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11.葛城(1)
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頭が熱い。右側だけ炎の中に突っ込んだみたいだ。しかも、この炎は液体で、頭を濡らし、絶えず流れ続けている。炎ではなくて、溶けた金属の中に頭を突っ込んでいるのかもしれない。
「ん……く…」
眉をしかめて目を開くと、叩きつけるような激しい痛みが襲ってきて思わず呻いた。唇を噛んで目を閉じ、そのまま数秒、巨大な鐘を頭の中で鳴らされているような苦痛にしばらく耐える。
ぬる、とまたひと雫、熱い流れがこめかみを伝って頬へ流れ落ちてきた。
(汗……じゃないな…)
体も燃え上がるように熱いから発汗を考えたが、過去の経験が違うと教えた。もっと粘り気があって、しかも流れるごとにぞくぞくとする悪寒が広がる。体から貴重なものが流れ出している、それを教える命の警戒信号だ。
手を動かして傷を確かめ、止血しようと思ったが、体は全く反応してくれなかった。手どころか、身動き一つできない。どこか固い場所にうつぶせに寝かされ放置されている。両腕は背中に回されて縛られているようだが、足はそのままだ。だが、他人のもののようにごとりと転がっていて力が入らない。
洋子はもう一度そっと目を開けた。
体の下にあるのは平たくて冷たい石の床だった。真っ暗だと思っていた周囲は背後に明かりの気配があり、それで石造りの部屋に放り込まれているとわかった。地下にあるのか地上なのか、窓らしいものはなく空気も動かないのでわからない。身動きできないまま、目だけ動かして周囲を見回し、それだけでひどく疲れてしまって溜息をついて目を閉じた。
(殴られた……か)
意識を失う前のことをぼんやりと思い出す。
艶やかな護王の舞に見愡れていた。暗闇の中で、降り散る桜が篝火に煌めき、金糸の刺繍を散らした衣を翻して舞っていた護王。振り返る濡れた黒い瞳と薄紅の頬に密やかな満足の笑みが広がる。
我はあなたに属するもの。
我はあなたに仕えるもの。
服従するのでもなく支配されるのでもなく、その目は拝跪を望み訴えている。
どうか我が祈りを受け取りたまえ。
(護王)
あの奉納舞いの後、護王と綾香は輿で里を巡ったはずだ。洋子がいなくなっているのに気づくのはその後のことだろう。いや、村上が先に動いているか。どちらにせよ、護王の狼狽が目に浮かぶ。
(きっと心配してる)
何とか早く戻らなくては。
護王の中で燃える炎に冷えていく体が温められる気がして、洋子は吐息をついて、体を動かそうとした。
「つ!」
てきめん、鋭い針で貫かれたような痛みが頭から足まで走って硬直する。だが、それほどの痛みなのに、体の反応は鈍かった。強張ったのが精一杯で、足はほとんど動かない。感覚も少し鈍いかもしれないが、何より体が意識と切り離されてしまっているようだ。
殴られたのは右の頭頂部、けれど動かず反応が鈍いのは全身、怪我による麻痺とは考えにくい。妙なところで看護師の知識が勝手に動き出す。
(…何か……薬を使われた…?)
ぞくりとした寒気が広がった。
洋子を殺すのではなく攫ってきたあたり、そしてまた、身動きできない状態で意識を戻せるように設定するあたり、相手の意図に不快なものがある。
(知覚は残して動きだけを封じる)
それは手に入った獲物を弄ぶか、後でゆっくり料理するまで新鮮な状態で置いておきたいという肉食獣の遣り口ではなかったか。
「気ぃついた?」
ふいに背中から聞き覚えのある声が尋ねてきて、洋子はぎょっとした。
「体、動かへんやろ? でも、聞こえてる、そうやろ?」
甘くてかわいらしい声、けれど、この岩屋にはあまりにも不似合いで予想外の声。
◆(まさか)
思わず開いた目で声の方を探ろうとしたが、頭を動かそうとしたところで痛みが強くなって動けなくなる。幾筋か伝ってきた血がぬるぬると頬を辿り、口元にも届いた。
「里にある薬草やしな。けど、安心してええで、使い慣れてるさかい、間違いはせえへん」
「あや……か…?」
「へえ、しゃべれるんや…」
くすりと笑みを含む声がして、するすると絹ずれの音がした。視界を回りこんでくる白い巫女衣装、ゆっくりと膝を折って覗き込んでくる顔はまさに綾香だ。
「…ど…して…」
何とか声を絞り出した洋子に綾香は表情を凍らせた。
「どうして? 御挨拶やな、人のもんに手ェ出しといて、気にもしてへんの?」
すらりと立ち上がると、また背後に回る。次の瞬間、激しい勢いでブラウスの襟を背中に引かれ、洋子は悲鳴を上げた。ち、と鋭い舌打ちが響いて、背中にひやっとした気配が躍ったかと思うと、一気にブラウスを裂かれる。投げ出されるように前へのめり、きつく床に体を打ちつけた。痛みと衝撃に頭が揺さぶられ、視界が真っ白になる。開いた口に流れた血が入り込み、生温かい鉄の味に吐きそうだ。必死に堪える、それだけで頭が数倍強く痛み、その痛みにさらに吐きそうになった。
「ぐ…」
「……やっぱり…」
開かれた背中に綾香のいまいましげな声が降り落ちてきた。
「こんなことやろうと思ったわ」
何度かの大きな揺さぶりの後、ようやく痛みの大きな波が去って、洋子は力を抜いた。
「は…」
きつく締めていた口を開いて過熱した肺に必死に酸素を取り込む。だらりとした体は痛みにも反応が鈍い。けれど、感覚はその代償とでもいうように敏感になっていて、呼吸一つ一つが頭の傷に突き刺さってくる。吸うのも吐くのもひどくゆっくりとしかできない。
喘いでいるとひた、とさっきのひやりとした気配のものが首筋あたり、ちょうど花王紋のあたりに当てられて、洋子は息を止めた。細い平たい金属のようなものだ。
「なあ」
護王とよく似た口調がからかうように響いた。
「どうやった、護王の体?」
『姫…さん…』
「!」
声に呼ばれたように、耳もとで甘い声が響いた気がした。どきりと胸が高く打つ。
「祭礼は明日やのに、ほんまにこらえ性のない男やなあ、さっそくつまみ食いしてしもて」
(綾香……知ってる…?)
驚きに目を見張る。護王が言いふらしたり綾香に打ち明けているとは思えなかった。
ならば、どこかでこっそり盗み見でもされていたのだろうか。それとも、誰かが気配を察したのだろうか。
「つまみ食いしたんは、そうか、あんたの方か」
くく、と下卑た笑い声が響いて、洋子は体が熱くなった。
『なあ……姫さん…?』
甘く掠れて洋子を呼んだ声、吐息をつきながら倒れてくる身体、汗に濡れて乱れ落ちてくる髪などが次々と蘇る。胸の中に、ではなくて、直接肌身に触れられているような生々しさだ。
だが、今、それが呼び起こしたのは不思議に熱を煽る激情ではなかった。
(あのときはあれほど近くにいたのに)
今はもう、届かないほど引き離されている、いや、ひょっとすると二度と会えないほど遠くに来てしまっているのかもしれない。
(また……泣かせてしまう)
繰り返した夢の中のように。置いていくのかと震えながら笑っていた顔が頭の傷とは別の痛さで胸を焼く。
夜明け前に洋子を抱き締めて、護王がそっとついた吐息は、望みの一夜の余韻というより、そこに洋子がいることを確かめてでもいるような、切なく震えるものだった。護王の中の奥深くで、幻ではないのだとつぶやいている、別の時空の護王を思い起こさせた。
『俺の……姫さん…』
優しい安堵に満ちた声。そっと擦り寄せられてくる頬。
舞いの最中に洋子を見上げた願いの視線。
(まだ、その答えも返していないのに)
きっと必死に探している。
そう思って胸が詰まった。
「ちょっと…聞いてんの!」
「帰して…」
からかいに応じなかった洋子に苛立ったように、背中で綾香が喚くのにつぶやく。
「え?」
「護王のところへ……帰して……でないと……」
今度こそ、護王は狂ってしまう。
いつか見た夢が鮮やかな流血の気配を伴って脳裏に広がる。
ヒメサン……ヒメサン…。
切なげに喘ぐように囁くように繰り返す声。
ヒメサン……ドコヘイッテシモタンヤ……オレヲオイテ……マタオイテ……トキノナガレニオキザリニシテ……。
声は啜り泣いている。胸えぐるような悲痛さで。
イツマデ……ヒトリデオッタラエエノ……イツマデ……アンタヲサガセバエエンヤ…。
うぉんうぉんと泣く声は遠くの地鳴りのような声と重なり、まるで暗夜に呻く鬼の声のようだ。
ヒトリハイヤヤ…ヒトリハイヤ……。
桜の根元に蹲った護王が絶望に身を震わせて泣き悶えている。
『姫さ……ん……!!!』
吠えるように仰け反って天空に向けて叫ぶ声、その身体にふつふつとどす黒い怒りが滾っていく。今にも肉を突き破り、紅蓮の炎となって立ち上がりそうな激情。瞳が鋭く光を増す、目を奪うような朱紅に。破壊しか望まぬ鬼の目に。
洋子は唇を噛んだ。身動きできない体にいら立ちが高まる。
「でないと、何なん」
なかなか応えようとしない洋子に、綾香が苛立って促した。
「護王……壊れちゃう…」
必死の思いで訴えた。
「何…やて…?」
綾香が低い声を返した。
「護王が……壊れる、やて? あんたを帰さへんと……護王が壊れる、言うんか…?」
おどろに禍々しい響きをたたえる声、ことさらゆっくりと繰り返しながら殺気を募らせていく、その響きに無意識に洋子の皮膚が粟立った。
「それほど……あんたが大事やて…?」
声は痛烈な嘲りを満たした。
「ええかげんにしぃや……自惚れんのも!」
「っっっあ!!」
ふ、と背後で風が動いて翻った。
訝しく思う間もなく首筋の花王紋にどすっ、という音と一緒に何かが突き立てられて思わず体が跳ね上がる。叫ぶつもりはなかったのに叩き出されるように悲鳴が口を突いた。
同時にぱきん、と固い音がして肩から圧力が抜けた。突き放されたように倒れ込む、その左肩に近い首筋に異物感、それが引き起こす激痛に体が竦んだまま、床に転がる。打ちつけたのは殴られた右の頭、くら、と意識が揺らいで呑まれる。
「く…ふっ…」
「あ……折れてもたわ、カッターの刃」
淡々とした綾香の声が響いた。
(カッター…?…)
どこか遠い場所でそのことばを繰り返し、ではさっきから突き付けられていたのは、カッターナイフの刃だったのか、と虚ろに思った。
「暴れるしやんか」
妙に白々とした感情のない声で綾香が続ける。
「こんなん残しといたら…後で日高に何言われることやら……」
「あ……や…っ…」
屈み込む気配にまた殺気を感じた。逃げ出したくても動けない、花王紋のあたりに突き刺さって残った刃をぐっと握られる感覚、そうそう肉が絡んでいるわけでもあるまいに、前後左右に揺さぶりながら抜かれ始めて、洋子の全身の血の気が引き震えが走った。
一番敏感な部分までむしられた神経を直接切り刻まれていく痛みに視界を失いながら声を上げる。動かぬはずの体が仰け反った。
「わ……あああ…っ…っ!!」
「騒がしなあ……あんた」
吐き捨てるような綾香の声。
「っ…!」
刃を抜き取られる最後の瞬間、なお強く力を入れて肉に押しつけるように引き抜かれ、洋子は意識を飛ばした。
護王は結局祭礼の三日目に洋子を抱こうとしなかった。
桜の近くにある大石の裏にしつらえられた岩屋、そこに籠った後も、緊張して体を竦めている洋子をそっと抱き締めただけ、唇さえ重ねずにそのまま儀式は済んだと里長に告げ、そうしてもう一年がたとうとしている。
(やっぱり……はじまりがまずかったから)
薄い闇の中、護王は隣で眠っている。洋子は繰り返し慣れた思いを胸に、じっと天井を見上げている。
時は深夜、屋敷の中では誰ももう起きていない。
(それとも……ほんとは、私が嫌われてるのかもしれへん)
そもそもが年齢差がありすぎる。護王がもっと若い姫を望んでいたのかもしれず、けれど成りゆき上、花王紋が現れたのは宇津目綾、つまりは洋子一人しかいなかったのも仕方のないことで。
(拒みたかった…んかな)
多くの偽者の姫たちと同じく、ないことにしてしまおうと密かに考えていたのかもしれない。けれど、洋子があの場で派手に騒いだこともある、また護王が娶らねば、祭礼にも出ないと言い放ったこともある。
(『姫さん』として、とりあえずは確保しておいたということなのかもしれへんなあ…)
それでなくとも、目覚ましい産業構造の変化は若者を次々と街へ引き付けている。里に残されているのは、何とか里の生活を損なわない程度の人間しかいない。
遅かれ早かれこの里も、年老いたものが死んでいき、若いものが捨てていき、昔話にしか残らないような里になるのかもしれない。
里長の大西康隆や里での相談役を勤めている日高幸一郎医師はいっとき企業誘致などにも動いたようだが、所詮、これといった大きな歴史や遺物を持つ里ではない。日本中どこにでもある落ち武者伝説と桜の巨木、昔の祭礼跡の巨石に、『かおうしづめ』というどちらかというと地味で閉鎖的な祭では、華々しい博覧会やイベントには勝てない。
里は寂れていく一方だ。
洋子はそっと顔を回して規則正しい呼吸を紡いでいる護王を見た。
まつげが意外に長い。すべらかな頬のたるみのなさは若さの象徴だ。薄い唇が僅かに開いていて、内側に入るとやや紅を増すのが艶かしい。
(護王はこんなところに居んでもええ)
たぶん、街へ出ていけば、護王の外見は人目を引くだろう。いろんな人間が引く手あまたで護王を迎えるだろう。
氏素性なんてこだわらない、いつまでも若くて美しい男に過去の詮索をし続ける女は少ないだろうし、最近ではコンピューター分野に興味があるのかその関連の勉強を重ねている護王は、企業としても有能な人材として評価されるのではないか。
(里に縛りつけられんでも)
洋子は体を起こした。
(今度の祭礼が終わったら)
そうしてそのときも護王が洋子を求めなかったとしたら、護王を里から解き放とう。何とでも理由をつけて、そうだ、自分が祭礼の主をまかされたとでもごまかして。
(ほんとうは…そんなこと、したない、けど…でも)
ほんとうは、一度だけ洋子から求めたこともある。
去年の夏のことだ。
沸き返るような暑さの日、何を思ってるのか、珍しくぼんやりと青空を見上げていた護王が妙に寂しそうで人恋しそうに見えて、その夜、そっと誘ってみた。
暑いから早めにお風呂にしましょうか。今日はいろいろと片付いてるんで、背中でも流しましょうか。
あんまりにも不器用な誘いだとは思った。けれど、洋子にはそれがせいいっぱいだった。
でも、護王も何となく嬉しそうな様子だったし、一緒になって数カ月もたっているのに、何だかどきどきとしてしまって、洋子も浮き立って用意をした。
風呂場で明るい光の中で見た護王は、思っていたよりもずっときれいで官能的だった。
熱で肌が桜色に上気している。滑らかな表面に湯が滑り光を零す。一瞬触れた部分がまとわりつくような感触で、湯気より先に護王の裸身にあてられ、視界が揺らめくような気持ちさえ覚えた。
細身の、けれどしっかりとした骨格が照れくさそうに背中を向ける。護王の頬が赤いのは恥じらっているよりは湯の熱さのせいだろう、けれど自分の顔もそれ以上に赤いかもしれない。
タオルに石鹸を泡立てて、そっと背中を擦り出す。柔らかなシャボンの香りにときどきつんときつい樹の香りが混じる。
うつむきがちに黙って洋子に背中を擦られていた護王が掠れた声で何かをつぶやいて、「はい?」と思わず覗き込むと慌てたように体を竦めた。それでも、『それ』の気配は何となく通じるものがあった。
慌てて身を引こうとしたら、そっと手首を掴まれた。引き寄せられて耳もとで「今夜」。ぽつんとつぶやかれた声がひどく甘く頼りなく聞こえた。「はい」。うなずくと同時にお互いにくすぐったく笑ったのに。
風呂を済ませて身支度していると、母屋で用事だと呼ばれた。
ちょうど妹の茜が里帰りしてきていて、赤ん坊が火がついたように泣いていたのに、茜がいない。「よしよし、どうしたのかなあ、おかあさんは」。抱き上げてほおずりしてやると、くふんくふんと甘え泣きする、その温みに思わずそっと抱き締める。
今夜護王とそうなったのなら。こういう赤ん坊が授かるんだろうか。男の子でも女の子でもいいけれど。護王の子どもならどちらでもいい。でもできれば護王に似てほしい。身勝手かな。
そう一人微笑んだ。
茜はなかなか戻ってこない。子どもは本格的に乳を求めて泣き出しているようだ。粉ミルクは使ってないと聞いていたし、茜の部屋まで行ったがいない。家の者も知らないらしい。「困ったねえ、お腹空いたのにねえ」。
ちゅくちゅくと指を吸っている子どもをあやしながら、あちらこちらをうろついている間にすっかり汗ばんだ。一度戻って護王にわけを話して……そう思ったのはきっと魔の囁きだったのだろう。
赤ん坊を腕に抱えたまま、洋子は急ぎ足に部屋に戻った。
部屋は暗かった。
さっきまでは明かりをつけ布団に寝そべって護王が待っていたはず、と思わず顔を熱くしてしまう。「護王、あの…」。声をかけ少し開いた障子の隙間から覗き込んで洋子は固まった。
布団の上でもつれあうように抱き合っている姿があった。熱い吐息が部屋に満ちていた。見覚えのある背中の下で口を開いて小さく声を上げた相手が、ふとその背中越しに洋子に目を合わせてに、と笑った。
茜……とそれがもう声にならなかった。
(ああ……そう、なんか)
誰でも、よかったのか。
いや、洋子でなくても、よかったのか。
(あほ…やなあ…私は)
身の内側から凍えていくような思いがした。
誘いをかけられ、ずいぶん護王は困ったのだろう。茜を引き込むことが遠回しの断わりのつもりだったのかもしれない、そう思った。ならば。
目を閉じて、そっと身を引いて逃げた。逃げているのがわかっていた。確かめればいい、あの始めのように啖呵を切ってみせればいい、はずだったけれど、それをするには護王に気持ちを惹かれ過ぎていた。
赤ん坊を産んでも華のある茜の姿と自分を比較し、護王の口から洋子ではなく茜を抱きたかったのだと聞かされたくない、それだけの気持ちでただただ怯んで逃げ出した。
腕の赤ん坊は何かを察したのだろうか、うぇんと声を上げもせず洋子にしがみついてくる。
その幼さが愛おしくて切なかった。
二度と抱くことはないのだと滲んだ涙に歯を食いしばった。
翌日護王はいつもと変わらずに居た。洋子に笑いかけ、優しくさえあった。ふとした隙に唇を求められて、拒みもせずに応じてしまった自分が情けなかった。
口づけは甘かった。抱き込まれて相手の腕の温かさと確かさに信じられないほど胸が震え、自分がそれでも護王が欲しいのだと思い知らされた。
どこまでいっても幻だ。
あの柔らかな赤ん坊とおんなじで。
零れた涙をうつむいて隠した。
その後は、護王が求めてきても無理だった。
形だけでも構わへんやないか、と思おうとしたけれど、護王の視界の中で自分に重ねられるのが茜なのだろうと思うと、ましてや事の最中に茜の名前を呼ばれるかと思うと、胸が絞られて応じることができなかった。
護王が焦り苛立つのがわかった。何が不満なのかと問われ、やはり俺が嫌いなのかとなじられ、首を振りながらもことばに出せなかった。
もうお芝居はええのんや、私ではだめなんやろ、と、たったそれだけのことばだったのだが。
どうしても、どうしても手に入らなかった宝物をようやくの思いで手に入れてみれば、それは美しく出来上がったまがい物で、しかも誰が本物を持っているのかもわかっている。ことあるごとに比べられて、その出来不出来を確かめられる、そんな日々が続いた。
茜がたびたび戻ってきたから。
帰るたびに茜は夫との不仲に怯える人妻として護王を頼った。護王も冷ややかな対応を茜には緩めているように思えた。
少しずつ開いていく自分と護王の隙間を、洋子は両手で必死に引き寄せながら見守った。
でも、それももう、気持ちは限界だった。
(ほんとうは……一緒に居たかった…けど)
今度茜は離婚して里に戻ってくることになっていた。もうこの先ずっと、茜はここにいる。護王の側にいる。
そして、そこに洋子の居場所などない。
思いつめてみると、側で眠る護王の寝息一つが辛かった。
寝床を抜け出し、庭に出る。静まり返った闇をふらふらと漂うように歩き回る。
もう幾夜こうして眠れぬ時間を過ごしただろう。
川べりを歩いて飛び込もうかと思ったこともあった。山に入り込みどこからか身を投げようかと思ったこともあった。
けれど未練で。
(護王)
これほど想っても届くはずのない自分の心が哀れで。なのに、外側だけは、形だけは、洋子は護王の妻としてあって。
(もう何にも、残ってへんのになあ…?)
そう思ってはたびたびそっと両手を広げてみた。
そこには何もなく、誰もいない両手。
からっぽで虚ろで、この先もずっと何も得られない、この両手。
桜を見に出かけた。真っ暗な夜を一人でとぼとぼと。
何度も何度も繰り返し。
燃えるように鮮やかな桜の下で、散る花に打たれてこのまま消えたいといつも思った。
今ならいい、形だけでも器だけでも護王の側に居られるうちに消えるなら。
(しょせん、わがままな気持ちやったんやろなあ?)
護王の孤独につけ込んで、胸に花王紋が出たのを幸い、無理を通したつけを今自分が払っているのだと感じていた。
(ほんとうに好きな人のところへ……解き放ってやるんが、大人いうもんやんかなあ?)
けれど、護王は気にするだろう。洋子が消えてしまったのなら、一応は花王紋のある女、祭礼にも支障があるかもしれない。
(そうか…『姫さん』だけ、やってたらええんか)
桜を見上げてそう気づいた。
もともと花王紋は『姫さん』の徴、護王の心を得られる証ではなかったのだ、とそんな当たり前のことがふいにわかって笑いがこみあげてきた。
「なんや…」
はなから『姫さん』だけをしてればよかったのだ。祭礼に必要な幻として、護王を慰めるための人形として、我などなく気持ちなど育てず、その役割だけ果たせばいい。
(そうしたら……おっても…ええかなあ…)
そうやって割り切ってしまえば、もう少しなら居られるかもしれない、護王の側に。自分に与えられる笑顔だけに満足して、役割に納得して、気持ちなど求めないで、形の中だけで生きていけば、まだしばらくは、護王の側にいられるかもしれない。
形だけ残して。
(そや、気持ちは死んでしもたらええんや)
そして護王は洋子という器の中に、『姫さん』を入れ茜を入れ、そんなことはそしらぬふりして、そうやって時を過ごしていけば。
(一緒におられる、んや)
ずっと。ずっと。
「なんや……簡単なことやんか」
側に居られればいいだけや。
それでもどうして桜を見上げて涙が吹きこぼれてしまったのか。
気持ちが死んでしまった自分が果たして自分と言えるのか、そんなことをどこか深くで悩んでいたのだろうか。
帰る道で、どこかやっぱりふらふらして我を忘れていた。突然飛び出してきた影に鳩尾を強く殴りつけられたときも、もうどうでもいいと思いつつあった。
護王は洋子を必要としない。ただそれだけのことだ。
なんだ。なんだ。なんだ。
笑みがこぼれる。救いようのない笑みが。どこにも行き場のない笑みが。
意識を失って、次に気がついたときには桜の樹の下にいた。
つやつやと淡く光っている幹が視界のはるか上まで伸び、その向こうに夜空を煙らせる花が広がっている。
満開のえどひがん。
今年は花が早かった。早く咲いて早く散る。そういう定めの年だったんやなあとぼんやりと思った。
花は風に煽られて、ときおりはらはらと散っていた。
それを洋子は見上げている。
ごう、と風が鳴る。
体が重くて身動きできない。桜の下に横たえられていて、しかも胸元を広げられているのに気づくのにも随分時間がかかった。けれど、それを直せない。土の上に横たわったまま、じっと桜を見上げている。
その視界にふいと二つの顔が突き出た。
「目を開けてるようやが」「大丈夫です、声も出ないし、身動きもできませんよ」。
それは里長の康隆と日高医師だった。日高医師が面長の人の良さそうな顔に奇妙な笑みを浮かべて、
「うまく切り分けられるといいですな。必要なのは何人分でしたかな」
「子どもはええ、ただ、里を支える大人達、年寄りにも分けなあかん。このままでは遠からず、みんないんようになってしまう。そうなったら、ここは終わりや」
「しかし、まさか、護王の不死が、『姫さん』にあるとは思いませんでしたな」
(不死?)
洋子はゆるやかに瞬きした。瞳が乾いていくせいか、それともこの先に続くものを体が感じ取っているのか、涙が視界を潤ませていく。
「わかってるだけでも護王は二百年近う生きとる。命の源はこの花王紋の人間の生気を吸ってる、それに間違いないやろう。その証拠に花王紋の娘はみんなそれほど長生きせえへんからな。どうせなら、あいつのためだけやのうて、里全部にために役立ってもらわんと」
「私は納得しかねるのですが」
「そやけど、ほかに何か方法があるか? 里は寂れていく。若いもんは街へ出ていきよるし、里に残ったもんは年寄りばっかりや。このままやったら、里の生活はでけへんようになる。病気もするし、怪我もする。そやけど、不死になったら……まあ不死とは言わんまでも、護王のように少しずつ歳とったら、困らへんのや」
「うーむ……まあ、それはそうですが。ただ、食べ切らないで、不死の研究のためにちゃんと一部は細胞を残しておいてくださいよ」
「ああ、わかっとる」
康隆が洋子の側に立った。その手にゆっくりと取り出されたのは銀色の刃を光らせるまでに磨き上げられた斧だ。
「泣かんでええ、お前は里のためになる、祭礼のことは心配せんでええ、茜が帰ってくるさかいな」
康隆がにんまりと目を細めて笑った。
「あいつの腕にも花王紋が現れたんやて。なあに、一度は嫁したにせよ、お前かて生娘ちごても『姫さん』や、茜にも十分に勤まるやろう。実際」
笑みがにやにやといやらしく崩れ落ちた。
「もうすっかりええ具合になってるらしい、お前は気づいとらへんかったやろが、まあ、見目形からもわかるわなあ」
そうか、とぼんやり洋子は思う。
(そうか、あれからずっと、そうなんか)
そして気づく、もう一つの企みに。茜を煩雑に呼び戻して出入りさせていた康隆の暗い望みに。
(けど、もう…)
どうでもええ、と洋子は薄笑いした。
(選んだのは護王や…)
もうお役御免ということなのだ。そう心の底から思い知る。
こんな思いをするだけならば、もう転生なんかしなくていい。『姫さん』の記憶も、花王紋も要らない。
護王には年々そのときに必要でふさわしい娘が現れるだろう。
(そうや、きっとその方が)
護王も自由に生きられる。里にも花王紋にも『姫さん』にも縛られずに自分の人生を生きられる。
(それでええ……それでええやんか?)
思い出す。震えながら笑いかけた護王の青い顔。『俺…どうしよ……どうしたら……ええねん……? どうしたら…』『もう……終わりなんか……? これで…最後なんか…? この先ずっと……独り…なんか…? そういうこと……なん……か…?』
瞳の奥に燃えていた激しい紅の激情、その一ひらさえ得られはしなかったけれど、護王の中に抱えられた影、それがたった一人で生きていくという孤独の傷みであることはよくわかった。それがどれほど護王を傷つけ痛めつけているのかも。
(ほな、花王紋の『姫さん』として最初で最後にできる勤めは……解き放つ、ことやんかなあ?)
降りしきる桜。泣きじゃくる小さな子ども。臨終の床に泣き崩れる少年。ひんやりとした夏の川べりですがりつく姿。入り組んだ街を、村を、闇を、日射しの中を、洋子を探してひたすらに歩く護王の姿。その疲れ切った不安な足取り。
そうして、護王は時の中にも人の中にも生きられないままでいる。
(もうええ……もう探さんでええ)
幸いに、今の護王には茜という存在もある。今までで一番『姫さん』より遠ざかっている時、ならば、このときに護王と気持ちも体も結べない洋子が生まれたというのも、また恩寵と言えるのかもしれない。
(そうや、今なら……うん、そうや)
宇津目綾をもって、『姫さん』はその転生を封じる。そして、護王をその定めより解き放つ。
(それでええんや、きっと)
だからこそ、このときの『姫さん』は綾だったのだ。求められない『姫さん』、離れるべき『姫さん』、当たり前だ、捨て去られるべきが、その役目。
(あほやなあ……そやのに……惚れてしもて……)
そうだ、惚れている、心底、居畳まれないほどに惚れている。
けれどそれは叶うことない運命だ。
護王を想えば想うほど、決して叶えてはならないこと。
(そやけど……)
「納得したか、よろし、これこそ、ほんまの守り神の業やで、綾、あんじょう、往生しいや」
斧がゆっくり、けれどもためらいなく洋子の喉に当てられた。
(未練やなあ)
洋子は夜闇に舞い散る桜の花弁に小さく吐息をついた。
(最後に一目……会いたかったなあ)
せめて、もう一度だけ顔を見たい。
数えるほどしか見られなかった、その笑顔を、ただ一度だけ。
それが自分のものではないとわかってはいる。
けれど。
ここで洋子は消滅する。消える。居なくなる。
だから、たった一つの、ささやかな、それ以上は望まない、だから。
(護王…)
まるで風呂の薪を割るような様子で康隆が頭上に斧を振り上げる。それから無造作に斧の重さに体重をのせて一気に地面まで振り切った。
「!」
声はもう出なかった。ざくりと裂かれた喉から鮮血が飛び、桜の花にすがりつくように散っていく。
きれいだ、と最後にそう思った。
「ん……く…」
眉をしかめて目を開くと、叩きつけるような激しい痛みが襲ってきて思わず呻いた。唇を噛んで目を閉じ、そのまま数秒、巨大な鐘を頭の中で鳴らされているような苦痛にしばらく耐える。
ぬる、とまたひと雫、熱い流れがこめかみを伝って頬へ流れ落ちてきた。
(汗……じゃないな…)
体も燃え上がるように熱いから発汗を考えたが、過去の経験が違うと教えた。もっと粘り気があって、しかも流れるごとにぞくぞくとする悪寒が広がる。体から貴重なものが流れ出している、それを教える命の警戒信号だ。
手を動かして傷を確かめ、止血しようと思ったが、体は全く反応してくれなかった。手どころか、身動き一つできない。どこか固い場所にうつぶせに寝かされ放置されている。両腕は背中に回されて縛られているようだが、足はそのままだ。だが、他人のもののようにごとりと転がっていて力が入らない。
洋子はもう一度そっと目を開けた。
体の下にあるのは平たくて冷たい石の床だった。真っ暗だと思っていた周囲は背後に明かりの気配があり、それで石造りの部屋に放り込まれているとわかった。地下にあるのか地上なのか、窓らしいものはなく空気も動かないのでわからない。身動きできないまま、目だけ動かして周囲を見回し、それだけでひどく疲れてしまって溜息をついて目を閉じた。
(殴られた……か)
意識を失う前のことをぼんやりと思い出す。
艶やかな護王の舞に見愡れていた。暗闇の中で、降り散る桜が篝火に煌めき、金糸の刺繍を散らした衣を翻して舞っていた護王。振り返る濡れた黒い瞳と薄紅の頬に密やかな満足の笑みが広がる。
我はあなたに属するもの。
我はあなたに仕えるもの。
服従するのでもなく支配されるのでもなく、その目は拝跪を望み訴えている。
どうか我が祈りを受け取りたまえ。
(護王)
あの奉納舞いの後、護王と綾香は輿で里を巡ったはずだ。洋子がいなくなっているのに気づくのはその後のことだろう。いや、村上が先に動いているか。どちらにせよ、護王の狼狽が目に浮かぶ。
(きっと心配してる)
何とか早く戻らなくては。
護王の中で燃える炎に冷えていく体が温められる気がして、洋子は吐息をついて、体を動かそうとした。
「つ!」
てきめん、鋭い針で貫かれたような痛みが頭から足まで走って硬直する。だが、それほどの痛みなのに、体の反応は鈍かった。強張ったのが精一杯で、足はほとんど動かない。感覚も少し鈍いかもしれないが、何より体が意識と切り離されてしまっているようだ。
殴られたのは右の頭頂部、けれど動かず反応が鈍いのは全身、怪我による麻痺とは考えにくい。妙なところで看護師の知識が勝手に動き出す。
(…何か……薬を使われた…?)
ぞくりとした寒気が広がった。
洋子を殺すのではなく攫ってきたあたり、そしてまた、身動きできない状態で意識を戻せるように設定するあたり、相手の意図に不快なものがある。
(知覚は残して動きだけを封じる)
それは手に入った獲物を弄ぶか、後でゆっくり料理するまで新鮮な状態で置いておきたいという肉食獣の遣り口ではなかったか。
「気ぃついた?」
ふいに背中から聞き覚えのある声が尋ねてきて、洋子はぎょっとした。
「体、動かへんやろ? でも、聞こえてる、そうやろ?」
甘くてかわいらしい声、けれど、この岩屋にはあまりにも不似合いで予想外の声。
◆(まさか)
思わず開いた目で声の方を探ろうとしたが、頭を動かそうとしたところで痛みが強くなって動けなくなる。幾筋か伝ってきた血がぬるぬると頬を辿り、口元にも届いた。
「里にある薬草やしな。けど、安心してええで、使い慣れてるさかい、間違いはせえへん」
「あや……か…?」
「へえ、しゃべれるんや…」
くすりと笑みを含む声がして、するすると絹ずれの音がした。視界を回りこんでくる白い巫女衣装、ゆっくりと膝を折って覗き込んでくる顔はまさに綾香だ。
「…ど…して…」
何とか声を絞り出した洋子に綾香は表情を凍らせた。
「どうして? 御挨拶やな、人のもんに手ェ出しといて、気にもしてへんの?」
すらりと立ち上がると、また背後に回る。次の瞬間、激しい勢いでブラウスの襟を背中に引かれ、洋子は悲鳴を上げた。ち、と鋭い舌打ちが響いて、背中にひやっとした気配が躍ったかと思うと、一気にブラウスを裂かれる。投げ出されるように前へのめり、きつく床に体を打ちつけた。痛みと衝撃に頭が揺さぶられ、視界が真っ白になる。開いた口に流れた血が入り込み、生温かい鉄の味に吐きそうだ。必死に堪える、それだけで頭が数倍強く痛み、その痛みにさらに吐きそうになった。
「ぐ…」
「……やっぱり…」
開かれた背中に綾香のいまいましげな声が降り落ちてきた。
「こんなことやろうと思ったわ」
何度かの大きな揺さぶりの後、ようやく痛みの大きな波が去って、洋子は力を抜いた。
「は…」
きつく締めていた口を開いて過熱した肺に必死に酸素を取り込む。だらりとした体は痛みにも反応が鈍い。けれど、感覚はその代償とでもいうように敏感になっていて、呼吸一つ一つが頭の傷に突き刺さってくる。吸うのも吐くのもひどくゆっくりとしかできない。
喘いでいるとひた、とさっきのひやりとした気配のものが首筋あたり、ちょうど花王紋のあたりに当てられて、洋子は息を止めた。細い平たい金属のようなものだ。
「なあ」
護王とよく似た口調がからかうように響いた。
「どうやった、護王の体?」
『姫…さん…』
「!」
声に呼ばれたように、耳もとで甘い声が響いた気がした。どきりと胸が高く打つ。
「祭礼は明日やのに、ほんまにこらえ性のない男やなあ、さっそくつまみ食いしてしもて」
(綾香……知ってる…?)
驚きに目を見張る。護王が言いふらしたり綾香に打ち明けているとは思えなかった。
ならば、どこかでこっそり盗み見でもされていたのだろうか。それとも、誰かが気配を察したのだろうか。
「つまみ食いしたんは、そうか、あんたの方か」
くく、と下卑た笑い声が響いて、洋子は体が熱くなった。
『なあ……姫さん…?』
甘く掠れて洋子を呼んだ声、吐息をつきながら倒れてくる身体、汗に濡れて乱れ落ちてくる髪などが次々と蘇る。胸の中に、ではなくて、直接肌身に触れられているような生々しさだ。
だが、今、それが呼び起こしたのは不思議に熱を煽る激情ではなかった。
(あのときはあれほど近くにいたのに)
今はもう、届かないほど引き離されている、いや、ひょっとすると二度と会えないほど遠くに来てしまっているのかもしれない。
(また……泣かせてしまう)
繰り返した夢の中のように。置いていくのかと震えながら笑っていた顔が頭の傷とは別の痛さで胸を焼く。
夜明け前に洋子を抱き締めて、護王がそっとついた吐息は、望みの一夜の余韻というより、そこに洋子がいることを確かめてでもいるような、切なく震えるものだった。護王の中の奥深くで、幻ではないのだとつぶやいている、別の時空の護王を思い起こさせた。
『俺の……姫さん…』
優しい安堵に満ちた声。そっと擦り寄せられてくる頬。
舞いの最中に洋子を見上げた願いの視線。
(まだ、その答えも返していないのに)
きっと必死に探している。
そう思って胸が詰まった。
「ちょっと…聞いてんの!」
「帰して…」
からかいに応じなかった洋子に苛立ったように、背中で綾香が喚くのにつぶやく。
「え?」
「護王のところへ……帰して……でないと……」
今度こそ、護王は狂ってしまう。
いつか見た夢が鮮やかな流血の気配を伴って脳裏に広がる。
ヒメサン……ヒメサン…。
切なげに喘ぐように囁くように繰り返す声。
ヒメサン……ドコヘイッテシモタンヤ……オレヲオイテ……マタオイテ……トキノナガレニオキザリニシテ……。
声は啜り泣いている。胸えぐるような悲痛さで。
イツマデ……ヒトリデオッタラエエノ……イツマデ……アンタヲサガセバエエンヤ…。
うぉんうぉんと泣く声は遠くの地鳴りのような声と重なり、まるで暗夜に呻く鬼の声のようだ。
ヒトリハイヤヤ…ヒトリハイヤ……。
桜の根元に蹲った護王が絶望に身を震わせて泣き悶えている。
『姫さ……ん……!!!』
吠えるように仰け反って天空に向けて叫ぶ声、その身体にふつふつとどす黒い怒りが滾っていく。今にも肉を突き破り、紅蓮の炎となって立ち上がりそうな激情。瞳が鋭く光を増す、目を奪うような朱紅に。破壊しか望まぬ鬼の目に。
洋子は唇を噛んだ。身動きできない体にいら立ちが高まる。
「でないと、何なん」
なかなか応えようとしない洋子に、綾香が苛立って促した。
「護王……壊れちゃう…」
必死の思いで訴えた。
「何…やて…?」
綾香が低い声を返した。
「護王が……壊れる、やて? あんたを帰さへんと……護王が壊れる、言うんか…?」
おどろに禍々しい響きをたたえる声、ことさらゆっくりと繰り返しながら殺気を募らせていく、その響きに無意識に洋子の皮膚が粟立った。
「それほど……あんたが大事やて…?」
声は痛烈な嘲りを満たした。
「ええかげんにしぃや……自惚れんのも!」
「っっっあ!!」
ふ、と背後で風が動いて翻った。
訝しく思う間もなく首筋の花王紋にどすっ、という音と一緒に何かが突き立てられて思わず体が跳ね上がる。叫ぶつもりはなかったのに叩き出されるように悲鳴が口を突いた。
同時にぱきん、と固い音がして肩から圧力が抜けた。突き放されたように倒れ込む、その左肩に近い首筋に異物感、それが引き起こす激痛に体が竦んだまま、床に転がる。打ちつけたのは殴られた右の頭、くら、と意識が揺らいで呑まれる。
「く…ふっ…」
「あ……折れてもたわ、カッターの刃」
淡々とした綾香の声が響いた。
(カッター…?…)
どこか遠い場所でそのことばを繰り返し、ではさっきから突き付けられていたのは、カッターナイフの刃だったのか、と虚ろに思った。
「暴れるしやんか」
妙に白々とした感情のない声で綾香が続ける。
「こんなん残しといたら…後で日高に何言われることやら……」
「あ……や…っ…」
屈み込む気配にまた殺気を感じた。逃げ出したくても動けない、花王紋のあたりに突き刺さって残った刃をぐっと握られる感覚、そうそう肉が絡んでいるわけでもあるまいに、前後左右に揺さぶりながら抜かれ始めて、洋子の全身の血の気が引き震えが走った。
一番敏感な部分までむしられた神経を直接切り刻まれていく痛みに視界を失いながら声を上げる。動かぬはずの体が仰け反った。
「わ……あああ…っ…っ!!」
「騒がしなあ……あんた」
吐き捨てるような綾香の声。
「っ…!」
刃を抜き取られる最後の瞬間、なお強く力を入れて肉に押しつけるように引き抜かれ、洋子は意識を飛ばした。
護王は結局祭礼の三日目に洋子を抱こうとしなかった。
桜の近くにある大石の裏にしつらえられた岩屋、そこに籠った後も、緊張して体を竦めている洋子をそっと抱き締めただけ、唇さえ重ねずにそのまま儀式は済んだと里長に告げ、そうしてもう一年がたとうとしている。
(やっぱり……はじまりがまずかったから)
薄い闇の中、護王は隣で眠っている。洋子は繰り返し慣れた思いを胸に、じっと天井を見上げている。
時は深夜、屋敷の中では誰ももう起きていない。
(それとも……ほんとは、私が嫌われてるのかもしれへん)
そもそもが年齢差がありすぎる。護王がもっと若い姫を望んでいたのかもしれず、けれど成りゆき上、花王紋が現れたのは宇津目綾、つまりは洋子一人しかいなかったのも仕方のないことで。
(拒みたかった…んかな)
多くの偽者の姫たちと同じく、ないことにしてしまおうと密かに考えていたのかもしれない。けれど、洋子があの場で派手に騒いだこともある、また護王が娶らねば、祭礼にも出ないと言い放ったこともある。
(『姫さん』として、とりあえずは確保しておいたということなのかもしれへんなあ…)
それでなくとも、目覚ましい産業構造の変化は若者を次々と街へ引き付けている。里に残されているのは、何とか里の生活を損なわない程度の人間しかいない。
遅かれ早かれこの里も、年老いたものが死んでいき、若いものが捨てていき、昔話にしか残らないような里になるのかもしれない。
里長の大西康隆や里での相談役を勤めている日高幸一郎医師はいっとき企業誘致などにも動いたようだが、所詮、これといった大きな歴史や遺物を持つ里ではない。日本中どこにでもある落ち武者伝説と桜の巨木、昔の祭礼跡の巨石に、『かおうしづめ』というどちらかというと地味で閉鎖的な祭では、華々しい博覧会やイベントには勝てない。
里は寂れていく一方だ。
洋子はそっと顔を回して規則正しい呼吸を紡いでいる護王を見た。
まつげが意外に長い。すべらかな頬のたるみのなさは若さの象徴だ。薄い唇が僅かに開いていて、内側に入るとやや紅を増すのが艶かしい。
(護王はこんなところに居んでもええ)
たぶん、街へ出ていけば、護王の外見は人目を引くだろう。いろんな人間が引く手あまたで護王を迎えるだろう。
氏素性なんてこだわらない、いつまでも若くて美しい男に過去の詮索をし続ける女は少ないだろうし、最近ではコンピューター分野に興味があるのかその関連の勉強を重ねている護王は、企業としても有能な人材として評価されるのではないか。
(里に縛りつけられんでも)
洋子は体を起こした。
(今度の祭礼が終わったら)
そうしてそのときも護王が洋子を求めなかったとしたら、護王を里から解き放とう。何とでも理由をつけて、そうだ、自分が祭礼の主をまかされたとでもごまかして。
(ほんとうは…そんなこと、したない、けど…でも)
ほんとうは、一度だけ洋子から求めたこともある。
去年の夏のことだ。
沸き返るような暑さの日、何を思ってるのか、珍しくぼんやりと青空を見上げていた護王が妙に寂しそうで人恋しそうに見えて、その夜、そっと誘ってみた。
暑いから早めにお風呂にしましょうか。今日はいろいろと片付いてるんで、背中でも流しましょうか。
あんまりにも不器用な誘いだとは思った。けれど、洋子にはそれがせいいっぱいだった。
でも、護王も何となく嬉しそうな様子だったし、一緒になって数カ月もたっているのに、何だかどきどきとしてしまって、洋子も浮き立って用意をした。
風呂場で明るい光の中で見た護王は、思っていたよりもずっときれいで官能的だった。
熱で肌が桜色に上気している。滑らかな表面に湯が滑り光を零す。一瞬触れた部分がまとわりつくような感触で、湯気より先に護王の裸身にあてられ、視界が揺らめくような気持ちさえ覚えた。
細身の、けれどしっかりとした骨格が照れくさそうに背中を向ける。護王の頬が赤いのは恥じらっているよりは湯の熱さのせいだろう、けれど自分の顔もそれ以上に赤いかもしれない。
タオルに石鹸を泡立てて、そっと背中を擦り出す。柔らかなシャボンの香りにときどきつんときつい樹の香りが混じる。
うつむきがちに黙って洋子に背中を擦られていた護王が掠れた声で何かをつぶやいて、「はい?」と思わず覗き込むと慌てたように体を竦めた。それでも、『それ』の気配は何となく通じるものがあった。
慌てて身を引こうとしたら、そっと手首を掴まれた。引き寄せられて耳もとで「今夜」。ぽつんとつぶやかれた声がひどく甘く頼りなく聞こえた。「はい」。うなずくと同時にお互いにくすぐったく笑ったのに。
風呂を済ませて身支度していると、母屋で用事だと呼ばれた。
ちょうど妹の茜が里帰りしてきていて、赤ん坊が火がついたように泣いていたのに、茜がいない。「よしよし、どうしたのかなあ、おかあさんは」。抱き上げてほおずりしてやると、くふんくふんと甘え泣きする、その温みに思わずそっと抱き締める。
今夜護王とそうなったのなら。こういう赤ん坊が授かるんだろうか。男の子でも女の子でもいいけれど。護王の子どもならどちらでもいい。でもできれば護王に似てほしい。身勝手かな。
そう一人微笑んだ。
茜はなかなか戻ってこない。子どもは本格的に乳を求めて泣き出しているようだ。粉ミルクは使ってないと聞いていたし、茜の部屋まで行ったがいない。家の者も知らないらしい。「困ったねえ、お腹空いたのにねえ」。
ちゅくちゅくと指を吸っている子どもをあやしながら、あちらこちらをうろついている間にすっかり汗ばんだ。一度戻って護王にわけを話して……そう思ったのはきっと魔の囁きだったのだろう。
赤ん坊を腕に抱えたまま、洋子は急ぎ足に部屋に戻った。
部屋は暗かった。
さっきまでは明かりをつけ布団に寝そべって護王が待っていたはず、と思わず顔を熱くしてしまう。「護王、あの…」。声をかけ少し開いた障子の隙間から覗き込んで洋子は固まった。
布団の上でもつれあうように抱き合っている姿があった。熱い吐息が部屋に満ちていた。見覚えのある背中の下で口を開いて小さく声を上げた相手が、ふとその背中越しに洋子に目を合わせてに、と笑った。
茜……とそれがもう声にならなかった。
(ああ……そう、なんか)
誰でも、よかったのか。
いや、洋子でなくても、よかったのか。
(あほ…やなあ…私は)
身の内側から凍えていくような思いがした。
誘いをかけられ、ずいぶん護王は困ったのだろう。茜を引き込むことが遠回しの断わりのつもりだったのかもしれない、そう思った。ならば。
目を閉じて、そっと身を引いて逃げた。逃げているのがわかっていた。確かめればいい、あの始めのように啖呵を切ってみせればいい、はずだったけれど、それをするには護王に気持ちを惹かれ過ぎていた。
赤ん坊を産んでも華のある茜の姿と自分を比較し、護王の口から洋子ではなく茜を抱きたかったのだと聞かされたくない、それだけの気持ちでただただ怯んで逃げ出した。
腕の赤ん坊は何かを察したのだろうか、うぇんと声を上げもせず洋子にしがみついてくる。
その幼さが愛おしくて切なかった。
二度と抱くことはないのだと滲んだ涙に歯を食いしばった。
翌日護王はいつもと変わらずに居た。洋子に笑いかけ、優しくさえあった。ふとした隙に唇を求められて、拒みもせずに応じてしまった自分が情けなかった。
口づけは甘かった。抱き込まれて相手の腕の温かさと確かさに信じられないほど胸が震え、自分がそれでも護王が欲しいのだと思い知らされた。
どこまでいっても幻だ。
あの柔らかな赤ん坊とおんなじで。
零れた涙をうつむいて隠した。
その後は、護王が求めてきても無理だった。
形だけでも構わへんやないか、と思おうとしたけれど、護王の視界の中で自分に重ねられるのが茜なのだろうと思うと、ましてや事の最中に茜の名前を呼ばれるかと思うと、胸が絞られて応じることができなかった。
護王が焦り苛立つのがわかった。何が不満なのかと問われ、やはり俺が嫌いなのかとなじられ、首を振りながらもことばに出せなかった。
もうお芝居はええのんや、私ではだめなんやろ、と、たったそれだけのことばだったのだが。
どうしても、どうしても手に入らなかった宝物をようやくの思いで手に入れてみれば、それは美しく出来上がったまがい物で、しかも誰が本物を持っているのかもわかっている。ことあるごとに比べられて、その出来不出来を確かめられる、そんな日々が続いた。
茜がたびたび戻ってきたから。
帰るたびに茜は夫との不仲に怯える人妻として護王を頼った。護王も冷ややかな対応を茜には緩めているように思えた。
少しずつ開いていく自分と護王の隙間を、洋子は両手で必死に引き寄せながら見守った。
でも、それももう、気持ちは限界だった。
(ほんとうは……一緒に居たかった…けど)
今度茜は離婚して里に戻ってくることになっていた。もうこの先ずっと、茜はここにいる。護王の側にいる。
そして、そこに洋子の居場所などない。
思いつめてみると、側で眠る護王の寝息一つが辛かった。
寝床を抜け出し、庭に出る。静まり返った闇をふらふらと漂うように歩き回る。
もう幾夜こうして眠れぬ時間を過ごしただろう。
川べりを歩いて飛び込もうかと思ったこともあった。山に入り込みどこからか身を投げようかと思ったこともあった。
けれど未練で。
(護王)
これほど想っても届くはずのない自分の心が哀れで。なのに、外側だけは、形だけは、洋子は護王の妻としてあって。
(もう何にも、残ってへんのになあ…?)
そう思ってはたびたびそっと両手を広げてみた。
そこには何もなく、誰もいない両手。
からっぽで虚ろで、この先もずっと何も得られない、この両手。
桜を見に出かけた。真っ暗な夜を一人でとぼとぼと。
何度も何度も繰り返し。
燃えるように鮮やかな桜の下で、散る花に打たれてこのまま消えたいといつも思った。
今ならいい、形だけでも器だけでも護王の側に居られるうちに消えるなら。
(しょせん、わがままな気持ちやったんやろなあ?)
護王の孤独につけ込んで、胸に花王紋が出たのを幸い、無理を通したつけを今自分が払っているのだと感じていた。
(ほんとうに好きな人のところへ……解き放ってやるんが、大人いうもんやんかなあ?)
けれど、護王は気にするだろう。洋子が消えてしまったのなら、一応は花王紋のある女、祭礼にも支障があるかもしれない。
(そうか…『姫さん』だけ、やってたらええんか)
桜を見上げてそう気づいた。
もともと花王紋は『姫さん』の徴、護王の心を得られる証ではなかったのだ、とそんな当たり前のことがふいにわかって笑いがこみあげてきた。
「なんや…」
はなから『姫さん』だけをしてればよかったのだ。祭礼に必要な幻として、護王を慰めるための人形として、我などなく気持ちなど育てず、その役割だけ果たせばいい。
(そうしたら……おっても…ええかなあ…)
そうやって割り切ってしまえば、もう少しなら居られるかもしれない、護王の側に。自分に与えられる笑顔だけに満足して、役割に納得して、気持ちなど求めないで、形の中だけで生きていけば、まだしばらくは、護王の側にいられるかもしれない。
形だけ残して。
(そや、気持ちは死んでしもたらええんや)
そして護王は洋子という器の中に、『姫さん』を入れ茜を入れ、そんなことはそしらぬふりして、そうやって時を過ごしていけば。
(一緒におられる、んや)
ずっと。ずっと。
「なんや……簡単なことやんか」
側に居られればいいだけや。
それでもどうして桜を見上げて涙が吹きこぼれてしまったのか。
気持ちが死んでしまった自分が果たして自分と言えるのか、そんなことをどこか深くで悩んでいたのだろうか。
帰る道で、どこかやっぱりふらふらして我を忘れていた。突然飛び出してきた影に鳩尾を強く殴りつけられたときも、もうどうでもいいと思いつつあった。
護王は洋子を必要としない。ただそれだけのことだ。
なんだ。なんだ。なんだ。
笑みがこぼれる。救いようのない笑みが。どこにも行き場のない笑みが。
意識を失って、次に気がついたときには桜の樹の下にいた。
つやつやと淡く光っている幹が視界のはるか上まで伸び、その向こうに夜空を煙らせる花が広がっている。
満開のえどひがん。
今年は花が早かった。早く咲いて早く散る。そういう定めの年だったんやなあとぼんやりと思った。
花は風に煽られて、ときおりはらはらと散っていた。
それを洋子は見上げている。
ごう、と風が鳴る。
体が重くて身動きできない。桜の下に横たえられていて、しかも胸元を広げられているのに気づくのにも随分時間がかかった。けれど、それを直せない。土の上に横たわったまま、じっと桜を見上げている。
その視界にふいと二つの顔が突き出た。
「目を開けてるようやが」「大丈夫です、声も出ないし、身動きもできませんよ」。
それは里長の康隆と日高医師だった。日高医師が面長の人の良さそうな顔に奇妙な笑みを浮かべて、
「うまく切り分けられるといいですな。必要なのは何人分でしたかな」
「子どもはええ、ただ、里を支える大人達、年寄りにも分けなあかん。このままでは遠からず、みんないんようになってしまう。そうなったら、ここは終わりや」
「しかし、まさか、護王の不死が、『姫さん』にあるとは思いませんでしたな」
(不死?)
洋子はゆるやかに瞬きした。瞳が乾いていくせいか、それともこの先に続くものを体が感じ取っているのか、涙が視界を潤ませていく。
「わかってるだけでも護王は二百年近う生きとる。命の源はこの花王紋の人間の生気を吸ってる、それに間違いないやろう。その証拠に花王紋の娘はみんなそれほど長生きせえへんからな。どうせなら、あいつのためだけやのうて、里全部にために役立ってもらわんと」
「私は納得しかねるのですが」
「そやけど、ほかに何か方法があるか? 里は寂れていく。若いもんは街へ出ていきよるし、里に残ったもんは年寄りばっかりや。このままやったら、里の生活はでけへんようになる。病気もするし、怪我もする。そやけど、不死になったら……まあ不死とは言わんまでも、護王のように少しずつ歳とったら、困らへんのや」
「うーむ……まあ、それはそうですが。ただ、食べ切らないで、不死の研究のためにちゃんと一部は細胞を残しておいてくださいよ」
「ああ、わかっとる」
康隆が洋子の側に立った。その手にゆっくりと取り出されたのは銀色の刃を光らせるまでに磨き上げられた斧だ。
「泣かんでええ、お前は里のためになる、祭礼のことは心配せんでええ、茜が帰ってくるさかいな」
康隆がにんまりと目を細めて笑った。
「あいつの腕にも花王紋が現れたんやて。なあに、一度は嫁したにせよ、お前かて生娘ちごても『姫さん』や、茜にも十分に勤まるやろう。実際」
笑みがにやにやといやらしく崩れ落ちた。
「もうすっかりええ具合になってるらしい、お前は気づいとらへんかったやろが、まあ、見目形からもわかるわなあ」
そうか、とぼんやり洋子は思う。
(そうか、あれからずっと、そうなんか)
そして気づく、もう一つの企みに。茜を煩雑に呼び戻して出入りさせていた康隆の暗い望みに。
(けど、もう…)
どうでもええ、と洋子は薄笑いした。
(選んだのは護王や…)
もうお役御免ということなのだ。そう心の底から思い知る。
こんな思いをするだけならば、もう転生なんかしなくていい。『姫さん』の記憶も、花王紋も要らない。
護王には年々そのときに必要でふさわしい娘が現れるだろう。
(そうや、きっとその方が)
護王も自由に生きられる。里にも花王紋にも『姫さん』にも縛られずに自分の人生を生きられる。
(それでええ……それでええやんか?)
思い出す。震えながら笑いかけた護王の青い顔。『俺…どうしよ……どうしたら……ええねん……? どうしたら…』『もう……終わりなんか……? これで…最後なんか…? この先ずっと……独り…なんか…? そういうこと……なん……か…?』
瞳の奥に燃えていた激しい紅の激情、その一ひらさえ得られはしなかったけれど、護王の中に抱えられた影、それがたった一人で生きていくという孤独の傷みであることはよくわかった。それがどれほど護王を傷つけ痛めつけているのかも。
(ほな、花王紋の『姫さん』として最初で最後にできる勤めは……解き放つ、ことやんかなあ?)
降りしきる桜。泣きじゃくる小さな子ども。臨終の床に泣き崩れる少年。ひんやりとした夏の川べりですがりつく姿。入り組んだ街を、村を、闇を、日射しの中を、洋子を探してひたすらに歩く護王の姿。その疲れ切った不安な足取り。
そうして、護王は時の中にも人の中にも生きられないままでいる。
(もうええ……もう探さんでええ)
幸いに、今の護王には茜という存在もある。今までで一番『姫さん』より遠ざかっている時、ならば、このときに護王と気持ちも体も結べない洋子が生まれたというのも、また恩寵と言えるのかもしれない。
(そうや、今なら……うん、そうや)
宇津目綾をもって、『姫さん』はその転生を封じる。そして、護王をその定めより解き放つ。
(それでええんや、きっと)
だからこそ、このときの『姫さん』は綾だったのだ。求められない『姫さん』、離れるべき『姫さん』、当たり前だ、捨て去られるべきが、その役目。
(あほやなあ……そやのに……惚れてしもて……)
そうだ、惚れている、心底、居畳まれないほどに惚れている。
けれどそれは叶うことない運命だ。
護王を想えば想うほど、決して叶えてはならないこと。
(そやけど……)
「納得したか、よろし、これこそ、ほんまの守り神の業やで、綾、あんじょう、往生しいや」
斧がゆっくり、けれどもためらいなく洋子の喉に当てられた。
(未練やなあ)
洋子は夜闇に舞い散る桜の花弁に小さく吐息をついた。
(最後に一目……会いたかったなあ)
せめて、もう一度だけ顔を見たい。
数えるほどしか見られなかった、その笑顔を、ただ一度だけ。
それが自分のものではないとわかってはいる。
けれど。
ここで洋子は消滅する。消える。居なくなる。
だから、たった一つの、ささやかな、それ以上は望まない、だから。
(護王…)
まるで風呂の薪を割るような様子で康隆が頭上に斧を振り上げる。それから無造作に斧の重さに体重をのせて一気に地面まで振り切った。
「!」
声はもう出なかった。ざくりと裂かれた喉から鮮血が飛び、桜の花にすがりつくように散っていく。
きれいだ、と最後にそう思った。
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