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『グッド・ペイシャント』(2)
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翌朝の申し送りでは、西川は頭が重くてひどく疲れていた。
竹井はあれから十数回ナースコールを繰り返し、部屋の温度を調整させ、氷枕だの、温かい湯だのを欲しがった。
「結局、竹井さんが眠れないことが原因であろうと思われたため、当直医に指示を仰ぎ、眠剤を処方されました。5時から7時までは入眠されていたようです」
西川の報告を、日勤の受け持ち看護師、朝峰が頷きながらメモしている。
「次、坪内さんは特にお変わりないとのことでした」
ふと、朝峰のペンが止まって、西川は目を上げた。相手は小首を傾げ、垂れた前髪を朝日に透かして何事か考え込んでいる。やがて、
「太田さんはどうでした?」
「えっと…14号ですよね、ちょっと眠れなかったとおっしゃってました。昼寝されたそうです」
「川北さんも眠れなかったんですね?」
朝峰は太田の向かいの部屋の患者のメモを見直している。
「はい。夕べは、気持ち、暑かったかも知れません……何か?」
「いえ、ありがとう。続けて下さい」
朝峰は微笑んだ。西川はほっとして申し送りを再開し、後はそれほど問題なく送り終えた。
日勤者が動き出すのを背中に、竹井の看護記録を入力する。看護師の判断として、竹井は何かに追われているような感覚を常に持っており、それから逃れようとして日中動き回るが、夜になって静かになるとすることがなく不安になり、ナースコールを繰り返すのではないか、とまとめた。彼の問題は不安の原因、もしくは不安そのものの認識をすることで解決に向かうかも知れない、当面は眠剤を適宜内服して夜間の睡眠を確保すること、入眠しやすいようにケアすること、とも付け加えた。
あれだけナースコールに振り回されながら、よく考えをまとめられた。西川がそう満足して、ナースステーションから出て帰ろうとした時、朝峰が交換したらしいシーツを抱えて歩いて来るのを見つけた。
「どこですか?」
「坪内さん」
「何か、零されたんですか_」
西川の問いに一瞬朝峰は迷ったようだったが、一つ頷くと、シーツを抱えたままやってきて、西川に示しながらそっと言った。
「汗よ」
「汗?」
「……お疲れ様」
きょとんとする西川に、朝峰はにっこり笑った。伝えるべきことは伝えたと言いたげに、すたすたと歩み去っていく。
西川はどこか腑に落ちないまま、朝峰を見送り、それからゆっくり帰り始めた。
深夜、ナースコールが15号室から鳴った。
「今夜もまたねえ」
野上が目を細めて笑う。
西川は頷いた。
できるだけ静かに竹井の部屋に入る。
「おう、来たか。部屋が寒いのか暑いのか、よくわからん。何かしんどいんだ」
「どの辺りがしんどいんですか?」
「それを見つけるのが看護師だろう。大体だな、わしがここへ入院してるのは…」
「楽になりたいからですね、竹井さん」
西川は部屋の椅子を引っ張り出して、ベッドの横に座った。竹井がぎょっとした顔で西川を見つめたが、じっと見返すと慌てて目をそらせた。
「でも、楽になれない。なぜでしょうか」
「そ、そりゃあ、周りがあれこれ煩くて、わしのやることなすことに口を出して、わしは一人で好きなようにしたいんだ」
「今は誰も竹井さんに何かをしろとは言ってませんよ。でも、楽になっておられない。ここにおられても、楽になれないようですね」
「わしを追い出す気か。わしはここに居るぞ。わしも入院してるんだ。わ、わしは寝る。眠いんだ」
竹井はうろたえたように口走ると、唐突に西川に背中を向けて横になった。
「竹井さん」
「眠い! 眠らせろ!」
「……お休みなさい」
西川は椅子を片付けて部屋から出た。ドアをそっと閉める。足音を忍ばせて廊下を歩き、熱い湯で絞ったおしぼりタオルを手に、坪内の病室を覗いて見た。
そこに、ベッドの上で体を真っ直ぐにして、じっと天井を見上げたまま横になって居る坪内の姿があった。すぐに西川に気づき、びっくりした顔で体を起こす。
「西川さん…」
「今夜も眠れそうにない? ごめんなさいね。先生にお薬もらえるか、聞いてみようか?」
坪内は曖昧に笑った。
「薬はちょっとね……大丈夫、すぐ眠れますよ、そういう性質(たち)なんです」
「できるだけ静かにするつもりだけど……熱いタオルを持って来たの。どうかな」
「ああ…助かります」
坪内は肩の力を抜いて、西川からタオルを受け取った。ぐるりと額から顎、首筋を拭う。ほ、と小さい吐息が聞こえた。
「何だかね、だんだん何の物音も立てちゃいけないような気になってきて。じっと眠ってればいいんだと思うほど、眠れなくなっちゃって、年寄りだからこんなもの、眠れなくって当たり前だって、思うようにしてたんですけど、今度はお小水が近くなっちゃう。人様と一緒に暮らすっていうのが、こんなに難しいもんだと、この歳になるまで思わないできたんです、甘えてました」
タオルを使いながら零れるように坪内のことばが聞こえてきた。
きっと、この声を朝峰は聞いているんだ。
西川はそう思った。
『いい患者(グッド・ペイシャント)』を演じる向こうの、一人の人間、疲れてたり苦しかったり追い詰められたりしている人間の声を、ああして僅かに首を傾げ、ペンを止めて聞き入っている。だから、朝峰は何かを変えられる。患者を苦しめている何かを見つけ出せるんだ。
「気持ちよかった、ありがとう」
坪内が返したタオルを受け取った西川は、笑って立ち上がった。
「お休みなさい」
部屋を出る。
廊下は静まり返っていて、すぐナースコールしてくるだろうと思っていた竹井の部屋も静かだった。
でも、この静けさは本物ではないのだ。穏やかに見えていても、ここに集まっているのは問題を抱えている人間達。『いい患者(グッド・ペイシャント)』は医療側の都合のいい幻でしかない。
西川は朝峰の真似をして、少し首を傾げ目を閉じて、静かな闇の向こうを伺った。
終わり
竹井はあれから十数回ナースコールを繰り返し、部屋の温度を調整させ、氷枕だの、温かい湯だのを欲しがった。
「結局、竹井さんが眠れないことが原因であろうと思われたため、当直医に指示を仰ぎ、眠剤を処方されました。5時から7時までは入眠されていたようです」
西川の報告を、日勤の受け持ち看護師、朝峰が頷きながらメモしている。
「次、坪内さんは特にお変わりないとのことでした」
ふと、朝峰のペンが止まって、西川は目を上げた。相手は小首を傾げ、垂れた前髪を朝日に透かして何事か考え込んでいる。やがて、
「太田さんはどうでした?」
「えっと…14号ですよね、ちょっと眠れなかったとおっしゃってました。昼寝されたそうです」
「川北さんも眠れなかったんですね?」
朝峰は太田の向かいの部屋の患者のメモを見直している。
「はい。夕べは、気持ち、暑かったかも知れません……何か?」
「いえ、ありがとう。続けて下さい」
朝峰は微笑んだ。西川はほっとして申し送りを再開し、後はそれほど問題なく送り終えた。
日勤者が動き出すのを背中に、竹井の看護記録を入力する。看護師の判断として、竹井は何かに追われているような感覚を常に持っており、それから逃れようとして日中動き回るが、夜になって静かになるとすることがなく不安になり、ナースコールを繰り返すのではないか、とまとめた。彼の問題は不安の原因、もしくは不安そのものの認識をすることで解決に向かうかも知れない、当面は眠剤を適宜内服して夜間の睡眠を確保すること、入眠しやすいようにケアすること、とも付け加えた。
あれだけナースコールに振り回されながら、よく考えをまとめられた。西川がそう満足して、ナースステーションから出て帰ろうとした時、朝峰が交換したらしいシーツを抱えて歩いて来るのを見つけた。
「どこですか?」
「坪内さん」
「何か、零されたんですか_」
西川の問いに一瞬朝峰は迷ったようだったが、一つ頷くと、シーツを抱えたままやってきて、西川に示しながらそっと言った。
「汗よ」
「汗?」
「……お疲れ様」
きょとんとする西川に、朝峰はにっこり笑った。伝えるべきことは伝えたと言いたげに、すたすたと歩み去っていく。
西川はどこか腑に落ちないまま、朝峰を見送り、それからゆっくり帰り始めた。
深夜、ナースコールが15号室から鳴った。
「今夜もまたねえ」
野上が目を細めて笑う。
西川は頷いた。
できるだけ静かに竹井の部屋に入る。
「おう、来たか。部屋が寒いのか暑いのか、よくわからん。何かしんどいんだ」
「どの辺りがしんどいんですか?」
「それを見つけるのが看護師だろう。大体だな、わしがここへ入院してるのは…」
「楽になりたいからですね、竹井さん」
西川は部屋の椅子を引っ張り出して、ベッドの横に座った。竹井がぎょっとした顔で西川を見つめたが、じっと見返すと慌てて目をそらせた。
「でも、楽になれない。なぜでしょうか」
「そ、そりゃあ、周りがあれこれ煩くて、わしのやることなすことに口を出して、わしは一人で好きなようにしたいんだ」
「今は誰も竹井さんに何かをしろとは言ってませんよ。でも、楽になっておられない。ここにおられても、楽になれないようですね」
「わしを追い出す気か。わしはここに居るぞ。わしも入院してるんだ。わ、わしは寝る。眠いんだ」
竹井はうろたえたように口走ると、唐突に西川に背中を向けて横になった。
「竹井さん」
「眠い! 眠らせろ!」
「……お休みなさい」
西川は椅子を片付けて部屋から出た。ドアをそっと閉める。足音を忍ばせて廊下を歩き、熱い湯で絞ったおしぼりタオルを手に、坪内の病室を覗いて見た。
そこに、ベッドの上で体を真っ直ぐにして、じっと天井を見上げたまま横になって居る坪内の姿があった。すぐに西川に気づき、びっくりした顔で体を起こす。
「西川さん…」
「今夜も眠れそうにない? ごめんなさいね。先生にお薬もらえるか、聞いてみようか?」
坪内は曖昧に笑った。
「薬はちょっとね……大丈夫、すぐ眠れますよ、そういう性質(たち)なんです」
「できるだけ静かにするつもりだけど……熱いタオルを持って来たの。どうかな」
「ああ…助かります」
坪内は肩の力を抜いて、西川からタオルを受け取った。ぐるりと額から顎、首筋を拭う。ほ、と小さい吐息が聞こえた。
「何だかね、だんだん何の物音も立てちゃいけないような気になってきて。じっと眠ってればいいんだと思うほど、眠れなくなっちゃって、年寄りだからこんなもの、眠れなくって当たり前だって、思うようにしてたんですけど、今度はお小水が近くなっちゃう。人様と一緒に暮らすっていうのが、こんなに難しいもんだと、この歳になるまで思わないできたんです、甘えてました」
タオルを使いながら零れるように坪内のことばが聞こえてきた。
きっと、この声を朝峰は聞いているんだ。
西川はそう思った。
『いい患者(グッド・ペイシャント)』を演じる向こうの、一人の人間、疲れてたり苦しかったり追い詰められたりしている人間の声を、ああして僅かに首を傾げ、ペンを止めて聞き入っている。だから、朝峰は何かを変えられる。患者を苦しめている何かを見つけ出せるんだ。
「気持ちよかった、ありがとう」
坪内が返したタオルを受け取った西川は、笑って立ち上がった。
「お休みなさい」
部屋を出る。
廊下は静まり返っていて、すぐナースコールしてくるだろうと思っていた竹井の部屋も静かだった。
でも、この静けさは本物ではないのだ。穏やかに見えていても、ここに集まっているのは問題を抱えている人間達。『いい患者(グッド・ペイシャント)』は医療側の都合のいい幻でしかない。
西川は朝峰の真似をして、少し首を傾げ目を閉じて、静かな闇の向こうを伺った。
終わり
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