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『その男』(17)
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「締めると言ってなかったか?」
総務室で高山が冷笑してきた。
「気持ちが緩むと指先も緩むんだな……部下の管理も緩みっ放しじゃないか」
何と言われても仕方がない、とは思う。
高山が居合わせたのもまずかったが、何より最近阿倍野が体調を崩したことが手痛い。
『出来たかも知れないの』
秘密を打ち明けるように吊り上がった唇。
『もう一人、子どもが居てもいいかなあって』
曖昧に微笑んだのは、生理日をわざとずらして教えられたのを見抜けないまま及んだ自分の間抜けさと、阿倍野が恋人よりも子どもに執着する相手だったというのを、いつの間にか忘れていた愚かさを思ったせいだ。
『話さないわよ、誰にも』
付き合い出した頃よりふてぶてしくなった口調はしたたかで強い。
『もちろん、私が育てるし』
でも、子育てにはいろいろお金がかかるし。
『緑川課長のこともあるでしょ?』
先行き不安になると、頼りになる人が欲しいかも。
『それに相子だって……いろいろまだ言ってくるしね』
相子と阿倍野が仲良しだとは、女の友情は不思議だ。もっとも、同じ男を巡っていると知っているのか知らないままの優越感なのかはわからないが。
とにかく、結婚を迫られるならまだましで、相手は動きのいい金づるを求めているとはっきりした。
桜木通販の課長を務めるようになって3年、地位は力を与えるだけでなく、拘束ともなることを改めて思い知る。学生の頃のように、『赤』を復活させたのはいいが、飯島が思った以上に扱いにくくなってきていた。
『いつまでも、子どもじゃいられないんで』
ぼそりと漏らしたことばに漂った奇妙な殺気、それはかつて飯島が自分に気があると思っていた女子高校生と有沢が絡んだ時にも耳にしたことがある。
『いつまでも下に居るもんじゃないってわかりました』
自暴自棄な台詞は、どこの誰から吹き込まれたのか。
所轄の有沢ではない刑事、太田とかいうのと関わり合ってからおかしくなってきた気がする。
『利用されるだけ利用されて捨てられるってことも、ありますよね、世の中には』
太田にいろいろな情報を流すかわりに利便を図ってもらう手立てを得たのは、裏社会に生きるしかなかった飯島の生き方だ。だが、それが飯島を、大人しい忠実な犬から、半歩離れたら噛みつきかねない野良犬に変えていったのも確かだろう。
ぼちぼち始末しなければならない、のに。
気がつけば、安全圏に居る自分には、飯島を無言で黙らせて処分する方法がなくなりつつある。
こういう時に頼りになっていたのは大輔だが、その大輔も。
『京介に女が出来た』
今にもぶち切れそうな苛立ちで連絡してきた。
『とんでもない女だ』
我がまま欲望剥き出しなのか、そう尋ねたが、返ってきたのは沈黙。
やがて唸るように吐き捨てた。
『お前の方が知ってるだろう』
桜木通販の流通管理課、アルバイト、伊吹美並。
名前を聞いて、ふいに脳裏に過った数々の光景。
コンビニに飛び込んできたランドセルの少女。
寺に住み込んだ祖父がいとおしんだ近所の娘。
飯島に近寄ってきた女子高校生。
あの、真崎京介が、会社内で相子を怒鳴りつけ、世間体をかなぐり捨てて迫り続けているアルバイト。
それら全てが一瞬に繋がる奇妙な震え。
まさか、そんなことがあるわけがない。
生きてきた時間の数々の曲がり角に、遮るように引き止めるように、現れる幻。
まさか、同一人物、だ、なんて?
でも、この、視界を染める、真っ白な光の束は。
ちりん。
ふいに耳の奥で鳴った風鈴、届いた、と見下ろして笑った妹の。
あのとき、自分は確かに笑った、よかった、願いを叶えられたと、そう、思って。
恨みと憎しみに満ちていたはずの記憶が、その存在一つで、消されていた後悔と悲哀に塗り替えられる。
憎んでいなかった。
愛おしかった。
過ちと言ってしまうには、背負い切れないほどの傷みで、だからこそ。
なぜ、あのとき。
一つ一つやり直せていたなら。
もっと早く、やり直せていたら。
まさか、ここにきて、こんなことを思い出すとは。
こんな想いを見つけてしまうとは。
一瞬眩んだ視界に手にしていた書類を落とした、それを高山に咎められた。
総務室で高山が冷笑してきた。
「気持ちが緩むと指先も緩むんだな……部下の管理も緩みっ放しじゃないか」
何と言われても仕方がない、とは思う。
高山が居合わせたのもまずかったが、何より最近阿倍野が体調を崩したことが手痛い。
『出来たかも知れないの』
秘密を打ち明けるように吊り上がった唇。
『もう一人、子どもが居てもいいかなあって』
曖昧に微笑んだのは、生理日をわざとずらして教えられたのを見抜けないまま及んだ自分の間抜けさと、阿倍野が恋人よりも子どもに執着する相手だったというのを、いつの間にか忘れていた愚かさを思ったせいだ。
『話さないわよ、誰にも』
付き合い出した頃よりふてぶてしくなった口調はしたたかで強い。
『もちろん、私が育てるし』
でも、子育てにはいろいろお金がかかるし。
『緑川課長のこともあるでしょ?』
先行き不安になると、頼りになる人が欲しいかも。
『それに相子だって……いろいろまだ言ってくるしね』
相子と阿倍野が仲良しだとは、女の友情は不思議だ。もっとも、同じ男を巡っていると知っているのか知らないままの優越感なのかはわからないが。
とにかく、結婚を迫られるならまだましで、相手は動きのいい金づるを求めているとはっきりした。
桜木通販の課長を務めるようになって3年、地位は力を与えるだけでなく、拘束ともなることを改めて思い知る。学生の頃のように、『赤』を復活させたのはいいが、飯島が思った以上に扱いにくくなってきていた。
『いつまでも、子どもじゃいられないんで』
ぼそりと漏らしたことばに漂った奇妙な殺気、それはかつて飯島が自分に気があると思っていた女子高校生と有沢が絡んだ時にも耳にしたことがある。
『いつまでも下に居るもんじゃないってわかりました』
自暴自棄な台詞は、どこの誰から吹き込まれたのか。
所轄の有沢ではない刑事、太田とかいうのと関わり合ってからおかしくなってきた気がする。
『利用されるだけ利用されて捨てられるってことも、ありますよね、世の中には』
太田にいろいろな情報を流すかわりに利便を図ってもらう手立てを得たのは、裏社会に生きるしかなかった飯島の生き方だ。だが、それが飯島を、大人しい忠実な犬から、半歩離れたら噛みつきかねない野良犬に変えていったのも確かだろう。
ぼちぼち始末しなければならない、のに。
気がつけば、安全圏に居る自分には、飯島を無言で黙らせて処分する方法がなくなりつつある。
こういう時に頼りになっていたのは大輔だが、その大輔も。
『京介に女が出来た』
今にもぶち切れそうな苛立ちで連絡してきた。
『とんでもない女だ』
我がまま欲望剥き出しなのか、そう尋ねたが、返ってきたのは沈黙。
やがて唸るように吐き捨てた。
『お前の方が知ってるだろう』
桜木通販の流通管理課、アルバイト、伊吹美並。
名前を聞いて、ふいに脳裏に過った数々の光景。
コンビニに飛び込んできたランドセルの少女。
寺に住み込んだ祖父がいとおしんだ近所の娘。
飯島に近寄ってきた女子高校生。
あの、真崎京介が、会社内で相子を怒鳴りつけ、世間体をかなぐり捨てて迫り続けているアルバイト。
それら全てが一瞬に繋がる奇妙な震え。
まさか、そんなことがあるわけがない。
生きてきた時間の数々の曲がり角に、遮るように引き止めるように、現れる幻。
まさか、同一人物、だ、なんて?
でも、この、視界を染める、真っ白な光の束は。
ちりん。
ふいに耳の奥で鳴った風鈴、届いた、と見下ろして笑った妹の。
あのとき、自分は確かに笑った、よかった、願いを叶えられたと、そう、思って。
恨みと憎しみに満ちていたはずの記憶が、その存在一つで、消されていた後悔と悲哀に塗り替えられる。
憎んでいなかった。
愛おしかった。
過ちと言ってしまうには、背負い切れないほどの傷みで、だからこそ。
なぜ、あのとき。
一つ一つやり直せていたなら。
もっと早く、やり直せていたら。
まさか、ここにきて、こんなことを思い出すとは。
こんな想いを見つけてしまうとは。
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