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3.シーン306(1)
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「よーし、カット!」
「垣さんっ」
「あらら、もう飛んでった」
スタッフの一人が苦笑まじりに、垣の側に駆け寄っていく修一を見る。
「このごろ、あの二人しょっちゅう一緒ですね、山本さん」
「お、高野」
山本と呼ばれた男は、珍しく手持ち無沙汰に手近の空き箱に腰を降ろしている相手ににやりと笑いかける。
「暇そうだな」
「まあね」
高野は軽く頷き、垣にじゃれついている修一を見やる。
「最近、1シーン終わるごとにああでしょ」
「前はいろいろうるさかったのにな」
「そうですよ!」
高野は大仰に頷く。
「1シーン終って、飲み物と椅子が準備できてないと、たちまち機嫌が悪くなったんですからね」
「こっちで見てても大変だと思ってたよ」
ポケットから出した煙草を銜えながら、山本は高野の隣に腰を降ろす。ちょいと譲った高野が、勧められた煙草に軽く手を振って断り、吸うと匂いがきっちり残るでしょ、と苦笑いする。
「お前さんがオレンジジュースとミルクのどっちを用意するかで苦労してたのも知ってるしな」
「暑い日だからと思ってジュースの方を用意しとくと、『ホットミルクちょうだい』でしょ。時々、急に葉っぱで入れた紅茶が欲しいなんて言い出されて、近所のスーパーに飛び込んだこともあったんですよ。ちゃんと『お好み』を満たさないと、佐野さんと修一さんの両方からお小言くらうし」
「修一『さん』なんてよせよ、修一でいいじゃないか」
「そうはいきませんよ」
ひょいと高野は肩を竦めて、いたずらっぽく笑って見せる。
「壁に耳あり、障子に眼あり。いつ足下を掬われるかわかんない業界ですからね」
暗にあんたも油断ならないよ、と言ってるのを、山本はさらりと流す。
「大変だな、お前さんも」
しみじみと同情したような声音は偽りではないだろうが、本音でもあるまい。
修一は撮り終わった垣に、まとわりつくように話しかけている。
ほんの少し前までは親しげであっても、あんな風にあからさまに甘えるような仕草はしなかった。垣に話しかけるのは演技についてのことがほとんどだったし、大抵はむっつりと自分専用の椅子に腰掛けているのが常だった。それこそ、ごくたまにはしゃいで垣に話しかけることはあっても、かなり機嫌のいい時か取材陣が取り巻いている時に限られていた。
なのに、今の修一の様子は、どう見ても年齢相応、或いは、それ以下の子どもが、大人に相手にしてもらおうと一所懸命にご機嫌とりをしているように見える。
「おーお、無邪気な面して…」
「垣さんが戸惑ってますね」
「そりゃ、ああいう修一の態度には慣れとらんだろう」
「でも…」
「ん?」
「どうしてなんでしょうね」
「何が」
「どうして急に、修一さん、垣さんにくっつきだしたんだろう」
「さあな」
山本は垣がコードに躓いて派手にこけるのに吹き出す。
「ドジの見本みたいな奴だな」
呟いて、笑い声をたてながら垣に駆け寄っていく修一に、興味深そうに目を光らせた。
「また気まぐれなんじゃないのか。修一だって、ここで伊達に10年も役者やってるわけじゃないし、相手役とうまくいかなきゃ『映画(もの)』がうまくいかないことぐらいわかってるだろ」
「それだけかな」
高野は考え込んだ顔になった。
「ねえ垣さん」
甘えているようにしか思えない修一の声が響く。
「お昼食べに行こうよ」
誘われた垣は困惑顔で何やらぼそぼそと受け答えし、修一は小首を傾げて頷く。
「うん、でも気分転換も必要だって。そういうこと、今までなかった?」
今一つ乗り気ではないらしい垣を、何とかなだめすかそうとする気配、友樹修一がそこまで執着し下手に出るのも滅多に見られない光景だ。
「ああしてるとまるっきりのガキなんだがな」
山本がぽつりと呟いた。
「……ま、親がああでなけりゃ、あいつもただのガキさ」
修一の複雑な環境を一瞬思い、けれどそれ以上踏む込むことなく切り捨てる。
「そうですよね、まだ14だから」
高野はその暗い響きに気づかないまま、淡々と応じて立ち上がった。要望がなく機嫌がいいからと言って、修一を一人で放置していたら、また佐野にどやされる。
「ま、あいつがいる限り、お前さんは暇になる」
くい、と山本が顎をしゃくって垣を示す。
「格好のおもちゃで遊んでるうちは機嫌がいいさ」
「じゃあ、垣さんはちょっとした福の神ですか」
「気をつけてねえとひらひらとどこかへ飛ばされそうな『紙』だがな」
「人が悪いですよ、山本さん」
くつくつ嗤う相手を、本気で窘める様子もなく、高野はにやにや笑いを広げた。
(ったく、どうしたっていうんだ?)
垣は訳がわからないまま、自分にまとわりつく修一に眼を落とす。
(からかってる、ってわけでもなさそうだし)
きゅん、と人なつこい子犬を思わせる仕草で修一が振り返り、垣がちゃんと付いて来ていると確認して、露骨に嬉しそうな顔になる。
とにかく最近、修一はやたらと垣の側にくっついていたがる。ひどい時には一場面終るごとにいそいそと駆け寄ってきて、それでいて、別に打ち合わせや演技の指摘があるわけじゃない。疲れちゃったとか、暑いねとか、本当に他愛のないぼやき半分、時に飲み物を飲むかと尋ねられたり、昼になれば御飯を一緒に食べに行こうと誘われたり、仲のいい友人二人がたまたま同じ現場ででくわして、大変だけど協力してやっていこうな、と言い交わすような顔で垣を見る。
何か魂胆があるにしては、邪気のなさすぎる表情だ。
(まあ、こいつは『名子役』だから、その気になれば、どんな『ふり』だって出来るんだろうが)
そういうもので懐柔されるのは面白くない、かと言って、もし修一が本気で、何か心境の変化があって垣を認めてくれているのだとすれば、千載一遇のチャンス、修一とのコネは今まで辿りつけなかった未来へ垣を引き上げてくれるだろうし、手放すわけにはいかない関係……そんなこんなを考えて、つい足下への注意がおろそかになり、のたうっていたコードに躓いてこける。
「ぶ!」
「垣さん!」
少し先を歩いていた修一が慌て気味に駆け戻ってくる、まるで小さな弟が転んでしまったのを心配するように。怪我はしていないかと不安がる顔で覗き込んできて、垣が衝撃に眼を白黒させているのに、明るく笑う。
「凄いや、こんなところでもこけられるんだから、やっぱり垣さんは凄いね」
「ちぇっ」
それは褒めてんのかよ、どっちかと言うと嘲笑ってるんじゃねえのかよ。
舌打ちしてやさぐれた呟きを心の中で漏らしたものの、修一があまりにもあっけらかんと笑っているので、怒る気も失せてしまった。
もそもそと起き上がる垣を、修一は大人しくじっと待っている。その様子がひどく小さな子どもに見えて、ふいに、この少年が自分と10歳ほども違うのだと気づいた。
(小さく見えるはずだよな)
思い出したのは、先日訪れた、修一のマンションでの出来事だ。
ベルを鳴らし、ノックをし、声かけしても返答がなかった。終電間近の街は大声を出し続けるには静か過ぎた。このまま帰ろうかと思った頭に過ったのは、伊勢監督の無能呼ばわり、ええいままよ、とノブを回せば、意外にあっさり開いてぎょっとした。
こんな夜に施錠もしていないなんて、しかも友樹夫妻のマンションにおいてはあり得ないだろう。ひょっとすると、何か異変が起こって、それで鍵を開けたまま出て行ったか、或いは中でとんでもないことになっているか。
ごくりと唾を呑み込んだ垣の頭には、このマンションが売れっ子俳優夫婦の家にしてはこじんまり過ぎるとか、あからさまに私宅アピールがうさん過ぎるとか言う結論はない。
奥の方でがさがさと何かが動く、つまりは人の気配がしたのを良い事に、そうっと部屋の中へ忍び入る。
だが、飛び込んで来たのは、あまりにも予想外の光景だった。
部屋の中に広がる鮮やかな色の洪水。おもちゃ箱をひっくり返したような光景の中で、一際赤い滴りに指先を濡らしてへたり込んでいる修一の姿。
ぎょっとして踏み込んでいろいろ手当をしてしまってから我に返り、修一とことばを交わすうちに気がついた、あまりにも寒々とした生活感のない部屋の様子。
(ここには誰も住んでねえのか?)
ようやく頭に過ったのは、このマンションがたびたび『友樹夫妻の私宅』として取材され公開されることがあるという事実、ついでに、大物俳優の家にしてはお粗末すぎるセキュリティ。
けれど、その中に修一は居る、場所の確保に置き去られて忘れられた物のように。
なだれ込むようにDVDを見ることになって、そこで改めて自分の才能のなさとか、隣ではしゃぐガキの凄さとか、まあそういうなんだかんだの鬱屈を背負わされたものの、泊まっていけと言った修一の顔にためらった時、部屋の冷たさが重なった。
ソファに載せられっ放しらしい毛布、小さな猫のぬいぐるみ、その瞳に映る天井のシャンデリア、火の気のないダイニング・ルーム、冷えきって埃が溜まりつつある寝室。
(どこもかしこも物置みたいじゃねえか)
自分を泊まらせようとあれやこれやとことばを重ねる修一が、いつものように自分のドジを嘲笑う名子役の友樹修一ではなく、どこにでもいるような、しかも孤独で人の熱に飢えている14歳の子どものように見えた。不安げで頼りなげな表情、だがそれも一瞬のこと、『泊まる』と応じてしまうと、幻のようにかき消された顔だったが。
(まんまと乗せられちまった、んだろうな)
垣は心の中で溜め息をつく。
相手は友樹修一、希代の名子役、それをDVDでまざまざ示されていたと言うのに。
修一の外面の良さにあしらわれている周囲の大人やファン達を嗤えたもんじゃない。
(オレはよっぽどバカなんだな)
考えつつも、何度思い出しても、あの時の修一はとても1人で残せないような感じがした、そう思って、また苦く笑う。
(才能以下だ)
本当に役者には向いてないんだろう。
「何食べる、垣さん?」
話しかけてくる修一の端整な横顔を見つめ返す。
役者は相手の気持ちを動かし、引き出し、行動を促す。
それが仕事だ。
あの夜の修一の意図はわからない。夜中に何を仕掛けられることもなかったし、泊まったことをネタに何か要求されることもなかった。
だが、この先もそういうことが一切ないとは言い切れない。
(今度は一体何をやらせようって言うんだ)
警戒心は募る。
「ねえ垣さん」
ふいと修一が垣を振り仰いだ。
「あ、ああ」
無邪気で可愛らしいじゃないか、そう感じたのを無理矢理押さえ込む。
「そうだな、オレは何でもいい」
「そう。じゃ、ここ入ろ」
慣れた様子で近くに開いた扉に向かう修一。周囲を見ると、似たような店はいろいろあるようだが、最初からそこを目当てにやってきたと取れなくもない。あえて違いがあるとしたら、こじんまりとしたファミリーレストラン風に見えて、店の看板がごく小さく、メニューらしきものが一切掲げられていないというところか。開いた戸口の向こうでは、やや年配のギャルソン風の男性が、穏やかに微笑みつつ、こちらに視線を合わせてくる。
たぶん、修一の好みの、つまりはいささか高級な店。
(金…あったかな)
「いらっしゃいませ」
「席は空いてる?」
「こちらへ」
修一の、聞きようによっては傲岸不遜な問いかけに相手は不満そうな気配さえない。静かに会釈して、垣もゆったりと迎え入れ、窓際の整えられた席に案内してくれる。
濃い色のテーブルクロス、座席に入った二人にシックな色合いの革張りのメニューが届けられる。
(おいいいっ)
値段を見て垣は絶句する。
(昼間だぞ昼間)
誰がこんなディナー並のレベルの店で食うんだ?
うろたえを隠して、それでも一番安いピラフ単品を選ぶ垣に、修一がくすくすと楽しげに笑う。
(こういうところが!)
むかつくんだよな、こいつ。
垣は唇をねじ曲げ、窓の外へ視線を向けた。
「たーだいまっ、と」
足取り軽くドアを開けて、修一はマンションの部屋に戻ってきた。
「今日は早く終って良かったですね」
高野が背中から声をかけながら、続いて入ってくる。
「うん! ほら、まだ夕方だよ!」
ぽん、とソファに飛び乗りながら、修一は上機嫌で答えた。
「何にします? 紅茶ですか? コーヒーですか……それともホットミルクですか?」
いつものように几帳面に高野が尋ねる。
「何でもいいよ」
それほど喉も乾いていないし、これといって飲みたいものもない。だから何でもいいや、そんな程度に気軽く応じた。
「『ると』っ、ただいまっ」
ひょいとぬいぐるみの首ねっこを摘んで持ち上げ、その鼻面に自分の鼻を押しつけた修一は、動きのない、いやそれどころか、答えのない高野の方を訝しく見やった。
うろたえるかと思った高野は、世にも奇妙な表情でこちらを見返してくる。
「……どうしたの?」
「あ…あの…」
複雑な表情、引き攣っているのか驚いているのか、まるで鼻先で風船が割れた子犬のように、ぴん、と体を張って止まっている。こういうのを何て言うんだっけ、と修一は一瞬視線を泳がせて考える。
うん、『鳩が豆鉄砲を食らったような』、か。
(豆鉄砲って何だったっけ?)
違う方向へ思考を外しかけた修一の注意を引きつけるように、高野が口を開く。
「あの、何でもいいって」
「うん、何でもいいけど」
おかしなこと言ったかな? ちゃんとした日本語だよね?
「変な高野さん」
思わずくすりと笑うと、相手はなおさら奇妙な顔になった。
「あの…」
何度か唾を呑み込み、ようよう高野はことばを絞り出した。
「何か、言って下さい」
「は?」
「その…」
もじもじと不安そうに体を動かす。
「何でもいいって言われると、逆に困って…」
「ああ、そうか、うん、そうだよね」
ようやく腑に落ちた。命令に慣れているから、命令されないと動けなくなるってわけ。
準備しやすい好きなものを選べばいいのに、と思いながら、修一は思わずくくくっ、と喉の奥で笑ってしまった。
「じゃ、紅茶」
「はい! 紅茶ですね!」
ほっとした顔で、いそいそと高野がダイニング・ルームに駆け込んでいく。
やれやれ。
「佐野さん」
修一は『ると』を抱きかかえながら、背後を振り向いた。
「はい」
二人のやりとりをじっと見守っていたらしい、佐野のひんやりとした黒い瞳にぶつかった。
「明日のスケジュールは?」
「映画撮りがメインです。休憩の間はCDとDVDと色紙にサインを」
「いいよ、何枚?」
再び『ると』を覗き込む。
「各500枚ほど。販売促進用ですので、それほど数は不要です」
全国のショップにばらまく予定ですが、小さな店には置きませんし。
「各500枚、ね…」
さすがにちょっと溜め息が出た。
(それって休憩なしってことだよな)
脳裏を横切ったのは、撮影の合間に細かな仕事を言いつけられている垣の姿。役者だけじゃ食っていけないからな、とスタッフに苦笑いしていた横顔を思い出して、微笑んだ。
「でもいいや、出来なくはない。ね、『ると』」
(だって、垣さんだって役者の合間にスタッフの仕事をしてるんだし)
修一がサインをするCDやDVDや色紙が、映画の人気の後押しをしてくれたりファン層を広げてくれるなら、それは垣にとっても嬉しいことだろうし。
(少しは頑張ったなって言ってくれるかな)
『ると』のガラス玉の瞳は肯定するように修一を見上げてくる。
「紅茶、入りました」
高野が盆にティーカップを載せて戻ってきた。
「ありがとう」
修一がかけたことばに、高野はがちん、と置きかけたカップをテーブルにぶつけた。
「あ、す、すみませんっ」
(何慌ててんだろ)
不思議に思いつつも、
「高野さんや佐野さんも飲んだら?」
また一瞬高野の動きが止まり、けれど今度はすぐに動き出して、何か佐野と意味ありげな目配せを交わした。
「残念ですが」
佐野が淡々といつもの口調で応答する。
「私はまだ仕事が残っていますので」
「仕事?」
修一はきょとんとした。佐野が修一が上がってからも仕事を残すのは珍しい。ふと気づいて尋ねてみる。
「……おとうさんの?」
「ええ、まあ」
佐野はことばを濁した。これもまた珍しい。けれど、そう思ったのは一瞬、修一はすぐに高野を振り向く。
「高野さんは?」
「あ、と…今日は駄目なんです、すみません、修一さん」
「ふうん…」
「では、これで失礼します」「次、お付き合いしますから」
「うん」
佐野に引き続き、そそくさと高野も部屋を出て行ったのを見送り、修一は小さく吐息をついた。
「せっかく時間が空いたのにさ」
紅茶を一気に飲み干し、ソファにもたれる。
「2人とも用事があるんだってさ、『ると』」
1人になって無意識に気が緩んだのか、思わずふわわわあ、と欠伸を漏らした。
昨日は結局3時間しか眠っていない。滅多にかかることのないいたずら電話に時間を取られたのだ。さっさと切ってしまえばよかったのに、何となくずるずると相手をしてしまい、半分寝落ちるような感じで終らせた気がする。
「あ…それを佐野さんに言うの、忘れた」
2人が出て行って数分経っている。ドアを振り返ったが、とっくに1階エントランスは出ているだろう。もう1回セキュリティを解除してまで呼び戻すほどのことでもないかと思い直し、修一は伸びをした。
「……なんか、眠るの、もったいないな」
眠い気もするけど、これだけの自由時間は最近ほとんどない。いつも次の仕事のためにばかり備えて、こんなにぽっかり空いた時間などなかった。
「そう思うだろ、『ると』。皆、まだ起きてるんだし」
窓に近寄って夜景に変わりつつある街を眺め、見下ろして街路樹の下の道路を歩き続ける人々を眺めた。
心なしか、皆はしゃいでいるように見える。仕事からようやく解放された、そんな浮き立つ気持ちが透けるような、数人でふざけ合いながら歩くものもいる。これからどこへ行くのだろう。カラオケか居酒屋か、誰かの部屋か。
「楽しそう…だな」
修一だって、この業界に入ってなければ、今頃は学校の友人達とじゃれ合いながら、近くのコンビニやファミレスに入り、新しく出たゲームや今夜のTVやネットの話で賑やかに過ごしていただろう。明日の学校は鬱陶しいが、今日の学校はもう終った。今は何にも縛られない。自由な時間を楽しんでいたはずだ。
「『ると』」
振り返らぬまま、修一はソファのぬいぐるみに呼びかけた。
「垣さんって、どこに住んでるんだろ」
お前、知ってる?
振り向き、戻ってきて、ソファにひっくり返る。天井のシャンデリアは眩くきらきら光りながら、瞳に光を飛び込ませてくる。
「監督に聞けばわかるかな」
窓の外は次第に暗くなってくる。明るい室内が窓ガラスに映って浮かび上がる、まるで世界にはこの部屋しか存在しないみたいに。
よく見知ったその光景を見ないように、修一はシャンデリアを見上げ続けた。
「DVDデッキ、ないんだって。演技がうまくなんないはずだよね、自分の演技確認できないんだしさ……そうだ、『ると』」
閃いた考えにむくりと体を起こした。
「垣さん呼んでさ、ここでDVD見ようか。遅くなるなら、この前みたいに泊まってもらえばいいんだし」
どうせ明日も撮影だ。同じ所へ出勤するのだ。ついでに一緒に佐野か高野に送ってもらえばいい。
『ると』はぱっちりとした眼で修一を見上げているだけだ。
「うん、そうしよ」
修一は部屋の電話の受話器を取り上げた。
「あ……もしもし…はい、友樹修一です。はい……はい……あ、伊勢監督に………あ、監督、修一です。はい…ありがとうございます。またよろしくご指導お願いします……いえ、実は垣さんに連絡を取りたくて……は? まさか……あ…じゃあ、住所でいいです……はい……はい」
聞き取った内容を素早くメモする。やがて通話を終えてくるりと振り向いた修一は、芝居がかった呆れ顔で、指先に挟んだメモを『ると』に向かってひらひらさせた。
「信じられないよ、『ると』。垣さんのところ、電話がないんだって。ケータイも今電池切れらしいってさ。直接行くしかないよ」
脱ぎ捨てたジャケットを羽織ろうとした矢先、激しい勢いでドアが開いてぎょっとした。
「お、かあさん…?」
「垣さんっ」
「あらら、もう飛んでった」
スタッフの一人が苦笑まじりに、垣の側に駆け寄っていく修一を見る。
「このごろ、あの二人しょっちゅう一緒ですね、山本さん」
「お、高野」
山本と呼ばれた男は、珍しく手持ち無沙汰に手近の空き箱に腰を降ろしている相手ににやりと笑いかける。
「暇そうだな」
「まあね」
高野は軽く頷き、垣にじゃれついている修一を見やる。
「最近、1シーン終わるごとにああでしょ」
「前はいろいろうるさかったのにな」
「そうですよ!」
高野は大仰に頷く。
「1シーン終って、飲み物と椅子が準備できてないと、たちまち機嫌が悪くなったんですからね」
「こっちで見てても大変だと思ってたよ」
ポケットから出した煙草を銜えながら、山本は高野の隣に腰を降ろす。ちょいと譲った高野が、勧められた煙草に軽く手を振って断り、吸うと匂いがきっちり残るでしょ、と苦笑いする。
「お前さんがオレンジジュースとミルクのどっちを用意するかで苦労してたのも知ってるしな」
「暑い日だからと思ってジュースの方を用意しとくと、『ホットミルクちょうだい』でしょ。時々、急に葉っぱで入れた紅茶が欲しいなんて言い出されて、近所のスーパーに飛び込んだこともあったんですよ。ちゃんと『お好み』を満たさないと、佐野さんと修一さんの両方からお小言くらうし」
「修一『さん』なんてよせよ、修一でいいじゃないか」
「そうはいきませんよ」
ひょいと高野は肩を竦めて、いたずらっぽく笑って見せる。
「壁に耳あり、障子に眼あり。いつ足下を掬われるかわかんない業界ですからね」
暗にあんたも油断ならないよ、と言ってるのを、山本はさらりと流す。
「大変だな、お前さんも」
しみじみと同情したような声音は偽りではないだろうが、本音でもあるまい。
修一は撮り終わった垣に、まとわりつくように話しかけている。
ほんの少し前までは親しげであっても、あんな風にあからさまに甘えるような仕草はしなかった。垣に話しかけるのは演技についてのことがほとんどだったし、大抵はむっつりと自分専用の椅子に腰掛けているのが常だった。それこそ、ごくたまにはしゃいで垣に話しかけることはあっても、かなり機嫌のいい時か取材陣が取り巻いている時に限られていた。
なのに、今の修一の様子は、どう見ても年齢相応、或いは、それ以下の子どもが、大人に相手にしてもらおうと一所懸命にご機嫌とりをしているように見える。
「おーお、無邪気な面して…」
「垣さんが戸惑ってますね」
「そりゃ、ああいう修一の態度には慣れとらんだろう」
「でも…」
「ん?」
「どうしてなんでしょうね」
「何が」
「どうして急に、修一さん、垣さんにくっつきだしたんだろう」
「さあな」
山本は垣がコードに躓いて派手にこけるのに吹き出す。
「ドジの見本みたいな奴だな」
呟いて、笑い声をたてながら垣に駆け寄っていく修一に、興味深そうに目を光らせた。
「また気まぐれなんじゃないのか。修一だって、ここで伊達に10年も役者やってるわけじゃないし、相手役とうまくいかなきゃ『映画(もの)』がうまくいかないことぐらいわかってるだろ」
「それだけかな」
高野は考え込んだ顔になった。
「ねえ垣さん」
甘えているようにしか思えない修一の声が響く。
「お昼食べに行こうよ」
誘われた垣は困惑顔で何やらぼそぼそと受け答えし、修一は小首を傾げて頷く。
「うん、でも気分転換も必要だって。そういうこと、今までなかった?」
今一つ乗り気ではないらしい垣を、何とかなだめすかそうとする気配、友樹修一がそこまで執着し下手に出るのも滅多に見られない光景だ。
「ああしてるとまるっきりのガキなんだがな」
山本がぽつりと呟いた。
「……ま、親がああでなけりゃ、あいつもただのガキさ」
修一の複雑な環境を一瞬思い、けれどそれ以上踏む込むことなく切り捨てる。
「そうですよね、まだ14だから」
高野はその暗い響きに気づかないまま、淡々と応じて立ち上がった。要望がなく機嫌がいいからと言って、修一を一人で放置していたら、また佐野にどやされる。
「ま、あいつがいる限り、お前さんは暇になる」
くい、と山本が顎をしゃくって垣を示す。
「格好のおもちゃで遊んでるうちは機嫌がいいさ」
「じゃあ、垣さんはちょっとした福の神ですか」
「気をつけてねえとひらひらとどこかへ飛ばされそうな『紙』だがな」
「人が悪いですよ、山本さん」
くつくつ嗤う相手を、本気で窘める様子もなく、高野はにやにや笑いを広げた。
(ったく、どうしたっていうんだ?)
垣は訳がわからないまま、自分にまとわりつく修一に眼を落とす。
(からかってる、ってわけでもなさそうだし)
きゅん、と人なつこい子犬を思わせる仕草で修一が振り返り、垣がちゃんと付いて来ていると確認して、露骨に嬉しそうな顔になる。
とにかく最近、修一はやたらと垣の側にくっついていたがる。ひどい時には一場面終るごとにいそいそと駆け寄ってきて、それでいて、別に打ち合わせや演技の指摘があるわけじゃない。疲れちゃったとか、暑いねとか、本当に他愛のないぼやき半分、時に飲み物を飲むかと尋ねられたり、昼になれば御飯を一緒に食べに行こうと誘われたり、仲のいい友人二人がたまたま同じ現場ででくわして、大変だけど協力してやっていこうな、と言い交わすような顔で垣を見る。
何か魂胆があるにしては、邪気のなさすぎる表情だ。
(まあ、こいつは『名子役』だから、その気になれば、どんな『ふり』だって出来るんだろうが)
そういうもので懐柔されるのは面白くない、かと言って、もし修一が本気で、何か心境の変化があって垣を認めてくれているのだとすれば、千載一遇のチャンス、修一とのコネは今まで辿りつけなかった未来へ垣を引き上げてくれるだろうし、手放すわけにはいかない関係……そんなこんなを考えて、つい足下への注意がおろそかになり、のたうっていたコードに躓いてこける。
「ぶ!」
「垣さん!」
少し先を歩いていた修一が慌て気味に駆け戻ってくる、まるで小さな弟が転んでしまったのを心配するように。怪我はしていないかと不安がる顔で覗き込んできて、垣が衝撃に眼を白黒させているのに、明るく笑う。
「凄いや、こんなところでもこけられるんだから、やっぱり垣さんは凄いね」
「ちぇっ」
それは褒めてんのかよ、どっちかと言うと嘲笑ってるんじゃねえのかよ。
舌打ちしてやさぐれた呟きを心の中で漏らしたものの、修一があまりにもあっけらかんと笑っているので、怒る気も失せてしまった。
もそもそと起き上がる垣を、修一は大人しくじっと待っている。その様子がひどく小さな子どもに見えて、ふいに、この少年が自分と10歳ほども違うのだと気づいた。
(小さく見えるはずだよな)
思い出したのは、先日訪れた、修一のマンションでの出来事だ。
ベルを鳴らし、ノックをし、声かけしても返答がなかった。終電間近の街は大声を出し続けるには静か過ぎた。このまま帰ろうかと思った頭に過ったのは、伊勢監督の無能呼ばわり、ええいままよ、とノブを回せば、意外にあっさり開いてぎょっとした。
こんな夜に施錠もしていないなんて、しかも友樹夫妻のマンションにおいてはあり得ないだろう。ひょっとすると、何か異変が起こって、それで鍵を開けたまま出て行ったか、或いは中でとんでもないことになっているか。
ごくりと唾を呑み込んだ垣の頭には、このマンションが売れっ子俳優夫婦の家にしてはこじんまり過ぎるとか、あからさまに私宅アピールがうさん過ぎるとか言う結論はない。
奥の方でがさがさと何かが動く、つまりは人の気配がしたのを良い事に、そうっと部屋の中へ忍び入る。
だが、飛び込んで来たのは、あまりにも予想外の光景だった。
部屋の中に広がる鮮やかな色の洪水。おもちゃ箱をひっくり返したような光景の中で、一際赤い滴りに指先を濡らしてへたり込んでいる修一の姿。
ぎょっとして踏み込んでいろいろ手当をしてしまってから我に返り、修一とことばを交わすうちに気がついた、あまりにも寒々とした生活感のない部屋の様子。
(ここには誰も住んでねえのか?)
ようやく頭に過ったのは、このマンションがたびたび『友樹夫妻の私宅』として取材され公開されることがあるという事実、ついでに、大物俳優の家にしてはお粗末すぎるセキュリティ。
けれど、その中に修一は居る、場所の確保に置き去られて忘れられた物のように。
なだれ込むようにDVDを見ることになって、そこで改めて自分の才能のなさとか、隣ではしゃぐガキの凄さとか、まあそういうなんだかんだの鬱屈を背負わされたものの、泊まっていけと言った修一の顔にためらった時、部屋の冷たさが重なった。
ソファに載せられっ放しらしい毛布、小さな猫のぬいぐるみ、その瞳に映る天井のシャンデリア、火の気のないダイニング・ルーム、冷えきって埃が溜まりつつある寝室。
(どこもかしこも物置みたいじゃねえか)
自分を泊まらせようとあれやこれやとことばを重ねる修一が、いつものように自分のドジを嘲笑う名子役の友樹修一ではなく、どこにでもいるような、しかも孤独で人の熱に飢えている14歳の子どものように見えた。不安げで頼りなげな表情、だがそれも一瞬のこと、『泊まる』と応じてしまうと、幻のようにかき消された顔だったが。
(まんまと乗せられちまった、んだろうな)
垣は心の中で溜め息をつく。
相手は友樹修一、希代の名子役、それをDVDでまざまざ示されていたと言うのに。
修一の外面の良さにあしらわれている周囲の大人やファン達を嗤えたもんじゃない。
(オレはよっぽどバカなんだな)
考えつつも、何度思い出しても、あの時の修一はとても1人で残せないような感じがした、そう思って、また苦く笑う。
(才能以下だ)
本当に役者には向いてないんだろう。
「何食べる、垣さん?」
話しかけてくる修一の端整な横顔を見つめ返す。
役者は相手の気持ちを動かし、引き出し、行動を促す。
それが仕事だ。
あの夜の修一の意図はわからない。夜中に何を仕掛けられることもなかったし、泊まったことをネタに何か要求されることもなかった。
だが、この先もそういうことが一切ないとは言い切れない。
(今度は一体何をやらせようって言うんだ)
警戒心は募る。
「ねえ垣さん」
ふいと修一が垣を振り仰いだ。
「あ、ああ」
無邪気で可愛らしいじゃないか、そう感じたのを無理矢理押さえ込む。
「そうだな、オレは何でもいい」
「そう。じゃ、ここ入ろ」
慣れた様子で近くに開いた扉に向かう修一。周囲を見ると、似たような店はいろいろあるようだが、最初からそこを目当てにやってきたと取れなくもない。あえて違いがあるとしたら、こじんまりとしたファミリーレストラン風に見えて、店の看板がごく小さく、メニューらしきものが一切掲げられていないというところか。開いた戸口の向こうでは、やや年配のギャルソン風の男性が、穏やかに微笑みつつ、こちらに視線を合わせてくる。
たぶん、修一の好みの、つまりはいささか高級な店。
(金…あったかな)
「いらっしゃいませ」
「席は空いてる?」
「こちらへ」
修一の、聞きようによっては傲岸不遜な問いかけに相手は不満そうな気配さえない。静かに会釈して、垣もゆったりと迎え入れ、窓際の整えられた席に案内してくれる。
濃い色のテーブルクロス、座席に入った二人にシックな色合いの革張りのメニューが届けられる。
(おいいいっ)
値段を見て垣は絶句する。
(昼間だぞ昼間)
誰がこんなディナー並のレベルの店で食うんだ?
うろたえを隠して、それでも一番安いピラフ単品を選ぶ垣に、修一がくすくすと楽しげに笑う。
(こういうところが!)
むかつくんだよな、こいつ。
垣は唇をねじ曲げ、窓の外へ視線を向けた。
「たーだいまっ、と」
足取り軽くドアを開けて、修一はマンションの部屋に戻ってきた。
「今日は早く終って良かったですね」
高野が背中から声をかけながら、続いて入ってくる。
「うん! ほら、まだ夕方だよ!」
ぽん、とソファに飛び乗りながら、修一は上機嫌で答えた。
「何にします? 紅茶ですか? コーヒーですか……それともホットミルクですか?」
いつものように几帳面に高野が尋ねる。
「何でもいいよ」
それほど喉も乾いていないし、これといって飲みたいものもない。だから何でもいいや、そんな程度に気軽く応じた。
「『ると』っ、ただいまっ」
ひょいとぬいぐるみの首ねっこを摘んで持ち上げ、その鼻面に自分の鼻を押しつけた修一は、動きのない、いやそれどころか、答えのない高野の方を訝しく見やった。
うろたえるかと思った高野は、世にも奇妙な表情でこちらを見返してくる。
「……どうしたの?」
「あ…あの…」
複雑な表情、引き攣っているのか驚いているのか、まるで鼻先で風船が割れた子犬のように、ぴん、と体を張って止まっている。こういうのを何て言うんだっけ、と修一は一瞬視線を泳がせて考える。
うん、『鳩が豆鉄砲を食らったような』、か。
(豆鉄砲って何だったっけ?)
違う方向へ思考を外しかけた修一の注意を引きつけるように、高野が口を開く。
「あの、何でもいいって」
「うん、何でもいいけど」
おかしなこと言ったかな? ちゃんとした日本語だよね?
「変な高野さん」
思わずくすりと笑うと、相手はなおさら奇妙な顔になった。
「あの…」
何度か唾を呑み込み、ようよう高野はことばを絞り出した。
「何か、言って下さい」
「は?」
「その…」
もじもじと不安そうに体を動かす。
「何でもいいって言われると、逆に困って…」
「ああ、そうか、うん、そうだよね」
ようやく腑に落ちた。命令に慣れているから、命令されないと動けなくなるってわけ。
準備しやすい好きなものを選べばいいのに、と思いながら、修一は思わずくくくっ、と喉の奥で笑ってしまった。
「じゃ、紅茶」
「はい! 紅茶ですね!」
ほっとした顔で、いそいそと高野がダイニング・ルームに駆け込んでいく。
やれやれ。
「佐野さん」
修一は『ると』を抱きかかえながら、背後を振り向いた。
「はい」
二人のやりとりをじっと見守っていたらしい、佐野のひんやりとした黒い瞳にぶつかった。
「明日のスケジュールは?」
「映画撮りがメインです。休憩の間はCDとDVDと色紙にサインを」
「いいよ、何枚?」
再び『ると』を覗き込む。
「各500枚ほど。販売促進用ですので、それほど数は不要です」
全国のショップにばらまく予定ですが、小さな店には置きませんし。
「各500枚、ね…」
さすがにちょっと溜め息が出た。
(それって休憩なしってことだよな)
脳裏を横切ったのは、撮影の合間に細かな仕事を言いつけられている垣の姿。役者だけじゃ食っていけないからな、とスタッフに苦笑いしていた横顔を思い出して、微笑んだ。
「でもいいや、出来なくはない。ね、『ると』」
(だって、垣さんだって役者の合間にスタッフの仕事をしてるんだし)
修一がサインをするCDやDVDや色紙が、映画の人気の後押しをしてくれたりファン層を広げてくれるなら、それは垣にとっても嬉しいことだろうし。
(少しは頑張ったなって言ってくれるかな)
『ると』のガラス玉の瞳は肯定するように修一を見上げてくる。
「紅茶、入りました」
高野が盆にティーカップを載せて戻ってきた。
「ありがとう」
修一がかけたことばに、高野はがちん、と置きかけたカップをテーブルにぶつけた。
「あ、す、すみませんっ」
(何慌ててんだろ)
不思議に思いつつも、
「高野さんや佐野さんも飲んだら?」
また一瞬高野の動きが止まり、けれど今度はすぐに動き出して、何か佐野と意味ありげな目配せを交わした。
「残念ですが」
佐野が淡々といつもの口調で応答する。
「私はまだ仕事が残っていますので」
「仕事?」
修一はきょとんとした。佐野が修一が上がってからも仕事を残すのは珍しい。ふと気づいて尋ねてみる。
「……おとうさんの?」
「ええ、まあ」
佐野はことばを濁した。これもまた珍しい。けれど、そう思ったのは一瞬、修一はすぐに高野を振り向く。
「高野さんは?」
「あ、と…今日は駄目なんです、すみません、修一さん」
「ふうん…」
「では、これで失礼します」「次、お付き合いしますから」
「うん」
佐野に引き続き、そそくさと高野も部屋を出て行ったのを見送り、修一は小さく吐息をついた。
「せっかく時間が空いたのにさ」
紅茶を一気に飲み干し、ソファにもたれる。
「2人とも用事があるんだってさ、『ると』」
1人になって無意識に気が緩んだのか、思わずふわわわあ、と欠伸を漏らした。
昨日は結局3時間しか眠っていない。滅多にかかることのないいたずら電話に時間を取られたのだ。さっさと切ってしまえばよかったのに、何となくずるずると相手をしてしまい、半分寝落ちるような感じで終らせた気がする。
「あ…それを佐野さんに言うの、忘れた」
2人が出て行って数分経っている。ドアを振り返ったが、とっくに1階エントランスは出ているだろう。もう1回セキュリティを解除してまで呼び戻すほどのことでもないかと思い直し、修一は伸びをした。
「……なんか、眠るの、もったいないな」
眠い気もするけど、これだけの自由時間は最近ほとんどない。いつも次の仕事のためにばかり備えて、こんなにぽっかり空いた時間などなかった。
「そう思うだろ、『ると』。皆、まだ起きてるんだし」
窓に近寄って夜景に変わりつつある街を眺め、見下ろして街路樹の下の道路を歩き続ける人々を眺めた。
心なしか、皆はしゃいでいるように見える。仕事からようやく解放された、そんな浮き立つ気持ちが透けるような、数人でふざけ合いながら歩くものもいる。これからどこへ行くのだろう。カラオケか居酒屋か、誰かの部屋か。
「楽しそう…だな」
修一だって、この業界に入ってなければ、今頃は学校の友人達とじゃれ合いながら、近くのコンビニやファミレスに入り、新しく出たゲームや今夜のTVやネットの話で賑やかに過ごしていただろう。明日の学校は鬱陶しいが、今日の学校はもう終った。今は何にも縛られない。自由な時間を楽しんでいたはずだ。
「『ると』」
振り返らぬまま、修一はソファのぬいぐるみに呼びかけた。
「垣さんって、どこに住んでるんだろ」
お前、知ってる?
振り向き、戻ってきて、ソファにひっくり返る。天井のシャンデリアは眩くきらきら光りながら、瞳に光を飛び込ませてくる。
「監督に聞けばわかるかな」
窓の外は次第に暗くなってくる。明るい室内が窓ガラスに映って浮かび上がる、まるで世界にはこの部屋しか存在しないみたいに。
よく見知ったその光景を見ないように、修一はシャンデリアを見上げ続けた。
「DVDデッキ、ないんだって。演技がうまくなんないはずだよね、自分の演技確認できないんだしさ……そうだ、『ると』」
閃いた考えにむくりと体を起こした。
「垣さん呼んでさ、ここでDVD見ようか。遅くなるなら、この前みたいに泊まってもらえばいいんだし」
どうせ明日も撮影だ。同じ所へ出勤するのだ。ついでに一緒に佐野か高野に送ってもらえばいい。
『ると』はぱっちりとした眼で修一を見上げているだけだ。
「うん、そうしよ」
修一は部屋の電話の受話器を取り上げた。
「あ……もしもし…はい、友樹修一です。はい……はい……あ、伊勢監督に………あ、監督、修一です。はい…ありがとうございます。またよろしくご指導お願いします……いえ、実は垣さんに連絡を取りたくて……は? まさか……あ…じゃあ、住所でいいです……はい……はい」
聞き取った内容を素早くメモする。やがて通話を終えてくるりと振り向いた修一は、芝居がかった呆れ顔で、指先に挟んだメモを『ると』に向かってひらひらさせた。
「信じられないよ、『ると』。垣さんのところ、電話がないんだって。ケータイも今電池切れらしいってさ。直接行くしかないよ」
脱ぎ捨てたジャケットを羽織ろうとした矢先、激しい勢いでドアが開いてぎょっとした。
「お、かあさん…?」
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