『桜の護王』

segakiyui

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13.磐座(1)

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 石の床をすり抜けて洋子はどんどん深みに沈んでいった。
 始めは横たわっていたが、そのうち何者かの柔らかな手でゆっくりと向きを変えられて、地面の中心に向けて垂直に降りていく。足下でスカートがひらひらと動くのがわかる。血に塗れて固まっていたはずの髪の毛が耳の横でふわふわと舞い上がるのがわかる。
(どういうこと…なんだ…?)
 綾香に傷を深く抉られ、呼吸を奪われ、護王を裏切ることを命じられて拒み、ついには意識を失って命が尽きたはず、なのだ。
  だが、これではまるで、肉体から別の体が意識の手綱を解かれて地下へ引き降ろされていくようだ。
(いったい、どこへ…)
 そう洋子が問いかけたのに応じるように、足の真下にぽう、と微かな明かりが灯った。
 明かりというより、そこだけどこからか淡い光が差し込んで照らしている、そんな感じだ。
(あれは…)
 目を凝らして見つめているうちに、それは次第に大きくはっきりと見えてきた。
 鳥居、のようだ。
 ひどく古い、元の色が何色だったのかわからぬほど雨風にさらされて白々としてしまった木の鳥居が、暗闇にぽつんと浮かび上がっている。
 ひたすら降下を続けていた洋子は、やがてその手前にふわり、と降ろされた。やはり目に見えない手が支えているように衝撃がほとんどない。洋子がきちんと足を踏み締めるまでじっと背中を押さえていてくれるような気配がある。
 洋子はその手に頼りながら、足を二度三度と踏み変えてみた。薬を盛られて動かなくなっていた両足だったが、今は大丈夫、というか、この体では大丈夫というべきか。
 洋子の安定を確認すると、背中の温かな手はそっと促すように鳥居の方へ洋子を押した。
(中へ?)
 心のつぶやきは声のようにあたりに響いた。
 そっと鳥居の向こうを覗き込んでみると、その鳥居の立っているのは岬の突端のような場所、そこから細くだらだらとした道が鳥居を越えてゆっくりと下方へ繋がっている。だが、それもわずかに白く砂の道が見えるだけ、左右は無限の闇に落ち込んでいて、危うげに脆く見える道だ。
(どこへ…いけと…?)
 ひょっとしてこれが話に聞く地獄への入り口なのかもしれない。一瞬そう考えて怯んだ洋子の耳に、背後から悲鳴のような声が届いた。
「姫…さ……ん……っ!!!」

(護王?!)
 振り返った背後の闇に紅の修羅が広がっていた。
 おそらくは、桜里、だろう。
 白く炎のように風に嬲られながら立つ桜の樹、その前にあった篝火の能舞台は、宴でも行なわれていたのか、膳や皿や徳利が並んでいる。しかし、それらは蹴散らされ、割れ砕け、中身がばらまかれてひどいありさまだ。
 よくよくその宴席を見て、洋子はぞっとした。
 ばらまかれているのは小鉢や料理だけではない、そこここにべったりとした赤い液体が、そしてそれに塗れた人の手足がもぎ取られて放置されている。
 何者か、人知を越えた獣が非道の限りを尽くした、そういう光景だ。
 倒れた徳利の側に何かを掴むかのように指を曲げて硬直している手首が、転がった膳の影に首のない胴体が、小鉢に半端にねじ切られかけた足の指が数本、何かの拍子に、どん、と重い音がして、膳を倒しながら転がってきた生首が白目を剥いた状態でこちらへごろごろやってくるのに、洋子は思わず後じさりした。
(何が……)
「ひ…め……さあ…ん…っ」
 再び胸を掻きむしるように悲痛な声が響く。
(やぱり……護王……私を探している…あ!)
 そう気づいて洋子は息を呑んだ。
 この光景はひょっとして護王が荒れ狂った結果なのではないか、そう思ったのだ。
 人の体をまるで物のように引きむしってばらまいていくなどということは、確かに人間ができることでもないし、気持ちも耐えられないことだろうけど、もし、護王が洋子の死体を見つけてしまったとしたら、あるいはもう歯止めも何もきかなかったのかもしれない。護王が前につぶやいていたように、身内にいるという鬼に人の心も食い尽くされて、朱紅の瞳を光らせて猛り狂うだけになっているのかもしれない。
(護王…どこに)
 洋子のその焦りに呼応するように、闇の空間に浮かんだその世界がゆるやかに視点を動かしていった。
 点点と続く、などという生易しい血の量ではない。そこにもここにも死体が転がり、地面も樹も道も何もかもが飛び散りぶちまけられた様々な赤に染め上げられている。
 やがて、ゆっくりとカメラがズームインしていくように、見覚えのある家構えが見えてきた。
 里長の大西康隆の家だ。その正面の出入り口、真っ黒な人影がおめくような吠え声を上げながら、どおん、どおんと扉に体を叩きつけている。
「康隆ぁ…! 開けろ……開けろお…っっ!!」
 それは全身血に濡れた護王だった。細身の体が激しく震えている。黒いシャツはべたべたと肌に張りつき、よろめくような不安定な足下はどうしたのかと思えば、片足が妙な格好でねじ曲がっているのをかろうじて支えにしている。
(折れて…)
 洋子は眼を見開いた。よく見れば、護王も無傷ではない。というより、全身に無数の切り傷を負い、べたべたと張りついて、と見えたシャツは形をとどめていない布きれ状態、残りは自分の血かそれとも返り血か、赤黒く濡れそぼって上半身が染まっているのだ。
「このお、思いしれええっ!」
 護王が康隆の家に固執している隙にと思ったのだろうか、大声を上げた里人の一人が猟銃を構えて背後から迫った。
(危ないっ!)
 洋子の悲鳴が届いたのかどうか、寸前に身を翻しながら護王が打ち出された弾を避けた。どぐっ、と重い音を響かせて銃弾を浴びた扉の一画が砕ける。その間に折れた左足を気にもしていない様子で走りよった護王が猟銃に手を伸ばした。
「うわ、うわわっ…!」
 怯んだ相手が猟銃を手放すのを握りしめ、ためらいなく振り上げて相手の脳天に叩き降ろす。洋子が眼を背ける間さえなく頭蓋をへこませた男が崩れ落ちる。なおも護王はその倒れた体に猟銃を叩きつける。ばぐっ、と破裂音が響いて護王が声を上げて仰け反った。煙が上がり、護王の肩と腕を引き裂いて鮮血が迸る。だが、なおもその腕で護王は割れた銃の残骸を事切れているだろう男に叩きつけた。
「あぐう…っっ!」
 自ら激痛に声を上げてふっと遠く空を見た顔には朱紅の瞳、そこからとめどなく涙が零れている。
「…ひめ…さ…ん…」
 吐息でつぶやくと、すぐに護王は向きを変えた。さっきまで取り付いていた扉が銃声に外を伺おうとしたのだろうか、少しだけ開いたその隙間に、傷ついた左腕を突っ込む。うろたえた家人が思いきり扉を締めて、護王の腕が挟まれた。
「うああっ!」 
 声を上げて護王が崩れ落ちる。だが腕を挟まれているせいで宙づりになったまま膝も落とせない。一瞬意識を失ったように体を倒した護王が、必死に片足で体を保って扉を見上げた。涙と血に塗れた顔にひきつった凄絶な笑みを浮かべて、
「こんなことで……終わりにできると…思てんのか…?」
(あ、やだ!)
 洋子は護王が荒い呼吸を整えている理由に気づいてぎょっとした。
(だめ、護王……やめて…やめて!)
 叫び出しそうになった口を洋子が無意識に押さえたとたん、護王が顔を俯けた。
「…姫さん……俺…」
 小さくつぶやいた次の瞬間、自分の体を自分の右手で真横に引っ張っていくようにして力を込める。
「う……あ……ああ…あああ……ああああああっっ!!!」
(護王!!)
 叫ぶ洋子の目の前で、護王が扉に挟まれた自分の腕を自分で引きちぎっていく。絶叫しながら吹き出す血に染まりながら、聞くに耐えない音をたてて千切られていく自分の腕を汚れたものでもあるかのように、容赦なく扉から離れて足を踏み出す。やがて、ぶつっ、と腕が離れると勢いでよろめくようにたたらを踏み、堪え切れずに地面に転がった。
 傷みにも衝撃にも耐えかねたのだろう、しばらく動かなかったが、やがてのろのろと体を起こし、片手で這いずるように起き上がっていく。喘ぎながら見つめる先にはまだ康隆の家の扉、そこに挟まれた自分の腕とその千切れた断面にどこか切ない笑みが広がった。
「まだ…や…まだ……あかん…」
 つぶやく唇から真っ赤な糸が幾筋も這い降りる。
「まだ……死なへん…まだ……死ねへん……」
 蒼白な顔に血と涙が混ざりあって零れていく。
「まだ……あんたのとこへ……行けへん……なんでや……?…」
 へへ、と小さな笑い声が漏れた。
「なんで……死ねへん…? 俺が……悪いやつやからか……? ばけもんやからか……?」
 ゆらゆらと体を揺らせながら立ち上がった姿はまさしく死神、冥府の使いと言っても過言ではない。けれども、その顔はまるで幼子のようで。
「なんで……俺だけ……いっつも……姫さん……姫さん…姫……さん……っ…!」
 天を仰いで泣き叫ぶ声は空気を震わせ、人の心を打ち砕く。
「俺を……連れていってぇなああああ!!!」
(護王…!!)
 洋子も泣いていた。自分の名前を呼びながら血の地獄でのたうつ相手が悲しいやら愛おしいやら、しかも自分がその原因で。
 もう、我慢の限界。
 幽霊でも、たとえバケモノになってでも、護王の元に戻ろう。
 洋子が手を差し伸べてその空間に身を投げだそうとした矢先。
「お待ちなさい」
 静かな優しい声が遮った。

「こちらですよ」
 我に返った洋子が振り返ると、鳥居の向こうに小さな白い姿があった。
 こんなところにいるとはとても思えない、割烹着を着た白髪頭の背の低い老婆だ。
(でも……だめです、ほっとけません)
 洋子は首を振った。
 闇の舞台では護王が血を吐きながら、ぼろぼろと涙を零しながら、折れた片足を引きずり、見る見る新しい血に染まっていく体を運んでいる。呪文のように『姫さん』を呼びながら、倒れ、転がり、また立ち上がってなおも康隆の家に向かおうとしている。
「あれは……救えません」
 老婆は柔らかで悲しげに微笑んだ。
(でも……でも!)
 洋子は激しく首を振った。
(ほうっておけません!)
 護王の悲惨な状態にたじろいだ様子もない老婆を睨みつける。
(護王が鬼だからですか。ばけものだからですか。不死だからですか。そんなの、護王が選んだことじゃないでしょう!)
「選んだことなのですよ」
 老婆が静かに応じた。
「誰もみな、自分の運命は自分で選び取るのですよ」
(なら!)
 洋子は唇を噛みしめた後、言い返した。
(私も選びます。護王のところへ戻ります)
「また傷つきますよ」
(構いません、もっと強くなりますから)
「また傷つけられますよ」
(構いません、そんなことに負けません)
「いつも……」
 ふいと老婆は笑みを深めた。白い頬に刻まれた皺が深くなって、笑みが柔らかさを増す。
「そうやってわがままを言う」
 愛おしくてたまらないという微笑みに、ふっと我に返って洋子は瞬きした。
 老婆の姿はこんな暗闇でほのかに光を放っている。
(あの……ひょっとして…あなたはかみさまか何かですか? あ、えーと、でも、かみさまなら、こんな暗いところにはいないですよね?)
「……昔も同じことを聞きましたよ。あのときから、全く変わらないのですね。神であろうとなかろうと、護王の元へ戻ることができるのなら、何でも利用するつもりでしょ?」
 ほほ、と老婆は声をたてて笑った。
(昔…?)
「けれど、あれは救えないのですよ」
 老婆はついと闇舞台に眼をやった。
「なぜなら、もう起こってしまったことですからね」
(え……?)
 でも、私が今生き返れば、と言いかけて、洋子は相手の微妙なニュアンスに気づいた。
 ふいに、この場所へ降下しながら微かに意識の橋を掠めていった光景が思い出されてくる。薬でぼんやりしていた護王。村上がどこにいたのかわからないが、少なくとも宴の席に『姫さん』の肉体が供されたのは確かなことで……それで護王は我が身を傷つけながら荒れ狂っているのだ。
(もう……私は食べられ…ちゃったから…ですか)
 つぶやいてふる、と体が震えてしまった。
「そういう意味ではなくて」
 老婆は笑みを控えた。
「あれはもう……ずっと昔のこと……綾という『姫』が居たときのことですから」
(綾……?)
「あなたのようには居られなかった……たじろぎ怯み逃げてしまった『姫』…あの宴に供されたのはその『姫』の体なのですよ」
(じゃあ……)
「あそこにあるのは…」
 老婆はそっと舞台を見上げた。
「痛み傷ついて解けることがなくなった記憶のかけら。そして、あなたがここへやってきたのは」
 微笑を深めて洋子を見る。
「あのかけらを癒すためですから」
(癒す……?)
「あのかけらがあるがゆえに、この地は冒され汚され全てを痛みに追いやってしまう……そこにあの子も囚われて動けなくなっている。私のしたことは不十分なことでした」
 老婆の視線は舞台に据えられたまま、透明な光を放っている。
(でも……どうやって…?)
 相手の言うことの半分もわからなかったけれども、今悶え苦しんでいる護王の痛みをやはり見過ごすことはできない、と洋子は思った。
「さあ…それは……あなたが知っているでしょう」
 老婆は笑みを消した。どちらかというと厳しい顔で洋子を振り返る。
 ふいに、これは試験なのだ、と感じた。
 ここが地獄かそれとも違う世界なのか、あるいはまた夢なのかもわからない。けれども、もし洋子が綾香に屠られたまま死んでしまったならば護王がどうなってしまうかを、目の当たりに見せつけられた。
 それを防ぎたければ、起こってしまった悲劇を癒し、救えるはずのない過去を救えと言われているのだ。
「……ひめ…さん…」「ひめっ……さ…」「ひ…っ…く…うっ」
 背中から絶え間なく切れ切れに護王の泣き声と呻きが聞こえてくる。声は掠れて重く傷の深さを思わせる。
 人を癒すにはどうするのか。傷みを癒すにはどうするのか。
(そうか)
 降りていくのだ、まっすぐに。その傷みの根元まで。
 相手が直視できない傷の部分を見極め、次には寄り添いながら降りていく。耐えられる限度と気力とタイミングを計りながら。相手の中にある豊かな深い力が動くと信じて、その力を呼び起こしに行く。
(今は……)
「今は?」
(封じます……このままでは器も壊れてしまうから)
 洋子の答えに老婆はちかりと眼を光らせた。
(それから……降ります、もう一段、深く)
 洋子はまっすぐに老婆を見た。
(傷みの場所はここではない、もっと深いところです。そこまで降ります。降ろして下さいますよね?)
 老婆はしばらく無言だった。
 やがて、ほう、と深い息を吐き、
「またそんな無茶を言う」
 それから静かで強い視線を洋子に向けた。
「ここで終わりにしておけば、楽なのに」
(すみません)
 ふと笑いたくなった。相手が真剣に洋子の身を案じ、けれど自分が手を出せない部分であるがゆえに、自らの存在をかけて信頼してくれているのがわかったのだ。
(私、護王に惚れてるんです……好きな人が苦しむのを見たくないって、自然なことですよね?)
「…ひめ…さ…ん…」
 消えそうに微かな声で呼ばれて振り返る。
 紅の空間で、それでも康隆の家に入り込んだのだろう、護王は虚ろな顔で壁にもたれながら奥へ進んでいる。一歩、一歩、また次の一歩、体が沈み、意識を失ったかに見える。けれど、堪える、血まみれの唇を噛み締めたまま、ずるずると体を引きずりあげる。
「ひ……うっ」
 泣きながら息を引く悲鳴がもれる。
(では、よろしく)
 洋子は護王に向かって地面を蹴った。
「わかりました」
 背後の声に思いきり手を伸ばすと、ぐい、とあの手が背中を押した。指先がとぷりと目の前の空間に呑まれる。高密度のゼリーに入り込んでいくようだ。
 そのままゆっくりとぬめる壁から押し出されるように、洋子は康隆の家に入り込んだ。

「ひ……あ……あ…?」
 護王はすぐに洋子の姿に気がついた。大きく朱紅の眼を見開き、近づく洋子を凝視する。
「…ひめ……?」
 気力がそこで萎えたのだろう、必死に踏んばった体から力が抜けて、壁を伝って崩折れた。どさりと廊下の床に倒れた衝撃に呻き、血を吐きながら体を丸めて痛みに耐える。
 洋子は入り口の扉の辺りを振り返った。朱に塗れた護王の腕が転がっているのを見つけ、拾い上げる。いつか感じた温かなぬくもりがどこにもない、冷ややかに強ばった左腕をそっと抱きかかえて、倒れたまま息を喘がせながらこちらを見ている護王の側に戻る。
「…俺を……迎えに…来てくれたん…?…」
 掠れた声でつぶやいてねだるような淡い微笑を浮かべた護王は、洋子が腕を傍らに置き、自分のぐしゃぐしゃに捩じれた足の側に膝を落とすのにぎくりとした顔になった。
「…ひめさん……?」
 洋子は右手の指にあの見えない回復の糸を満たした。それを掌全部に広げながら、そろそろと傷んだ護王の足へ近付けていく。
「あ…」
 洋子の意図に気づいたように、護王が苦しげに顔を歪めて体を引きずった。
「…やや…」
 首を振る。朱紅の瞳が涙を滲ませ潤んで燃える。
「いやや……姫さん……っ!」
 洋子は無言でひたりと護王の左足に掌を当てた。体を硬直させた護王に構わずちりちりした感覚が掌から溢れ、護王の足へ、痛みの強いところへ吸い込まれるままに滑らせていく。足先から足首、ふくらはぎ、膝、大腿へ。そしてゆっくりと撫でおろし、もう一度溢れる波を送りながら、撫で上げていく。
「あ……ああ……」
 吐息を漏らした護王はそれでも痛みが薄らいでいくのがわかったのだろう、僅かに抵抗したものの後はじっと洋子の治癒を受け取っていた。ねじれていた足が元の位置に、傷が口を塞ぎ、凍りつくほど冷えていた下肢が指の光に包まれて、次第に温かみを取り戻していく。
 傷が癒されるに従って蕩けるような顔で洋子を見上げた護王だったが、次に洋子が引きちぎった左腕を取り上げるのには、はっきりと顔を強ばらせた。
「いやや……っ…もう、俺……姫さん…っ」
 固い声で拒むのにおかまいなしに洋子はもう一度右手に力を溜め直した。自分の一番深い部分にアクセスして回復と治癒の過程を思い出し、その流れを掌に覚え込ませていく。
 ちりちりと走っていた波が右の人さし指と中指を中心に次第にはっきりと大きく強く動き始め、やがてその指先から白く輝く光の糸のようなものになって滲み出した。光というよりはもっと物質のような、半透明にきらきら光る粘稠性のある液体のようにも見える。
「やめてぇ…な…頼むし……」
 それを目にした護王が見る見る顔を青くした。細かく身体を震わせ始める。
「いやや……俺…も…いやや……っ」
 その指先を千切れた左腕のささくれだった惨い断面にそっと滑らせて撫でると、断面は真珠の光に満ちて濡れたように光り始めた。続いて緊張を解かないまま、断面から数本の白銀の糸を引いて、指先を倒れている護王の骨と筋組織がねじられているような肩口に向けて伸ばしていく。
「俺を…殺して……なぁ……うっ……姫…さんっ……っっ」
 何とか光る糸と洋子の指先から逃れようとし、それでも無事な右側の手足を体の下に敷き込んだ状態ではうまく身動きできずに、懇願しながら護王は身悶えた。
「…っ…いかせてぇなぁ…っ……あんたと一緒に……っ…は…うっ…」
 また大粒の涙が汚れた頬に零れ落ちた。首を振り、息を荒げながら何とか右腕一本で体を起こそうとする、その努力も虚しく、震えながら髪を乱してもがくだけの相手に、初めて洋子は呼び掛けた。
(護王…)
 びくっと護王が動きを止めて振り返った。声に含まれた何かに気を取られて一瞬身体が無防備に開く。その瞬間、洋子は右手を護王の肩の傷に滑るように寄せた。
「ひめさ……あう…っ…! く……ぅ」
 光る指先を傷に押し当てられ撫で回されて、護王は悲鳴を上げた。眉をしかめて体を竦め、より激しく震え出す、その肩に洋子は指先の光を塗りつけた。光が肩に十分に行き渡ったのを確かめて、糸で繋がった千切れた左腕をゆっくりとその断面に押し付けていく。
「あ、ああっ……っ!」
 腕が傷に触れた瞬間、護王は転がったまま釣り上げられた魚のように仰け反った。痛みがあるのか、それとも別の感覚に襲われたのか、目を閉じて激しく首を振る護王の顔から涙が飛び散り、流れ落ちる。
「い…やや…あぁ…っ……姫……っ……あっ……ああああっっ!!」
 体を震わせ身もがく護王の肩と腕のつなぎ目を、光らせた右手で支えてなおも押さえつけ、洋子は回復の波を注ぎ続けた。
 波の激しい揺れが身体の奥にまで届くのか、たびたび護王が声を上げて体を跳ねさせる。その度ごとに腕の繋がりが緩くなる。体のあちこちに傷んだ部分があって、そこに回復の波が吸い込まれてしまい、腕にまで回らなくなるのだ。
「ひっ……うっ……くぅ…っ…は…あ…っ」
 新しい傷に波が触れるたびにもがき、泣きじゃくりながら息を荒げて逃れようとする護王の額から汗が次々と流れ落ちていく。
 回復は痛みなんだ。
 改めて、そう気づいた。
(護王……ぼろぼろ…だ)
 数百年の時を越えてきた体も心も、そこら中が傷つき破れ血を流している。手当もされず、労られることもなく、傷の上の傷が重ねられ、生半可な癒しでは届かない。
 唇を噛んで、痛々しい思いで、何度も右手に光の波を満たし、やり直した。
 やがて数十分はたったと思われるころ、上がっていた悲鳴も次第に弱まっていき、すがるように見ていた瞳も閉じられて、ただひたすら荒い呼吸に空気を貪る状態で、護王はようやく落ち着いてきた。
(護王……大丈夫…?)
 汗に塗れた乱れた髪の毛をそっとこめかみからかきあげる。うっすらと護王が眼を開く。一面朱紅色で瞳は見えないけれども、責めるような気配が満ちて、新しい涙が零れ落ちた。はっ、はっ、とまだ短く浅い呼吸の合間に、掠れた声で、
「なんで……殺して……くれへん……もう……俺…」
 目を閉じて眉をひそめ、囁くようにつぶやいて首を落とす。
「…限界……や…」
 ぐったりしてしまった護王の髪をそっと撫でる。反応しない相手に胸で応えを返した。
(もう一度、会う)
「…え…?」
 はっとしたように護王が目を開く。洋子はそっと微笑んだ。
 気のせいだろうか、紅の色が僅かに黒みを帯びたようだ。
(もう一度、必ず会う……私は護王に会うから)
「会う……俺と……? っん…」
 まだ喘いで整わない呼吸の護王に屈み込み、約束のように唇を合わせた。一瞬大きく目を見開いた護王が眉をひそめて顔を歪め、目を閉じる。幻なのか夢なのか、それともこれこそが現実なのか確かめようとでもするように、口を開き与えられた唇を食み吸い取ろうとする。応えて洋子も深く口を合わせて、それからそっと身を引いた。
「姫さん…?…」
 護王が開いた目は元の色に戻っていた。黒めがちの真っ黒に深い瞳、涙で潤んでたゆたう視線で洋子を見上げてくる。なぜ離れるのかと訝って呼び掛けてくる声も続きを求める妖しさに濡れている。
(それまで……あなたの記憶を封じるからね)
 つぶやいて、その瞬間に洋子は悟った。
(そうか…)
 護王の中途半端な記憶の消失は他ならぬ洋子が起こしたものだったのだ。
(だから…)
 護王がどうしてあれほど洋子が『姫さん』であるかどうかに固執したのか、そしてまた、なぜ洋子の治癒能力の発現に脅えたのか。今ならよくわかる。記憶を封じられた護王にとって、『治癒能力を備えた姫さん』の存在と『食べてしまった姫さん』の存在は同等、自分が引き起こした破滅の状況そのものだ。しかも、それを自分では認識できず、植え込まれた傷みと恐怖だけが蘇ってくるのだ。
「記憶を……封じる……?」
 あやふやな甘い声でつぶやいた護王は押し寄せてくる眠気に耐え切れなくなったように目を閉じた。強ばっていた体から見る見る力が抜けてくる。それでも必死に洋子の指を探し求めながら護王はつぶやいた。
「…俺……あんたに…会えるん…やな……?…」
(うん)
 洋子が指を与える。護王がそれを握りしめる。
「ぜ…たい…に…?……」
(うん、絶対に)
 始めは全く他人として。いや、むしろ敵として。けれど、少しずつ魅かれ合い、近づいては離れ、離れては近づいて、そうしていつかお互いの位置をお互いの熱で確認するような距離になって。
(だから……もう少しだけ、頑張って)
 この先護王を待っているのが二十年にも渡る孤独と彷徨であることを知っている。洋子と再び出逢うまで、何度も絶望し、後悔し混乱し傷つき続ける暮らしであることも。
 けれど今、洋子にできるのは、その彼方にある再会の約束でしかなくて。
(だから……会えるまで……死なないで)
 祈りを込めて囁いた。
 ふいに、閉じた護王の目からひどく澄んだ涙が流れた。
「待…てる……俺は………ずっと…あんたの……も…の……や…」
 触れれば消えてしまいそうな、ひどく儚い微笑が浮かぶ。す、と意識が遠のく気配、洋子の指を必死に握りしめていた護王の指が解け落ちる。寸前引き止めて、洋子は指に唇を寄せた。
(また……先に言われちゃったな)
 立ち上がる洋子の足元で、護王は無防備に両手足を投げ出して眠りに落ちた。側に跪き守りたい、気持ちをあえて切り離し、背後の空間に体を引く。

 一瞬で、洋子は闇の中、白い鳥居の前に戻っていた。
 目の前に浮かんだ空間では、倒れて眠りに落ちている護王に、何とか殺されずにすんだらしい康隆と路子がそろそろと近づいていくのが見える。蒼白な顔をした日高医師の姿もある。
「ひどいことになったな」
 脂汗を浮かべて康隆がつぶやいた。
「どうするんです、こんなばけもの」
 路子ががたがた震えながら吐き捨てる。
「里に物忘れの薬があった、あれを使いましょう」
 日高がきりきりした声でうなった。
「何度か繰り返して眠らせておいても、死にはしない……生かしておかねば、次の『姫さん』が手に入らないですからな。この騒ぎで……綾の体ももう区別がつかなくなってしまった。次の『姫さん』こそ、不死の謎を解く鍵になるはずだ」
「もうええやないですか、とにかく今回は食うたんやし」
「それで……」
 日高が冷ややかな視線を向ける。
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「なんちゅうことを」
 ぞっとした顔で康隆が日高を見た。
「先生、あんたとはもう、やっていけん」
「結構…しかし、お互いに他言は…」
「ああ、わかっとる。護王が物忘れの薬でどうにかなるか、そこまではあんたが責任持ってやってくれ。そのかわり、わしはあんたに次の『姫さん』の居場所が見つかり次第、教える、これでええやろ」
「よろしいでしょう」
 日高医師は冷たく笑った。
「護王の管理が終わり次第、私は里を出ます。この状況は……」
 皮肉っぽい口調で続ける。
「どうされるんですかな」
「熊が出た…とでも言い抜ける。生き残った者で後始末をしてからな」
「頑張ってください」
 康隆は唇を歪めて路子を従え、護王から離れて家を出ていった。しばらくして、
「誰かいるか!」
 大声で人を集める声が響く。
 残った日高医師は着ていた背広の内ポケットから銀色のケースを取り出した。かちりと音をさせて開くと、中の注射器を手に、護王に屈み込む。
「…う…」
 微かな声を漏らして護王が体を強ばらせるのを、日高医師は奇妙な微笑で見守っている。
(無事だと…わかってる)
 洋子は沸き上がる不安を堪えた。
(もう一度会えるとわかってる)
 だからどれほど危うげな状況でも、今はそこで心を揺らせてたじろいでいる場合ではない。洋子には洋子のしなくてはならないことがある、他の誰にもできないことが。
「お見事でしたね」
 背後から静かな声が呼び掛けていた。
(手始めだって、わかっていらっしゃるんでしょう)
 振り返ると、やはり鳥居の向こうで、割烹着の老婆が微笑みながらこちらを見ていた。
「ええ、そうです。けれども始めなくては終わりませんから……さあ、こちらへ」
 洋子はもう一度後ろを振り返った。
 力なく手足を垂らした護王が日高に抱えられて運び去られていく。
(待ってて)
 胸の中でつぶやいて、洋子は鳥居の中へ足を踏み入れた。
(きっとそこから解き放ってあげるから)
 
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