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『ワンピース・オバサン』(1)
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1.下駄箱の泥
のろのろのろのろ学校に来て、下駄箱の前で立ち止まる。
幾つも同じ色と形をした箱が並んでいる。自分のものだとわかるのは、小さな白い名前だけ。その名札も、鏡子の物は破られてむしられ汚れている。黒マジックで塗られた端に少し、苗字の『大崎』が残っている。
鏡子は息を詰めて、しばらく下駄箱の前に立っていた。なかなか手を上げられない。ためらってためらって、ようやく開けた箱の中には、この間新しくしたばかりの上靴が、泥に塗れて押し込まれていた。その上靴の上にも下にも、ねっとりと光った泥がぎゅうぎゅう詰め込まれている。
くすくす、と小さな声が笑った。振り返る気にもなれない。ついこの間までは一番の親友だと思っていた、あきちゃんとヒロくんだ。
「キョーコ、どうしたの」
あきちゃんが近くに寄ってきて、下駄箱を覗き込んだ。
「わあ、大変。上靴、履けないんじゃない?」
「ええ、本当?」
ヒロくんが反対側から顔を出して、あきちゃんより大きな声を出した。
「かわいそー、キューコ」
「かわいそー、かわいそー」
あきちゃんが繰り返して、ドン、と鏡子の背中を叩いた。
「心配してんのにさー、何か言えばー」
どん、ともう一回、力一杯背中を叩かれて、鏡子の手が滑った。パンと勢いよくしまった蓋に、箱の中の泥が跳ねて、鏡子の服や顔に散った。
「あ、きたなーい」
「きたなーい、キョーコ」
「きたなーいキョーコ」
あはは、と笑い合った二人が、ふいに側から離れて行った。
顔を上げると、下駄箱が並ぶ端から担任の平田先生が歩い来ていた。ゆっくりと足元を確かめるように歩くのは、お腹に赤ちゃんがいるせいだ。
「どうしたの?」
鏡子はじっと先生を見た。
先生は鏡子の体に飛んだ泥を見た。それから、下駄箱の蓋の下から垂れて来ている泥の筋を見つけ、眉を顰めて蓋を開けた。
「どうしたの、これ」
「…わかりません」
鏡子は答えた。
嘘だ。
鏡子にはわかっている。
一週間前にも上靴に穴が開けられて、泥が下駄箱に入っていたし、三日前に机の中に教室のゴミが入っていた。その度に、あきちゃんとヒロくんが寄って来て、くすくす笑って鏡子を突く。かわいそーとか、どーしたのとか言いながら、最後には必ずこう言うのだ。
「きたなーい、キョーコ」
十日前、初めてあきちゃんが「キョーコのノート、きたないねー」と言った時、鏡子はひどくびっくりした。「どうしてそんなこと言うの」と尋ねると、だってさー、と鏡子のノートを広げて見せた。きちんと色分けしたり、シールを貼ったりしてまとめていたはずのノートに、所構わず赤いサインペンで『バカ』『シネ』『ウソツキ』と書かれていて、鏡子は呆気に取られた。
あきちゃんに貸す前は何も書かれていなかったのだからと、「どうして、こんなこと書くの?」と尋ねた途端、あきちゃんが喚き出したのだ。
「キョーコ、あたしがしたって言うの!」
「ひどいよ、何もしてないのに!」
「ヒロくん、聞いて! キョーコがあたしがいじめたって言うんだよ! いじめたって!」
あきちゃんはその日のうちにクラスの女子全員に言って回った。鏡子は嘘つきで、自分のノートに落書きしていたのをひとのせいにするんだ、と。
ヒロくんは元からあきちゃんには弱い。あきちゃんがああしてこうしてと命令するのを、そのまま言う通りにする。ヒロくんがアキちゃんの味方になって、その日から、クラスの女子は鏡子と口を聞いてくれない。
「大崎さん」
平田先生が溜息をついた。
「こんなことされて、わからないはずないでしょう? 誰かにいじめられてるの?」
「…わかりません」
鏡子は繰り返した。
わからないのは、あきちゃんがノートに落書きをした理由だ。それを鏡子のせいにした理由だ。あきちゃんやヒロくんの言うことばかり信じて、鏡子と話してくれないクラスメイトだ。
「わからない、じゃ、いつまでも続くわよ。勇気を出して、先生に話して。クラスで何が起こってるの? どうしてあなたとみんなは喋らないの? いじめられているんじゃない?」
「わかりません!」
鏡子は叫んで走り出した。まっすぐ、家に向かって急ぐ。けれども、家の近くの公園まで戻って来た頃には、走る元気もなくなっていた。
鞄をベンチに置いて腰を下ろす。弾んだ息がなかなか収まらない。
べたべたに汚れた上靴を思い出して、情けなくなった。前の上靴は金網で引っ掛けて破いた、と嘘をつき、ようやく新しいのを買ってもらったばかりだったのに。
気が付いて、ハンカチで顔や服に跳ねた泥を拭いた。うっすらと乾き始めている泥は服に染み込んで取れない。どうしてこんな泥で汚れたのか話すのに、またお母さんに嘘をつくんだ、と思った。
平田先生は、話さなくてはいつまでも続くと言う。勇気を出して、と。でも、鏡子に今必要なのは勇気じゃない。どうしてこんなことになってしまったのかわかる力だ。話そうとしても、どこから、何から話せばわかってもらえるのだろう。例えば、あきちゃんに貸したノートが落書きされて戻って来た、と話すとする。きっと先生はこう尋ねるだろう。
「どうして落書きされたの?」
鏡子に、ではなくて、あきちゃんにしなくてはならない質問をしてくるのだ。鏡子が答えられないとなると、次はこう来る。
「何か、あきちゃんを怒らせるようなことをしたの?」
これも違う質問だ、と鏡子は思う。怒るか怒らないかはあきちゃん自身のことで、あきちゃんではない鏡子に、アキちゃんの怒った理由がわかるわけがない。第一、あきちゃんが怒ったから落書きをしたのかどうかもわからないのだ。
大人はみんな同じだと思う。
何かが起こると、まず『どうしてそれが起こったか』を聞きたがる。そして、それをうまく話せないとなると、『今、何が起こっているか』をどれだけ話しても聞いてくれない。『どうしてそれが起こったか』に構わない大人もいる。けれども、その代わりに『これからそれがどうなるか』を気にしている。『これからそれがどうなるか』を話せなければ、『今、何が起こっているか』聞いても仕方がないと言う。
でも、鏡子には『どうしてそれが起こったか』も『これからそれがどうなるか』も話せない。鏡子が話したいことは『今、何が起こっているか』と言うこと、それだけなのに、それは誰も聞いてくれない。
学校を飛び出しては来たけれど、このまま家に帰ったら、また同じことを聞かれるだろう。
『どうして学校を飛び出して来たのか』『これからどうするつもりなのか』
鏡子はもう一度、溜息をついた。
その目に、真っ白なものが飛び込んだ。
のろのろのろのろ学校に来て、下駄箱の前で立ち止まる。
幾つも同じ色と形をした箱が並んでいる。自分のものだとわかるのは、小さな白い名前だけ。その名札も、鏡子の物は破られてむしられ汚れている。黒マジックで塗られた端に少し、苗字の『大崎』が残っている。
鏡子は息を詰めて、しばらく下駄箱の前に立っていた。なかなか手を上げられない。ためらってためらって、ようやく開けた箱の中には、この間新しくしたばかりの上靴が、泥に塗れて押し込まれていた。その上靴の上にも下にも、ねっとりと光った泥がぎゅうぎゅう詰め込まれている。
くすくす、と小さな声が笑った。振り返る気にもなれない。ついこの間までは一番の親友だと思っていた、あきちゃんとヒロくんだ。
「キョーコ、どうしたの」
あきちゃんが近くに寄ってきて、下駄箱を覗き込んだ。
「わあ、大変。上靴、履けないんじゃない?」
「ええ、本当?」
ヒロくんが反対側から顔を出して、あきちゃんより大きな声を出した。
「かわいそー、キューコ」
「かわいそー、かわいそー」
あきちゃんが繰り返して、ドン、と鏡子の背中を叩いた。
「心配してんのにさー、何か言えばー」
どん、ともう一回、力一杯背中を叩かれて、鏡子の手が滑った。パンと勢いよくしまった蓋に、箱の中の泥が跳ねて、鏡子の服や顔に散った。
「あ、きたなーい」
「きたなーい、キョーコ」
「きたなーいキョーコ」
あはは、と笑い合った二人が、ふいに側から離れて行った。
顔を上げると、下駄箱が並ぶ端から担任の平田先生が歩い来ていた。ゆっくりと足元を確かめるように歩くのは、お腹に赤ちゃんがいるせいだ。
「どうしたの?」
鏡子はじっと先生を見た。
先生は鏡子の体に飛んだ泥を見た。それから、下駄箱の蓋の下から垂れて来ている泥の筋を見つけ、眉を顰めて蓋を開けた。
「どうしたの、これ」
「…わかりません」
鏡子は答えた。
嘘だ。
鏡子にはわかっている。
一週間前にも上靴に穴が開けられて、泥が下駄箱に入っていたし、三日前に机の中に教室のゴミが入っていた。その度に、あきちゃんとヒロくんが寄って来て、くすくす笑って鏡子を突く。かわいそーとか、どーしたのとか言いながら、最後には必ずこう言うのだ。
「きたなーい、キョーコ」
十日前、初めてあきちゃんが「キョーコのノート、きたないねー」と言った時、鏡子はひどくびっくりした。「どうしてそんなこと言うの」と尋ねると、だってさー、と鏡子のノートを広げて見せた。きちんと色分けしたり、シールを貼ったりしてまとめていたはずのノートに、所構わず赤いサインペンで『バカ』『シネ』『ウソツキ』と書かれていて、鏡子は呆気に取られた。
あきちゃんに貸す前は何も書かれていなかったのだからと、「どうして、こんなこと書くの?」と尋ねた途端、あきちゃんが喚き出したのだ。
「キョーコ、あたしがしたって言うの!」
「ひどいよ、何もしてないのに!」
「ヒロくん、聞いて! キョーコがあたしがいじめたって言うんだよ! いじめたって!」
あきちゃんはその日のうちにクラスの女子全員に言って回った。鏡子は嘘つきで、自分のノートに落書きしていたのをひとのせいにするんだ、と。
ヒロくんは元からあきちゃんには弱い。あきちゃんがああしてこうしてと命令するのを、そのまま言う通りにする。ヒロくんがアキちゃんの味方になって、その日から、クラスの女子は鏡子と口を聞いてくれない。
「大崎さん」
平田先生が溜息をついた。
「こんなことされて、わからないはずないでしょう? 誰かにいじめられてるの?」
「…わかりません」
鏡子は繰り返した。
わからないのは、あきちゃんがノートに落書きをした理由だ。それを鏡子のせいにした理由だ。あきちゃんやヒロくんの言うことばかり信じて、鏡子と話してくれないクラスメイトだ。
「わからない、じゃ、いつまでも続くわよ。勇気を出して、先生に話して。クラスで何が起こってるの? どうしてあなたとみんなは喋らないの? いじめられているんじゃない?」
「わかりません!」
鏡子は叫んで走り出した。まっすぐ、家に向かって急ぐ。けれども、家の近くの公園まで戻って来た頃には、走る元気もなくなっていた。
鞄をベンチに置いて腰を下ろす。弾んだ息がなかなか収まらない。
べたべたに汚れた上靴を思い出して、情けなくなった。前の上靴は金網で引っ掛けて破いた、と嘘をつき、ようやく新しいのを買ってもらったばかりだったのに。
気が付いて、ハンカチで顔や服に跳ねた泥を拭いた。うっすらと乾き始めている泥は服に染み込んで取れない。どうしてこんな泥で汚れたのか話すのに、またお母さんに嘘をつくんだ、と思った。
平田先生は、話さなくてはいつまでも続くと言う。勇気を出して、と。でも、鏡子に今必要なのは勇気じゃない。どうしてこんなことになってしまったのかわかる力だ。話そうとしても、どこから、何から話せばわかってもらえるのだろう。例えば、あきちゃんに貸したノートが落書きされて戻って来た、と話すとする。きっと先生はこう尋ねるだろう。
「どうして落書きされたの?」
鏡子に、ではなくて、あきちゃんにしなくてはならない質問をしてくるのだ。鏡子が答えられないとなると、次はこう来る。
「何か、あきちゃんを怒らせるようなことをしたの?」
これも違う質問だ、と鏡子は思う。怒るか怒らないかはあきちゃん自身のことで、あきちゃんではない鏡子に、アキちゃんの怒った理由がわかるわけがない。第一、あきちゃんが怒ったから落書きをしたのかどうかもわからないのだ。
大人はみんな同じだと思う。
何かが起こると、まず『どうしてそれが起こったか』を聞きたがる。そして、それをうまく話せないとなると、『今、何が起こっているか』をどれだけ話しても聞いてくれない。『どうしてそれが起こったか』に構わない大人もいる。けれども、その代わりに『これからそれがどうなるか』を気にしている。『これからそれがどうなるか』を話せなければ、『今、何が起こっているか』聞いても仕方がないと言う。
でも、鏡子には『どうしてそれが起こったか』も『これからそれがどうなるか』も話せない。鏡子が話したいことは『今、何が起こっているか』と言うこと、それだけなのに、それは誰も聞いてくれない。
学校を飛び出しては来たけれど、このまま家に帰ったら、また同じことを聞かれるだろう。
『どうして学校を飛び出して来たのか』『これからどうするつもりなのか』
鏡子はもう一度、溜息をついた。
その目に、真っ白なものが飛び込んだ。
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