『桜の護王』

segakiyui

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10.直面(ひためん)(2)

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「姫さん…」
 掠れた柔らかい声が呼ぶ。細かく震える指先が、おそるおそる髪の毛にそっと触れてくる。
 その指先は望んでいる、願っている、どうかこのままいかないで、と。どうか独りにしないでくれ、と。
 どうか、逃げずに、そこにいて。
 指の震えが髪の毛を伝わって、その震えが示す恐怖もはっきり染み通らせてきて、洋子は痛いほどに護王の孤独を感じ取った。
 あやこ一人を失ってもあれだけ辛かった。
 ならば何度も何度もその手から腕から指先から、愛しい人を失い続けた護王の傷みはどれほどだろう。
 蘇るのは誰の記憶なのか、いくつも洋子を呼ぶ名前は一つ一つに護王と過ごした日々を纏いつかせている。
(ああ…本当に)
 ずいぶん何度も一緒に居たんだ。
(あれはみんな…夢ではなかった…?)
 あやじと呼ばれ、あやのと呼ばれ、綾美と呼ばれ、綾と呼ばれた記憶、それは他ならぬ洋子の過去だったということなのだろうか。それとも、それは桜の姫と呼ばれる所以、この桜が貯えている『姫さん』の思い出なのだろうか。
「姫さん……なんでや…」
 不安そうに濡れた声が囁きかけて、そっと頬を震える指が撫でる。
「まだ……温かい……温かいやんか…?」
 頬を撫でる指先はすぐに増えた。堪え切れぬように数を増し、やがて洋子の顔を掬いあげるように包んだかと思うと、
「そやのに……なんで…?」
 吐くような叫びとともにかたかた震える体が洋子を抱き上げた。
「何で……村上は……おらへんかったんやぁっ…!」
「!」
 強い腕にくびられるほどに抱き締められて、息を止めた。見開いた視界に薄青い空、桜が風に散っている。
(ああ……こういう空も…)
 見たことがあるような、とぼんやりした洋子の耳もとで、
「こんなん……いやや……こんなんであんたを失くすくらいやったら…」
 悲痛な声が漏れて、熱い吐息と濡れた頬が擦り寄せられた。身悶えるように首を強く振って力の限り抱きすくめられ、思わず目を閉じる。
「生きてさえ……生きてさえいてくれたら……俺は……俺…は……っ!」
「は…」
 最後になお強く抱かれて洋子は堪え切れずに息を吐いた。
「!!」
 雷に打たれたように護王は動きを止めた。そのまま信じられぬようにしばらく身動きしない。紙一枚が入らないほど密着した相手の体がまだ小刻みに震えている。
 その慌ただしいリズムを受け止めながら、洋子はゆっくり瞬きした。地面から離されて冷えた背中を相手の腕が温めている。甘やかな体温に、まだ半分夢の世界にいるような、意識がうまく戻ってこれない。力が入らない体をじっと預けていると、柔らかな風が耳もとを吹き過ぎていくのがわかった。
「…姫…さん?」
 低く掠れた声が洋子を抱き締めたまま、居心地悪そうに呼んだ。
「あんた……生きてるんや…?」
「うん……きついよ……ゆるめて…」
 ようやく何とか応えられたが、護王は応えないし、腕の力を緩めもしない。ただ中途半端に浮かしていた腰をへた、と地面に落とし、浮き上がった洋子の体を逆に自分の胸元に引き寄せた。引きずられて、洋子はちょうど胡座をかいた膝の上に抱き込まれるような形になる。
 そのまま黙って数分間、身動きできない不自由な体勢に洋子の体がきしみ始めたあたりで、ようやく護王はひび割れた声でつぶやいた。
「……たのむわ……」
 聞こえるか聞こえないほどの囁きで、洋子の左肩に深く顔を埋めながら、
「……キレるか思た…」
「キレる…?」
 とっくにキレてたような気がするけど。
 首を傾げた洋子に構わず、護王はもそもそとことばを継いだ。
「こんなとこ転がってるし……花びら積もってるし……てっきり、日高が何かしよったんやて……」
「ごめん……」
「……ええ」
 護王は洋子の肩に顔を乗せたまま、首を横に振った。さわさわと髪が優しく触れる。
「生きててくれたんなら……ええ。……もう……よう…わかった……俺」
 ふう、と深い吐息を漏らす。続いたことばは掠れて甘い。
「俺は……もう…あんたの側を……離れへん」
「え…?」
「あんたが迷惑してようが……あんたが俺のこと……嫌ってようが……もう……ごめんや、こんな思いするの…………まっぴらや」
 切ない声で囁かれて、聞き惚れていた洋子は我に返った。
「迷惑? 嫌う?」
 おうむ返しに繰り返す。体を起こしかけたのを洋子が離れるつもりだと感じたのか、護王はまた腕の力を強めた。
「そやかて……綾香が言うてたで…? その、女が初体験の後に無防備なんはおかしいで、て……初めての男以外に慣れ慣れしいんは……ほんとはそいつに抱かれたつもりやったからやて」
 声はどんどん低くなり、護王は苦しそうに口ごもっていく。体をひたりと寄せているから聞こえるぐらいの小さな声で、
「姫さんが抱かれたんは……俺と違うねんな…? あいつ……村上、想てたんやろ…? そやから……村上が一緒でも平気やし……俺に迫られて……ほんとは困ってるんと違うか、て……綾香が」
 自分で口にしたくせに、自分で傷ついてしまったらしく、護王はぷつっとことばを切った。またしばらく黙って、洋子の鼓動で何かを感じ取ろうとするように動かずにいたが、やはり我慢できなくなったのだろう。
「そやし……俺……これ以上あんたに…嫌われとうないし……なるたけ離れてよ、て思て……けど……村上と一緒におんの見てんのが……何やつろぅて……綾香だしにうろうろしてみたけど……気にもしてへんみたいやし……俺……ほんまにあほかもしれへんって」
 ぽつぽつといじけた口調で気持ちを吐き出す。
(護王)
 これは偶然なのか、それとも桜の下で時が二重三重に入り交じったのか。
 護王のことばは先ほどまで見ていた夢の光景に何度も重なった。それはまた、護王と寄り添う綾香を見つけて、籠ってしまった洋子の気持ちにもまたそっくりで。
(同じ気持ちを……重ねてた……)
 重なってることさえ気づかずに。
「俺一人、気になって……今かて村上一人で戻ってきよった思たら……もうあかんね……あんたの側にいきとぅていきとぅて……そやけど……正面切ってまた嫌われたらどうしよかて……そればっかり思て……そしたら……こんなところで倒れてるし……心臓止まるか思たで…? ……何してたんや、いったい」
「えーと…」
 気持ちいいからつい眠ってしまったのだ、とぼそぼそと答えると、一瞬沈黙した護王は
「寝てたぁ…?」
 情けない声を上げた。それから、ぎゅ、といっそう力を込めて洋子を抱き締めた。
「いてもうたろうか……」
 殺気立った声でつぶやき、黙り込む。やがて少し腕の力を緩めて、
「も…ええわ…」
 すりすり、と愛おしそうに頭に頬を擦り寄せられた。くすぐったさに首を竦めると、はあ、と護王は安堵したような甘い吐息をついた。
「うん……も…ええ……ええね、嫌われてても迷惑やってもストーカーでもかまへんね……あんたを失うぐらいやったら……あんたの命がなくなるぐらいやったら……俺が嫌われてもかまへんねん……うん……嫌てもええし。ヘンタイでもええし。そやけど、もうあんたの側は離れへんし」
 自分に言い聞かせるような、思い詰めた声になって付け加える。
「俺が嫌やったら、死ねや、言うてくれたらええね。あんたが言うならいつかて死ぬし。十分生きたし……未練なんかあらへん。あんたが無事でおったらええねん。それだけで……姫さん?」
 洋子が体を震わせて笑っているのに気づいたらしく、護王はことばを切った。そっとためらいがちに体を離し、洋子を覗き込んでくる。威勢のいいことを口にしていたわりには、青く見えるほど色をなくした顔が怯えて洋子を見つめてくる、その顔に、洋子は静かに微笑みかけた。目を閉じ、唇を寄せて護王の唇に触れる。洋子の目から零れ落ちた涙が触れ合った唇ににじんでどこか苦味を帯びたキスになる。
「!」
 硬直してしまった護王が大きく目を見開いて洋子を凝視した。今世界が壊れていく、と言ってもこれほどは驚かないに違いない、それほど無防備な顔で洋子を見つめている。
「ばか」
「へ…」
「ううん、ばかは私もか…けど、護王のほうがもっとばかだよね?」
「俺…?」
「長く生きてるわりには、女の気持ちなんか、何にもわかっていないんだ?」
「えっ…」
 茫然とした顔の護王にもう一度唇を触れる。まぶたを伏せて受け止めた護王が熱っぽい目で喉を鳴らした。
「護王だから…抱かれたんだ」
 ふる、と微かに護王が震えた。
「他の誰かなら死んでも抵抗してる……そんなこともわかんなかった?」
「ほな…俺…」
「護王が好きだよ」
 洋子はそっと耳もとに囁いた。熱くなってくる体はあの夜のことを思い出している。それがまっすぐに護王に伝わってしまっている、そう確信して、思わずうつむいてしまった。そこから意識をそらそうと、無理にことばをつなげていく。
「だから……私もつらかった……護王はずっと綾香さんのもので……私とのことは気紛れだと思ってたから」
「気紛れ?」
 むっとしたように護王が唸る。
「気紛れで抱けるわけ、あらへんやんか。俺が抱いたら、あんたの傷みは俺が負うんやで?」
「え?」
「そやし」
 きょとんとした洋子に護王は今さら何をと言いたげな顔で説明する。
「俺は傷みを引き受けられるんや。俺と姫さんの間に気持ちの糸が渡って、姫さんが傷ついたら俺にはすぐわかる。花王紋が現れたら、それで少しは繋がるけれど、一番はっきりしてんのは、やっぱり祭の後でやし」
 言いながらうっすらと護王が赤くなるのに、ますますわけがわからなくなった。
「つまり…花王紋があると、護王に気持ちが伝わるの?」
「気持ちちゅうか、傷、ちゅうか。姫さんがひどく傷ついたら、俺がその傷みを背負う………俺は『丈夫』にできてるさかいな」
 皮肉めかした笑みがようやく護王の唇に戻った。
「それで祭の三日目に……その……そういう儀式があって。ほんとはそこで俺と姫さんが体の傷みも繋がるんやけど」
「あ…ああ」
 言われてようやく洋子も理解した。
「三日目って、つまり…護王と姫さんの初夜ってこと…」
「うん…まあ…俺は…待ってられへんかったから」
 ふわあっとみるみる護王が赤くなって、つられて洋子も顔が熱くなって目を伏せた。
「じゃあ…もう…私と護王は…」
「うん……あんたが傷ついたら俺には伝わる……伝わるはずなんや。そやし、さっきはわけがわからへんで……何であんたが死んでるのに、俺にわからへんかったんやって、そう思たらもう…何が何や、わからへんようになって」
(ひょっとしたら)
 そこにはやはり『姫さん』ではないかもしれないという思いもあったのだろう。
「あ、それじゃあ…」
 今まで花王紋を持った姫さんが死ぬときには、護王もひどい傷みを受けたのではないか。
気づいて洋子が顔をあげると、質問を察していた顔で護王はどこか悲しそうに笑った。
「それがな……おかしいやろ。俺…姫さんと体繋いだんは…一度きりしかないね」
「え?」
「俺の方がガキやったり…姫さんが男でその気はなかったり…唯一あるのは、あんたの前の姫さん、綾って人だけ……そやけど…」
 護王の目が陰鬱な色に染まった。
「何か俺がまずかったん、やろなあ……? 一年もせえへんと姫さん、どこかに消えてしもたんや……俺に何にも言わんと…」
(あれ?)
 洋子は戸惑った。
 もし、あの夢がただの夢ではなくて、姫さんの記憶だとしたら、綾という人は護王をこよなく愛していた人だったはずだ。護王との出逢いのときも、護王を置き去りにするあやうさを十分わかっていたはずだ。ましてや、護王と一緒に暮して、黙って姿を消すような人とはとても考えられない。
「それからは……めちゃくちゃやった…なあ…」
 深い吐息をついて、護王は暗い笑みを浮かべた。
「何をしてたか…覚えてへん……俺は姫さんに嫌われてるんや思て荒れて荒れて……そやけど……気がついたら…恋しぅて…恋しぅて……消えた理由だけでも知りとぅて…捜しまわったけど…結局見つからへんかった……」
「それからずっと花王紋を探してた?」
「うん……綾香にあんのは知ってたけど……綾香は姫さんの記憶は持ってへんかったし…」
「姫さんの記憶?」
「うん」
 こくりと護王は幼いうなずき方をした。また不安になったのか、そっと唇で洋子のこめかみに触れ、ぬくいな、とつぶやいて小さく息を吐き、ことばを続ける。
「俺と会ったときに、たいてい思い出してくれるんや、昔出逢うたときのこととか。それと花王紋が姫さんの徴で……」
「ああ、だから、私は違うって」
「うん、それに治癒能力持ってる姫さんなんて、おらんかったし」
 護王はそっとつぶやき、苦しそうに笑った。
「俺はほんとはうんと長いこと生きてんね。姫さんの記憶のないあんたには、わからへんし、気持ち悪いばっかりやろうけど…傷もすぐに治せるし、怪我も病気も何とかなる。姫さんはずっと普通の人で……ただ、俺と一緒におってくれるんや…それでええ……それが姫さんや、いうことで……俺はそのかわりに姫さんを守って生きていく…ずっとそうやってきたのに……あんただけは」
 目を伏せてうつむきがちになった護王の声は風にまぎれるほどに弱い。
「あんただけは……姫さんのはずやてごまかしててもやっぱり違て……」
 何とか『姫さん』であってほしい、それなら自分もためらいなく洋子を求めていいはずだ、そういう論理だったのだろう。けれど、それはことごとく裏切られて振り回される。
 きゅ、とふいにまた護王が洋子の体を抱き締めてきて、洋子は首を傾げた。
「護王?」
「さっきな……ほんまに怖かったんやで」
 思い出したように、護王はまた微かに体を震わせた。
「あんたは姫さんちゃうやんか……? あんたがここで死んだとしても……次はもう……会えへんのやて、急にそう思た。今までは、それでもどっか、いつかは会えるて思てた……姫さんやもんな? 転生してくれる…はずやろ? …けど、あんたは綾の記憶を持ってへん…花王紋はあるけど……姫さんやない…ましてや、あんたの記憶……あんたを持ったまま次の誰かが生まれてくる約束なんて……どこにもあらへん」
「……」
「二度と…会えへん」
 そっと洋子の体を離す。今度は優しい切ない瞳で洋子をじっと覗き込んだ。
「ここにいるあんたには……もう…会えへんのや……そう思たら……」
 くす、と自嘲気味に笑ってみせる。
「なんか……狂いそうに……なった」
 眉をひそめた泣き笑いのような表情は、それもまたさきほどの夢と重なっている。ふいと不安定な揺らぎが洋子の胸の奥に生まれたが、続いたことばに溶けるように消えた。
「もう……二度と会えへんかもしれへん……今すぐにも……ちょっと先にかもしれへん……そんなん思たら…体裁なんて構てられへんやんか……なあ? そやし…」
 護王は目を伏せた。細められた瞳の奥にゆらゆらと炎が立ち上がる。
「なあ……キスして…? 俺もあんたも…今しか一緒にいられへんかもしれへんやろ?…」
 甘えた声でねだって、そっと顔を寄せてくる、その護王を拒む余裕は洋子にはない。ゆっくりと力がこもってくる腕に身を委ねて、洋子の唇を待ちかねて開く、淡い色の花弁に口を寄せる。
(今しか一緒にいられない)
 妙に胸を騒がせるそのことばを、洋子は胸に深くしまい込んだ。

 翌日は『かおうしづめ』の初日だった。
 洋子と護王が昼すぎに里へ戻ったあたりから、桜の前に奉納舞いの舞台が作られ始め、翌日の昼には完成していた。桜も今や満開となり、少しでも吹く風に舞い散る桜花はこれ以上ない舞台装置、そっけない板の舞台に散り敷く花の道を描いた。
 昼から衣装を合わせていた護王とはほとんど顔を合わせることもなく、洋子は村上と連れ立って、夜、奉納舞いの舞台に出向いた。
 天気は快晴、夜になって空気が冷え、篝火が四方で焚かれる中、桜の散った舞台は闇に白く浮かび上がる。
 舞台の端に、護王と綾香が衣装を整え、座して出番を待っていた。
 奉納舞いというから、てっきり巫女装束かと思っていたのだが、きらめく金糸銀糸を折り込んだ、どちらかというと能装束に近い形だ。顔は面をつけずに額に金の帯を巻く、能で言えば直面と呼ばれる姿、目鼻立ちのはっきりした綾香の華やかさもさることながら、切れ長の黒い瞳、薄い唇に紅を入れて、静かに出を待っている護王の姿は人目をひいて余りあった。
「あれは護王か」
 側にいた康隆が妻に確かめる声が無遠慮に響く。
「ええ、そうです」
「あいつはあれほど華があったかな」
「そうですねえ」
 どちらかと言えばうっとうしそうに、路子が応じる。
「そう言えば今夜は目立ちますね。けど、まあ綾香の方がずっときれいですよ」
「そりゃあ、そうだが」
 康隆がうなったのも道理で、周囲を取り囲んだ里人の間からもひそひそと声が漏れている。
「あれは誰や」
「護王やないか」
「護王て男やったやろ?」
「女に見えるな」
「女言うより、なんかこう」
「人ではないようなきれいさやな」
「うむ、そう言えばなあ」
「ふうん」
 洋子の側に立っていた村上も腕を組んでしばらく護王を見つめていたが、やがて急に洋子を振り返った。
「どうしたんでしょうねえ?」
「何がですか?」
「彼、異様にきれいじゃないですか?」
「そう、ですか?」
 答えかけて声が喉に詰まって洋子はひやりと首を竦めた。
 夕べ。
 護王は夜中に密かに洋子の部屋にやってきている。
 明日が奉納舞い、日高はまだ姿を見せていない、危険が去ったわけではない、けれど、互いの気持ちはもうはっきりしているのだから。
『なんで離れて過ごさなあかんね』
 眠りかけていた洋子を揺り起こし、照れくさそうにそっぽを向きながらつぶやいて、滑り込むように体を重ねてきた。
 とろけるようなつぶやきを何度も耳もとで聞いていた。
『姫さん……ぬくいなあ…あんたの体』
 吐息が熱く洋子を探す。
『なあ、なんでこんなに…』『俺を呼んで…?』『…もっと…かま…へん……?』『しんどい……?』『…あかん…俺…』『もう…』『なあ……姫さん、』『…なあ……っ…』『姫、…さん……っ』
(うわ…)
 勝手に体の奥で護王の声が繰り返されて、洋子は顔が熱くなった。思わずうつむいてしまった洋子に、ふう、と村上が妙な溜息をつく。
「そう、ですかって? そう、なんでしょう? 今夜のスカート姿は僕のためじゃないってことはよくわかりましたが」
「は?」
「いえ、こっちの話ですけどね…始まったみたいですよ」
 舞台の外にいた一群から笛が緩やかに響き出す。座していた護王と綾香が立ち上がり、するすると中央へ進み出た。ふわ、と白地に銀の縫い取りの綾香が袖を払い、続いて白地に金の縫い取りの護王が同じように袖を払う。ゆっくりと見開かれた双方の目が正面を見据え、やがて互いに向き合って両手を開き、打ち合わせる。翻る袖に静まっていた風が起こされて舞い、斜め頭上の桜の花が舞台に散る。
 互いの位置を入れ替わり、立ち替わり、足音をほとんどたてないせいか、それはまるで天人の舞にも見えてくる。よく見ると、離れていようと近づいていようと、二人の所作はほぼ同じ、舞台のあちらこちらに一瞬現れては消える鏡がしつらえられていて、その間を一人の舞い手がひらひらと漂っていくようだ。
 周囲から深く静かな溜息が漏れた。
「これは……『二人静』のようだな…」
「『二人静』、ですか?」
「ええ…装束といい、あるいは能の『二人静』に通じる題材かもしれませんね。能では面をつけていますが……いや、確かにこれは…」
 村上も茫然とした顔で舞台に見愡れている。
 篝火が鋭い音を立てて弾ける。強く香り立つ樹の薫り、炎が揺らめき、ほとんど照明のない舞台に白装束の二人の巫女が舞っている。だが、よく見ているとわずかに舞がずれている。いや、舞がというより、気持ちがとでもいうべきか。
 本来ならば始まったときのように巫女同志がお互いを見つめあって鏡のように振る舞うものなのだろうけど、ふとした拍子に護王の視線が外れていく。袖を翻して向きを変える、その瞬間綾香に向くはずの目が空間を滑って遠ざかる。伏せた目をあげて天を仰ぐ、その瞳が惑うように揺らぎ落ちる。首を反らせて振り返り、身を屈めて掬うように見上げてくる、その瞳の先にいるのは。
(私…?)
 洋子はどきりとして息を呑む。
 見ている。
 見ている。
 どんな所作でも、どんな形でも、護王は必ず洋子を探す。
 翻す体を回しながら、振り上げた腕の隙間から、背中を向ければ肩越しに、護王は洋子に繰り返し視線を投げてくる。そこから消えてしまわないかと怯えるように、そしてまた、洋子が他の誰でもない自分一人を見ているのかをそっと密かに確かめるように。
 見つめる濡れた目、密やかに開く紅の唇、桜が舞い散り、篝火の金に煌めいて散る、その黄金色の雪より艶やかに、護王の姿が光を帯びる。闇の空間の花舞台、夕べの護王と舞う護王が重なりあっていく。のけ反る白い首、指先に絡む髪、息を零して震え立ち、甘く密度を増して薫るもう一つの桜が顕現する。
 村上が掠れた声でつぶやいた。
「……凄絶な……美しさだな……まるで……彼が仕える神がここにいて、そのためにだけ舞っていると言いたげな…」
 はっとしたように村上が洋子を見たのを感じた。
 そうだ、護王は舞っている、洋子がいることを確認しながら。洋子の視線を意識しながら。まるで、洋子の視線に絡め取られ囚われたいと望むように。
 舞いは終わりに近づいているのだろう、舞いながら舞台の奥へと歩く綾香とは別に、護王が衣装の右肩をずり落とした。滑り落ちる金糸まじりの頑な布、下には純白の絹、両手を指先まで揃えて伸ばした護王が額から目許を覆うように手を降ろしていく。同時に伏せていた瞳をゆるやかに上げて観客を見た、瞬間。
「ああ……」
 どよめきが起こった。静かに揺れもしないで整った顔、真っ黒な瞳からはらはらと幻のように涙が零れ落ちる。そしてなお、まっすぐ見つめる先には洋子がいて。
 その一瞬、おそらくそこに居た全ての人間が理解したに違いない。
 この舞が誰に捧げられていたのか。護王が誰に仕えるものなのか。

 沈黙が支配する。
 場を、時を、人々の意識を。
 桜に宿る神が、今ここに降臨したのを迎えるように。
 静まり返った闇を、ただ花びらが舞い落ちる。

 笛の音が闇を裂いた。
 一瞬止まりかけた鳴りものが我に返ったように激しく鳴り響く。
 それを合図に護王は体を翻した。先に飛翔した天女を追う、そういう仕立てのように、既に座に戻った綾香に続いて元の場所にするすると滑り、舞い落ちた花弁の最後のひとひらのように場に沈む。 
 薄紅に頬を染め、このうえなく幸福そうに満足そうに微笑む護王の姿は、舞いを止めても目を奪うほど鮮やかだった。まるで今、切ない夜を越えたように微かに息を弾ませ、少し開いた口元の紅が揺らめく炎に妖しく浮かび上がる。目を伏せてただ座る、それだけで花の王たる桜の精を思わせる。
 その笑みはまた、側で凍りついたように座っている綾香の殺気立った気配を際立たせた。それまで洋子を一顧だにしなかった綾香が、ぎらつくような視線で一瞬洋子を睨みつける。篝火の金が一瞬より濃い金泥色で綾香の目尻に宿った気配があった。
「しずやしず、ですか……」
 ほお、と村上が重い溜息をついてつぶやき、洋子は我に返った。
「大胆なことをしますねえ、彼は」
「はい?」
「『二人静』の演目は、源義経の愛人、静御前が、義経を追い詰め自分と離別させた張本人の源頼朝に捕らえられて舞いを求められるという内容ですよ」
 村上は苦笑いした。
「頼朝という圧倒的な権力者の前で、静御前は怯むことなく義経への思いを舞い上げた。しずやしず、しずのおだまきくりかえし、むかしをいまに、なすよしもがな……さしづめ、この場合は頼朝が綾香さんですかね…それとも」
 笑みを消し、生真面目な表情になって洋子を見つめ、低くぽつりと言い放った。
「僕かな」
 奉納舞いは無事終わったのだろう、ざわめきが広がって、舞台の側に輿がニ基用意された。それに護王と綾香が乗せられ、里を一巡して今夜は終わるはずだ。
「いや……凄かったな」
「なんともはや……あれほどの舞い手とは」
「里長の娘がくすんで見えたな」
 興奮した声で口々につぶやきながら輿に向かって移動する人波の中、洋子が村上のことばにどう応えたものか悩んでいると、ふいに村上の携帯が鳴った。
「あれ? ちょっと失礼します」
 相手を確認した村上が意外そうに眉をしかめ、洋子から距離を取った。見る間に険しい顔になってやりとりし始める相手に、そっと洋子も側を離れる。
(護王)
 遠い彼方の夢に、忠誠を受けたことがあるかと問いかけた覚えがあるような気がする。遥か昔に受けたそれを、今また確かに受け取った、そんな気がして胸が激しく波打っている。
(私も……私も)
 今ここに誓っていいだろうか、未来永劫、離れないと。代々の桜の姫には届かぬ未熟さであるにせよ、それでも命ある限り、護王の傷みを慰めると。いずれ別れるそのときにも、きっと来世を約束しようと。
(私も永久にあなたのものだ)
 祭の最終日に、いや、できることなら、今夜にでも護王にそう伝えよう、そう思って顔が熱くなった。
(今夜って……また、って考えてる…?)
「ははっ…」
 我ながら恥ずかしくて照れ笑いをした、その背後に人の気配がした。
「村上さ……っ!」
 電話は終わったのかと振り返りかけた矢先、がんっ、と視界がぶれた。何が起こったのか考える暇もなく、洋子は暗闇に崩れ込んでいた。
 
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