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2.シーン202ーーシーン118(4)
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脚本を受け取り捲りかけたが、カミソリの傷は結構深くて痛むものだ。日にちがたてば楽になるのだろうが、指先の敏感な神経をささくれ立った木で撫で上げられた気がして、思わず顔を歪める。
「あ、オレ、捲ろうか」
修一の表情に気づいたのか、部屋を汚しプレゼントを踏み散らかした代償と言わんばかりに、急いで垣が脚本を取り上げる。
(滝、そっくり)
今度はふわりと笑ってしまった。
「速かったり遅かったりしたら言ってくれよ」
「うん」
1ページずつ、覗き込む修一の視線を見ながら頁を捲ってくれる垣の仕草に、心のどこかが静かに吐息をつくのがわかる。ほっとしている。安堵している。これ以上傷つけられずに済む、そう呟く声が聴こえてくる。
(僕が…くつろいでる……?)
垣の行動は、ただ単に映画界のサラブレッドとしての修一に対するへつらいかも知れないのに。修一のコネにすり寄る、あまたの大人達と同じなのかも知れないのに。
(これじゃ、まるで周一郎の行動の繰り返しじゃないか)
自分の心の動きに戸惑う、それこそ『まるで』周一郎の想いをトレースするように。
(こんなこと、初めてだ)
どれほど当たり役だと言われても、常に『演技』からずれたことはない、なのに今、見えない何かに絡めとられていくような気分になる。
不安になり落ち着かなくなって、修一は脚本に必死に集中した。と、その途端、視界に飛び込んできた但し書きに、思わず声を上げた。
「えーっ」
眉をしかめて一気に読み下す。
「君は周一郎の変化を演じ切れていない。君の周一郎は一番始めの、滝に会ったばかりの周一郎と同じだ……だって? 冗談じゃない、僕はちゃんとやってる」
むっとして立ち上がり、部屋のDVDプレイヤーに近寄った。
「へえ、DVDあるのか」
羨ましげな垣の声が耳に入ってくる。
(垣さんの所にはDVDないのかな)
ふと、垣はどんな所に住んでいるのだろうと思った。マンションかアパートか。部屋の作りはどうなっているのか。どんなものが置かれているのか。好きな本やゲームや、いや、『誰か』と暮らしているのだろうか。
それも、今までの共演者には感じたことのない興味、けれど、それを深く考える前に、修一は流れ始めた映像に意識を戻した。
TV放映された『猫たちの時間』のDVD、スペシャルボックスには修一が周一郎の格好で微笑んだり、猫を抱いたり、豪華な屋敷の豪奢な椅子に座ってこちらを凝視してきたり、つまりは、『そういうもの』に騒ぎそうな女性達向けのフォトブックがついている。
「あ…」
側に居た垣が何が映ったのかに気づき、居心地悪そうにもじもじした。1度や2度は見ているはずだ、引き攣ったような顔でそろそろと顔を背けたり、怖いもの見たさか、ちらりと横目で眺めたりしている。
やがて、物語は周一郎と滝の、初めての出会いの場面に進んでいった。
高価そうな装飾品や調度を配置した応接間。2人の青年がソファに腰をかけている。1人はまあまあのハンサム、もう1人はお世辞にも整っているとは言い難い、けれどその薄ぼんやりとしたお人好しそうな微笑みが、何となく視線を魅きつける男。
2人に寄り添っていくカメラが後者の視線を追いかけてゆっくりとテーブルに落ちる。おそらくは一品ものと思える二客のティーセットを鮮やかに照らす明るい色の紅茶、しっかりと盛り上げられたクリームの間にきらきらといちごの粒が光るショートケーキは、皿の中央に鎮座しているだけで甘い香りが想像出来る。
『にゃあお』
唐突に猫の声が画面の外から響いた。ハンサムな男、つまり山根役が端整な顔を強張らせた。体を竦め、けれど腰が浮いている。山根は、隣の滝が膝の上に猫を載せているのを見つけて、顔を引き攣らせて何やら文句を言い始めた。せっかくの端整さが台無しだ。
と、滝がニッと不吉な笑みを浮かべた。
『行け』『にゃあああああ』『うわあっ』
猫は何に驚いたのか山根に飛びつく。しがみつきかけた猫を、山根役の男が巧みに首を引っ掴み、自分に引き寄せながら引きはがそうとする『演技』を続ける。見事なものだ、どう見ても猫に悪意があって山根を追い詰めているようにしか見えない。
滝、いや、垣はその名演技の隣でいそいそとケーキにフォークを突き刺していた。空腹感を出すための演技とはわかるが、隣であれほどの騒ぎが起こっているのに、ただ淡々とケーキを食べているのは頂けない。紅茶も1杯、2杯と立て続けに流し込み、これは演技ではなく小さくげっぷして、一瞬吐きそうな顔になった。
これも覚えている。数テイク重ねていたから、ケーキは結構な数が入った。紅茶もだ。満腹寸前だったはず、けれど、それは『物語』とは違う。この滝は『空腹で今にもぶっ倒れそう』なはずなのだ。
それをはみ出してしまえば、『物語』は壊れてしまう。その境界を越えそうな演技に、見ていた客の誰もが、おいおい、と突っ込みたくなっただろう、その矢先、くすくすくす、と時ならぬ軽やかな笑い声が画面の外から響く。
『ルト』
声が猫を呼び、猫が山根の相手を止めて床に飛び降りた。そのまましなやかに画面の外の声の主に向かっていく。それを背後から追っていくカメラは、やがて猫が抱き上げられるのと同時に、声の主、つまり朝倉周一郎をゆっくりと下から舐めていった。
細身のスラックス、伸ばされた手首に纏われたシャツとスーツ、品のいいネクタイとベスト、皺一つないラペルとカラー、そして、周一郎の顔のアップ。まだ幼さを残した少年に不似合いな、冷たい黒のサングラス。
『き、君は…その猫が!』
今度は山根が画面の外からきいきい喚く。それを平然と聞き流して、周一郎は猫を抱いたまま画面を横切り、滝と山根の前に腰を降ろす。膝に抱えられた青灰色の猫が喉を鳴らすのを、指先で応える仕草、画面に強烈な印象を残す鮮やかな微笑。
『非礼は謝ります』
人に心を許さぬような冷たい声音が響く。
『ところで、あなた方がぼくの遊び相手になろうというんですか?』
山根がいきり立って、名を名乗れ、と迫った。
『ぼくは朝倉周一郎、朝倉家の当主です。自己紹介をどうぞ』
傲慢とも言える口調、年齢にそぐわぬ威圧感に押されて、山根が咳払いして自己紹介を始める。その山根と、同時に隣の滝を値踏みするかのような周一郎の表情…。
「、」
修一はどきりとした。
今まで気づきもしなかったことを一つ、思いついた。
(そうか…)
何が違うのかを考えていた。周一郎の何が変化したのかを。
(周一郎が滝を試す気持ちが違うんだ)
『猫たちの時間』も『月下魔術師』も、周一郎は滝を試す。
けれど、『猫たちの時間』の方は自分の計画に使えるのか使えないのか、もし使えなければ捨ててしまえという試し方だ。対して、『月下魔術師』の方は、滝が周一郎のことを切り捨ててほしくないと思いながらも試さずにはいられない試し方だ。
(滝への思い入れが全く違う…)
なるほど、そういう眼で見れば、確かに修一の周一郎は同じことしかやっていない。意地っ張りな周一郎が滝の心を信じられるか試している、そこまでしか考えなかった。
「そっか…」
修一はプレイヤーを止めた。夢から醒めたようにびくりとして、食い入るように眺めていた姿勢から体を建て直す垣の横顔に、滝の姿を重ねてみる。
(ただ、試したんじゃない)
『月下魔術師』の周一郎は、試したくなかったのだ。試したくないのに、試さざるを得ない自分や、そういう成り行きを密かに負担に感じていた。
(きっと、言ってほしかった、ここに居てもいい、って)
それは、無意識の甘え、だ。
『月下魔術師』の周一郎は、気づかずに滝に甘えていた。
「垣さん…」
「ん?」
「今日、止まっていったら」
気づくとそう誘っていた。
「もう最終、ないよ」
「え、ええっ、あっ、もう1時か…」
驚いた垣は茫然とし、時計を確認して憮然とする。そんなに時間たってたか。いつの間にだ、そうぼやきながら、ふいにはっとしたように修一を振り向く。
「あ、けど、友樹さん達は」
へたに入り込んでたら迷惑だよな、けどやっぱ随分遅いんだな、とわたわたしつつ、その一方で会えることを期待しているような顔で玄関の方を振り返る垣に苦笑する。
「おとうさん達は、ほとんどここに住んでないんだ」
「へ?」
「僕、大抵1人だし」
「あの…?」
訝しげにきょろきょろと周囲を見回す。
ああ、ひょっとして数年前の『お宅訪問』記事を読んだりしてるのかな、と修一は苦笑を深める。あれは確かにこのマンションだったし、一家団欒の気配も演出されてたし、寝室やプライベートルームにも父親や母親の個人的なものが結構持ち込まれていたけれど。
(そんなわけ、ないじゃん)
双方とも売れっ子の役者ならば、日常生活の時間をひねり出すのは至難の技、ましてや母親が料理したり、父親が趣味の本を開きながら穏やかにコーヒータイム、なんて時間が存在するわけもない。
「1人…?」
垣の視線がソファに乗っている毛布、そこに座らされていた『ると』を眺め、ようやく周囲に全く人の気配がないのに気づいた顔で呟いた。
「1人で、『ここ』で寝てる、のか」
「あ、あのさ」
ふいに不安になった。こんなソファで寝るとか、この後ずっと修一に付き合わされるとか考えてるだろうか。
「ちゃんと寝室で寝てもらっていいから。僕はここでいいし、寝室は使わないから」
「………」
垣は不思議な表情で修一を見やった。少し考える。
「じゃ、そうしようか」
寝室はどっち、と聞かれたから、あっち、と指差す。立ち上がってすたすたと部屋を出て行く垣の後ろ姿、もう寝るつもりなのかなと思い、何だかふいと、自分とそれほど一緒に居たくないのかと思って。
(ちぇ……ちぇ…?)
唇を尖らせかけた自分に気づいてぎょっとした。
(何で?)
その疑問を突き詰める前に、垣が寝室から戻ってくる。なぜか布団を抱えている。
「垣さん?」
きょとんとして首を傾げると、相手はにちゃ、と笑った。
「オレもこっちで寝る。見て来たけど、ああいう立派な寝室ってのは、寝た気にならねえよ。構わねえよな?」
「あ、うん」
(一緒に寝てくれるんだ)
無造作になれた様子で布団にくるまり、ごろりと絨毯の上に横になる垣見て、何だかひどくほっとした。
「電気、消すね」
「ああ」
「明日目覚まし鳴るから」
「わかった」
「オヤスミナサイ」
口に出したことばが、妙に空々しくて浮ついていて、現実のことばなのに芝居の台詞のように空回りしていて、修一は戸惑う。
「おやすみ」
眠たげな垣の声に応じて灯を消す。部屋の隅の小さな灯だけが残る室内、いつもならぴりぴりきりきりとしてなかなか眠れないのに、ソファに戻るあたりで、もうふわふわと眠い感じがしてきた。
「……おやすみ、なさい」
今度はちょっと『人のことば』になった気がする。
既に垣は寝息をたてている。気持ち良さそうな、くったりと警戒心一つない呼吸が繰り返されるのが、波音のように遠くなり近くなり。
(おやすみなさい……垣さん)
胸の中で呟いたことばが、今まで聞いたことがないほど明るく澄んでいて、その響きに聞き惚れながら、修一は優しい眠りに落ちていった。
「あ、オレ、捲ろうか」
修一の表情に気づいたのか、部屋を汚しプレゼントを踏み散らかした代償と言わんばかりに、急いで垣が脚本を取り上げる。
(滝、そっくり)
今度はふわりと笑ってしまった。
「速かったり遅かったりしたら言ってくれよ」
「うん」
1ページずつ、覗き込む修一の視線を見ながら頁を捲ってくれる垣の仕草に、心のどこかが静かに吐息をつくのがわかる。ほっとしている。安堵している。これ以上傷つけられずに済む、そう呟く声が聴こえてくる。
(僕が…くつろいでる……?)
垣の行動は、ただ単に映画界のサラブレッドとしての修一に対するへつらいかも知れないのに。修一のコネにすり寄る、あまたの大人達と同じなのかも知れないのに。
(これじゃ、まるで周一郎の行動の繰り返しじゃないか)
自分の心の動きに戸惑う、それこそ『まるで』周一郎の想いをトレースするように。
(こんなこと、初めてだ)
どれほど当たり役だと言われても、常に『演技』からずれたことはない、なのに今、見えない何かに絡めとられていくような気分になる。
不安になり落ち着かなくなって、修一は脚本に必死に集中した。と、その途端、視界に飛び込んできた但し書きに、思わず声を上げた。
「えーっ」
眉をしかめて一気に読み下す。
「君は周一郎の変化を演じ切れていない。君の周一郎は一番始めの、滝に会ったばかりの周一郎と同じだ……だって? 冗談じゃない、僕はちゃんとやってる」
むっとして立ち上がり、部屋のDVDプレイヤーに近寄った。
「へえ、DVDあるのか」
羨ましげな垣の声が耳に入ってくる。
(垣さんの所にはDVDないのかな)
ふと、垣はどんな所に住んでいるのだろうと思った。マンションかアパートか。部屋の作りはどうなっているのか。どんなものが置かれているのか。好きな本やゲームや、いや、『誰か』と暮らしているのだろうか。
それも、今までの共演者には感じたことのない興味、けれど、それを深く考える前に、修一は流れ始めた映像に意識を戻した。
TV放映された『猫たちの時間』のDVD、スペシャルボックスには修一が周一郎の格好で微笑んだり、猫を抱いたり、豪華な屋敷の豪奢な椅子に座ってこちらを凝視してきたり、つまりは、『そういうもの』に騒ぎそうな女性達向けのフォトブックがついている。
「あ…」
側に居た垣が何が映ったのかに気づき、居心地悪そうにもじもじした。1度や2度は見ているはずだ、引き攣ったような顔でそろそろと顔を背けたり、怖いもの見たさか、ちらりと横目で眺めたりしている。
やがて、物語は周一郎と滝の、初めての出会いの場面に進んでいった。
高価そうな装飾品や調度を配置した応接間。2人の青年がソファに腰をかけている。1人はまあまあのハンサム、もう1人はお世辞にも整っているとは言い難い、けれどその薄ぼんやりとしたお人好しそうな微笑みが、何となく視線を魅きつける男。
2人に寄り添っていくカメラが後者の視線を追いかけてゆっくりとテーブルに落ちる。おそらくは一品ものと思える二客のティーセットを鮮やかに照らす明るい色の紅茶、しっかりと盛り上げられたクリームの間にきらきらといちごの粒が光るショートケーキは、皿の中央に鎮座しているだけで甘い香りが想像出来る。
『にゃあお』
唐突に猫の声が画面の外から響いた。ハンサムな男、つまり山根役が端整な顔を強張らせた。体を竦め、けれど腰が浮いている。山根は、隣の滝が膝の上に猫を載せているのを見つけて、顔を引き攣らせて何やら文句を言い始めた。せっかくの端整さが台無しだ。
と、滝がニッと不吉な笑みを浮かべた。
『行け』『にゃあああああ』『うわあっ』
猫は何に驚いたのか山根に飛びつく。しがみつきかけた猫を、山根役の男が巧みに首を引っ掴み、自分に引き寄せながら引きはがそうとする『演技』を続ける。見事なものだ、どう見ても猫に悪意があって山根を追い詰めているようにしか見えない。
滝、いや、垣はその名演技の隣でいそいそとケーキにフォークを突き刺していた。空腹感を出すための演技とはわかるが、隣であれほどの騒ぎが起こっているのに、ただ淡々とケーキを食べているのは頂けない。紅茶も1杯、2杯と立て続けに流し込み、これは演技ではなく小さくげっぷして、一瞬吐きそうな顔になった。
これも覚えている。数テイク重ねていたから、ケーキは結構な数が入った。紅茶もだ。満腹寸前だったはず、けれど、それは『物語』とは違う。この滝は『空腹で今にもぶっ倒れそう』なはずなのだ。
それをはみ出してしまえば、『物語』は壊れてしまう。その境界を越えそうな演技に、見ていた客の誰もが、おいおい、と突っ込みたくなっただろう、その矢先、くすくすくす、と時ならぬ軽やかな笑い声が画面の外から響く。
『ルト』
声が猫を呼び、猫が山根の相手を止めて床に飛び降りた。そのまましなやかに画面の外の声の主に向かっていく。それを背後から追っていくカメラは、やがて猫が抱き上げられるのと同時に、声の主、つまり朝倉周一郎をゆっくりと下から舐めていった。
細身のスラックス、伸ばされた手首に纏われたシャツとスーツ、品のいいネクタイとベスト、皺一つないラペルとカラー、そして、周一郎の顔のアップ。まだ幼さを残した少年に不似合いな、冷たい黒のサングラス。
『き、君は…その猫が!』
今度は山根が画面の外からきいきい喚く。それを平然と聞き流して、周一郎は猫を抱いたまま画面を横切り、滝と山根の前に腰を降ろす。膝に抱えられた青灰色の猫が喉を鳴らすのを、指先で応える仕草、画面に強烈な印象を残す鮮やかな微笑。
『非礼は謝ります』
人に心を許さぬような冷たい声音が響く。
『ところで、あなた方がぼくの遊び相手になろうというんですか?』
山根がいきり立って、名を名乗れ、と迫った。
『ぼくは朝倉周一郎、朝倉家の当主です。自己紹介をどうぞ』
傲慢とも言える口調、年齢にそぐわぬ威圧感に押されて、山根が咳払いして自己紹介を始める。その山根と、同時に隣の滝を値踏みするかのような周一郎の表情…。
「、」
修一はどきりとした。
今まで気づきもしなかったことを一つ、思いついた。
(そうか…)
何が違うのかを考えていた。周一郎の何が変化したのかを。
(周一郎が滝を試す気持ちが違うんだ)
『猫たちの時間』も『月下魔術師』も、周一郎は滝を試す。
けれど、『猫たちの時間』の方は自分の計画に使えるのか使えないのか、もし使えなければ捨ててしまえという試し方だ。対して、『月下魔術師』の方は、滝が周一郎のことを切り捨ててほしくないと思いながらも試さずにはいられない試し方だ。
(滝への思い入れが全く違う…)
なるほど、そういう眼で見れば、確かに修一の周一郎は同じことしかやっていない。意地っ張りな周一郎が滝の心を信じられるか試している、そこまでしか考えなかった。
「そっか…」
修一はプレイヤーを止めた。夢から醒めたようにびくりとして、食い入るように眺めていた姿勢から体を建て直す垣の横顔に、滝の姿を重ねてみる。
(ただ、試したんじゃない)
『月下魔術師』の周一郎は、試したくなかったのだ。試したくないのに、試さざるを得ない自分や、そういう成り行きを密かに負担に感じていた。
(きっと、言ってほしかった、ここに居てもいい、って)
それは、無意識の甘え、だ。
『月下魔術師』の周一郎は、気づかずに滝に甘えていた。
「垣さん…」
「ん?」
「今日、止まっていったら」
気づくとそう誘っていた。
「もう最終、ないよ」
「え、ええっ、あっ、もう1時か…」
驚いた垣は茫然とし、時計を確認して憮然とする。そんなに時間たってたか。いつの間にだ、そうぼやきながら、ふいにはっとしたように修一を振り向く。
「あ、けど、友樹さん達は」
へたに入り込んでたら迷惑だよな、けどやっぱ随分遅いんだな、とわたわたしつつ、その一方で会えることを期待しているような顔で玄関の方を振り返る垣に苦笑する。
「おとうさん達は、ほとんどここに住んでないんだ」
「へ?」
「僕、大抵1人だし」
「あの…?」
訝しげにきょろきょろと周囲を見回す。
ああ、ひょっとして数年前の『お宅訪問』記事を読んだりしてるのかな、と修一は苦笑を深める。あれは確かにこのマンションだったし、一家団欒の気配も演出されてたし、寝室やプライベートルームにも父親や母親の個人的なものが結構持ち込まれていたけれど。
(そんなわけ、ないじゃん)
双方とも売れっ子の役者ならば、日常生活の時間をひねり出すのは至難の技、ましてや母親が料理したり、父親が趣味の本を開きながら穏やかにコーヒータイム、なんて時間が存在するわけもない。
「1人…?」
垣の視線がソファに乗っている毛布、そこに座らされていた『ると』を眺め、ようやく周囲に全く人の気配がないのに気づいた顔で呟いた。
「1人で、『ここ』で寝てる、のか」
「あ、あのさ」
ふいに不安になった。こんなソファで寝るとか、この後ずっと修一に付き合わされるとか考えてるだろうか。
「ちゃんと寝室で寝てもらっていいから。僕はここでいいし、寝室は使わないから」
「………」
垣は不思議な表情で修一を見やった。少し考える。
「じゃ、そうしようか」
寝室はどっち、と聞かれたから、あっち、と指差す。立ち上がってすたすたと部屋を出て行く垣の後ろ姿、もう寝るつもりなのかなと思い、何だかふいと、自分とそれほど一緒に居たくないのかと思って。
(ちぇ……ちぇ…?)
唇を尖らせかけた自分に気づいてぎょっとした。
(何で?)
その疑問を突き詰める前に、垣が寝室から戻ってくる。なぜか布団を抱えている。
「垣さん?」
きょとんとして首を傾げると、相手はにちゃ、と笑った。
「オレもこっちで寝る。見て来たけど、ああいう立派な寝室ってのは、寝た気にならねえよ。構わねえよな?」
「あ、うん」
(一緒に寝てくれるんだ)
無造作になれた様子で布団にくるまり、ごろりと絨毯の上に横になる垣見て、何だかひどくほっとした。
「電気、消すね」
「ああ」
「明日目覚まし鳴るから」
「わかった」
「オヤスミナサイ」
口に出したことばが、妙に空々しくて浮ついていて、現実のことばなのに芝居の台詞のように空回りしていて、修一は戸惑う。
「おやすみ」
眠たげな垣の声に応じて灯を消す。部屋の隅の小さな灯だけが残る室内、いつもならぴりぴりきりきりとしてなかなか眠れないのに、ソファに戻るあたりで、もうふわふわと眠い感じがしてきた。
「……おやすみ、なさい」
今度はちょっと『人のことば』になった気がする。
既に垣は寝息をたてている。気持ち良さそうな、くったりと警戒心一つない呼吸が繰り返されるのが、波音のように遠くなり近くなり。
(おやすみなさい……垣さん)
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