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『ワンピース・オバサン』(2)
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2.ワンピース・オバサン
はじめはシーツが木に引っかかっているように見えた。
とても大きな、バサバサ風に鳴るシーツが、公園の隅の芝生の上、ポプラの木の枝辺りに引っ掛かって揺れている。
でも、よくよく見ると、それはひょろりと背が高い女の人が真っ白なワンピースを着て立っているのだとわかった。
短く切った髪の毛が風に吹かれて乱れている。ちらりと見えた横顔は鏡子のお母さんより歳上で、その人がゴテゴテとレースの飾りのついた白いワンピースを着て立っているのは、妙な感じがした。
ワンピース・オバサンは、考え事をするようにのんびりと芝生の上を歩いて行く。これも白いパンプスをするする緑の草の上に滑らせて、あちらの木、こちらの木と歩いて行く。時々上を見上げてはじっとじっと木を見つめ、少し首を振ったり傾げたりして、また別の木に移って行く。
一体、何をしているんだろう。
見たところでは、犬や猫を探している様子ではないし。ひょっとして、飼っていた鳥でも逃げたんだろうか。
やがて、ワンピース・オバサンは、一本のポプラの下で立ち止まった。見上げて大きく一、二度頷いて、それからふわりと、枝から離れた葉っぱのように、芝生の上に座ってしまった。
そのままずっと、動かない。
風がきつく吹いてスカートが翻っても、太陽が雲に遮られて陰っても、オバサンはそこに座っている。
鳥が逃げたのではなさそうだ。
かなり経ってから、鏡子は立ち上がった。鞄を手にして、そっと近づく。
芝生の上を踏んで行く鏡子の足音に気がついたのか、オバサンはいきなりくるりと振り向いた。
日に焼けてうっすらベージュの、パサパサの茶色の髪の、顔のあちこちに皺が入った、どう見ても50歳以上の女の人。細長い手足に細い首、その間を白いワンピースが埋めている。
「御用?」
「あ、あの」
答えようとは思っていなかったのに、オバサンの細い茶色の目についつい、鏡子は立ち止まって言った。
「何してるの?」
「木を見てるの」
「木?」
「そうよ」
鏡子はオバサンの前の木を見た。オバサンは当たり前のことのように、木を見ながら言った。
「きれいよね。この木がいいわ。ここで一番」
「そう…かな」
おかしな人だと思った。
こんな年齢の女の人は、こんな昼間に、こんな白いワンピースを着て、こんな木の下に座っていない。
なのに、鏡子は、そのワンピース・オバサンの横に腰を降ろしてしまった。
座った時に、オバサンが一瞬鏡子の鞄を見たけど、何も言わなかった。鏡子がスカートを直すのをじっと見ている。
芝生はちくちくして痛かった。茎だろうか葉だろうか、いごいごと折れ曲がるのを嫌がるように動いて、鏡子の足を擦った。その下にある土はひんやりしていて、固くて重い感じがした。
なのに、一度そうして座ってしまうと、立ちたいとは思わなかった。公園の中に、ほかに誰もいなかったからかも知れない。
オバサンは再び木を見つめ始めた。
昼近くなった陽の光が背中に当たっている。風が収まって、辺りが静まり返っている。
オバサンは黙って木を見つめている。
「何してるのかって聞かないの」
鏡子は尋ねた。
「聞いてもいいの」
「……ううん」
聞かれても答えられない。
鏡子は首を振った。
「じゃあ、聞かないわ」
オバサンは怒ったふうでも困ったふうでもなかった。鏡子がいることさえ忘れたように、ただただ木を眺めている。
鏡子も木を見上げた。
ポプラの葉はひらひらと揺れていた。上の方ではまだ風が吹いているのだろう。薄緑の葉が重なって深緑に、翻って黄色に、塊になっては灰色がかった緑になる。
「きれいでしょ」
「そうかな」
「じっと、よく、見てごらん」
オバサンは歌うように言った。
「葉っぱの色が一つ一つ違うの。形も違う。細い筋が見える? 葉っぱの周りが薄茶色なのがわかる?」
「うん」
「今度は木を見るのよ。葉っぱを一つ一つ、心の中で重ねていって、それが枝にまとまって、幹へ降りて行くのを見るの。大きな木の力を見るの。流れている力をね。木って凄いでしょ。わかる?」
「わかんない」
「そう」
やっぱりオバサンは頷いただけだった。
鏡子はオバサンの真似をして、木を見ようとした。オバサンの言う、凄い木を見ようとした。けれども、そこにはポプラの木がざわりざわりと揺れているだけだ。
「自殺、しちゃおうかな」
「そう」
「止めないの?」
「止めて欲しいの?」
「わかんない」
「そうね」
ふいにむっとしたものが鏡子の胸の中に膨れ上がった。鏡子が何を言っても「そう」としか答えないこの人を、狼狽えさせたり慌てさせたりしたい、と思った。
「ほんとに自殺、するよ」
「どこで?」
「…ここで」
「どうやって」
「………首を吊るの」
「どうして」
「……わかんない」
オバサンはたじろがない。何か悔しくて情けなくなる。
「なんで、白いワンピース着てるの?」
「着たいから」
「変だよ」
「そうかもね」
「似合ってない」
「そうかもね」
「ぜんっぜん、似合ってない」
「そうかもね」
「あたしの言うこと、聞いてないんでしょ」
「聞いてるよ」
「似合ってないって言ってるんだよ。変だって。オバサンなのに、こんなワンピース着てさ、すっごく変。ねえ、言ってあげてんだからね。笑われるよ。やめなよ」
「ううん」
ふいにオバサンは鏡子を見た。笑っていないが怒ってもいない。ただとても、真面目に、
「私はこれを今着たいの。変でも、おかしくても、似合ってなくてもいいの。あなたがどう思っても、周りが何を言っても、私は今これを着たいの。だから、やめないわ」
風が強く吹いた。
「………どうして、そんなこと、言えるの?」
鏡子は尋ねた。
「変だって言われるの、嫌じゃない? 笑われたりすんの、嫌じゃない? 聞きたくなくても聞こえてくるの、嫌じゃない?」
「嫌よ、とっても」
オバサンは少し笑った。
「でも、あなたは私じゃないでしょ。私はここに座って、木を見るのがとても好きだけど、あなたは違うことが好きかも知れない。あなたがここで一緒に木を見てくれたら、それはとても嬉しいけど、そうじゃなくても悲しいとは思わないわ」
ポプラの枝で風が鳴った。
「……どうして、そんなに強いの?」
鏡子は呟いた。風がことばを後押ししてくれる気がして呟いた。
「あたし、いじめられてるの。何でかわかんない。悪い事なんてしてないと思うのに、あきちゃん達はあたしが悪いって言うの」
「……みんなが好きなのね」
ワンピース・オバサンは立ち上がった。
「わかんない………でも……嫌われるのはいや」
鏡子も続いて立ち上がる。
膝に草の汁がついて薄緑のシミになっている。下駄箱に入っていた泥と汚れた上靴、跳ね飛んだ泥を思い出した。
「大崎さん!」
その時、平田先生の声がした。
はじめはシーツが木に引っかかっているように見えた。
とても大きな、バサバサ風に鳴るシーツが、公園の隅の芝生の上、ポプラの木の枝辺りに引っ掛かって揺れている。
でも、よくよく見ると、それはひょろりと背が高い女の人が真っ白なワンピースを着て立っているのだとわかった。
短く切った髪の毛が風に吹かれて乱れている。ちらりと見えた横顔は鏡子のお母さんより歳上で、その人がゴテゴテとレースの飾りのついた白いワンピースを着て立っているのは、妙な感じがした。
ワンピース・オバサンは、考え事をするようにのんびりと芝生の上を歩いて行く。これも白いパンプスをするする緑の草の上に滑らせて、あちらの木、こちらの木と歩いて行く。時々上を見上げてはじっとじっと木を見つめ、少し首を振ったり傾げたりして、また別の木に移って行く。
一体、何をしているんだろう。
見たところでは、犬や猫を探している様子ではないし。ひょっとして、飼っていた鳥でも逃げたんだろうか。
やがて、ワンピース・オバサンは、一本のポプラの下で立ち止まった。見上げて大きく一、二度頷いて、それからふわりと、枝から離れた葉っぱのように、芝生の上に座ってしまった。
そのままずっと、動かない。
風がきつく吹いてスカートが翻っても、太陽が雲に遮られて陰っても、オバサンはそこに座っている。
鳥が逃げたのではなさそうだ。
かなり経ってから、鏡子は立ち上がった。鞄を手にして、そっと近づく。
芝生の上を踏んで行く鏡子の足音に気がついたのか、オバサンはいきなりくるりと振り向いた。
日に焼けてうっすらベージュの、パサパサの茶色の髪の、顔のあちこちに皺が入った、どう見ても50歳以上の女の人。細長い手足に細い首、その間を白いワンピースが埋めている。
「御用?」
「あ、あの」
答えようとは思っていなかったのに、オバサンの細い茶色の目についつい、鏡子は立ち止まって言った。
「何してるの?」
「木を見てるの」
「木?」
「そうよ」
鏡子はオバサンの前の木を見た。オバサンは当たり前のことのように、木を見ながら言った。
「きれいよね。この木がいいわ。ここで一番」
「そう…かな」
おかしな人だと思った。
こんな年齢の女の人は、こんな昼間に、こんな白いワンピースを着て、こんな木の下に座っていない。
なのに、鏡子は、そのワンピース・オバサンの横に腰を降ろしてしまった。
座った時に、オバサンが一瞬鏡子の鞄を見たけど、何も言わなかった。鏡子がスカートを直すのをじっと見ている。
芝生はちくちくして痛かった。茎だろうか葉だろうか、いごいごと折れ曲がるのを嫌がるように動いて、鏡子の足を擦った。その下にある土はひんやりしていて、固くて重い感じがした。
なのに、一度そうして座ってしまうと、立ちたいとは思わなかった。公園の中に、ほかに誰もいなかったからかも知れない。
オバサンは再び木を見つめ始めた。
昼近くなった陽の光が背中に当たっている。風が収まって、辺りが静まり返っている。
オバサンは黙って木を見つめている。
「何してるのかって聞かないの」
鏡子は尋ねた。
「聞いてもいいの」
「……ううん」
聞かれても答えられない。
鏡子は首を振った。
「じゃあ、聞かないわ」
オバサンは怒ったふうでも困ったふうでもなかった。鏡子がいることさえ忘れたように、ただただ木を眺めている。
鏡子も木を見上げた。
ポプラの葉はひらひらと揺れていた。上の方ではまだ風が吹いているのだろう。薄緑の葉が重なって深緑に、翻って黄色に、塊になっては灰色がかった緑になる。
「きれいでしょ」
「そうかな」
「じっと、よく、見てごらん」
オバサンは歌うように言った。
「葉っぱの色が一つ一つ違うの。形も違う。細い筋が見える? 葉っぱの周りが薄茶色なのがわかる?」
「うん」
「今度は木を見るのよ。葉っぱを一つ一つ、心の中で重ねていって、それが枝にまとまって、幹へ降りて行くのを見るの。大きな木の力を見るの。流れている力をね。木って凄いでしょ。わかる?」
「わかんない」
「そう」
やっぱりオバサンは頷いただけだった。
鏡子はオバサンの真似をして、木を見ようとした。オバサンの言う、凄い木を見ようとした。けれども、そこにはポプラの木がざわりざわりと揺れているだけだ。
「自殺、しちゃおうかな」
「そう」
「止めないの?」
「止めて欲しいの?」
「わかんない」
「そうね」
ふいにむっとしたものが鏡子の胸の中に膨れ上がった。鏡子が何を言っても「そう」としか答えないこの人を、狼狽えさせたり慌てさせたりしたい、と思った。
「ほんとに自殺、するよ」
「どこで?」
「…ここで」
「どうやって」
「………首を吊るの」
「どうして」
「……わかんない」
オバサンはたじろがない。何か悔しくて情けなくなる。
「なんで、白いワンピース着てるの?」
「着たいから」
「変だよ」
「そうかもね」
「似合ってない」
「そうかもね」
「ぜんっぜん、似合ってない」
「そうかもね」
「あたしの言うこと、聞いてないんでしょ」
「聞いてるよ」
「似合ってないって言ってるんだよ。変だって。オバサンなのに、こんなワンピース着てさ、すっごく変。ねえ、言ってあげてんだからね。笑われるよ。やめなよ」
「ううん」
ふいにオバサンは鏡子を見た。笑っていないが怒ってもいない。ただとても、真面目に、
「私はこれを今着たいの。変でも、おかしくても、似合ってなくてもいいの。あなたがどう思っても、周りが何を言っても、私は今これを着たいの。だから、やめないわ」
風が強く吹いた。
「………どうして、そんなこと、言えるの?」
鏡子は尋ねた。
「変だって言われるの、嫌じゃない? 笑われたりすんの、嫌じゃない? 聞きたくなくても聞こえてくるの、嫌じゃない?」
「嫌よ、とっても」
オバサンは少し笑った。
「でも、あなたは私じゃないでしょ。私はここに座って、木を見るのがとても好きだけど、あなたは違うことが好きかも知れない。あなたがここで一緒に木を見てくれたら、それはとても嬉しいけど、そうじゃなくても悲しいとは思わないわ」
ポプラの枝で風が鳴った。
「……どうして、そんなに強いの?」
鏡子は呟いた。風がことばを後押ししてくれる気がして呟いた。
「あたし、いじめられてるの。何でかわかんない。悪い事なんてしてないと思うのに、あきちゃん達はあたしが悪いって言うの」
「……みんなが好きなのね」
ワンピース・オバサンは立ち上がった。
「わかんない………でも……嫌われるのはいや」
鏡子も続いて立ち上がる。
膝に草の汁がついて薄緑のシミになっている。下駄箱に入っていた泥と汚れた上靴、跳ね飛んだ泥を思い出した。
「大崎さん!」
その時、平田先生の声がした。
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