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13.磐座(2)
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かちん。
鳥居をくぐると、洋子の体の奥で三つ目のスイッチが入った音がした。
見えている光景がより現実味を増し、歩いている感覚も冷んやりとした空気の感触もはっきりした気がする。背後を振り返ってみたが、白い鳥居の向こうの闇舞台は消えたまま再開される気配はない。
「お願いしたいことがあります」
白く細い砂地の道がだらだらと下へ繋がっている。少し先に割烹着の老婆が居て、洋子を待つようにこちらを振り返っている。
「連れていってほしい子どもがいます」
(子ども…ですか)
「はい」
洋子は老婆に追いつくように足を速めた。
闇をゆるやかに降りるような白い道はやがて左右にぼんやりとした町並みを浮かばせた。
昭和の中ごろの農村……まだ古い民家が並び、道路は街から連なる大きなものだけが舗装されていて、洋子と老婆が歩く道は地道を砂利で平らに固めただけのもののようだ。
その民家の前に一人二人と子どもが立っている。ほとんど小学生より下、女の子はおかっぱか長い髪を垂らしていて、男の子は短髪か坊主頭だ。みんな道を行く洋子と老婆を物珍しそうに眺めているが、誰も一言も声をかけてこない。
(ここは……)
「いらっしゃい」
老婆が一軒のこじんまりした家の前で立ち止まった。
二階建ての青い瓦葺き、玄関はガラス格子の木の引き戸、家の前には小さな庭があり花が咲いているが、周囲の闇の中からぽかんと浮かび上がったその光景は妙にくすんで見えている。玄関から続く小道は茶色の門扉に繋がり、その門扉の一歩内側に一人の男の子が立っていて、老婆はその子どもに声をかけたのだ。
子どもはどきっとしたように身を竦めて門扉の柵を握りしめた。大きな二重の瞳、六、七歳というところか。年齢にしては細すぎる手足を白いTシャツと紺のショートパンツに包んでいる。足下はゴム草履、膝こぞうが妙に目立つ。そう言えば、この年代ならふっくらしているはずの頬もひどく痩けて肌も唇も乾いてそそけだっている。だから余計にその大きな目が不安そうにぎょろぎょろと見える。
「この方と行くのですよ」
老婆が振り返って、子どもはますます身を竦めて洋子を見上げた。まばゆそうに眉をひそめる仕草、表情にどこか覚えがある気がして顔をしかめると脅えた表情で後じさりした。
「大丈夫。さあ、出ていらっしゃい」
老婆が微笑んで促し、子どもは唇を噛んで俯いたが、やがて覚悟を決めたようにそろそろと門扉を内側へ開いた。とぼとぼと草履を引きずりながらやってくる、その体が小さく震えている。
(この子は…いったい?)
「道案内です」
老婆は振り向いて目を細めた。慈愛に満ちた、けれども引く気配のない強さを秘めて、
「この先、あなたが下に降りるのに助けになってくれるでしょう」
「シタに……おりるの?」
初めて子どもが口を開いた。体と同じように細く弱々しい声だったが、やはりどこか聞き覚えがあるような気がする。
(でも……いったい…どこで…?)
入院していた患者にこんな子は居ただろうか、と何気なく考えて洋子ははっとした。
自分はたぶん幽冥の境にいるのだ。ならば、そこの世界に居て、なお下に降りるのに道案内となるという子どもなら、やはり現世では命を失っている子どもではないのか。
改めて子どもの顔をまじまじと眺めたが、どうにも覚えがない。それに、このぐらいの年齢の子どもなら、たぶん小児科に入っていることだろう、そう気がついて確認を諦めた。
老婆が子どもを決めたことで安心したのか、いつの間にか周囲に子ども達がわらわらと寄ってくる。よくみれば、どの子どもも程度の差はあるものの痩せた細い手足をしていて、みなそれぞれに不安そうな瞳を向けてくる。中にはしっかりと老婆の割烹着を握るよちよち歩きの女の子も居て、それを老婆はひょいと見かけによらぬ素早さで抱き上げた。
「できますね?」
老婆はじっと命じた男の子を見つめた。
「はい……できます」
緊張した顔になって、男の子はこくんと唾を呑んだ。すうっと頬にわずかに赤みがさす。
「頑張ってきます」
「いってらっしゃい!」
ふいに集まってきた子ども達の中から思いつめたような声が上がった。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
「がんばってね」
その声の中で、男の子からそろそろと小さな手を差し出されて洋子は戸惑った。老婆を見ると相手はにこにこ笑ってうなずき、
「その子は下への道を知っています」
(あの…でも……ということは)
洋子はためらって男の子の手を取りかねたまま尋ね返した。
(この子を連れ帰らなくてはいけないわけですよね?)
「ええ、そうなりますね」
(でも、あの)
下に降りるとどんなことが待っているのかはわからなかったが、おそらくは護王があそこまで崩壊してしまう要因となった状況が再現されている可能性が大きかった。つまりそれは、ここよりも酷い修羅場であるかもしれないということだ。そんなところへ、こんなか細くて今にも倒れ崩れてしまいそうな子どもを連れていけるものなのだろうか。
「お願いです!」
洋子の逡巡を察したのだろうか、男の子は自ら洋子の手を取りしっかり握りしめて叫んだ。
「お願いです、どうかぼくを連れてって下さい」
窪んでいるからなおさら大きく見える目をなお見開いて懇願する。
「ぼくを連れてって下さい、絶対、絶対、役に立ちます、だから、どうか」
瞳が緩んだと見る間に涙が零れ落ちた。
「どうか、ぼくに償わせて下さい!」
(償う?)
洋子の驚きをよそに、男の子が口にしたことばはよほど重大なことだったのだろう、回りの子どもが同じようにひきつけて息を呑んだ。やがて、ある者は俯き、ある者は座り込み、ある者はしゃくりあげて泣き始めてしまう。
(あの…)
「お願い…どうか…ほんとにお願いですから」
男の子も泣き声をたてるまいとはしているのだろう、震える声で繰り返した。
「頑張りますから。二度とあなたを酷い目に合わせませんから」
(二度と…酷い目…?)
「!」
洋子の問いかけにまた男の子と周囲の子どもが凍りついて固まってしまった。
(私はあなたに出逢ったことがあるの?)
「あ…あの…あの…」
「時間がありませんよ」
じっと見守っていた老婆が低い声で遮った。ほっとしたように男の子が俯き、それでも離すまいとするかのようにぎゅ、と洋子の手を握る。
(あ……)
その手の握り方がふいに小さなあやこを思い出させた。短くて細い指で必死にすがりついてくる、その頼りなさ、愛おしさ。
(…わかりました)
洋子はつぶやいた。はっとしたように男の子が顔を上げる。
(この子をお引き受けします)
「あ…」
ぱあっといきなり光を浴びたように男の子は笑った。
「ありがとう、ありがとうございます!」
嬉しくてたまらないように洋子の手を握りしめる。残った片手でごしごし顔の涙を擦り取る、その男の子に回りの子どもも同じようにほっとした様子で「よかったな」「がんばれよ」と口々に声をかけている。うん、うん、とうなずいていた男の子は、続いた洋子のことばに再び顔を凍らせた。
(君、名前はなんていうの?)
「あ…ぼ、ぼく、名前…名前は…あの…」
「ときお、と呼んでやってくださいな」
老婆がまたそっと口を挟んだ。
「時の狭間に置き去られてしまったのですから」
(わかりました。ときお、くん、ね?)
「は、はい!」
ときお、と呼ばれた瞬間、男の子は大声で返事すると、その自分に驚いてしまったように目を見開いた。見る見る顔を赤くして嬉しそうに何度も繰り返す。
「ときお、ときお……ときお。……とき、お…」
(いい名前ね?)
洋子が覗き込むと大きくうなずき、またぼろぼろっと涙を零してしまって、急いでそれを手の甲で擦り取りながら、ぐいぐいと洋子の手を引っ張った。
「いきましょう、時間がないです」
(そういえば、さっきも時間がないって言われた…)
気になって、ときおに引っ張られるまま一歩踏み出した洋子が背後の老婆を振り返ろうとしたとき、一瞬視界が暗転し、別の光景が目の前に広がった。
洋子が行方不明になり、それに綾香が絡んでいると知って、護王と村上は大西康隆に事の真相を吐かせようと殺気立って乗り込んできた。
ところが、本来ならば二日目に行なわれるはずの『読み上げ』の準備が着々と整えられているばかりか、大西康隆、路子夫妻の姿がどこにもない。
ともかく手近の誰でもいい締め上げて、と苛立った護王が、『読み上げ』の予行演習なのだろうか、一室で太い男の声で響いたことばに硬直した。
「里の栄えをお願い申す!」
「!」
「大鷹くん?」
突然何かに貫かれでもしたように立ち竦んで身動きしなくなった護王に村上が声をかけた次の瞬間、
「う、あああああっ!!」
引き裂かれたような悲鳴を上げて護王は蹲った。真っ青になってがちがちと歯を鳴らし、目を固く閉じて体を抱え込んでいる。
「里から病が失せますように」
「よし、聞いた!」
掛け合いのように別の声が応じる、その声から逃れるように身を震わせて護王は両耳を掌で押さえ付けながら身悶えした。
「いやや……やめて……やめて…くれ…っ」
「おい、大鷹くん! 大鷹!」
村上が覗き込み呼びかける声が届いていない。焦点の定まらない目を見開きながら、吐き気が込み上げてきたのか、苦しげに喉を鳴らして前へ倒れ込むのを、村上はようやく抱きとめた。自分の体を深く守るように抱え込んで護王は全身で震えている。
「いやや……俺……っ もう…いやや…ぁ…っ」
掠れた声でつぶやきながら、今にも意識を失ってしまいそうだ。短く浅い呼吸が続く。
別室では掛け合いの声がまだ響き渡っている。
「里の実りが豊かでありますように」
「よし、聞いた!」
「里に力がありますように」
「よし、聞いた!」
「大鷹! しっかりしろっ! …洋子さんを助けに行くんじゃないのか!」
村上の腕の中に埋まり込むようにがたがたと震えていた護王が、洋子の名前に反応したのか震えを止めた。激しく荒い呼吸をつきながら、それでも緩やかに体を立て直してくる。のろのろと上げた顔が真っ白に色を失って、瞳が穿たれた穴のように虚ろだ。
「大丈夫か?」
ぎゅ、と苦しそうに眉を寄せ目を閉じて、込み上げた吐き気を逃したらしく、僅かに開いた口から護王は絞り出すようにことばを紡いだ。
「ああ……なんとか…おさまった…っ!」
「大鷹!」
村上の腕を押しながら立ち上がろうとして、揺れた体を支え損ねるように護王が倒れかけ、村上は慌ててまた震え出した相手の体を支えた。
「ほんとうに大丈夫か?」
「く……そぉ…ぐっ…ぅ」
呻いた護王の顔は真っ青だ。脂汗が額から髪を湿らせ張りつかせて滴り落ちている。今にも吐き戻しそうな表情で左手で口元を覆い、右手では自分の左肩を抱えている。歪んだ表情をなお悔しそうにしかめ、それでも堪え切れずに膝をつき、荒い呼吸に目を閉じながらうつむいた。
「どうしたんだ、いったい」
「俺が……聞きたい…っ」
はっ、はっ、と短く忙しい呼吸を繰り返しながら応じた。
「あれを……聞いたら……なんか…わけがわからんように……なって……」
「あれ? 『読み上げ』か?」
「ぐぅ…っ」
『読み上げ』のことばにまた喉の奥でうなって、護王は体を屈めた。より深く左肩を抱える。
「肩……肩が…っ」
「肩? 見たかぎりは何ともなっていないみたいだが」
村上は左肩に頭を乗せて倒れかかってくる護王を支えながら、血管が浮き出るほどに強く握りしめている護王の手の下を覗き込んだ.
「洋子さん、なのか?」
「姫…? ひっ…あ…あああっ」
「大鷹っ!」
姫と口にした途端、がくっ、と激しく護王の体が揺れた。悲鳴を上げて仰け反って倒れていくのを、必死に村上が引き止める。おさまらない激しい震えを力の限り抱きしめながら、
「大鷹っ! おいっ、どうしたっ! 大鷹っ!」
「わ…あ……あ……あああ…あああああっ!!」
「しっかりしろっ! 大た………ええい、くそっ、護王、護王!!」
叱咤するその叫びが涙を降り零しながら身悶えする護王の耳にようやく届いた。ひくっ、と強く息を引いて動きを止めた護王が、上を向いたまま、掠れた声で何かをつぶやいた。
「なにが…ごおう…や…」
「何……何だって?」
「村上…?」
「ああ」
「村上…おれ……」
ゆら、と護王が顔を戻して村上を凝視した。真っ黒な穴のように見えている瞳に何を見て取ったのか、ごく、と村上が唾を呑む。息を止めた拍子に噛み切ったのだろう、薄い唇に鮮血が滲んでいる。その赤い口から干涸びたような声が弱々しくこぼれる。
「おれ……姫さん……食ってもた……」
「何?」
護王の顔に凄惨な笑みが広がった。
「姫さんが……転生せぇへんの……当たり前や…」
笑った顔がくしゃくしゃと幼く歪む。
「俺が……護るはずの……おれが……食ったし…そやのに……おれ……姫さん恨んで…そんなん……当たり前やのに……当たり前…やったのに…っっ!」
顔を覆って号泣する。
「俺の……せいやったのにぃ…っ!!」
(護王!)
叫んで洋子は我に返った。
目の前に広がっていた視界が瞬きする間に消えて、心配そうに覗き込む『ときお』の顔だけが闇に浮かぶ。
「大丈夫ですか?」
(あ…あ…ごめん)
無意識に荒くなっていた呼吸を必死に整える。頭の中が混乱し過熱して体が震えている。
(どうして……どうして…?)
綾を食べてしまった記憶は封印したはずだ。実際に護王は洋子といるときには、ちらともそのことについて思い出した様子はなかった。
(なのに……どうして?)
どうして、今になって。
どうして、洋子が側に居ない、誤解をすぐに解いてやれない今このときに思い出してしまったのだろう。
「今…だから」
ときおがそっとつぶやいて洋子は振り向いた。
「今、あなたがいないから。『読み上げ』が行なわれていて……あなたがいないから」
(どういうこと?)
「日高、幸一郎が」
ときおは洋子の視線を避けながら、俯いてことばを続けた。
「護王を連れ去って、すぐに気づいたんです。何者かが護王の記憶を封じたって。そして、心身ともにずたずたになっていた彼を護り癒した存在があると。そして、それこそ護王の不死を司るものだと思った。もう一度護王は『姫さん』を探してくるだろう、その探し当てた『姫さん』を手に入れるときに、護王が邪魔をしてもらっては困る。だから、あの後打った薬で朦朧とした護王に、暗示をかけたんです。この先、もし、『読み上げ』が行なわれたときに、『姫さん』が『護王』の側にいなかったのなら、封じられた記憶が蘇る…と。そうすれば……彼は動けなくなる、罪悪感と恐怖で」
(そんな…)
洋子は唇を噛みしめた。
(じゃあ、私が記憶を封じたことは…逆に護王を追い詰めることになった…っていうこと…?)
ときおはどう答えたものか迷うように俯いたまま、微かに首をうなずかせた。
「記憶は封じられると結ばれて…解けない……そこに囚われて……人を傷めつけていくから…でも」
何かを決心したように顔を上げる。
「あのときはああするしかなかった。悪いのは…日高幸一郎です」
(でも…)
「いきましょう、記憶が戻ったのなら……なお急がないと」
ときおが手を引っ張るのに気づいてみると、いつの間にか鳥居の外に戻っていた。切り立った崖の突端、そこから先に進むようにときおは洋子の手を引っ張っている。
「護王は荒れ狂った自分ももう思い出している……二度同じことを繰り返させては人に戻れなくなる」
朱紅の血の涙を零していた護王の瞳を思い出して、洋子はひやりとした。ときおの引くまま足を進めたが、さすがに崖の端で立ち止まる。
(そこから…飛ぶの?)
「いえ」
ときおがに、と初めて年相応な笑みを広げた。
「落ちるんです」
(!)
思いもかけない強い力で引っ張られて、洋子は前へのめり、真っ暗な空間に飛び出した。
「ほんとうに大丈夫なのか?」
村上は不安そうに隣の護王を見た。
「何が」
「いや」
数分前にあれほど取り乱していたのはどこへやら、むしろ異常なほど淡々とした様子で護王は手当たり次第に康隆の家を、周囲を、洋子の姿を探して動き回っている。噛み切った唇には半乾きの血がこびりつき静かな殺気が満ちた表情に、里人達も無用な手向かいはしなかった。急に祭りの予定を変え、夜中近くなるのにそうそうに『読み上げ』を行うと大石の前へ移動し始めていたせいで、護王達に構わなかったということもある。
「妙だな、日程を変えるなんて、ここ百年なかったのに」
険しい顔で眉をしかめる護王の目許は涙の残りかうっすらと赤いが、その他は凍り付いたように無表情、まるでよくできたレプリカが動いているような錯覚さえ起こさせる。
あえていえば、気持ちも心も限界を振り切ってしまった、そんな感じだ。今の護王は何も感じない、何もためらわない、精密機械のように予定をこなしていくことしか考えていないようだ。
「見つからない。どこへやったんだ?」
洋子の行く末を案じているにはほど遠い、まるで忘れ物を探しているような口調に、村上は眉をひそめた。
「心配じゃないのか」
「心配だ、だから探してる」
「いや、そうじゃなくて」
「ごちゃごちゃ言わずに考えろ、村上」
冷静で醒めた目で見返されて村上はことばを失った。
「康隆が姫さんを拉致した。目的は何だ?」
「え?」
「記憶が蘇ってくれて幸いだ。あいつらは姫さんを不死の薬だと考えてるのがわかった。今度もまた食うために決まってる。だから遠くには連れ去っていない。手近のすぐに調理できるところに閉じ込めてるはずだ。姫さんは絶対この近くにいる」
「調理…」
自分の大事な人間の運命をあっさり口にした相手に思わず怒りが込み上げたのだろう、村上が険しい顔になる。
「酷いことを言うんだな」
「酷くない、事実だ。お前ならわかるはずだろ。妹を探してたとき、どんな気持ちだった」
「!」
護王が知っているとは思ってもいなかったのだろう、ぎょっとする村上を護王の表情のない目が見つめる。
「俺だって多少は調べたさ。お前が姫さんに妹を重ねてるぐらいのことはわかってる。姫さんはわかってなかったようだが。それにあれこれつまらない経験もある、戦争にも絡んでるしな。だから言うんだ、こういう状況下において、確かに大丈夫だと信じていたか」
言われて護王のことばがさっきまでの柔らかな口調でないのにようやく気づき、村上は無意識に背中を伸ばした。数分前までいた恋人の消失に怯えていた青年が消え、百戦錬磨の冷徹な軍人であるかのような振舞い、そこには村上を圧倒する権力のにおいを漂わせた男が現れている。
「信じて……」
「いたのか、生きていると?」
冷ややかに尋ねられて、村上は動揺した。押さえ付け塞がれていたものを無理矢理暴き立てられているような不愉快そうな顔で、護王を見返す。
「わかってるなら聞くな」
「俺はこれ以上、指一本だって姫さんを失う気はない、たとえ髪の毛一筋だって。だからこそ、時間が惜しい。この後のことなんか考えてない、それだけだ」
厳しい顔を背け歩き出す護王に急いで携帯を取り出し、村上は待機させていた仲間を呼び出した。桜里へ増援を要請し、里周囲の道路を封鎖するように指示する。
「君に日高を殺させるわけにはいかないからな」
「勝手にしろ…もう日高もどうでもいい」
護王は暗く吐いた。何かを思いついたように、足を大石の方へ向ける。
「どこへ行く気なんだ?」
「『かおうしづめ』は古い祭だ。その日程も手順も変えられることはない、神との約束だからな。それが変えられたということは、何かがあったからだ。祭の日程を変えてでもしなくてはならない何かがあったということになる。姫さんが」
一瞬ことばを切って無意識にだろう、左肩を抱えた護王がうめくような声を絞り出す。
「姫さんが早くに供される必要がでてきたからだ。なら、姫さんはあそこにいる」
「あそこ?」
「大石の裏から下に潜れるようになっていて、そこに岩屋がある……そこで、三日目の契りを交わす」
それ以上は耐えかねたのか、きりっと歯を鳴らして護王は走り出した。
(わ、あ、あ、あ……あ…え?)
凄まじい落下の合間、一瞬夢を見ているように視界を掠めた光景から、洋子は一気に暗闇の中へ引き戻された。
「大丈夫でしょう?」
ときおがにっこり笑って、自分と少年が片手を繋いだまま、下へ下へと透明なエレベーターに乗せられているように降りていっているのに気づく。
(あ…あ…ご、ごめんなさい、私、てっきり落ちてるのかと)
「ううん、あなたを連れて落ちることはできない……だって、あなたはとても軽いから」
(え?)
「ほら、見て」
言われてみれば、少年は洋子より沈みがちになっている。洋子も確かに降りてはいっているけれど、次第に速度が遅くなり、ともすれば少年の手を引っ張り上げ、逆に足先が浮かび上がってしまいそうなほど差がついてしまう。
(どうしてなんだろう)
「あなたは…光を貯えてるから。あなたの光で闇が退く…だからぼくも安全に降りられる…けれど、その光はとても軽いから、あなた一人ではここへは来れないんだよ」
(光?)
「うん、ほら」
ときおが示したのは握っている洋子の手、それは今やはっきりと白い蛍光を放ちつつあった。
「そうは見えないだろうけど、ここにはさっきの場所より重い闇が沈んでるの。あの街には入れないような闇が」
つぶやいたときおが微かに震えているのに気づいて、洋子はそっと相手を引き寄せた。訝るように見上げたときおの細い体をしっかり抱え込んでやる。
(君も怖いんだね?)
「う…うん…」
(なのに、来てくれたんだね?)
「だって……だって、仕方ないんだ、ここにはぼくもいる。もう一人のぼく、もっと重いぼくが……あ!」
頬をうっすら染めてはにかんだときおが突然鋭い叫びを上げた。全身を強ばらせ、身を竦めて一点を見る。
そこには小さなコンクリートの部屋とベッドが浮かび上がっていた。さっきの空中の闇舞台のような、けれどより限られた空間に、白衣の男が二人。覗き込む二人の前には白いベッドがあって、青白い顔で護王が眠っている。
(護王?)
「違う、違うよ、あれは……」
ときおが怯えたように洋子の腕の中へ自分の体を押し付けてきた。薄い胸が激しく鼓動している。
「どうして……? どうしてこんなとこにあるの?」
(ときお?)
「やだ、やだよう…ごめん…ごめんなさい、おとうさあん!」
悲鳴を上げて体をねじ込むようにときおは洋子にすがりついた。
(おとうさん?)
「きゃああああっ!」
(あ!)
突然、ときおが見えない手で攫われ洋子の腕から引き離されて、その部屋に投げ込まれた。慌ててコンクリートの部屋を凝視する。見ることで鎖が繋がったように、みるみる小部屋が目の前に迫ってくる。
「どうしようって言うんです、おとうさん!」
白衣の男の若い方が険しい顔でもう一人の男に詰め寄った。
「不死だなんて、馬鹿馬鹿しい!」
「行雄、お前にはわからんのだ」
答えたもう一人の男を見て、洋子はぎょっとした。それは日高幸一郎、綾を解体したあの医師だったのだ。
「お前はまだ四十だ、若い。体が衰えてくるということの本当の意味も怖さもわかっていない。だが、わしにはわかる…老いるということの恐ろしさ虚しさが、日々この身に堪えてくるのだ」
幸一郎は綾を殺したときより老けて見えた。外見がというのではなく、その口調や動きや気配が疲れ切って見えた。
「どれほどの知識と技術を貯えたとしても、なあ、行雄、いずれは消えるのだぞ。医学の最先端を極め、あらゆる病気の知識を集め、それでも人は老いていく。そして、それに伴って、櫛の歯が欠けるように、自分が崩れていくのがわかるのだ。あの戦争を生き延び耐え抜いたのに、わしはそれでも死んでいく。虚しくはないか、悲しくはないか。何のための努力だったのだ、何のための人生なのだ。どれだけ高く積み上げようと、それは所詮砂の山だ」
幸一郎は重苦しい溜息をつき、ベッドの護王を見やった。
「しかし、どうだ、この男は。一次大戦のとき、わしは三つだった。そのとき、こいつは既に少年だったはずだ。二次大戦のとき、わしは必死に戦火を生き延びたが、こいつがひどく若い将校の一人として軍部をうろついていたのを見たことがある。そして今もどうだ、どう見ても二十歳そこそこ、なのに、わしはもう、これほどに老いぼれた。こいつのように老化が緩やかであったなら、行雄、人はもっと発達し進化するぞ」
幸一郎はもう一度深く息をついた。
「確かに『かおうしづめ』の姫は食えた、だがな、わしはこの体でどれほど持つか待っていられるほどの時間はないのだ、大西のようにな。データからは老化が止まっているのがわかる。この先もっと生きられるかもしれん。そのためにはこいつと、こいつの探してくる姫が必要だ」
「おとうさん」
行雄、と呼ばれたのは日高貴司の父親なのだろう。疲れた声で相手のことばを遮った。
「僕にはうまく言えない、けれど、それは何か、どこかが間違っている」
「お前だって病人を治すじゃないか。死にかけている人間を助けるだろうが」
「でも、それは違う、違いますよ!」
行雄が激しく首を振る。
「他の命を横取りしていくわけじゃない」
「何が違う。お前だって牛を食い、大根を食う。水にだってバクテリアや微生物がいる。お前はその生命を食って生き延びている。同じことじゃないか。より優れたものが生き残り進化していけば、科学は進歩し、この世界はどんどん素晴らしくなる。戦争だって……」
掠れた声で幸一郎はつぶやいた。
「戦争だって経験者が生き残れば、何度も繰り返して起こらんはずだ。人類の愚行はあっという間に減る」
「とにかく…」
行雄は白衣を翻した。
「僕は彼をここに置いておくわけにはいかない。おとうさんが使ってる怪しげな薬草に関わるのも御免だ。今何世紀だと思ってるんですか? 二十世紀ですよ? 僕が生きている間にニ十一世紀がくる。そうなったら、老化防止の薬だってできるかもしれない。あなたの好きな科学の進歩で」
「しかし……わしには間に合わんのだ…」
「え…あっ!」
幸一郎の手が白衣のポケットから取り出したものを行雄に押し付けた。黒色の塊、一時スタンガンとして女性の護身用に流行ったものだ。ばちっと激しい音がして、行雄が仰け反り床に転がる。その行雄にゆっくりと屈み込んだ幸一郎は体を震わせている相手に、別のポケットから注射器を取り出した。使い捨ての注射器、針にはカバーがついているが、中には液体を吸い上げてある。それをごくごく無造作に、袖をまくり上げた行雄の腕に針先を差し込んで中の液体を注入する。数分待たぬ間に、がくっがくっ、と激しく痙攣し出した行雄を見ていた幸一郎は、やがてその目を部屋の隅、コンクリートの部屋のドアにそっと向けた。
「貴司」
ドアがびくっとしたように揺れる。
「貴司…こちらへ来なさい」
のろのろとドアが開いた。ときおが足を引きずるように部屋の中に入ってくる。
「今のを見ていたかい?」
ときおは真っ青な顔で人形のようにうなずいた。
「そうか。おとうさんはね、心臓発作で倒れてしまったよ」
「え……だって…」
「心臓発作だったんだよ!」
いきなり怒鳴られてときおは凍りついた。
「わかるね? 病気だったんだ。おじいちゃんのせいじゃない。病気は怖いなあ、急に起こるからね」
幸一郎はときおの顔を覗き込み両手でその肩を押さえつけようとした。得体の知れない化け物に襲われる、そんな表情でときおが竦みあがる、その間に洋子は割って入った。
(やめてください!)
「何だ、お前は」
ほっとしたようにときおが洋子の背後に回って隠れ、腰にしっかりしがみついてくる。幸一郎は突然洋子が現れたのにきょろきょろとドアを見たり、ベッドを振り返ったりしながら続けた。
「いったい、どこから来た」
(あなたはこの子のお父さんを殺したんですね)
言い放って洋子はぞっとした。
(日高先生の、お父さんを)
「日高せんせい? 先生はわしだ……その子を返しなさい、そのままでは困るのだ」
「暗示をかける気ですか、護王にしたように。わけのわからない記憶に罪悪感と恐怖を植え付けて」
「何」
ぎくっとしたように幸一郎が洋子を見つめた。
死にかけた魚のような目だった。大きく丸く見開かれて、けれど覇気も生気もない、ただどろどろとした重い執念のようなものが瞳の中に渦巻いているだけの。
「何が人類の進歩、何が老いることの恐ろしさ虚しさ、だって?」
その目が誰かを思わせる、どこかで見たことがある、思った瞬間に、背後のときおが小さく震えながら泣き声でつぶやいた。
「こ、ころされるんだ……ぼくもきっと……ころされるんだ……おじいちゃんが……ずっと生きてるなら…ぼくはいらない……子どもなんていらないから…っ!」
(子どもなんて、いらないから)
その気持ちがどこに誰に潜んでいたものか、ふいに思い出した。
(おとうさん……おかあさん…)
楽しみのために、洋子を信頼の秤にかけ、あやこを階段から突き落とした父親。居場所を確保するために、自分の子どもに加えられる暴力を無視し、起こっていないことにし続けた母親。
子どもがいらなかったのならそれでいい、さっさと手放してくれればよかったのだ。耐えられないのは、それでもなお、彼らが『子どもを必要としていた』ということだ。自分の気持ちを保つために、好き勝手に使い捨てられる『道具』としての子どもの存在が。
それは不死を願うこと、自分の衰えや老いに向かい合わないために『姫さん』の肉を喰らうという幸一郎の姿に、なぞったようにそっくりで。
激しい怒りが沸き上がった。
(あなた達は……子どもを喰らって生き延びようとしているのか!!)
ぐん、と自分の内側から光が溢れたような気がした。
(それでもやがては老いるんだぞ)
洋子のことばにもまた光が含まれていたように、幸一郎がまばゆげに顔をしかめて後じさりする。その隙に、洋子はときおを抱えてドアの外へ滑り出ていた。
「あ……待て…」
呼び止める声を背中に、闇の中へときおを抱えて沈んでいく。
(ばかだ……ばかだ…)
体を包む暗闇のねっとりとした重さを感じながら、洋子は泣いていた。
未来を紡ぐ種の道を断って、自分の生を長らえて、それでもやがては先細りに閉じていく命が終わりの時に心安らかに逝けるわけがなかろうに。
命は終わりながら始まっていく。全ての命が本能的にわかっていることを、人だけがどこかで見失ってしまった。
それを避けようとするならば、永遠に生き続け貪り続けるしかない。最後の一人になるまで互いを食い合うしかない。そして最後の一人になったからこそ誰にも見取られず、飢えに苦しんで死ぬしかない。
魂という体の飢えに。
もっとくれもっとよこせと、たった一人でおめき叫びながら、何に餓えているのかさえもわからなくなりながら。
それを誰よりも知っているのは、それこそ、そこに眠っている護王だろうに。
(護王がどれほど一人で、どれほど孤独だったのか、何にも知らないくせに)
自分の腕を引きちぎり、血の海に狂ってもまだ死にきれずに、のたうち悲鳴を上げる、そんな果てしない苦行と絶望の不老不死を望むとは。
「え…っ…ううっ」
胸でときおもまた泣きじゃくっている。
愛されなかった子ども。命として大事にされなかった子ども。
人として扱われなかった子ども。
(あなたは……日高先生だったんだね)
「ふええっ…え…えっ」
囁きかけると堪えかねたように子どもは声を高くした。
(記憶に封じられ、時の狭間に置き去られて、あの街で私を待ってたの…?)
ぎゅ、とときおは洋子にしがみついた。
それは甘く懐かしい感触だった。
(迎えに来るのが遅れてごめんね)
おねぃちゃん。
そう呼ぶ声が、聞こえた。
鳥居をくぐると、洋子の体の奥で三つ目のスイッチが入った音がした。
見えている光景がより現実味を増し、歩いている感覚も冷んやりとした空気の感触もはっきりした気がする。背後を振り返ってみたが、白い鳥居の向こうの闇舞台は消えたまま再開される気配はない。
「お願いしたいことがあります」
白く細い砂地の道がだらだらと下へ繋がっている。少し先に割烹着の老婆が居て、洋子を待つようにこちらを振り返っている。
「連れていってほしい子どもがいます」
(子ども…ですか)
「はい」
洋子は老婆に追いつくように足を速めた。
闇をゆるやかに降りるような白い道はやがて左右にぼんやりとした町並みを浮かばせた。
昭和の中ごろの農村……まだ古い民家が並び、道路は街から連なる大きなものだけが舗装されていて、洋子と老婆が歩く道は地道を砂利で平らに固めただけのもののようだ。
その民家の前に一人二人と子どもが立っている。ほとんど小学生より下、女の子はおかっぱか長い髪を垂らしていて、男の子は短髪か坊主頭だ。みんな道を行く洋子と老婆を物珍しそうに眺めているが、誰も一言も声をかけてこない。
(ここは……)
「いらっしゃい」
老婆が一軒のこじんまりした家の前で立ち止まった。
二階建ての青い瓦葺き、玄関はガラス格子の木の引き戸、家の前には小さな庭があり花が咲いているが、周囲の闇の中からぽかんと浮かび上がったその光景は妙にくすんで見えている。玄関から続く小道は茶色の門扉に繋がり、その門扉の一歩内側に一人の男の子が立っていて、老婆はその子どもに声をかけたのだ。
子どもはどきっとしたように身を竦めて門扉の柵を握りしめた。大きな二重の瞳、六、七歳というところか。年齢にしては細すぎる手足を白いTシャツと紺のショートパンツに包んでいる。足下はゴム草履、膝こぞうが妙に目立つ。そう言えば、この年代ならふっくらしているはずの頬もひどく痩けて肌も唇も乾いてそそけだっている。だから余計にその大きな目が不安そうにぎょろぎょろと見える。
「この方と行くのですよ」
老婆が振り返って、子どもはますます身を竦めて洋子を見上げた。まばゆそうに眉をひそめる仕草、表情にどこか覚えがある気がして顔をしかめると脅えた表情で後じさりした。
「大丈夫。さあ、出ていらっしゃい」
老婆が微笑んで促し、子どもは唇を噛んで俯いたが、やがて覚悟を決めたようにそろそろと門扉を内側へ開いた。とぼとぼと草履を引きずりながらやってくる、その体が小さく震えている。
(この子は…いったい?)
「道案内です」
老婆は振り向いて目を細めた。慈愛に満ちた、けれども引く気配のない強さを秘めて、
「この先、あなたが下に降りるのに助けになってくれるでしょう」
「シタに……おりるの?」
初めて子どもが口を開いた。体と同じように細く弱々しい声だったが、やはりどこか聞き覚えがあるような気がする。
(でも……いったい…どこで…?)
入院していた患者にこんな子は居ただろうか、と何気なく考えて洋子ははっとした。
自分はたぶん幽冥の境にいるのだ。ならば、そこの世界に居て、なお下に降りるのに道案内となるという子どもなら、やはり現世では命を失っている子どもではないのか。
改めて子どもの顔をまじまじと眺めたが、どうにも覚えがない。それに、このぐらいの年齢の子どもなら、たぶん小児科に入っていることだろう、そう気がついて確認を諦めた。
老婆が子どもを決めたことで安心したのか、いつの間にか周囲に子ども達がわらわらと寄ってくる。よくみれば、どの子どもも程度の差はあるものの痩せた細い手足をしていて、みなそれぞれに不安そうな瞳を向けてくる。中にはしっかりと老婆の割烹着を握るよちよち歩きの女の子も居て、それを老婆はひょいと見かけによらぬ素早さで抱き上げた。
「できますね?」
老婆はじっと命じた男の子を見つめた。
「はい……できます」
緊張した顔になって、男の子はこくんと唾を呑んだ。すうっと頬にわずかに赤みがさす。
「頑張ってきます」
「いってらっしゃい!」
ふいに集まってきた子ども達の中から思いつめたような声が上がった。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
「がんばってね」
その声の中で、男の子からそろそろと小さな手を差し出されて洋子は戸惑った。老婆を見ると相手はにこにこ笑ってうなずき、
「その子は下への道を知っています」
(あの…でも……ということは)
洋子はためらって男の子の手を取りかねたまま尋ね返した。
(この子を連れ帰らなくてはいけないわけですよね?)
「ええ、そうなりますね」
(でも、あの)
下に降りるとどんなことが待っているのかはわからなかったが、おそらくは護王があそこまで崩壊してしまう要因となった状況が再現されている可能性が大きかった。つまりそれは、ここよりも酷い修羅場であるかもしれないということだ。そんなところへ、こんなか細くて今にも倒れ崩れてしまいそうな子どもを連れていけるものなのだろうか。
「お願いです!」
洋子の逡巡を察したのだろうか、男の子は自ら洋子の手を取りしっかり握りしめて叫んだ。
「お願いです、どうかぼくを連れてって下さい」
窪んでいるからなおさら大きく見える目をなお見開いて懇願する。
「ぼくを連れてって下さい、絶対、絶対、役に立ちます、だから、どうか」
瞳が緩んだと見る間に涙が零れ落ちた。
「どうか、ぼくに償わせて下さい!」
(償う?)
洋子の驚きをよそに、男の子が口にしたことばはよほど重大なことだったのだろう、回りの子どもが同じようにひきつけて息を呑んだ。やがて、ある者は俯き、ある者は座り込み、ある者はしゃくりあげて泣き始めてしまう。
(あの…)
「お願い…どうか…ほんとにお願いですから」
男の子も泣き声をたてるまいとはしているのだろう、震える声で繰り返した。
「頑張りますから。二度とあなたを酷い目に合わせませんから」
(二度と…酷い目…?)
「!」
洋子の問いかけにまた男の子と周囲の子どもが凍りついて固まってしまった。
(私はあなたに出逢ったことがあるの?)
「あ…あの…あの…」
「時間がありませんよ」
じっと見守っていた老婆が低い声で遮った。ほっとしたように男の子が俯き、それでも離すまいとするかのようにぎゅ、と洋子の手を握る。
(あ……)
その手の握り方がふいに小さなあやこを思い出させた。短くて細い指で必死にすがりついてくる、その頼りなさ、愛おしさ。
(…わかりました)
洋子はつぶやいた。はっとしたように男の子が顔を上げる。
(この子をお引き受けします)
「あ…」
ぱあっといきなり光を浴びたように男の子は笑った。
「ありがとう、ありがとうございます!」
嬉しくてたまらないように洋子の手を握りしめる。残った片手でごしごし顔の涙を擦り取る、その男の子に回りの子どもも同じようにほっとした様子で「よかったな」「がんばれよ」と口々に声をかけている。うん、うん、とうなずいていた男の子は、続いた洋子のことばに再び顔を凍らせた。
(君、名前はなんていうの?)
「あ…ぼ、ぼく、名前…名前は…あの…」
「ときお、と呼んでやってくださいな」
老婆がまたそっと口を挟んだ。
「時の狭間に置き去られてしまったのですから」
(わかりました。ときお、くん、ね?)
「は、はい!」
ときお、と呼ばれた瞬間、男の子は大声で返事すると、その自分に驚いてしまったように目を見開いた。見る見る顔を赤くして嬉しそうに何度も繰り返す。
「ときお、ときお……ときお。……とき、お…」
(いい名前ね?)
洋子が覗き込むと大きくうなずき、またぼろぼろっと涙を零してしまって、急いでそれを手の甲で擦り取りながら、ぐいぐいと洋子の手を引っ張った。
「いきましょう、時間がないです」
(そういえば、さっきも時間がないって言われた…)
気になって、ときおに引っ張られるまま一歩踏み出した洋子が背後の老婆を振り返ろうとしたとき、一瞬視界が暗転し、別の光景が目の前に広がった。
洋子が行方不明になり、それに綾香が絡んでいると知って、護王と村上は大西康隆に事の真相を吐かせようと殺気立って乗り込んできた。
ところが、本来ならば二日目に行なわれるはずの『読み上げ』の準備が着々と整えられているばかりか、大西康隆、路子夫妻の姿がどこにもない。
ともかく手近の誰でもいい締め上げて、と苛立った護王が、『読み上げ』の予行演習なのだろうか、一室で太い男の声で響いたことばに硬直した。
「里の栄えをお願い申す!」
「!」
「大鷹くん?」
突然何かに貫かれでもしたように立ち竦んで身動きしなくなった護王に村上が声をかけた次の瞬間、
「う、あああああっ!!」
引き裂かれたような悲鳴を上げて護王は蹲った。真っ青になってがちがちと歯を鳴らし、目を固く閉じて体を抱え込んでいる。
「里から病が失せますように」
「よし、聞いた!」
掛け合いのように別の声が応じる、その声から逃れるように身を震わせて護王は両耳を掌で押さえ付けながら身悶えした。
「いやや……やめて……やめて…くれ…っ」
「おい、大鷹くん! 大鷹!」
村上が覗き込み呼びかける声が届いていない。焦点の定まらない目を見開きながら、吐き気が込み上げてきたのか、苦しげに喉を鳴らして前へ倒れ込むのを、村上はようやく抱きとめた。自分の体を深く守るように抱え込んで護王は全身で震えている。
「いやや……俺……っ もう…いやや…ぁ…っ」
掠れた声でつぶやきながら、今にも意識を失ってしまいそうだ。短く浅い呼吸が続く。
別室では掛け合いの声がまだ響き渡っている。
「里の実りが豊かでありますように」
「よし、聞いた!」
「里に力がありますように」
「よし、聞いた!」
「大鷹! しっかりしろっ! …洋子さんを助けに行くんじゃないのか!」
村上の腕の中に埋まり込むようにがたがたと震えていた護王が、洋子の名前に反応したのか震えを止めた。激しく荒い呼吸をつきながら、それでも緩やかに体を立て直してくる。のろのろと上げた顔が真っ白に色を失って、瞳が穿たれた穴のように虚ろだ。
「大丈夫か?」
ぎゅ、と苦しそうに眉を寄せ目を閉じて、込み上げた吐き気を逃したらしく、僅かに開いた口から護王は絞り出すようにことばを紡いだ。
「ああ……なんとか…おさまった…っ!」
「大鷹!」
村上の腕を押しながら立ち上がろうとして、揺れた体を支え損ねるように護王が倒れかけ、村上は慌ててまた震え出した相手の体を支えた。
「ほんとうに大丈夫か?」
「く……そぉ…ぐっ…ぅ」
呻いた護王の顔は真っ青だ。脂汗が額から髪を湿らせ張りつかせて滴り落ちている。今にも吐き戻しそうな表情で左手で口元を覆い、右手では自分の左肩を抱えている。歪んだ表情をなお悔しそうにしかめ、それでも堪え切れずに膝をつき、荒い呼吸に目を閉じながらうつむいた。
「どうしたんだ、いったい」
「俺が……聞きたい…っ」
はっ、はっ、と短く忙しい呼吸を繰り返しながら応じた。
「あれを……聞いたら……なんか…わけがわからんように……なって……」
「あれ? 『読み上げ』か?」
「ぐぅ…っ」
『読み上げ』のことばにまた喉の奥でうなって、護王は体を屈めた。より深く左肩を抱える。
「肩……肩が…っ」
「肩? 見たかぎりは何ともなっていないみたいだが」
村上は左肩に頭を乗せて倒れかかってくる護王を支えながら、血管が浮き出るほどに強く握りしめている護王の手の下を覗き込んだ.
「洋子さん、なのか?」
「姫…? ひっ…あ…あああっ」
「大鷹っ!」
姫と口にした途端、がくっ、と激しく護王の体が揺れた。悲鳴を上げて仰け反って倒れていくのを、必死に村上が引き止める。おさまらない激しい震えを力の限り抱きしめながら、
「大鷹っ! おいっ、どうしたっ! 大鷹っ!」
「わ…あ……あ……あああ…あああああっ!!」
「しっかりしろっ! 大た………ええい、くそっ、護王、護王!!」
叱咤するその叫びが涙を降り零しながら身悶えする護王の耳にようやく届いた。ひくっ、と強く息を引いて動きを止めた護王が、上を向いたまま、掠れた声で何かをつぶやいた。
「なにが…ごおう…や…」
「何……何だって?」
「村上…?」
「ああ」
「村上…おれ……」
ゆら、と護王が顔を戻して村上を凝視した。真っ黒な穴のように見えている瞳に何を見て取ったのか、ごく、と村上が唾を呑む。息を止めた拍子に噛み切ったのだろう、薄い唇に鮮血が滲んでいる。その赤い口から干涸びたような声が弱々しくこぼれる。
「おれ……姫さん……食ってもた……」
「何?」
護王の顔に凄惨な笑みが広がった。
「姫さんが……転生せぇへんの……当たり前や…」
笑った顔がくしゃくしゃと幼く歪む。
「俺が……護るはずの……おれが……食ったし…そやのに……おれ……姫さん恨んで…そんなん……当たり前やのに……当たり前…やったのに…っっ!」
顔を覆って号泣する。
「俺の……せいやったのにぃ…っ!!」
(護王!)
叫んで洋子は我に返った。
目の前に広がっていた視界が瞬きする間に消えて、心配そうに覗き込む『ときお』の顔だけが闇に浮かぶ。
「大丈夫ですか?」
(あ…あ…ごめん)
無意識に荒くなっていた呼吸を必死に整える。頭の中が混乱し過熱して体が震えている。
(どうして……どうして…?)
綾を食べてしまった記憶は封印したはずだ。実際に護王は洋子といるときには、ちらともそのことについて思い出した様子はなかった。
(なのに……どうして?)
どうして、今になって。
どうして、洋子が側に居ない、誤解をすぐに解いてやれない今このときに思い出してしまったのだろう。
「今…だから」
ときおがそっとつぶやいて洋子は振り向いた。
「今、あなたがいないから。『読み上げ』が行なわれていて……あなたがいないから」
(どういうこと?)
「日高、幸一郎が」
ときおは洋子の視線を避けながら、俯いてことばを続けた。
「護王を連れ去って、すぐに気づいたんです。何者かが護王の記憶を封じたって。そして、心身ともにずたずたになっていた彼を護り癒した存在があると。そして、それこそ護王の不死を司るものだと思った。もう一度護王は『姫さん』を探してくるだろう、その探し当てた『姫さん』を手に入れるときに、護王が邪魔をしてもらっては困る。だから、あの後打った薬で朦朧とした護王に、暗示をかけたんです。この先、もし、『読み上げ』が行なわれたときに、『姫さん』が『護王』の側にいなかったのなら、封じられた記憶が蘇る…と。そうすれば……彼は動けなくなる、罪悪感と恐怖で」
(そんな…)
洋子は唇を噛みしめた。
(じゃあ、私が記憶を封じたことは…逆に護王を追い詰めることになった…っていうこと…?)
ときおはどう答えたものか迷うように俯いたまま、微かに首をうなずかせた。
「記憶は封じられると結ばれて…解けない……そこに囚われて……人を傷めつけていくから…でも」
何かを決心したように顔を上げる。
「あのときはああするしかなかった。悪いのは…日高幸一郎です」
(でも…)
「いきましょう、記憶が戻ったのなら……なお急がないと」
ときおが手を引っ張るのに気づいてみると、いつの間にか鳥居の外に戻っていた。切り立った崖の突端、そこから先に進むようにときおは洋子の手を引っ張っている。
「護王は荒れ狂った自分ももう思い出している……二度同じことを繰り返させては人に戻れなくなる」
朱紅の血の涙を零していた護王の瞳を思い出して、洋子はひやりとした。ときおの引くまま足を進めたが、さすがに崖の端で立ち止まる。
(そこから…飛ぶの?)
「いえ」
ときおがに、と初めて年相応な笑みを広げた。
「落ちるんです」
(!)
思いもかけない強い力で引っ張られて、洋子は前へのめり、真っ暗な空間に飛び出した。
「ほんとうに大丈夫なのか?」
村上は不安そうに隣の護王を見た。
「何が」
「いや」
数分前にあれほど取り乱していたのはどこへやら、むしろ異常なほど淡々とした様子で護王は手当たり次第に康隆の家を、周囲を、洋子の姿を探して動き回っている。噛み切った唇には半乾きの血がこびりつき静かな殺気が満ちた表情に、里人達も無用な手向かいはしなかった。急に祭りの予定を変え、夜中近くなるのにそうそうに『読み上げ』を行うと大石の前へ移動し始めていたせいで、護王達に構わなかったということもある。
「妙だな、日程を変えるなんて、ここ百年なかったのに」
険しい顔で眉をしかめる護王の目許は涙の残りかうっすらと赤いが、その他は凍り付いたように無表情、まるでよくできたレプリカが動いているような錯覚さえ起こさせる。
あえていえば、気持ちも心も限界を振り切ってしまった、そんな感じだ。今の護王は何も感じない、何もためらわない、精密機械のように予定をこなしていくことしか考えていないようだ。
「見つからない。どこへやったんだ?」
洋子の行く末を案じているにはほど遠い、まるで忘れ物を探しているような口調に、村上は眉をひそめた。
「心配じゃないのか」
「心配だ、だから探してる」
「いや、そうじゃなくて」
「ごちゃごちゃ言わずに考えろ、村上」
冷静で醒めた目で見返されて村上はことばを失った。
「康隆が姫さんを拉致した。目的は何だ?」
「え?」
「記憶が蘇ってくれて幸いだ。あいつらは姫さんを不死の薬だと考えてるのがわかった。今度もまた食うために決まってる。だから遠くには連れ去っていない。手近のすぐに調理できるところに閉じ込めてるはずだ。姫さんは絶対この近くにいる」
「調理…」
自分の大事な人間の運命をあっさり口にした相手に思わず怒りが込み上げたのだろう、村上が険しい顔になる。
「酷いことを言うんだな」
「酷くない、事実だ。お前ならわかるはずだろ。妹を探してたとき、どんな気持ちだった」
「!」
護王が知っているとは思ってもいなかったのだろう、ぎょっとする村上を護王の表情のない目が見つめる。
「俺だって多少は調べたさ。お前が姫さんに妹を重ねてるぐらいのことはわかってる。姫さんはわかってなかったようだが。それにあれこれつまらない経験もある、戦争にも絡んでるしな。だから言うんだ、こういう状況下において、確かに大丈夫だと信じていたか」
言われて護王のことばがさっきまでの柔らかな口調でないのにようやく気づき、村上は無意識に背中を伸ばした。数分前までいた恋人の消失に怯えていた青年が消え、百戦錬磨の冷徹な軍人であるかのような振舞い、そこには村上を圧倒する権力のにおいを漂わせた男が現れている。
「信じて……」
「いたのか、生きていると?」
冷ややかに尋ねられて、村上は動揺した。押さえ付け塞がれていたものを無理矢理暴き立てられているような不愉快そうな顔で、護王を見返す。
「わかってるなら聞くな」
「俺はこれ以上、指一本だって姫さんを失う気はない、たとえ髪の毛一筋だって。だからこそ、時間が惜しい。この後のことなんか考えてない、それだけだ」
厳しい顔を背け歩き出す護王に急いで携帯を取り出し、村上は待機させていた仲間を呼び出した。桜里へ増援を要請し、里周囲の道路を封鎖するように指示する。
「君に日高を殺させるわけにはいかないからな」
「勝手にしろ…もう日高もどうでもいい」
護王は暗く吐いた。何かを思いついたように、足を大石の方へ向ける。
「どこへ行く気なんだ?」
「『かおうしづめ』は古い祭だ。その日程も手順も変えられることはない、神との約束だからな。それが変えられたということは、何かがあったからだ。祭の日程を変えてでもしなくてはならない何かがあったということになる。姫さんが」
一瞬ことばを切って無意識にだろう、左肩を抱えた護王がうめくような声を絞り出す。
「姫さんが早くに供される必要がでてきたからだ。なら、姫さんはあそこにいる」
「あそこ?」
「大石の裏から下に潜れるようになっていて、そこに岩屋がある……そこで、三日目の契りを交わす」
それ以上は耐えかねたのか、きりっと歯を鳴らして護王は走り出した。
(わ、あ、あ、あ……あ…え?)
凄まじい落下の合間、一瞬夢を見ているように視界を掠めた光景から、洋子は一気に暗闇の中へ引き戻された。
「大丈夫でしょう?」
ときおがにっこり笑って、自分と少年が片手を繋いだまま、下へ下へと透明なエレベーターに乗せられているように降りていっているのに気づく。
(あ…あ…ご、ごめんなさい、私、てっきり落ちてるのかと)
「ううん、あなたを連れて落ちることはできない……だって、あなたはとても軽いから」
(え?)
「ほら、見て」
言われてみれば、少年は洋子より沈みがちになっている。洋子も確かに降りてはいっているけれど、次第に速度が遅くなり、ともすれば少年の手を引っ張り上げ、逆に足先が浮かび上がってしまいそうなほど差がついてしまう。
(どうしてなんだろう)
「あなたは…光を貯えてるから。あなたの光で闇が退く…だからぼくも安全に降りられる…けれど、その光はとても軽いから、あなた一人ではここへは来れないんだよ」
(光?)
「うん、ほら」
ときおが示したのは握っている洋子の手、それは今やはっきりと白い蛍光を放ちつつあった。
「そうは見えないだろうけど、ここにはさっきの場所より重い闇が沈んでるの。あの街には入れないような闇が」
つぶやいたときおが微かに震えているのに気づいて、洋子はそっと相手を引き寄せた。訝るように見上げたときおの細い体をしっかり抱え込んでやる。
(君も怖いんだね?)
「う…うん…」
(なのに、来てくれたんだね?)
「だって……だって、仕方ないんだ、ここにはぼくもいる。もう一人のぼく、もっと重いぼくが……あ!」
頬をうっすら染めてはにかんだときおが突然鋭い叫びを上げた。全身を強ばらせ、身を竦めて一点を見る。
そこには小さなコンクリートの部屋とベッドが浮かび上がっていた。さっきの空中の闇舞台のような、けれどより限られた空間に、白衣の男が二人。覗き込む二人の前には白いベッドがあって、青白い顔で護王が眠っている。
(護王?)
「違う、違うよ、あれは……」
ときおが怯えたように洋子の腕の中へ自分の体を押し付けてきた。薄い胸が激しく鼓動している。
「どうして……? どうしてこんなとこにあるの?」
(ときお?)
「やだ、やだよう…ごめん…ごめんなさい、おとうさあん!」
悲鳴を上げて体をねじ込むようにときおは洋子にすがりついた。
(おとうさん?)
「きゃああああっ!」
(あ!)
突然、ときおが見えない手で攫われ洋子の腕から引き離されて、その部屋に投げ込まれた。慌ててコンクリートの部屋を凝視する。見ることで鎖が繋がったように、みるみる小部屋が目の前に迫ってくる。
「どうしようって言うんです、おとうさん!」
白衣の男の若い方が険しい顔でもう一人の男に詰め寄った。
「不死だなんて、馬鹿馬鹿しい!」
「行雄、お前にはわからんのだ」
答えたもう一人の男を見て、洋子はぎょっとした。それは日高幸一郎、綾を解体したあの医師だったのだ。
「お前はまだ四十だ、若い。体が衰えてくるということの本当の意味も怖さもわかっていない。だが、わしにはわかる…老いるということの恐ろしさ虚しさが、日々この身に堪えてくるのだ」
幸一郎は綾を殺したときより老けて見えた。外見がというのではなく、その口調や動きや気配が疲れ切って見えた。
「どれほどの知識と技術を貯えたとしても、なあ、行雄、いずれは消えるのだぞ。医学の最先端を極め、あらゆる病気の知識を集め、それでも人は老いていく。そして、それに伴って、櫛の歯が欠けるように、自分が崩れていくのがわかるのだ。あの戦争を生き延び耐え抜いたのに、わしはそれでも死んでいく。虚しくはないか、悲しくはないか。何のための努力だったのだ、何のための人生なのだ。どれだけ高く積み上げようと、それは所詮砂の山だ」
幸一郎は重苦しい溜息をつき、ベッドの護王を見やった。
「しかし、どうだ、この男は。一次大戦のとき、わしは三つだった。そのとき、こいつは既に少年だったはずだ。二次大戦のとき、わしは必死に戦火を生き延びたが、こいつがひどく若い将校の一人として軍部をうろついていたのを見たことがある。そして今もどうだ、どう見ても二十歳そこそこ、なのに、わしはもう、これほどに老いぼれた。こいつのように老化が緩やかであったなら、行雄、人はもっと発達し進化するぞ」
幸一郎はもう一度深く息をついた。
「確かに『かおうしづめ』の姫は食えた、だがな、わしはこの体でどれほど持つか待っていられるほどの時間はないのだ、大西のようにな。データからは老化が止まっているのがわかる。この先もっと生きられるかもしれん。そのためにはこいつと、こいつの探してくる姫が必要だ」
「おとうさん」
行雄、と呼ばれたのは日高貴司の父親なのだろう。疲れた声で相手のことばを遮った。
「僕にはうまく言えない、けれど、それは何か、どこかが間違っている」
「お前だって病人を治すじゃないか。死にかけている人間を助けるだろうが」
「でも、それは違う、違いますよ!」
行雄が激しく首を振る。
「他の命を横取りしていくわけじゃない」
「何が違う。お前だって牛を食い、大根を食う。水にだってバクテリアや微生物がいる。お前はその生命を食って生き延びている。同じことじゃないか。より優れたものが生き残り進化していけば、科学は進歩し、この世界はどんどん素晴らしくなる。戦争だって……」
掠れた声で幸一郎はつぶやいた。
「戦争だって経験者が生き残れば、何度も繰り返して起こらんはずだ。人類の愚行はあっという間に減る」
「とにかく…」
行雄は白衣を翻した。
「僕は彼をここに置いておくわけにはいかない。おとうさんが使ってる怪しげな薬草に関わるのも御免だ。今何世紀だと思ってるんですか? 二十世紀ですよ? 僕が生きている間にニ十一世紀がくる。そうなったら、老化防止の薬だってできるかもしれない。あなたの好きな科学の進歩で」
「しかし……わしには間に合わんのだ…」
「え…あっ!」
幸一郎の手が白衣のポケットから取り出したものを行雄に押し付けた。黒色の塊、一時スタンガンとして女性の護身用に流行ったものだ。ばちっと激しい音がして、行雄が仰け反り床に転がる。その行雄にゆっくりと屈み込んだ幸一郎は体を震わせている相手に、別のポケットから注射器を取り出した。使い捨ての注射器、針にはカバーがついているが、中には液体を吸い上げてある。それをごくごく無造作に、袖をまくり上げた行雄の腕に針先を差し込んで中の液体を注入する。数分待たぬ間に、がくっがくっ、と激しく痙攣し出した行雄を見ていた幸一郎は、やがてその目を部屋の隅、コンクリートの部屋のドアにそっと向けた。
「貴司」
ドアがびくっとしたように揺れる。
「貴司…こちらへ来なさい」
のろのろとドアが開いた。ときおが足を引きずるように部屋の中に入ってくる。
「今のを見ていたかい?」
ときおは真っ青な顔で人形のようにうなずいた。
「そうか。おとうさんはね、心臓発作で倒れてしまったよ」
「え……だって…」
「心臓発作だったんだよ!」
いきなり怒鳴られてときおは凍りついた。
「わかるね? 病気だったんだ。おじいちゃんのせいじゃない。病気は怖いなあ、急に起こるからね」
幸一郎はときおの顔を覗き込み両手でその肩を押さえつけようとした。得体の知れない化け物に襲われる、そんな表情でときおが竦みあがる、その間に洋子は割って入った。
(やめてください!)
「何だ、お前は」
ほっとしたようにときおが洋子の背後に回って隠れ、腰にしっかりしがみついてくる。幸一郎は突然洋子が現れたのにきょろきょろとドアを見たり、ベッドを振り返ったりしながら続けた。
「いったい、どこから来た」
(あなたはこの子のお父さんを殺したんですね)
言い放って洋子はぞっとした。
(日高先生の、お父さんを)
「日高せんせい? 先生はわしだ……その子を返しなさい、そのままでは困るのだ」
「暗示をかける気ですか、護王にしたように。わけのわからない記憶に罪悪感と恐怖を植え付けて」
「何」
ぎくっとしたように幸一郎が洋子を見つめた。
死にかけた魚のような目だった。大きく丸く見開かれて、けれど覇気も生気もない、ただどろどろとした重い執念のようなものが瞳の中に渦巻いているだけの。
「何が人類の進歩、何が老いることの恐ろしさ虚しさ、だって?」
その目が誰かを思わせる、どこかで見たことがある、思った瞬間に、背後のときおが小さく震えながら泣き声でつぶやいた。
「こ、ころされるんだ……ぼくもきっと……ころされるんだ……おじいちゃんが……ずっと生きてるなら…ぼくはいらない……子どもなんていらないから…っ!」
(子どもなんて、いらないから)
その気持ちがどこに誰に潜んでいたものか、ふいに思い出した。
(おとうさん……おかあさん…)
楽しみのために、洋子を信頼の秤にかけ、あやこを階段から突き落とした父親。居場所を確保するために、自分の子どもに加えられる暴力を無視し、起こっていないことにし続けた母親。
子どもがいらなかったのならそれでいい、さっさと手放してくれればよかったのだ。耐えられないのは、それでもなお、彼らが『子どもを必要としていた』ということだ。自分の気持ちを保つために、好き勝手に使い捨てられる『道具』としての子どもの存在が。
それは不死を願うこと、自分の衰えや老いに向かい合わないために『姫さん』の肉を喰らうという幸一郎の姿に、なぞったようにそっくりで。
激しい怒りが沸き上がった。
(あなた達は……子どもを喰らって生き延びようとしているのか!!)
ぐん、と自分の内側から光が溢れたような気がした。
(それでもやがては老いるんだぞ)
洋子のことばにもまた光が含まれていたように、幸一郎がまばゆげに顔をしかめて後じさりする。その隙に、洋子はときおを抱えてドアの外へ滑り出ていた。
「あ……待て…」
呼び止める声を背中に、闇の中へときおを抱えて沈んでいく。
(ばかだ……ばかだ…)
体を包む暗闇のねっとりとした重さを感じながら、洋子は泣いていた。
未来を紡ぐ種の道を断って、自分の生を長らえて、それでもやがては先細りに閉じていく命が終わりの時に心安らかに逝けるわけがなかろうに。
命は終わりながら始まっていく。全ての命が本能的にわかっていることを、人だけがどこかで見失ってしまった。
それを避けようとするならば、永遠に生き続け貪り続けるしかない。最後の一人になるまで互いを食い合うしかない。そして最後の一人になったからこそ誰にも見取られず、飢えに苦しんで死ぬしかない。
魂という体の飢えに。
もっとくれもっとよこせと、たった一人でおめき叫びながら、何に餓えているのかさえもわからなくなりながら。
それを誰よりも知っているのは、それこそ、そこに眠っている護王だろうに。
(護王がどれほど一人で、どれほど孤独だったのか、何にも知らないくせに)
自分の腕を引きちぎり、血の海に狂ってもまだ死にきれずに、のたうち悲鳴を上げる、そんな果てしない苦行と絶望の不老不死を望むとは。
「え…っ…ううっ」
胸でときおもまた泣きじゃくっている。
愛されなかった子ども。命として大事にされなかった子ども。
人として扱われなかった子ども。
(あなたは……日高先生だったんだね)
「ふええっ…え…えっ」
囁きかけると堪えかねたように子どもは声を高くした。
(記憶に封じられ、時の狭間に置き去られて、あの街で私を待ってたの…?)
ぎゅ、とときおは洋子にしがみついた。
それは甘く懐かしい感触だった。
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おねぃちゃん。
そう呼ぶ声が、聞こえた。
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