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10.直面(ひためん)(1)
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やっぱりどこか違うような。
洋子は桜の下までやってきて、もう一度、満開に向けて咲き誇り始めた樹を見上げた。
確かに気配はあの夢の桜、けれど、一昨日の夜も感じた妙な違和感があって、それをどうにも確かめたかった。
「同じソメイヨシノだと思うんだけど……」
「染井吉野?」
側に立っていた村上が訝しげに振り向く。
「違いますよ」
「え?」
「これはたぶん……江戸彼岸です。平安時代ぐらいから、この『かおうしづめ』は続いているみたいだし、染井吉野ならそれほど寿命が長くないですからね」
温かな風にふわふわと髪の毛を舞わせて微笑む村上は白のニットにベージュのスラックス、ポケットにぼんやりと手を突っ込んで立っていると、やはり警察がらみの人間とは思えない。
「エドヒガンって…それも桜なんですか?」
「はい」
にっこりと人の良さそうな笑みを浮かべてうなずいた。
「桜にも結構種類がありますからね。染井吉野は大島桜と江戸彼岸から作られたものだと言われてます。江戸時代ぐらいですかね。もちろん、このあたりは染井吉野で有名なところなんですが」
再びうっとりとした顔で桜の頂上までを振仰ぐように見た。
「これほど大きなもの……数百年の樹となると、やはり江戸彼岸でしょう。千年を越す寿命を持つとも言われてますし、古くからある有名な樹はたいてい江戸彼岸です。枝垂れ桜も江戸彼岸の表現形態の一種ですよ」
「へえ…」
洋子は改めて桜を見上げた。
千年生きる桜。『かおうしづめ』の御神体として祭られていて、その祭が平安時代から続いているものだとするのなら、千年を越えていることになる。
(同じ桜だったのかなあ)
「たぶん、この桜は五百年は軽く越えてますね」
洋子の心の疑問に応えるように村上がつぶやいた。
「もともと、サクラ、自体が稲作がらみの御神体とも言えるし…」
「稲作がらみ?」
「はい。サ、というのが稲を司る神を示すことばで、クラ、というのが神の座の意味を持ってますから。稲を司る神が宿る場所としての樹としてサクラ、そういうことで、『花見』も『サの神』を迎えて酒をのみ、一年の豊作を願い祝うというところから生まれた行事だとも言われてますよ。『かおうしづめ』も、疫病避けだけではなくて、もともとはそういう豊穣を祈る祭りだったのかもしれませんね」
「……お詳しいですね?」
洋子があっけにとられてつぶやくと、村上は少し照れたように笑った。
「好きなんですよ、民俗学は」
「はあ」
「それにしても、見事だな……詩織が生きていたなら、喜んだだろうに」
聞こえるか聞こえないほど小さな声で付け加えられた一言を、洋子は聞こえなかったふりをした。
(そうやって)
そうだ、何度も思い返してしまうものだ。
同じように桜を見上げて胸の中でつぶやく。
(何度も、何度も)
失ってしまった人の顔や仕草や声や好みを、関わる季節が来るたびに繰り返して思い出す。もうこの世界には存在しないことを、ことさら傷口を開くようにして確かめる。そうして何度も言い聞かせる、もう、あの人はいないのだ、と。もう、どこにもいないのだ、と。
(そうしなければつらくて)
ふとした拍子に、人込みの中に、街の風景に、家の片隅に、相手の姿を探してしまう。死んだという事実を無視した心が、いるはずのない気配を追って振り返ってしまう。
(そして、そのたびに)
違うのだ、もういないのだ、もう二度と会えないのだと、ざくざくと刺さってくる喪失感を抱き締めて、その痛みでかろうじて現実に引き戻される。
(失いたくなかったのに)
失うぐらいなら、自分が消えるほうがよっぽど気が楽だったのに。
「ほんとに……あの世とつながってくれていれば…いいのになあ…」
掠れた柔らかな声が響いて、洋子は村上を見た。
「桜の根元に死体があるって言うでしょう? 桜を見ると思うんですよ、まるでこいつはヨモツヒラサカだって。咲き誇ってすぐに散る。生死を繰り返して何百年も生きていく。人の輪廻転生とかにそっくりだ。ならば、詩織もどこかで転生してくれているんだろうかって」
村上の淡々としたことばは洋子の胸にしいんと深くしみいった。
そうだ、人はその生涯をただ一度きりに通り過ぎる。護王の『姫さん』は繰り返しこの世界に生まれてくるようだが、たいていの人間は、もしたとえ生まれ変わっていたとしても、それがどこの誰だかなんてわからない。
二度と会えない。
二度と触れあえない。
神話に戻るまでもなく、それでも失いたくない絆を追って、人は魔性にさえ跪き、祈りを捧げて再会を願う。
どうか、今一度の逢瀬を叶えたまえ、と。
それを業だと断じて切り捨て、愚かなことと笑える強さは洋子にはない。あやこに関して復活を願わなかったのは、もう十分じゃないかと思っただけのことだ。
(もう、十分だと……もし、次に生まれることがあるなら、私の知らないところでもいい、手が届かないところでもいい、ただどうか幸せに笑ってほしいと)
だから、綾子が胸傷むほどに大切だった。そして今、綾香の笑みを護王の安らぎを守りたいと願っている。守れなかった愛しい存在への誓いがわりに。
「今日はジーパンなんですね?」
村上が楽しそうに話し掛けてきた。
「僕はこの間のスカート、気に入ってるんですけど。よくお似合いでしたよ」
「村上さん」
「はい?」
「……あの、あんまり一緒にいないほうが」
「どうしてですか?」
思わぬ鋭さで返されて、洋子はちょっと戸惑った。眼鏡を微かに光らせて、村上が洋子を凝視する。
「いえ、だって、私、囮でしょう?」
村上が一瞬大きく目を見開いた。
「囮の側に、村上さんがずっとついていちゃ」
意味がないとは思いませんか、と続けた洋子をまじまじを見つめ返す。
「ああ…そう…ですね」
やがて、どこか困ったような表情になって、そっと中指で眼鏡を押し上げた。
「確かに、そうだ」
言い切ったのにどこか苦しげに微笑んで、村上は首を傾げた。
「日高が出てこないですね?」
「はい」
「わかりました。ただ、僕はちょっと…」
村上はうなずいて目を伏せ、向きを変えながら、唇を噛んだ。一瞬幼くなってしまった表情をごまかすように背ける。
「何か…懐かしい気持ちになっていて」
洋子は無言でうなずき返して、それから村上を押し出すように微笑み返した。
「うん、わかります。けど、お互いに仕事ってあるでしょう?」
「……わかってます。じゃあ、先に戻りますね」
洋子のことばに村上は眉を寄せた。
「はい、昼には戻りますから」
「気をつけて」
「はい」
名残り惜し気に遠ざかっていく村上に思わず苦笑する。
(囮に気をつけて、はないだろうに)
つい溜息が出た。
村上が桜の下で、誰の姿を洋子に重ねていたのか十分わかっていながら突き放した。それはほんの一瞬の幻だとわかっている、わかっているけど味わいたい、その気持ちも痛いほどにわかっている。
桜を見上げる。
うねうねとした枝を四方に広がらせて、一昨日の夜は白い炎に見えた樹は、今穏やかな春日を浴びて薄いピンクの靄となって頭上に満ちている。風が舞い、花びらが散り落ちる。それが命の一粒のように見えて、胸が切なく苦しくなる。
(でも……やっぱり違うような)
洋子は目を閉じ、夢で見た桜を思い返し、目を開いてその違和感を確かめた。首を傾け向きを変え、枝や花びらの位置を確かめる。背伸びをし、しゃがんでみる。
「あ」
座って見上げたときにふ、と意識の底の画像と視界が重なりかけて洋子は瞬きした。
(近い)
けれどまだうまく重ならない。蹲ったまま、のそのそと桜の下を動き回っては見上げてみる。そうだ、かなり近い。この視界全部を花びらが覆ってくるような印象。
(視界全部を)
「そうか」
思いついて洋子はそろそろと寝転がった。もう少し場所を移動しながら桜を見上げ、大きくうねった根と根の間、柔らかな緑の下草がいっそう鮮やかに茂って柔らかそうな土の上で、小さく声を上げる。
「ここだ」
ごろりと寝転がってまっすぐに視線をやると、視界はピンクがかった白い靄に覆われている。ここなら枝の具合も、ほとんど目に入ってこない空の具合も、そっくりそのままだ。
「あれって……寝転がって見上げた視界の桜だったんだ」
(でも、なぜ?)
夢の中で洋子は横になって桜などを見上げているのか。
寝転がって考えていると、風がやわやわと吹き寄せてきた。地表に近いせいか、立っているほどはっきりと風の道を感じない。緩やかに空気が押し出されて動いていく、という感じだ。背中を日射しを含んだ地面がほこほことした柔らかさで温めてくる。Tシャツ一枚では寒かったのが、今はその生地の薄さが逆にぬくもりを直接伝えてくれる。
「気持ち…いいなあ…」
そう言えば、長い間地面に寝転んでひなたぼっこなんてしていなかった。体全てを預けて受け止めてもらえる安定感、指先に触る微かな草の感触、わずかに香る匂いがどこか護王の体臭にも似ていて。
(護王)
洋子は慌てて滲みかけた視界を閉じた。
覚悟はしていた。
桜里にきたのだから、護王は本来の役目に戻る。洋子の護りではなくて、綾香を守り、綾香の側にいる。そんなことぐらい繰り返し言い聞かせてわかっていたはずだったのに、それでも何度も二人が寄り添う場面は、予想以上に骨身に堪える、心の弱い部分を狙って傷つけてくる。
食事のたびに、違うテーブルで綾香と一緒に慣れた様子で座っている護王とか。片づけや家の仕事を頼まれたり頼んだりしていつも一緒にいる姿とか。何をするでもなくても互いの体を摺り合わせるように立っている様子とか。一度などは風呂あがりに暗い庭で顔を寄せあって話している二人を見つけて固まってしまい、気づかれ強ばった護王の顔に慌てて部屋へ逃げ込んでしまった。
(あたりまえ、だよなあ)
約束は幻、洋子は『姫さん』の依代で、形だけの花王紋、偽物は本物がでてくるまでの場繋ぎでしかないと決まっている。
(誰にも、私は、要らないんだなあ)
村上が洋子に重ねているのは失ってしまった詩織。護王が洋子に見ているのは『姫さん』の影を宿した女の姿、はっきり言えば綾香の面影。
(そんなこと、とっくにわかっていたのに、どうして来ちゃったのかなあ)
いや、それもわかりきったこと、ただ日高を葬るためだけで。
目を開けると、ゆらゆらと震えた視界が零れ落ちていく。
(今だけ、少し、泣いておこう)
ここなら誰も見ていない。桜が風に散るだけだ。
「ふ…ぅっ」
眉をしかめて顔を歪める。
大丈夫。
大丈夫。
こんなことなら何度もあった。
求められてるのは自分じゃない。望まれているのは洋子ではない。そんなことはわかりきっていること、ずっと昔から変わらないこと。
繰り返し慣れたことばが胸の中で自動再生されるのを聞きながら泣き続ける。
だから慣れてる、だから大丈夫、だから…大丈夫……?
(大丈夫じゃない、よなあ?)
ふいにそう思った。
大丈夫じゃない。大丈夫なわけがない。自分がどこにも誰にも望まれていないと繰り返し思い知らされて、大丈夫な人間なんか、きっといない。
「…くっ」
新しい涙が溢れてくる。やわやわと頬を滑り落ちる甘いものではなくて、熱くて痛くて肌身を焦がして削り落とす。桜の花びらが降り散って何もかも隠してくれそうだから、背中が温められてぬくいから、風が優しく無言だから、何も洋子を追いつめないから責めないから、それでも唇をきつく噛んで声を殺す、それはもう身についた習い性というもので。
(今はそう思っていいよね?)
ずっと大丈夫じゃなかった。ずっと危なくてぎりぎりで崩れそうでしのいでいた。あやこがいたから頑張れた。綾子がいたから耐え抜けた。そして今はたぶん日高が裁かれもしないでうろうろしているから、かろうじて気持ちが保っている。
(やばい…よなあ)
目を開いた。胸の奥底のぞくぞくした殺気を苦笑いで迎え入れる。守るものがなくなって、生きる意味がなくなって、大事な人に手が届かなくなったら、人には破壊衝動だけが残っていく。
唐突にいつかの夢で見た朱紅の瞳をした護王の姿が、その呻きが蘇った。
『姫さん、俺は、もう、あかんわ』
(きっと、こんな気持ちだったんだろうなあ)
一人でずっと残されて。愛しい人を失い続けて。追いかけることも許されなくて。なのに、どこにも自分の居場所がなくて。
(…誰だって鬼になる…よなあ)
「!」
はら、と洋子の気持ちを察したように、目許すぐに桜の花が降り落ちてきて、息を呑んだ。風も止まっているのに、まだ満開でもないのに、いきなりふいに洋子を慰めるかのように数を増して散ってくる花弁。
雪が降ってくる空を見上げているような気持ちになってくる。遥か天界の彼方へ静かに迎え上げられるような。
(いきたかった)
還りたかった。痛みのない、苦しみのない、悲しみのない、永遠の楽土。
けれど掌には、すがりつくような人の温もりがあったから。
詰めていた息が無意識に漏れた。
「願わくは……って……誰の句だっけ……」
つぶやいた声が泣き濡れて掠れていた。
「願わくは花のしたにて春死なむ……だっけ」
過熱していた頭が見えない優しい指先に撫でられ鎮められ冷えていく。乱れていた呼吸がゆっくりとおさまって胸の中に深さを増す。
「その……きさらぎの……望月の…ころ……?」
(ああ、西行法師、だったっけ…)
耳もとで囁かれるのを聞いたようにつぶやき、目を閉じた。
(確かにこういうところで死ぬのは……いいかもしれない…)
意識の深みに呑まれるように、洋子はゆっくりと眠りに誘われていった。
「え?」
鏡の中を覗き込んで、洋子はどきりとした。もう一度、確かめる。確かに左の胸元、乳房に近いところに鮮やかな桜の形の紋が浮かび出ている。
「花王…紋…や」
つぶやいたとたん、体中がかあっと熱くなった。
「ほな……護王と一緒になれるんや」
せわしなく走り出す胸をそっと押さえて微笑んでみる。
脳裏に、桜を背景に黒づくめの細身の姿が振り返る。端正な白い顔、表情がないように見える整った顔は里でもいつも噂の種だ。きれいで、華やかで、いつまでたっても歳を重ねたふうに見えない不思議な男、けれど胸に焼きついて離れてくれないのは、その瞳の奥にある冴えた紅の炎の激しさで。
日本が高度経済成長期を迎え、戦後の混乱からみるみるうちに立ち直り、物と人と金に溢れた世界を謳歌し始めても、中心都市から離れた小さな里には緩やかな時間が流れている。
それは人を急かしはしないし、洋子のようにのんびりとした気性の娘ならば、まさに居心地いい場所なのだけど、刺激と繁栄を望む多くの里人、特に若い人間は、街へ光に呼ばれる蛾のように吸い出されていっている。
そうして少しずつ『かおうしづめ』の祭も縮小され、こじんまりとはしてきていたが、それでも里の護りたる護王という男の存在の艶やかさと不思議さが、見えないところで祭の存続を支えているのも確かなことだ。
「護王」
つぶやいて、洋子はそっと白いブラウスの胸元をかきよせて布ボタンを留めた。ほてった頬もくらくらする頭も、何より体が熱ぼったくて、鏡の中の自分が弾んでいるのが気恥ずかしい。
護王と直接話したことは数えるほどしかない。
洋子は引っ込み思案な娘だったし、妹の茜ほど積極的に騒ぐ気にはなれなかったけど、それでもただきれいなだけというのではなく、冷ややかで静かな護王の物腰に潜んでいる、どこか重苦しい影の存在にも惹かれていた。
(どこか切なげで、悲しげで)
初めて護王の存在を知ったのは、それこそもう五年も前になるか。
滅多とないことだったが、それまで護王はしばらく里を離れていたらしい。その間の祭も里の者の手で形だけは続けられてきたが、やはり勢いが欠けるの何のと街の方から呼び戻された、その日に洋子は里の外れ、桜の樹の下で護王と会っている。
もっとも、洋子がそう思っているだけだろう。
洋子が何かと桜に話しかけにいっているのは幼いときからの習慣のようなもの、その日もやっぱり桜の元へ出かけたけれど、少しばかり本気の願いがあってのことで。
茜に縁談が持ち上がったのだ。
もともと里にいて、街に出ていった日高の家からの申し込みで、美貌で名高い茜を見初めてのことと知らされた。茜が先に嫁ぐのも、実家より裕福な家に入るのも、洋子にとっては異論のないことだったけど、両親にとっては洋子が片付かない先にはとためらいがあったらしい。里の誰かとまとまるか、それとも街へ出ていってくれるかと遠回しながら切り出されて、洋子はほとほと困ってしまった。
そんなことができるぐらいなら、そもそも洋子に先に縁談が来たことだろう。
もらってくれるあてはなし、かと言って、街へ出たならおいそれと桜に話しに来れもしないだろう。お別れ半分、後は密かに抱いていた願いを最後に祈るためでもあった。
(どうか……あたしにも、大切な人が現れますように)
物心ついてからずっと、茜と比較され続けてきた。洋子は洋子なりに頑張ってはみていたのだけど、それでも持って生まれた華のなせる自信ばかりはどうにもならず、茜がいろんな男に誘われたりプレゼントを受け取るたびに、そっと小さな吐息をついた。
いつも呼ばれるのは「茜の姉さん」。
綾、となぜかそればかりは華やかな自分の名前を呼ばれることなどめったにない。
だからといって誰かに求められることを諦めていたわけではない。いつかできることならば。いつか優しい愛しい人と、小さな居場所が持てたなら。
けど、さすがに二十五過ぎれば、それがどんな子どもじみた願いだかはよくわかっている。
でも、だからこその最後の願い、でもあった。
そこで洋子は護王に出逢った。
『ここで何をしている?』
どう見ても年下の、けれどはっとするほど黒々とした瞳で見つめられて、洋子は呼吸を忘れてしまった。桜舞い散るあでやかな光景を背負ってなお見劣りしない端麗さ、それを意識していないかのような傍若無人な物言いさえも胸を貫くに十分で。
一目惚れ、だったのだろう。
逃げるように家に戻って、それが護王という、里の祭を司る人物であること。若い見かけはしているが、意外に年齢を重ねていて街で仕事にもついており、里の女は一度は護王とまとまる夢を抱くこと。けれど護王が応じるのは花王紋のある女一人で、それ以外には靡きもしないことなどを聞かされた。
はなから実らぬ恋だとわかっていた。
それでも桜の下で願ったときに出逢ったという、ただそれだけで、洋子は街へ出るのを拒んだ。自分の体に花王紋はないけれど、ただ一緒の空間で、たまさかに道ですれ違うこと、それだけでも生きていけるような気がしてしまった。
あれから五年、花王紋の女はなかなか現れない。護王は次第にぴりぴりと苛立ちを示すようになり、ただでさえそっけないやりとりが一層人を避けるようになっていた。噂によれば、花王紋を持つものを探して、なぜか中国にまで渡ったらしい。
(それほどまでして求めるなんて)
それほどまでして、求められるなんて。
護王の女になれると思ったわけではない。ただ、それほどの思いが成就する瞬間を見たいと思った。
そして今、『かおうしづめ』を前に、洋子の胸にはいきなり花王紋が現れた。小さな里では、三十過ぎて一人で居る女に手厳しい。最近は親にまで嫌みを言われたりして居辛くなってきたところだった。
洋子はおそるおそる両親と里長に申し出た。すぐさまそれは護王に知らされ、『かおうしづめ』の前夜、洋子は護王に花王紋を確認されることになった。
里長の大西家に招かれて、奥まった座敷でじっと待たされた時間は、洋子が過ごした一番長い時間だったと思う。
「宇津目、綾、さん?」
「あ、はい」
障子をいきなり開けて入ってきた相手に、洋子はうろたえて平伏した。慣れない正座で足が痺れつつあったし、確認するとはどういうことなのか不安だったから、蛙がひしゃげたように両手をついて頭を下げた。
「そんなことせんでええのに」
冷ややかにさえ感じる声に顔をあげると、入ってきた護王がぴたりと前に座っていた。涼やかな視線は変わらずで、この五年をどう過ごしてきたのか、年月が通り過ぎてしまったように顔だちに変化がなかった。
「それで、どこに花王紋があるんやて?」
「あの、その…」
洋子はたじろぎ、うろたえた。いきなりブラウスの胸を開くのも何だか大胆すぎるような気がして、黙り込んでうつむいてしまう。五年前と変わらずきれいな護王を前に、小じわが目立ちだした自分の年齢を痛いほどに意識した。
「あのな、こっちもいろいろと忙しいねん」
溜息まじりにつぶやかれて、洋子は余計に焦った。顔をあげると、相手はうんざりした表情を隠しもしないで洋子を凝視している。
「あ、あの、ごめんなさい、そやから、その、ここに」
みるみる熱くなってくるのを振り切るように、ブラウスのボタンを外しかけると、ことさら大きい溜息を護王がついてどきりとした。
「なんや、あんたもか」
「え?」
「ええかげんにしてくれへんかな。色仕掛けはきかへんね」
嘲笑うように言い放たれて、洋子はぽかんとした。
「色、仕掛け?」
「まあ、年齢も年齢やし、焦るのわかるけど、俺は『姫さん』しか相手にせえへん。花王紋がないんやったら、どんな女も同じやねん。据え膳食う気もないし」
護王はうっすらと醒めた笑みを浮かべた。
「それとも何か、とりあえず、抱いてくれればええって口か?」
(年齢? 焦る? 据え膳? 抱いてくれれば…ええ?)
「!」
ふいに護王が何を言っているのかがわかって、洋子は血の気が引いた。
「あたしが……花王紋もないのに……あんたを……誘惑しにきた…って…?」
「誘惑ぅ? ひどい冗談やで」
くくくっと喉の奥で笑われた。
「まあ、いろいろと勘違いしてる女は仰山いるけどな、あんた程度の女が何やったって時間の無駄……」
ざう、と耳もとで風が唸るように血が沸いた。
桜の下で出逢ったあの日から、変わりもしない護王の見事な美貌、確かにそれは賞賛されてしかるべきものかもしれないけれど、だからといって洋子の生きざまが護王の何に劣ることがあるだろう。
人と比べて大人しいだの陰気だの、年頃になっても華の一つも宿せない地味な容貌、けれど、それでも精一杯生きてきた。姿形は生まれついて授けられたもの、それへの謂れない罵倒も胸に秘めた誇りで耐えて、命の限り生きてきた、その気概をあの桜は知っている。
それを今、大切にいとしんできたこの男が、口先だけで切り捨てる。
初めて感じた体が震える怒りだった。
「……あほちゃうん?」
ぼそっとつぶやいた洋子に護王は目を光らせた。
「あほ、やて?」
「うぬぼれんのもたいがいにしぃや」
「どういうことや」
問い返す護王にさっさとブラウスのボタンを外す。ぐいと引き降ろした胸元にブラジャーはつけていない。洋子の視界には入らないけど、護王の目には見えたはずだ、左の胸乳近くの真紅の痣が。
ぎょっとしたように目を見開いた護王が吸いつけられるように洋子の胸に目をやって、ごく、と唾を呑むのがわかった。
「それ……」
「これは花王紋なん、違うん、はっきり教えて」
護王を睨みつけるとぱらぱらと熱いものがはだけた胸にかかって、ようやく自分が泣いているのだと気がついた。残った片手でひとなぐりに涙を拭き取り、目に怒りを込めて相手を見る。
「あたしかって忙しいねん、やることもあんのん。そやけど、これが花王紋なんかどうなんか、見定められるのはあんただけなんやろ。もし、花王紋やったら、祭に関わる、そやから来ただけや」
(嘘や)
そんなことはない。洋子は護王に添いたくて、護王と一緒になれるかもしれないと思って、胸をときめかせながらやってきた。が、今となっては、その期待感さえも恥ずかしい。口に出せるものではない。
「さっさと見定めて」
できるだけ冷ややかに突き放した声を出した。
「それは……」
護王の瞳が不安定に揺れている。薄く染まった頬になおも血の色が集まっていって、桜を思わせる華やかさ、それがまた見愡れるほどにきれいな表情で洋子は思わず目を奪われて、次の瞬間絞られるような痛みを感じた。
(それでも、それは、あたしのものやない)
くやしいのか悲しいのか切ないのか、今はもうわからない。ただ、どこまでいっても自分ではどうにも役に立たないのだと思い知らされるばっかりで。
「それは……花王紋……や」
「わかった。ほなもうええやろ」
掠れた声で護王が応じて洋子は急いでブラウスをかき寄せた。ボタンをはめるのもそこそこに立ち上がって廊下に出ようとする。
「待って、待ってぇな」
「なんや」
急に手首を掴まれて引き止められ、洋子は振り返った。勢いに押されたように護王が怯むのに、重ねて命じる。
「手。放して」
「なんでや、放したら、出てく気やろ?」
「あたりまえやんか」
「そやけど、あんたには花王紋、あるやんか」
渇いた喉に無理に唾を呑み込むように、こくんと護王は喉を鳴らした。
「花王紋があるのは姫さんの徴…」
黒い瞳がゆらゆらと妖しく揺れる。ようやく見つけた相手を待って開き始めた花のように、潤んで洋子の瞳を誘う。声も掠れて甘みを宿し、部屋にふいにきつく樹の香りが漂い始める。
「そやのに、なんで出ていくんや…?」
「あんたがあほやからに決まってるやんか」
目の前で艶やかさを増す護王に気持ちを攫われそうになって、ことさら冷たく言い放った。
「あ……」
「そら、あたしは三十や、嫁き遅れで、もらってくれるあてもない、そやけど、あんたに嘘ついて迫るほど落ちぶれてへんね、さっさとその手ぇ放し、噛みつかれたいんか」
怒りを込めて見返すと、相手は顔を凍らせた。
「あんたが何で花王紋の女を探してるのかはわからへん。そやけど、紋を見ぃひんと見分け一つもつかへんもんを、ようも今まで探してこれたなあ」
「う……」
「確かにあたしには花王紋がある、そやけど、あんたに応じるかどうかは別問題や」
(嘘や)
胸の切ない嘆きを洋子はきりきり痛む気持ちで聞いた。
(幻でもごまかしでも、ほんまは護王の側にいたい)
それでも、いくら側にいても、護王の気持ちが洋子にないのははっきりした。護王は花王紋さえあればいい。花王紋がある女ならば、洋子でなくてもかまわない。
結局今までと同じなのだ。洋子を見るのではなく、花王紋を見て、花王紋に他の誰かを重ねている男。それは茜の姉としか見なかった男、茜に近づくために洋子を利用した男達と変わらない。
(護王もそうか、そうなんか)
くやしさに歯噛みする熱に燃やされ、苛立ちながら考える。
一番大事な愛しい人が自分を抱きながら他の女を夢想し続け、睦言一つも自分に与えてくれない。そんなことに耐え続けられる女がいったいどこにいるだろう。
(しょせん、ならぬ話、実らぬ夢……ああ、そうや)
自分はこれほどまでに護王が好きなのだと思い知った。
相手の心に他の女を棲まわせるため使われるぐらいなら、自分を突き落としてでも消し去ってしまいたい、それほど激しい想いなのだと。
「あたしは、あんたが、嫌いや」
洋子は吐き捨てた。
自分を裂くように言い捨てた。
「あんたの何もかもがうっとうしいねん。二度と顔も見とうない」
ぐいと首を背けて体を捻る。びくっと怯えたように震えた相手に、ことさらきつくことばを重ねる。
「安心しよし、もう里を出ていくし、会うこともあらへん」
言いながらそう気持ちを決めた。
一生一人で生きていこうと気持ちを決めた。
(やっぱりどうにも好きなんやなあ)
これほどないがしろに扱われて、これほど軽くあしらわれても。
(ほんまにあほや)
他の女に我を忘れる、男一人に心を奪われ。
「さっさと放し、言うてるやろ!」
苦笑を一気に険しい口調に切り替えた。
気迫に押されたように、護王は手の力を緩めた。急いで手を取り戻し、洋子が障子を引き開け廊下に出ようとした、その瞬間。
「……俺を……置いてくんか…?」
弱々しい頼りない声が響いて、思わず振り返ると、部屋の中央に真っ白な顔をして護王が立ち竦んでいた。だらりと両手を垂らしたまま、強ばった笑みを浮かべて続けて尋ねる。
「…また……置いてくんか……? 俺が……嫌いで……うっとうしい…し…?」
艶やかに潤んでいた瞳から一切生気が失せていた。
「護王?」
「そやから……中国で……消えてしもたんか…? 生きたか死んだかも……わからんように……? はなからずっと…そうやったんか…?」
奇妙な笑みが護王の薄い唇に滲むように広がった。
「…俺が……歳とらへんし……ばけもんやし……『姫さん』、ほんとはずっと……俺のこと、嫌いやったんや…?」
くす、と笑みは声になって零れた。くすくすくす……と異常に明るい笑い声、けれどそれはぞっとするほど虚ろなもので、思わず洋子は護王に向き直った。
「護王……?」
「そやのに……俺ずっと……姫さん追っかけて……なあ……今度は三十年もあいたんやで……? 偽もんの姫さんばっかりで……何度もそうかと思て……何度も違て……そうか……姫さん…俺のこと嫌いやったんや……そやし……いっつも俺を置いてくんや……」
うんうんと子どものようにうなずいて見せる。
「そやのに……おかし…なあ…? 俺……姫さんのこと…好きやねん」
笑顔を保ったままの護王が瞬きもしないまま唐突にぼろぼろと涙を零し始めてぎょっとする。
「俺……嫌われてんねんや…なあ……? そやのに……俺……納得でけへん……なんか……今でも……そんなことないやろて……そんなはずないて……思てる……おかし…なあ…?」
くしゃ、と額に垂れた髪の毛をひきむしるように掴んだ護王の手が震えている。
「俺…どうしよ……どうしたら……ええねん……? どうしたら…」
手だけではない、今にも座り込んでしまいそうに、がたがたと全身で震えている。瞳には紛れもなく恐怖が浮かんでいる。なのに、必死にこちらを見た顔が強ばったままの笑みを張りつけていて。
「もう……終わりなんか……? これで…最後なんか…? この先ずっと……独り…なんか…? そういうこと……なん……か…?」
(いかぬ)
ふいに自分の内側に不思議な声が響いたのを洋子は感じた。
(これはいけない)
声は哀れみを込めて繰り返す。
(助けるつもりであったのに……これではそなたを追い詰めるばかりか)
誰?
問いかけた自分の声にいきなり視界が幾重にも重なる映像で溢れる。
降りしきる桜。泣きじゃくる小さな子ども。臨終の床に泣き崩れる少年。ひんやりとした夏の川べりですがりつく姿。入り組んだ街を、村を、闇を、日射しの中を、洋子を探してひたすらに歩く護王の姿。
(よかれと思ってしたことなれど、我が転生はそなたを縛る鎖となった)
どうすればよいのだろう、と声と一緒に洋子は戸惑った。
このままでは護王は洋子に縛られて、未来永劫身動き取れない。洋子の転生を待ち望むだけに自分の一生を使い果たしてしまうのは火を見るよりも明らかで。
「姫…さん…」
洋子が部屋を出ていかないのに僅かに安心したのだろう、護王はそれでも震えながら手を伸ばしてきた。そのままそっと触れてくる、幻にでも近づくように。
その幻にさえ、縋るように。
洋子は桜の下までやってきて、もう一度、満開に向けて咲き誇り始めた樹を見上げた。
確かに気配はあの夢の桜、けれど、一昨日の夜も感じた妙な違和感があって、それをどうにも確かめたかった。
「同じソメイヨシノだと思うんだけど……」
「染井吉野?」
側に立っていた村上が訝しげに振り向く。
「違いますよ」
「え?」
「これはたぶん……江戸彼岸です。平安時代ぐらいから、この『かおうしづめ』は続いているみたいだし、染井吉野ならそれほど寿命が長くないですからね」
温かな風にふわふわと髪の毛を舞わせて微笑む村上は白のニットにベージュのスラックス、ポケットにぼんやりと手を突っ込んで立っていると、やはり警察がらみの人間とは思えない。
「エドヒガンって…それも桜なんですか?」
「はい」
にっこりと人の良さそうな笑みを浮かべてうなずいた。
「桜にも結構種類がありますからね。染井吉野は大島桜と江戸彼岸から作られたものだと言われてます。江戸時代ぐらいですかね。もちろん、このあたりは染井吉野で有名なところなんですが」
再びうっとりとした顔で桜の頂上までを振仰ぐように見た。
「これほど大きなもの……数百年の樹となると、やはり江戸彼岸でしょう。千年を越す寿命を持つとも言われてますし、古くからある有名な樹はたいてい江戸彼岸です。枝垂れ桜も江戸彼岸の表現形態の一種ですよ」
「へえ…」
洋子は改めて桜を見上げた。
千年生きる桜。『かおうしづめ』の御神体として祭られていて、その祭が平安時代から続いているものだとするのなら、千年を越えていることになる。
(同じ桜だったのかなあ)
「たぶん、この桜は五百年は軽く越えてますね」
洋子の心の疑問に応えるように村上がつぶやいた。
「もともと、サクラ、自体が稲作がらみの御神体とも言えるし…」
「稲作がらみ?」
「はい。サ、というのが稲を司る神を示すことばで、クラ、というのが神の座の意味を持ってますから。稲を司る神が宿る場所としての樹としてサクラ、そういうことで、『花見』も『サの神』を迎えて酒をのみ、一年の豊作を願い祝うというところから生まれた行事だとも言われてますよ。『かおうしづめ』も、疫病避けだけではなくて、もともとはそういう豊穣を祈る祭りだったのかもしれませんね」
「……お詳しいですね?」
洋子があっけにとられてつぶやくと、村上は少し照れたように笑った。
「好きなんですよ、民俗学は」
「はあ」
「それにしても、見事だな……詩織が生きていたなら、喜んだだろうに」
聞こえるか聞こえないほど小さな声で付け加えられた一言を、洋子は聞こえなかったふりをした。
(そうやって)
そうだ、何度も思い返してしまうものだ。
同じように桜を見上げて胸の中でつぶやく。
(何度も、何度も)
失ってしまった人の顔や仕草や声や好みを、関わる季節が来るたびに繰り返して思い出す。もうこの世界には存在しないことを、ことさら傷口を開くようにして確かめる。そうして何度も言い聞かせる、もう、あの人はいないのだ、と。もう、どこにもいないのだ、と。
(そうしなければつらくて)
ふとした拍子に、人込みの中に、街の風景に、家の片隅に、相手の姿を探してしまう。死んだという事実を無視した心が、いるはずのない気配を追って振り返ってしまう。
(そして、そのたびに)
違うのだ、もういないのだ、もう二度と会えないのだと、ざくざくと刺さってくる喪失感を抱き締めて、その痛みでかろうじて現実に引き戻される。
(失いたくなかったのに)
失うぐらいなら、自分が消えるほうがよっぽど気が楽だったのに。
「ほんとに……あの世とつながってくれていれば…いいのになあ…」
掠れた柔らかな声が響いて、洋子は村上を見た。
「桜の根元に死体があるって言うでしょう? 桜を見ると思うんですよ、まるでこいつはヨモツヒラサカだって。咲き誇ってすぐに散る。生死を繰り返して何百年も生きていく。人の輪廻転生とかにそっくりだ。ならば、詩織もどこかで転生してくれているんだろうかって」
村上の淡々としたことばは洋子の胸にしいんと深くしみいった。
そうだ、人はその生涯をただ一度きりに通り過ぎる。護王の『姫さん』は繰り返しこの世界に生まれてくるようだが、たいていの人間は、もしたとえ生まれ変わっていたとしても、それがどこの誰だかなんてわからない。
二度と会えない。
二度と触れあえない。
神話に戻るまでもなく、それでも失いたくない絆を追って、人は魔性にさえ跪き、祈りを捧げて再会を願う。
どうか、今一度の逢瀬を叶えたまえ、と。
それを業だと断じて切り捨て、愚かなことと笑える強さは洋子にはない。あやこに関して復活を願わなかったのは、もう十分じゃないかと思っただけのことだ。
(もう、十分だと……もし、次に生まれることがあるなら、私の知らないところでもいい、手が届かないところでもいい、ただどうか幸せに笑ってほしいと)
だから、綾子が胸傷むほどに大切だった。そして今、綾香の笑みを護王の安らぎを守りたいと願っている。守れなかった愛しい存在への誓いがわりに。
「今日はジーパンなんですね?」
村上が楽しそうに話し掛けてきた。
「僕はこの間のスカート、気に入ってるんですけど。よくお似合いでしたよ」
「村上さん」
「はい?」
「……あの、あんまり一緒にいないほうが」
「どうしてですか?」
思わぬ鋭さで返されて、洋子はちょっと戸惑った。眼鏡を微かに光らせて、村上が洋子を凝視する。
「いえ、だって、私、囮でしょう?」
村上が一瞬大きく目を見開いた。
「囮の側に、村上さんがずっとついていちゃ」
意味がないとは思いませんか、と続けた洋子をまじまじを見つめ返す。
「ああ…そう…ですね」
やがて、どこか困ったような表情になって、そっと中指で眼鏡を押し上げた。
「確かに、そうだ」
言い切ったのにどこか苦しげに微笑んで、村上は首を傾げた。
「日高が出てこないですね?」
「はい」
「わかりました。ただ、僕はちょっと…」
村上はうなずいて目を伏せ、向きを変えながら、唇を噛んだ。一瞬幼くなってしまった表情をごまかすように背ける。
「何か…懐かしい気持ちになっていて」
洋子は無言でうなずき返して、それから村上を押し出すように微笑み返した。
「うん、わかります。けど、お互いに仕事ってあるでしょう?」
「……わかってます。じゃあ、先に戻りますね」
洋子のことばに村上は眉を寄せた。
「はい、昼には戻りますから」
「気をつけて」
「はい」
名残り惜し気に遠ざかっていく村上に思わず苦笑する。
(囮に気をつけて、はないだろうに)
つい溜息が出た。
村上が桜の下で、誰の姿を洋子に重ねていたのか十分わかっていながら突き放した。それはほんの一瞬の幻だとわかっている、わかっているけど味わいたい、その気持ちも痛いほどにわかっている。
桜を見上げる。
うねうねとした枝を四方に広がらせて、一昨日の夜は白い炎に見えた樹は、今穏やかな春日を浴びて薄いピンクの靄となって頭上に満ちている。風が舞い、花びらが散り落ちる。それが命の一粒のように見えて、胸が切なく苦しくなる。
(でも……やっぱり違うような)
洋子は目を閉じ、夢で見た桜を思い返し、目を開いてその違和感を確かめた。首を傾け向きを変え、枝や花びらの位置を確かめる。背伸びをし、しゃがんでみる。
「あ」
座って見上げたときにふ、と意識の底の画像と視界が重なりかけて洋子は瞬きした。
(近い)
けれどまだうまく重ならない。蹲ったまま、のそのそと桜の下を動き回っては見上げてみる。そうだ、かなり近い。この視界全部を花びらが覆ってくるような印象。
(視界全部を)
「そうか」
思いついて洋子はそろそろと寝転がった。もう少し場所を移動しながら桜を見上げ、大きくうねった根と根の間、柔らかな緑の下草がいっそう鮮やかに茂って柔らかそうな土の上で、小さく声を上げる。
「ここだ」
ごろりと寝転がってまっすぐに視線をやると、視界はピンクがかった白い靄に覆われている。ここなら枝の具合も、ほとんど目に入ってこない空の具合も、そっくりそのままだ。
「あれって……寝転がって見上げた視界の桜だったんだ」
(でも、なぜ?)
夢の中で洋子は横になって桜などを見上げているのか。
寝転がって考えていると、風がやわやわと吹き寄せてきた。地表に近いせいか、立っているほどはっきりと風の道を感じない。緩やかに空気が押し出されて動いていく、という感じだ。背中を日射しを含んだ地面がほこほことした柔らかさで温めてくる。Tシャツ一枚では寒かったのが、今はその生地の薄さが逆にぬくもりを直接伝えてくれる。
「気持ち…いいなあ…」
そう言えば、長い間地面に寝転んでひなたぼっこなんてしていなかった。体全てを預けて受け止めてもらえる安定感、指先に触る微かな草の感触、わずかに香る匂いがどこか護王の体臭にも似ていて。
(護王)
洋子は慌てて滲みかけた視界を閉じた。
覚悟はしていた。
桜里にきたのだから、護王は本来の役目に戻る。洋子の護りではなくて、綾香を守り、綾香の側にいる。そんなことぐらい繰り返し言い聞かせてわかっていたはずだったのに、それでも何度も二人が寄り添う場面は、予想以上に骨身に堪える、心の弱い部分を狙って傷つけてくる。
食事のたびに、違うテーブルで綾香と一緒に慣れた様子で座っている護王とか。片づけや家の仕事を頼まれたり頼んだりしていつも一緒にいる姿とか。何をするでもなくても互いの体を摺り合わせるように立っている様子とか。一度などは風呂あがりに暗い庭で顔を寄せあって話している二人を見つけて固まってしまい、気づかれ強ばった護王の顔に慌てて部屋へ逃げ込んでしまった。
(あたりまえ、だよなあ)
約束は幻、洋子は『姫さん』の依代で、形だけの花王紋、偽物は本物がでてくるまでの場繋ぎでしかないと決まっている。
(誰にも、私は、要らないんだなあ)
村上が洋子に重ねているのは失ってしまった詩織。護王が洋子に見ているのは『姫さん』の影を宿した女の姿、はっきり言えば綾香の面影。
(そんなこと、とっくにわかっていたのに、どうして来ちゃったのかなあ)
いや、それもわかりきったこと、ただ日高を葬るためだけで。
目を開けると、ゆらゆらと震えた視界が零れ落ちていく。
(今だけ、少し、泣いておこう)
ここなら誰も見ていない。桜が風に散るだけだ。
「ふ…ぅっ」
眉をしかめて顔を歪める。
大丈夫。
大丈夫。
こんなことなら何度もあった。
求められてるのは自分じゃない。望まれているのは洋子ではない。そんなことはわかりきっていること、ずっと昔から変わらないこと。
繰り返し慣れたことばが胸の中で自動再生されるのを聞きながら泣き続ける。
だから慣れてる、だから大丈夫、だから…大丈夫……?
(大丈夫じゃない、よなあ?)
ふいにそう思った。
大丈夫じゃない。大丈夫なわけがない。自分がどこにも誰にも望まれていないと繰り返し思い知らされて、大丈夫な人間なんか、きっといない。
「…くっ」
新しい涙が溢れてくる。やわやわと頬を滑り落ちる甘いものではなくて、熱くて痛くて肌身を焦がして削り落とす。桜の花びらが降り散って何もかも隠してくれそうだから、背中が温められてぬくいから、風が優しく無言だから、何も洋子を追いつめないから責めないから、それでも唇をきつく噛んで声を殺す、それはもう身についた習い性というもので。
(今はそう思っていいよね?)
ずっと大丈夫じゃなかった。ずっと危なくてぎりぎりで崩れそうでしのいでいた。あやこがいたから頑張れた。綾子がいたから耐え抜けた。そして今はたぶん日高が裁かれもしないでうろうろしているから、かろうじて気持ちが保っている。
(やばい…よなあ)
目を開いた。胸の奥底のぞくぞくした殺気を苦笑いで迎え入れる。守るものがなくなって、生きる意味がなくなって、大事な人に手が届かなくなったら、人には破壊衝動だけが残っていく。
唐突にいつかの夢で見た朱紅の瞳をした護王の姿が、その呻きが蘇った。
『姫さん、俺は、もう、あかんわ』
(きっと、こんな気持ちだったんだろうなあ)
一人でずっと残されて。愛しい人を失い続けて。追いかけることも許されなくて。なのに、どこにも自分の居場所がなくて。
(…誰だって鬼になる…よなあ)
「!」
はら、と洋子の気持ちを察したように、目許すぐに桜の花が降り落ちてきて、息を呑んだ。風も止まっているのに、まだ満開でもないのに、いきなりふいに洋子を慰めるかのように数を増して散ってくる花弁。
雪が降ってくる空を見上げているような気持ちになってくる。遥か天界の彼方へ静かに迎え上げられるような。
(いきたかった)
還りたかった。痛みのない、苦しみのない、悲しみのない、永遠の楽土。
けれど掌には、すがりつくような人の温もりがあったから。
詰めていた息が無意識に漏れた。
「願わくは……って……誰の句だっけ……」
つぶやいた声が泣き濡れて掠れていた。
「願わくは花のしたにて春死なむ……だっけ」
過熱していた頭が見えない優しい指先に撫でられ鎮められ冷えていく。乱れていた呼吸がゆっくりとおさまって胸の中に深さを増す。
「その……きさらぎの……望月の…ころ……?」
(ああ、西行法師、だったっけ…)
耳もとで囁かれるのを聞いたようにつぶやき、目を閉じた。
(確かにこういうところで死ぬのは……いいかもしれない…)
意識の深みに呑まれるように、洋子はゆっくりと眠りに誘われていった。
「え?」
鏡の中を覗き込んで、洋子はどきりとした。もう一度、確かめる。確かに左の胸元、乳房に近いところに鮮やかな桜の形の紋が浮かび出ている。
「花王…紋…や」
つぶやいたとたん、体中がかあっと熱くなった。
「ほな……護王と一緒になれるんや」
せわしなく走り出す胸をそっと押さえて微笑んでみる。
脳裏に、桜を背景に黒づくめの細身の姿が振り返る。端正な白い顔、表情がないように見える整った顔は里でもいつも噂の種だ。きれいで、華やかで、いつまでたっても歳を重ねたふうに見えない不思議な男、けれど胸に焼きついて離れてくれないのは、その瞳の奥にある冴えた紅の炎の激しさで。
日本が高度経済成長期を迎え、戦後の混乱からみるみるうちに立ち直り、物と人と金に溢れた世界を謳歌し始めても、中心都市から離れた小さな里には緩やかな時間が流れている。
それは人を急かしはしないし、洋子のようにのんびりとした気性の娘ならば、まさに居心地いい場所なのだけど、刺激と繁栄を望む多くの里人、特に若い人間は、街へ光に呼ばれる蛾のように吸い出されていっている。
そうして少しずつ『かおうしづめ』の祭も縮小され、こじんまりとはしてきていたが、それでも里の護りたる護王という男の存在の艶やかさと不思議さが、見えないところで祭の存続を支えているのも確かなことだ。
「護王」
つぶやいて、洋子はそっと白いブラウスの胸元をかきよせて布ボタンを留めた。ほてった頬もくらくらする頭も、何より体が熱ぼったくて、鏡の中の自分が弾んでいるのが気恥ずかしい。
護王と直接話したことは数えるほどしかない。
洋子は引っ込み思案な娘だったし、妹の茜ほど積極的に騒ぐ気にはなれなかったけど、それでもただきれいなだけというのではなく、冷ややかで静かな護王の物腰に潜んでいる、どこか重苦しい影の存在にも惹かれていた。
(どこか切なげで、悲しげで)
初めて護王の存在を知ったのは、それこそもう五年も前になるか。
滅多とないことだったが、それまで護王はしばらく里を離れていたらしい。その間の祭も里の者の手で形だけは続けられてきたが、やはり勢いが欠けるの何のと街の方から呼び戻された、その日に洋子は里の外れ、桜の樹の下で護王と会っている。
もっとも、洋子がそう思っているだけだろう。
洋子が何かと桜に話しかけにいっているのは幼いときからの習慣のようなもの、その日もやっぱり桜の元へ出かけたけれど、少しばかり本気の願いがあってのことで。
茜に縁談が持ち上がったのだ。
もともと里にいて、街に出ていった日高の家からの申し込みで、美貌で名高い茜を見初めてのことと知らされた。茜が先に嫁ぐのも、実家より裕福な家に入るのも、洋子にとっては異論のないことだったけど、両親にとっては洋子が片付かない先にはとためらいがあったらしい。里の誰かとまとまるか、それとも街へ出ていってくれるかと遠回しながら切り出されて、洋子はほとほと困ってしまった。
そんなことができるぐらいなら、そもそも洋子に先に縁談が来たことだろう。
もらってくれるあてはなし、かと言って、街へ出たならおいそれと桜に話しに来れもしないだろう。お別れ半分、後は密かに抱いていた願いを最後に祈るためでもあった。
(どうか……あたしにも、大切な人が現れますように)
物心ついてからずっと、茜と比較され続けてきた。洋子は洋子なりに頑張ってはみていたのだけど、それでも持って生まれた華のなせる自信ばかりはどうにもならず、茜がいろんな男に誘われたりプレゼントを受け取るたびに、そっと小さな吐息をついた。
いつも呼ばれるのは「茜の姉さん」。
綾、となぜかそればかりは華やかな自分の名前を呼ばれることなどめったにない。
だからといって誰かに求められることを諦めていたわけではない。いつかできることならば。いつか優しい愛しい人と、小さな居場所が持てたなら。
けど、さすがに二十五過ぎれば、それがどんな子どもじみた願いだかはよくわかっている。
でも、だからこその最後の願い、でもあった。
そこで洋子は護王に出逢った。
『ここで何をしている?』
どう見ても年下の、けれどはっとするほど黒々とした瞳で見つめられて、洋子は呼吸を忘れてしまった。桜舞い散るあでやかな光景を背負ってなお見劣りしない端麗さ、それを意識していないかのような傍若無人な物言いさえも胸を貫くに十分で。
一目惚れ、だったのだろう。
逃げるように家に戻って、それが護王という、里の祭を司る人物であること。若い見かけはしているが、意外に年齢を重ねていて街で仕事にもついており、里の女は一度は護王とまとまる夢を抱くこと。けれど護王が応じるのは花王紋のある女一人で、それ以外には靡きもしないことなどを聞かされた。
はなから実らぬ恋だとわかっていた。
それでも桜の下で願ったときに出逢ったという、ただそれだけで、洋子は街へ出るのを拒んだ。自分の体に花王紋はないけれど、ただ一緒の空間で、たまさかに道ですれ違うこと、それだけでも生きていけるような気がしてしまった。
あれから五年、花王紋の女はなかなか現れない。護王は次第にぴりぴりと苛立ちを示すようになり、ただでさえそっけないやりとりが一層人を避けるようになっていた。噂によれば、花王紋を持つものを探して、なぜか中国にまで渡ったらしい。
(それほどまでして求めるなんて)
それほどまでして、求められるなんて。
護王の女になれると思ったわけではない。ただ、それほどの思いが成就する瞬間を見たいと思った。
そして今、『かおうしづめ』を前に、洋子の胸にはいきなり花王紋が現れた。小さな里では、三十過ぎて一人で居る女に手厳しい。最近は親にまで嫌みを言われたりして居辛くなってきたところだった。
洋子はおそるおそる両親と里長に申し出た。すぐさまそれは護王に知らされ、『かおうしづめ』の前夜、洋子は護王に花王紋を確認されることになった。
里長の大西家に招かれて、奥まった座敷でじっと待たされた時間は、洋子が過ごした一番長い時間だったと思う。
「宇津目、綾、さん?」
「あ、はい」
障子をいきなり開けて入ってきた相手に、洋子はうろたえて平伏した。慣れない正座で足が痺れつつあったし、確認するとはどういうことなのか不安だったから、蛙がひしゃげたように両手をついて頭を下げた。
「そんなことせんでええのに」
冷ややかにさえ感じる声に顔をあげると、入ってきた護王がぴたりと前に座っていた。涼やかな視線は変わらずで、この五年をどう過ごしてきたのか、年月が通り過ぎてしまったように顔だちに変化がなかった。
「それで、どこに花王紋があるんやて?」
「あの、その…」
洋子はたじろぎ、うろたえた。いきなりブラウスの胸を開くのも何だか大胆すぎるような気がして、黙り込んでうつむいてしまう。五年前と変わらずきれいな護王を前に、小じわが目立ちだした自分の年齢を痛いほどに意識した。
「あのな、こっちもいろいろと忙しいねん」
溜息まじりにつぶやかれて、洋子は余計に焦った。顔をあげると、相手はうんざりした表情を隠しもしないで洋子を凝視している。
「あ、あの、ごめんなさい、そやから、その、ここに」
みるみる熱くなってくるのを振り切るように、ブラウスのボタンを外しかけると、ことさら大きい溜息を護王がついてどきりとした。
「なんや、あんたもか」
「え?」
「ええかげんにしてくれへんかな。色仕掛けはきかへんね」
嘲笑うように言い放たれて、洋子はぽかんとした。
「色、仕掛け?」
「まあ、年齢も年齢やし、焦るのわかるけど、俺は『姫さん』しか相手にせえへん。花王紋がないんやったら、どんな女も同じやねん。据え膳食う気もないし」
護王はうっすらと醒めた笑みを浮かべた。
「それとも何か、とりあえず、抱いてくれればええって口か?」
(年齢? 焦る? 据え膳? 抱いてくれれば…ええ?)
「!」
ふいに護王が何を言っているのかがわかって、洋子は血の気が引いた。
「あたしが……花王紋もないのに……あんたを……誘惑しにきた…って…?」
「誘惑ぅ? ひどい冗談やで」
くくくっと喉の奥で笑われた。
「まあ、いろいろと勘違いしてる女は仰山いるけどな、あんた程度の女が何やったって時間の無駄……」
ざう、と耳もとで風が唸るように血が沸いた。
桜の下で出逢ったあの日から、変わりもしない護王の見事な美貌、確かにそれは賞賛されてしかるべきものかもしれないけれど、だからといって洋子の生きざまが護王の何に劣ることがあるだろう。
人と比べて大人しいだの陰気だの、年頃になっても華の一つも宿せない地味な容貌、けれど、それでも精一杯生きてきた。姿形は生まれついて授けられたもの、それへの謂れない罵倒も胸に秘めた誇りで耐えて、命の限り生きてきた、その気概をあの桜は知っている。
それを今、大切にいとしんできたこの男が、口先だけで切り捨てる。
初めて感じた体が震える怒りだった。
「……あほちゃうん?」
ぼそっとつぶやいた洋子に護王は目を光らせた。
「あほ、やて?」
「うぬぼれんのもたいがいにしぃや」
「どういうことや」
問い返す護王にさっさとブラウスのボタンを外す。ぐいと引き降ろした胸元にブラジャーはつけていない。洋子の視界には入らないけど、護王の目には見えたはずだ、左の胸乳近くの真紅の痣が。
ぎょっとしたように目を見開いた護王が吸いつけられるように洋子の胸に目をやって、ごく、と唾を呑むのがわかった。
「それ……」
「これは花王紋なん、違うん、はっきり教えて」
護王を睨みつけるとぱらぱらと熱いものがはだけた胸にかかって、ようやく自分が泣いているのだと気がついた。残った片手でひとなぐりに涙を拭き取り、目に怒りを込めて相手を見る。
「あたしかって忙しいねん、やることもあんのん。そやけど、これが花王紋なんかどうなんか、見定められるのはあんただけなんやろ。もし、花王紋やったら、祭に関わる、そやから来ただけや」
(嘘や)
そんなことはない。洋子は護王に添いたくて、護王と一緒になれるかもしれないと思って、胸をときめかせながらやってきた。が、今となっては、その期待感さえも恥ずかしい。口に出せるものではない。
「さっさと見定めて」
できるだけ冷ややかに突き放した声を出した。
「それは……」
護王の瞳が不安定に揺れている。薄く染まった頬になおも血の色が集まっていって、桜を思わせる華やかさ、それがまた見愡れるほどにきれいな表情で洋子は思わず目を奪われて、次の瞬間絞られるような痛みを感じた。
(それでも、それは、あたしのものやない)
くやしいのか悲しいのか切ないのか、今はもうわからない。ただ、どこまでいっても自分ではどうにも役に立たないのだと思い知らされるばっかりで。
「それは……花王紋……や」
「わかった。ほなもうええやろ」
掠れた声で護王が応じて洋子は急いでブラウスをかき寄せた。ボタンをはめるのもそこそこに立ち上がって廊下に出ようとする。
「待って、待ってぇな」
「なんや」
急に手首を掴まれて引き止められ、洋子は振り返った。勢いに押されたように護王が怯むのに、重ねて命じる。
「手。放して」
「なんでや、放したら、出てく気やろ?」
「あたりまえやんか」
「そやけど、あんたには花王紋、あるやんか」
渇いた喉に無理に唾を呑み込むように、こくんと護王は喉を鳴らした。
「花王紋があるのは姫さんの徴…」
黒い瞳がゆらゆらと妖しく揺れる。ようやく見つけた相手を待って開き始めた花のように、潤んで洋子の瞳を誘う。声も掠れて甘みを宿し、部屋にふいにきつく樹の香りが漂い始める。
「そやのに、なんで出ていくんや…?」
「あんたがあほやからに決まってるやんか」
目の前で艶やかさを増す護王に気持ちを攫われそうになって、ことさら冷たく言い放った。
「あ……」
「そら、あたしは三十や、嫁き遅れで、もらってくれるあてもない、そやけど、あんたに嘘ついて迫るほど落ちぶれてへんね、さっさとその手ぇ放し、噛みつかれたいんか」
怒りを込めて見返すと、相手は顔を凍らせた。
「あんたが何で花王紋の女を探してるのかはわからへん。そやけど、紋を見ぃひんと見分け一つもつかへんもんを、ようも今まで探してこれたなあ」
「う……」
「確かにあたしには花王紋がある、そやけど、あんたに応じるかどうかは別問題や」
(嘘や)
胸の切ない嘆きを洋子はきりきり痛む気持ちで聞いた。
(幻でもごまかしでも、ほんまは護王の側にいたい)
それでも、いくら側にいても、護王の気持ちが洋子にないのははっきりした。護王は花王紋さえあればいい。花王紋がある女ならば、洋子でなくてもかまわない。
結局今までと同じなのだ。洋子を見るのではなく、花王紋を見て、花王紋に他の誰かを重ねている男。それは茜の姉としか見なかった男、茜に近づくために洋子を利用した男達と変わらない。
(護王もそうか、そうなんか)
くやしさに歯噛みする熱に燃やされ、苛立ちながら考える。
一番大事な愛しい人が自分を抱きながら他の女を夢想し続け、睦言一つも自分に与えてくれない。そんなことに耐え続けられる女がいったいどこにいるだろう。
(しょせん、ならぬ話、実らぬ夢……ああ、そうや)
自分はこれほどまでに護王が好きなのだと思い知った。
相手の心に他の女を棲まわせるため使われるぐらいなら、自分を突き落としてでも消し去ってしまいたい、それほど激しい想いなのだと。
「あたしは、あんたが、嫌いや」
洋子は吐き捨てた。
自分を裂くように言い捨てた。
「あんたの何もかもがうっとうしいねん。二度と顔も見とうない」
ぐいと首を背けて体を捻る。びくっと怯えたように震えた相手に、ことさらきつくことばを重ねる。
「安心しよし、もう里を出ていくし、会うこともあらへん」
言いながらそう気持ちを決めた。
一生一人で生きていこうと気持ちを決めた。
(やっぱりどうにも好きなんやなあ)
これほどないがしろに扱われて、これほど軽くあしらわれても。
(ほんまにあほや)
他の女に我を忘れる、男一人に心を奪われ。
「さっさと放し、言うてるやろ!」
苦笑を一気に険しい口調に切り替えた。
気迫に押されたように、護王は手の力を緩めた。急いで手を取り戻し、洋子が障子を引き開け廊下に出ようとした、その瞬間。
「……俺を……置いてくんか…?」
弱々しい頼りない声が響いて、思わず振り返ると、部屋の中央に真っ白な顔をして護王が立ち竦んでいた。だらりと両手を垂らしたまま、強ばった笑みを浮かべて続けて尋ねる。
「…また……置いてくんか……? 俺が……嫌いで……うっとうしい…し…?」
艶やかに潤んでいた瞳から一切生気が失せていた。
「護王?」
「そやから……中国で……消えてしもたんか…? 生きたか死んだかも……わからんように……? はなからずっと…そうやったんか…?」
奇妙な笑みが護王の薄い唇に滲むように広がった。
「…俺が……歳とらへんし……ばけもんやし……『姫さん』、ほんとはずっと……俺のこと、嫌いやったんや…?」
くす、と笑みは声になって零れた。くすくすくす……と異常に明るい笑い声、けれどそれはぞっとするほど虚ろなもので、思わず洋子は護王に向き直った。
「護王……?」
「そやのに……俺ずっと……姫さん追っかけて……なあ……今度は三十年もあいたんやで……? 偽もんの姫さんばっかりで……何度もそうかと思て……何度も違て……そうか……姫さん…俺のこと嫌いやったんや……そやし……いっつも俺を置いてくんや……」
うんうんと子どものようにうなずいて見せる。
「そやのに……おかし…なあ…? 俺……姫さんのこと…好きやねん」
笑顔を保ったままの護王が瞬きもしないまま唐突にぼろぼろと涙を零し始めてぎょっとする。
「俺……嫌われてんねんや…なあ……? そやのに……俺……納得でけへん……なんか……今でも……そんなことないやろて……そんなはずないて……思てる……おかし…なあ…?」
くしゃ、と額に垂れた髪の毛をひきむしるように掴んだ護王の手が震えている。
「俺…どうしよ……どうしたら……ええねん……? どうしたら…」
手だけではない、今にも座り込んでしまいそうに、がたがたと全身で震えている。瞳には紛れもなく恐怖が浮かんでいる。なのに、必死にこちらを見た顔が強ばったままの笑みを張りつけていて。
「もう……終わりなんか……? これで…最後なんか…? この先ずっと……独り…なんか…? そういうこと……なん……か…?」
(いかぬ)
ふいに自分の内側に不思議な声が響いたのを洋子は感じた。
(これはいけない)
声は哀れみを込めて繰り返す。
(助けるつもりであったのに……これではそなたを追い詰めるばかりか)
誰?
問いかけた自分の声にいきなり視界が幾重にも重なる映像で溢れる。
降りしきる桜。泣きじゃくる小さな子ども。臨終の床に泣き崩れる少年。ひんやりとした夏の川べりですがりつく姿。入り組んだ街を、村を、闇を、日射しの中を、洋子を探してひたすらに歩く護王の姿。
(よかれと思ってしたことなれど、我が転生はそなたを縛る鎖となった)
どうすればよいのだろう、と声と一緒に洋子は戸惑った。
このままでは護王は洋子に縛られて、未来永劫身動き取れない。洋子の転生を待ち望むだけに自分の一生を使い果たしてしまうのは火を見るよりも明らかで。
「姫…さん…」
洋子が部屋を出ていかないのに僅かに安心したのだろう、護王はそれでも震えながら手を伸ばしてきた。そのままそっと触れてくる、幻にでも近づくように。
その幻にさえ、縋るように。
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