『闇を闇から』番外編

segakiyui

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『その男』(20)

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「機嫌がいいね」
「え?」
 ふいにトイレで話しかけられて瞬きをする。
 富崎がぼんやりとした眠たげな顔で隣で用を足している。
 社内で結婚相手としていつも候補にあがるこの男のこの顔は、実は要注意だと知っている。
「仕事がどれほどうまくいっても、満足した顔をしないと思ったんだが」
 八歳年上。
 もうしばらく時間がたてば、それぐらいの差はなくなるだろうが、30代始めと間もなく40代、この差の大きさをわからないほど世間知らずでもない。
「一時期のことを思えば順調でしょう?」
 にこやかに返す。
「厳しい時期があったけれど」
 今は流通管理の真崎さん、人事の高山さん、品質管理の細田さんに総務の富崎さん、優秀な人材が揃って会社は安定発展の時を迎えている。
「経理の自分はいれないのか?」
 同じようなにこやかさで返されて、苦笑した。
「まだまだです」
「真崎さんは結婚するそうだね」
「伊吹さんとでしょう」
 お似合いですね。
「君は?」
「……まだまだですよ」
 落ち着くほどの仕事もしていないし。
「富崎さんこそ、ご結婚は?」
「いい歳なのにな」
 相手が同じように苦笑を返して胸の中でほくそ笑む。
「噂話ばかり、ですか」
「……考えないことはなかったが」
 一瞬沈黙して、富崎は側を離れた。さりげなくその後を追いかけるのは、一緒に居て不愉快ではなかったことを感じさせるため、いつも通り丁寧に手を洗う富崎の隣で蛇口の下に手を伸ばす。
「……結婚と恋愛は違う」
「…お目当ての方がおられるんですか」
 吹き出す水を受けながら、ほどほどに突っ込んでみた。
「一緒に暮らしたいと思ったんだ」
 富崎が照れもせずにさらりと言ってのけ、社内ではないなと当たりをつけた。
「気持ちだけで暮らせるわけもない」
「そうですね」
「……僕は、彼女は怖いな」
「え?」
「伊吹さん」
 真崎さんはよく結婚する気になったと思うよ、と小さく笑った。
「鋭すぎて息が詰まりそうになる」
「富崎さんが?」
 安心安全を絵に描いたような相手が、伊吹の何を恐れるというのか。
「人間って、結構どろどろしてるもんじゃないか?」
 綺麗なハンカチを取り出して手を拭く。
「そういうのを見せたくない時もある」
「ああ、なるほど」
 大輔の展開しているサークルや『赤』なんかは、そのどろどろしたものの塊というところか。
「真崎さんは大丈夫なのかな」
「そういう部分が少ないんじゃないのかな」
 いつもクールだし、冷静沈着、慌てたところなど見たことないですよ。
「いや、そうでもなさそうだ、こと彼女のことになると。けれど」
 富崎はふと考え込むような遠い視線を鏡に投げた。
「真崎さんは何だかどんどん伸びやかになっていく気がするな」
 あれほど鋭い恋人を側に置いて、息苦しくなるどころか、逆に固く凍っていたものが溶け出していくような鮮やかさだ、と富崎は呟いた。
「…未完成だったのかもしれないな」
「未完成?」
「……真崎京介という男は、実はまだまだ成長途中だったのかもしれない」
 初めて富崎の声に淡い羨望が漂った。
「じゃあ、伊吹さんは触媒、というやつですか」
「触媒?」
「彼女に触れると、眠っていた才能とか力が目覚めて、次のステージへ進める、みたいな」
 言いかけて、ぞくりと背筋が震えた。
 そうかもしれない。
 今まさに、それが起こっているのかも知れない。
 『羽鳥』もまた、ひょっとすると新たな活躍の場所を見つけるということかもしれない。
「だが、その代償に、今まで保っていたものを壊しもする…」
 富崎が低く付け加えた。
「富崎さん?」
「…………真崎さんだけじゃない、高山さんも変わっている」
 君もだろう?
「え」
 ふいに振り向かれて視線のやり場に困った。まっすぐに受け止める目、富崎の大きな瞳がじっと見据えてくる。
「変わってますか」
「機嫌がよくなったよ」
 前は何をやっても楽しそうじゃなかったのに。
「今は生き生きしている」
 ひやりとした。
 肩を竦め、よくわからないという顔を装い反撃する。
「富崎さんは? 変わったんですか」
「………時間を無駄にした、と」
「時間を?」
「もっと早く強く踏み込むべきときに踏み込めばよかったよ」
 そうか、と富崎は暗い笑みを浮かべた。
「伊吹さんの怖さは、自分が何を失ったか、思い出させるってことだな」
 ちりん。
「…どうした?」
「いえ…」
 頭上で、風鈴が鳴って、足が竦む。
 先に行くぞ、と側を過ぎる富崎を、追えなかった。
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