えている間に、左肩にはもう感覚がなくなりつつあった。
「は…っ…あ」
 ようやく大きな波を越えて呼吸を取り戻したものの、さっきまで薄く見えていた視界がきかない。目を開けているのに周囲の石壁も階段も見えない。だが、他の感覚は健在だ。まるで、今すぐに必要ではない感覚を、体が勝手に判断してエネルギーを回すのをやめたような感じだ。
(そうだ、今、視力はいらない)
 洋子は呼吸を整えながら目を閉じた。まだ荒い息に波打って汗塗れになっている体の下に両腕が敷き込まれた形になってかなり苦しい。左肩の感覚が生きていたら、その痛みで気を失ったかもしれない。だが、痛みは閾値を越えてしまったのか、遮断されたように鈍かった。そのぼんやりとした感覚の指先で、背中にあるはずのカッターナイフを必死に探る。
(あった)
 右手の指先に引っ掛かったのを、膝を立て、背中を少し浮かせて引き寄せた。目を閉じたまま、カッターナイフの刃を確認する。
 さっき綾香はその刃を洋子の肩に突き立てて折った。でも、このタイプは後ろから押し出せば、まだ残りの刃が幾分か出てくるはずだ。指先で探ってつまみを見つけ、刃を押し出す。
「つ…」
 頭や肩とは違った鋭い痛みが手首のあたりに走ったが、洋子は構わなかった。カッターナイフの刃ではよほどうまく動脈を切らないと出血死に至る傷はつけられない。そして動脈は腱と骨格に守られている。手首を切って自殺というのはかなりの気力と体力と知識を必要とする技で、ドラマほどたやすく事は運ばない。
 押し出した刃の向きを変え、もう一度膝を立てて位置を決め、手を縛っている紐に少しずつ擦りつけ始める。膝を立てたままだと肩や頭が圧迫されて吐き気がしてきたので背中を落とし、少し休んでまた始める。それでも繰り返し刃を擦りつけ続ける。
 時間との勝負だった。
◆ 日高や綾香が戻ってくるからというだけではない、洋子の気力や体力がどこまで持つか、だ。肩からも、そして今では頭からも出血してきている。血が流れるほどそれをとどめる機能は失われていく。そしてその機能が失われるほど、出血はひどくなる。悪循環に落ち切る前に、紐を切って対処しなくてはならなかった。
 耳鳴りがし始め、吐き気が強まった。床に転がっているのにめまいと揺らぎが体を襲ってくる。震え出したのはショック症状も入っているのかもしれない。それでも唇を噛んで、必死に紐を切り続ける。失った視界の彼方に護王の顔が朧に霞む。
「…んっ…」
 ぶつ。
 聴覚もほぼ失いかけたあたりで、ふいに縛りが解けた。ざあっと体の血が新たな循環を得たように回りだす。背中に引き込んでいた両腕を、カッターナイフを掴んだままのろのろと抜き出して、洋子は深い吐息をついた。急速に眠気が増してくる。たったこれだけのことに残った気力を使い果たしたような気がする。
 ぼんやりと斜め下方に見える階段をみやった。
(あれを…のぼる…)
 それを望むことは、途方もない奇跡のような気がする。
『姫さん…』
 彼方からそう呼ばれたような気がした。
『姫さん…どこにいるんや…?』
(護王)
 どうしているだろう。また泣いているんだろうか。それともまた捨てられたと思って怒り狂っているんだろうか。
(ごめん……もう少ししたら……やってみるから……もう少し…呼吸がましになったら…)
「…もう少し……」
 洋子は小さくつぶやいて目を閉じた。暗闇に苛立ち激怒している護王の姿が浮かび上がる。
(護王…)
 堪えていた意識がその光景に呑み込まれ吸い込まれた。

「なんで、側におらへんかったんや!」
 唇の紅も落とさず、巫女装束を着替えるのもそこそこに、護王は部屋に戻っていた村上に食ってかかっていた。
「姫さんと一緒におったんとちごたんか!」
 黒い瞳が怒りに燃え上がって村上を射抜く。
 洋子が姿を消したと聞かされて一瞬真っ白になった顔は紅潮して、さきほどとは違う意味であでやかだったが、それを上回る呪詛一歩手前の怒気に村上は気を呑まれている。
「いたよ、いたさ」
 村上は目を逸らせながら眉をしかめた。
「すぐ側に、いたんだ、けれど、消えてしまった」
「消えたんやない、見失うたんや」
 吐き捨てるように苦々しく護王はつぶやき、いらだたしげに口の紅を左手の甲で拭った。右手は不安そうに頭を押さえてそろそろと摩っている、その仕草を見咎めて村上は尋ねた。
「どうしたんだ、頭でも痛いのか」
「俺やない、姫さんや」
「え?」
「姫さん、頭を殴られて連れてかれたんや。俺は…姫さんとつながってる」
 ためらった護王は一瞬迷ったような視線を村上から逸らせた。
「つながってる?」
「そや。姫さんが傷つけば俺に痛みが伝わる……護王やからな……くそ……全然痛みがひきよらん……姫さん、手当てもされてへん…!」
 尖った声でつぶやいて、もう一度村上を睨み付ける。
「側にいて、何しとったんや」
「電話があったんだよ。日高を見失ったという報告だった」
「日高……来とるんか」
 呆気に取られた顔で尋ねる護王に村上は曖昧にうなずく。
「そんなん……知らされてへん…気づいてたんか!」
「結構早くにね。けれど、ずっとうろうろしてて落ち着かないし、意図もわからなかった、だから」
「泳がせてた? 姫さんが狙われてるて言うのに?」
 冷え冷えとした声に皮肉を響かせて護王が問い詰めてくる。
「それ知ってたら……お前になんか任すんやなかった!」
「彼女も承知だったんだ」
「何?」
「洋子さんも承知していたんだよ、囮になるのは」
「…おとり、やと?」
「そうだ。そのかわり、絶対日高を捕まえるという約束で…」
 ことばがさすがに曇った。護王が目を細めて村上を凝視した。
「姫さんを……囮にして……日高を捕まえるつもりやったんか」
「…そうだ」
「何を思て…そんな計画…」
 うっすらと殺気立った笑みが護王の唇に滲んだ。横殴りにした紅が血のように残っている口が、今まさに獲物を屠ったばかりの野獣のもののように見える。
「ようも…俺の姫さんに…」
 きりり、と護王の中で殺意が絞り込まれていく。こぶしがゆっくりと握り締められる。
◆「君だって」
 痛いところを突かれて、村上は反論した。
「君だって彼女を守ってはいなかった」
「な…にぃ…」
「綾香さんか? あの娘と一緒にいたことを、洋子さんが気にしてなかったと思ってるのか?」
「あ…」
 赤くなっていた護王の顔が血の気を失った。たじろいだように怒気を萎えさせて怯んだのに、重ねて村上は追い詰める。
「それに、日高がいるのを見たと電話してきたのは綾香さんだぞ?」
「え?」
「自分はこれから輿に乗って里を巡らなくてはいけないし、護王も動けない、けれど日高が舞台を見ているのを見つけたから、と言って。見失ったと連絡を受けた直後だった、動かずにいられるか?」
「綾香…が? そんな話、知らへんぞ」
「何? まさか…」
 護王は厳しい顔になって身を翻した。急ぎ足に部屋を出ていこうとした、その矢先、
「うあっ!」
「どうした?」
 いきなり護王が声を上げて左肩を押さえ、村上はぎょっとした。相手が座り込むのに慌てて近寄る。
「何…なんや…これ…っ…」
「大鷹君!」
「左肩…っ」
 顔を歪めて呻く護王がどんどん青ざめていく。片膝立ちの姿勢でふらりと揺れる体を村上が支えて覗き込む。
「く…そ……お……っ……っ!」
 眉をしかめてうなる顔に見る見る脂汗が吹き出して、呼吸が荒くなる。が、それは唐突に消えたらしい。護王は顔を険しくしかめ、一つ首を振って緊張を解くと重くて深い息をついた。
「洋子、さんか?」
「…考えたないけどな」
 護王の顔は依然青い。
「裂かれてる、みたいやった」
「…今は…?」
「ない……いや…あるけど…」
 左肩を庇いながらのろのろと立ち上がる。
「かなり鈍くて遠い」
「……洋子さんは……虐待を受けている」
「は?」
 村上の奇妙な返答に護王は訝しげな顔になった。村上は眼鏡を中指で押し上げながら掠れた声でことばを継ぐ。
「君は知らないだろうが……葛城洋子、という女性は、実の両親から十年以上も虐待を受けていて……妹のあやこさんはそのせいで死んでいる」
「何…やて…?」
 護王の顔が凍った。
「洋子さんが病棟の綾子さんのことになると必死になるのは、きっと亡くなった妹さんを重ねているせいだ」
 冷やかかで強い光が村上の目に過ったのだろう。たじろがずに受け止めた護王が、信じられないように繰り返す。
「実の親から……虐待…? そんなこと……姫さん…一言も…」
「彼女自身、病院に担ぎ込まれてもいる……けれど、私が言いたいのは…」
 村上は一旦ことばを切り、固い表情で続けた。
「長年に渡る虐待は人の感覚を鈍らせる」
「…どういうことや」
「……怪我をしても傷を受けても、実際の状態よりずっと低いレベルでしか感じなくなる、ということだよ。痛みの閾値が高くなるんだ。できるかぎり、痛みを無視するように育っていく」
「待てや…」
 不安そうな表情でごく、と護王が唾を呑んだ。
「ほな…何か…姫さんの怪我て…俺が感じてるより……ずっとひどいかも知れへん、てこと、か?」
 つぶやいて、そのことばの意味が改めてわかったように、微かに体を震わせる。
「痛みがましになったのならいいが……ひょっとしたら」
 村上は護王から目を逸らせた。
「死にかけてる…?」
 きり、と護王の歯が鳴った。荒々しく部屋を出て行きながら、低い声で吐く。
「…くそったれ……っ!」
「待てよ、どこへ」
「綾香が噛んどるんやったら……大西が無縁なわけないやろ…? どんな思いさせても吐かしたる」
 護王が広げた冷ややかな微笑に、村上は一瞬反論しようとしたが、やがて諦めの混じった声で応じた。
「洋子さんに、私は日高を裁くと約束したんだよ」
「知るか…」
 くす、と場違いにかわいらしく聞こえる声で護王が笑った。瞳に禍々しい紅の色が揺れる。村上は不安になって眉を寄せた。
「安心しぃ…俺が裁いたる…きっちりな」
 護王の唇が魔性の笑みに綻んだ。
「姫さんのおらへん世界が」
 その後は村上がことばを呑むほど昏い声が、遠ざかる背中から響いた。
「存在してる意味なんてあらへん」
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