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『ワンピース・オバサン』(3)
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3.伝言ゲーム
平田先生は公園の入り口から急ぎ足にやってきた。
「大崎さん!」
「先生?」
オバサンが尋ねるのに、上の空で鏡子は頷いた。
「どうしよう。あたし、学校さぼっちゃったの……」
「理由を話してみれば?」
「だって……だって、わかんないんだもん!」
鏡子は一、二歩後ろへ下がった。
「どうしたらいいかなんて……どうしてなんて……」
「大崎さ……あ!」
もう少し先生が近づいたら逃げ出そうと構えた途端、平田先生が小さな悲鳴を上げてうずくまった。
「お腹……痛…」
「お腹?」
オバサンがきょとんとする。
「平田先生、赤ちゃんがいるの」
鏡子が言うと、オバサンはいきなり走り出した。平田先生に駆け寄って、抱きかかえるようにしながら、鏡子を振り向く。
「近くの公衆電話で救急車を呼んで! 早く、走って!」
「は、はい!」
鏡子は慌てて公園のもう片方の隅にある電話ボックスへ走った。飛び込んで、上の方にある赤いボタンを見つけ、受話器を取って電話する。
「あの…すみません、病気なんです。はい、あの、美咲が丘の公園です! あのっお願いします!」
向こうから尋ねられたことを答えるのが精一杯だった。受話器をフックに戻すのもそこそこに、電話ボックスを飛び出して平田先生のところへ駆け戻る。
平田先生は真っ青な顔でオバサンに抱えられていた。
「赤ちゃん……私の赤ちゃん……またダメになっちゃう……赤ちゃん……」
震えるような声で呟いている平田先生は、先生ではなくて普通の女の人のように見えた。頼りなくて小さくて苦しそうだ。
その足元にいつの間にか真っ赤な血が溜まっていた。どきんとして立ち竦む鏡子の前で、血は平田先生の足を伝ってどんどん落ちて流れて来る。
オバサンの白いワンピースの裾が、土と血で汚れてしわくちゃになっている。
「赤ちゃん……私の大事な赤ちゃん……」
平田先生はうわ言のように呟いていた。その先生の震える両手を握り、しっかり体を抱きかかえながら、オバサンが静かにはっきりと話しかけている。
「大丈夫。大丈夫よ。赤ちゃんは頑張ってるわ。だから、あなたも頑張らなくちゃ。あなたはお母さんなのよ。あなたが頑張らないでどうするの」
遠くからサイレンの音が聞こえてきて、鏡子は慌てて公園の入り口に向かって走った。住宅街の道路を、止めてある車に遮られながらのろのろ入って来る救急車に大きく手を振る。
「こっち! こっちです! こっちへ来て!」
救急車はようやく公園の入り口に着いた。後ろから担架を持った男の人が二人、慌ただしく降りて来る。
「こっちです!」
鏡子はその前に立って走った。
男の人達はすぐに平田先生に気がついた。険しい顔でオバサンとことばを交わしながら、平田先生を担架に乗せて運んでいく。
「鞄を取っておいで。一緒に行きましょう」
オバサンがそう言って、鏡子はぎょっとした。
「あたしも?」
「学校に連絡しておかなくてはね。それに、今、あの人には誰かがついて上げなくちゃならないわ。さあ、早く!」
鏡子はオバサンと平田先生に付き添い、救急車に乗り込んだ。
車の中に寝かされた先生の口に、薄緑のマスクが当てられている。モニターをつけた男の人は厳しい顔で画面を見上げている。
「どうなるの…」
鏡子は言いかけて口を噤んだ。きっと誰も答えられない、そんな気がしたのだ。
誰もが黙っている中で、オバサンがぎゅっと鏡子の手を握ってくれた。それから低い低い声でこう言った。
「命は伝言ゲームなのよ。生まれて来る時はね、ただ生きていて欲しいと思うだけ。何もいらない、ただ生きていてくれたらと願うだけ。そうして命を受け渡していくの。少しずつ分けて与えて離れていくの。なのに、どこかで何か、少しずつ狂って来てしまうのね。命があることだけじゃなくて、どんな命があって欲しいかなんて考え出してしまうのよ」
病院に着くや否や、平田先生は手術室へ運ばれて行った。
残された鏡子は学校の電話番号を電話帳で探し出し、オバサンが学校へ連絡してくれた。それから鏡子は家にも電話した。
『鏡子?! どこにいるの?! 学校から、飛び出したって聞いて、どんなに心配したか…』
「あの……お母様ですか」
オバサンはここでも電話を代わってくれた。
「私、片桐華子と申します。ええ…はい、そうです、大通りの本屋の片桐の家内です。少し事情がありまして……ええ」
込み入った大人同士の挨拶の後、少し話をして、ワンピース・オバサンは電話を切った。
「迎えに来てくれるって。お母さんと一緒に帰りなさい。よく頑張ったわね」
「オバサンは…」
「私はここに残るわ。先生のご家族の方がこられるまで」
片桐サンはにっこり笑った。
真っ白だったワンピースは、土で汚れてあちこち血の染みがついている。
「いいの? 用事とか……ないの?」
思わず尋ねた鏡子に、片桐サンは頷いた。
「いいのよ。私は私の人生を私のためだけに使うのはやめたの」
どういう意味なんだろう、聞いてみようか、やめようか。そうして悩んでいるうちに、手術室から
平田先生が運び出されて来た。付き添って出て来たお医者さんが首を振る。
「残念ですが……お子さんは…」
鏡子は凍りついた。
公園の入り口から急ぎ足に入って来た先生の姿を思い出した。それからお腹を抱えてうずくまったことも。
「あたしの……せいなのかな……」
「鏡子!」
片桐サンが何か言いかけた時、廊下にお母さんの声が響いた。片桐サンは少し頭を下げて、平田先生について歩いて行った。
平田先生は公園の入り口から急ぎ足にやってきた。
「大崎さん!」
「先生?」
オバサンが尋ねるのに、上の空で鏡子は頷いた。
「どうしよう。あたし、学校さぼっちゃったの……」
「理由を話してみれば?」
「だって……だって、わかんないんだもん!」
鏡子は一、二歩後ろへ下がった。
「どうしたらいいかなんて……どうしてなんて……」
「大崎さ……あ!」
もう少し先生が近づいたら逃げ出そうと構えた途端、平田先生が小さな悲鳴を上げてうずくまった。
「お腹……痛…」
「お腹?」
オバサンがきょとんとする。
「平田先生、赤ちゃんがいるの」
鏡子が言うと、オバサンはいきなり走り出した。平田先生に駆け寄って、抱きかかえるようにしながら、鏡子を振り向く。
「近くの公衆電話で救急車を呼んで! 早く、走って!」
「は、はい!」
鏡子は慌てて公園のもう片方の隅にある電話ボックスへ走った。飛び込んで、上の方にある赤いボタンを見つけ、受話器を取って電話する。
「あの…すみません、病気なんです。はい、あの、美咲が丘の公園です! あのっお願いします!」
向こうから尋ねられたことを答えるのが精一杯だった。受話器をフックに戻すのもそこそこに、電話ボックスを飛び出して平田先生のところへ駆け戻る。
平田先生は真っ青な顔でオバサンに抱えられていた。
「赤ちゃん……私の赤ちゃん……またダメになっちゃう……赤ちゃん……」
震えるような声で呟いている平田先生は、先生ではなくて普通の女の人のように見えた。頼りなくて小さくて苦しそうだ。
その足元にいつの間にか真っ赤な血が溜まっていた。どきんとして立ち竦む鏡子の前で、血は平田先生の足を伝ってどんどん落ちて流れて来る。
オバサンの白いワンピースの裾が、土と血で汚れてしわくちゃになっている。
「赤ちゃん……私の大事な赤ちゃん……」
平田先生はうわ言のように呟いていた。その先生の震える両手を握り、しっかり体を抱きかかえながら、オバサンが静かにはっきりと話しかけている。
「大丈夫。大丈夫よ。赤ちゃんは頑張ってるわ。だから、あなたも頑張らなくちゃ。あなたはお母さんなのよ。あなたが頑張らないでどうするの」
遠くからサイレンの音が聞こえてきて、鏡子は慌てて公園の入り口に向かって走った。住宅街の道路を、止めてある車に遮られながらのろのろ入って来る救急車に大きく手を振る。
「こっち! こっちです! こっちへ来て!」
救急車はようやく公園の入り口に着いた。後ろから担架を持った男の人が二人、慌ただしく降りて来る。
「こっちです!」
鏡子はその前に立って走った。
男の人達はすぐに平田先生に気がついた。険しい顔でオバサンとことばを交わしながら、平田先生を担架に乗せて運んでいく。
「鞄を取っておいで。一緒に行きましょう」
オバサンがそう言って、鏡子はぎょっとした。
「あたしも?」
「学校に連絡しておかなくてはね。それに、今、あの人には誰かがついて上げなくちゃならないわ。さあ、早く!」
鏡子はオバサンと平田先生に付き添い、救急車に乗り込んだ。
車の中に寝かされた先生の口に、薄緑のマスクが当てられている。モニターをつけた男の人は厳しい顔で画面を見上げている。
「どうなるの…」
鏡子は言いかけて口を噤んだ。きっと誰も答えられない、そんな気がしたのだ。
誰もが黙っている中で、オバサンがぎゅっと鏡子の手を握ってくれた。それから低い低い声でこう言った。
「命は伝言ゲームなのよ。生まれて来る時はね、ただ生きていて欲しいと思うだけ。何もいらない、ただ生きていてくれたらと願うだけ。そうして命を受け渡していくの。少しずつ分けて与えて離れていくの。なのに、どこかで何か、少しずつ狂って来てしまうのね。命があることだけじゃなくて、どんな命があって欲しいかなんて考え出してしまうのよ」
病院に着くや否や、平田先生は手術室へ運ばれて行った。
残された鏡子は学校の電話番号を電話帳で探し出し、オバサンが学校へ連絡してくれた。それから鏡子は家にも電話した。
『鏡子?! どこにいるの?! 学校から、飛び出したって聞いて、どんなに心配したか…』
「あの……お母様ですか」
オバサンはここでも電話を代わってくれた。
「私、片桐華子と申します。ええ…はい、そうです、大通りの本屋の片桐の家内です。少し事情がありまして……ええ」
込み入った大人同士の挨拶の後、少し話をして、ワンピース・オバサンは電話を切った。
「迎えに来てくれるって。お母さんと一緒に帰りなさい。よく頑張ったわね」
「オバサンは…」
「私はここに残るわ。先生のご家族の方がこられるまで」
片桐サンはにっこり笑った。
真っ白だったワンピースは、土で汚れてあちこち血の染みがついている。
「いいの? 用事とか……ないの?」
思わず尋ねた鏡子に、片桐サンは頷いた。
「いいのよ。私は私の人生を私のためだけに使うのはやめたの」
どういう意味なんだろう、聞いてみようか、やめようか。そうして悩んでいるうちに、手術室から
平田先生が運び出されて来た。付き添って出て来たお医者さんが首を振る。
「残念ですが……お子さんは…」
鏡子は凍りついた。
公園の入り口から急ぎ足に入って来た先生の姿を思い出した。それからお腹を抱えてうずくまったことも。
「あたしの……せいなのかな……」
「鏡子!」
片桐サンが何か言いかけた時、廊下にお母さんの声が響いた。片桐サンは少し頭を下げて、平田先生について歩いて行った。
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