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4.シーン119(2)
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「…ん、…ふ」
(何だ…?)
妙に温かいな。
垣は小さく息を吐いて身動きし、目を開けた。ぼんやりと霞んだ視界は、時間とともに次第にくっきりと明瞭になる。
(えっと……ここは…)
垣はゆっくりとあちらこちらを見回した。
視界左側に美しい曲線で彫り上げられた家具、机の脚か。右側はもわもわふかふかした朧げな影、瞬きをして絨毯だと気づくと、体の下からそれが続いていることを感じた。視線を斜めに上げれば、天井にきらびやかなシャンデリア、広々とした空間は、明らかに自分の部屋ではない。
どこかで微かな寝息が聞こえる。もう一度瞬きして、自分の右側にある熱源に目を凝らす。
「友樹君…」
思い出した。
結局夕べはソファで眠り込んでしまった友樹を起こすに忍びなくて、垣もそのまま居間の絨毯に寝転んで眠ってしまったのだ。掛け物はなかったが、室温は快適、毛足の長い絨毯はひょっとすると自宅の布団よりも柔らかくて、結構気持ち良く眠ってしまった。
修一はその垣の隣に、小さな子どもが肉親の温もりを求めて潜り込むように、引きずってきた毛布にくるりと丸まって眠っている。垣が身動きしたのも気づかぬままだ。熟睡している修一の頬に陽射しがちらつき、長い睫毛の淡い影が躍っている。
「いつのまに来たんだ?」
夜中に目を覚ましたのか。
(…で、何で俺の側に?)
不安と恐怖、先行きの見えない展開に、誰か『大人』が欲しくなったのか。
「……ガキ…だもんなあ…」
確かに仕事ではしたたかにタフに生き延びてきても、その外にある現実が狂い出せば、仮想世界の実力はあまりにも役に立たない。
うん、と手を上げて伸びをした。と、指先に何かが当たり、指を引く前に落ちて来たものが顔を直撃した。
「ぶわ!」「ん……垣さん?」
声に目覚めたのだろう、むくりと体を起こし、目を擦りながら垣の方を見た修一が、落ちて来ているものに『襲われている』垣に吹き出す。昨日のことなど忘れてしまったような明るい笑い声だ。
「何だぁ…」
とっさに身構えてしまった自分が恥ずかしくて、熱くなった顔をごまかしながら落ちて来た物を摘まみ上げると、修一のぬいぐるみだ。舌打ちしながら唸る。
「ぬいぐるみのくせに人を襲いやがって」
「『ぬいぐるみ』じゃないよ、『ると』って言うんだ」
修一はまだ笑いながら手を差し伸べた。その手にほい、と青灰色の毛に金目を光らせた猫のぬいぐるみを放り投げながら、顔をしかめる。
「……昨日もそれを呼んだろ」
「え?」
「寝言でさ、『ると』って」
「……うん」
修一はふいと表情をなくした。腕の中に抱えたぬいぐるみを見下ろす。瞬時に、修一の中から気力が消え、中身が根こそぎどこかへ行ってしまったようだ。
(おかしな奴)
垣は立ち上がり、修一が投げ出した毛布を畳んだ。
(普通呼ぶか? 14の男がぬいぐるみの名前を、寝言で?)
それを言うなら、まずぬいぐるみに名前をつけているあたりから突っ込んだほうがいいのか。
(父親か、母親の名前ならまだしも)
あんなことがあった夜なのだ、唸されても仕方ない。
確かに、子どもの命に関わる(それも殺されかけたかも知れない)事故に駆けつけない友樹夫妻に幾分がっかりはしていたが、まあ仕事第一の厳しさの現れと言えなくもないし、佐野や高野への信頼かも知れないし。修一自身も父母がいなくても結構楽しくやっているようだし、そういう家族もこういう世界ではあるのかも知れないし。
いささかざらざらと落ち着かない気分を、それでも長年かけて育て上げた友樹家への憧れで薄めて消し去っていく。
ジリリリッ。
ふいに電話が鳴った。ぎくりと修一が体を震わせる。怯えた表情、お節介とは思ったが、手を伸ばして受話器を取った。こちらを見上げる修一に、
「宮田かも知れんしな」
自分の過保護っぷりを嗤うように言い放って、受話器を耳に当てる。
『もしもし?』
「はい、こちら…」
『あ、陽一ぃ?』
「?!」
受話器の向こうで、女の声がいきなり甘く溶けた。ぎょっとする垣に構わず、声はしなだれかかってくるような肉感的な媚をまといつかせて続ける。
『早かったのねぇ、あたし、今起・き・た・と・こ』
まだ下着も付けてないのよ、とくすくす笑う。
「ちょ」
何かお間違えではないですか、そう続けかけた垣の耳に、満足げな声が囁く。
『昨夜は良かったわ…ちょっと激し過ぎたけど。何かあったのぉ?』
「……」
(これって)
垣も男だ、相手が何を話しているのか理解はできる、想像はつく。想像はつくが、その内容が受け入れ難い。
『また早めに来てよね、まあ今夜は許してあげるけど……ねえ…どうして黙ってるの? ねぇ、あたしを忘れた…』
「!」
突然飛びついてきた修一は、垣の表情で受話器の向こうの人間を察したのだろう、垣の手からもぎ取った受話器を無言で叩き付けるように置く。強張った表情は垣を見ない。
「友樹君、今の」
「……」
問いかける垣の視線を避けるように、修一は俯いた。
コンコン。
軽いノックと同時に合鍵が入る音、続いてノブが回る。振り返る垣の目に、一分の隙なく身支度を整えた佐野の姿が映った。
「おはようございます、修一さん」
穏やかな笑み、佐野ぐらいの敏腕ならば、昨日何があったのかは熟知しているはずだが、こちらも何もなかった顔だ。それでも、垣に軽く会釈する。
「垣さん、迷惑をかけましたわね。ごくろうさまでした」
さらりと言い放って、手帳を取り出す。
「本日は一日中映画です。集中できそうですね」
「おい」
こんな状態のこいつに、いつも通りの仕事をしろってか。
思わず口を挟みそうになった垣を、再びのベルが遮る。
ジリリリッ、ジリリリリッ。
受話器を押さえていた修一がのろのろと受話器を取り上げる。気怠そうに二言三言会話した後、垣を見ないまま受話器を差し出した。
「……宮田さん」
「宮田?」
「修一さん、何か作りましょうか。起きたばっかりでしょう」
佐野よりもむしろ側に控えていた高野の方が気遣った顔で、いそいそと近寄ってきた。ダイニング・キッチンの方へ向かいかける姿に、
「いらない」
「何か食べておかないと保ちません。高野、簡単なものを」
拒みかけた修一を、佐野はばさりと切り捨てた。
「いらない…っ」
一層強く首を振る修一に、佐野の目配せを受けて、高野がさっさと冷蔵庫を開ける。視界の端でそれを見やって、垣は宮田の能天気な声が響いているのに意識を向けた。
『よう、おはよう。修一との愛の一夜はどうだった?』
「今度締められたくなかったら真面目にやれ。冗談は今通じねえぞ、苛ついてるからな」
『あはは、そりゃ悪い悪い』
きっとちっとも悪いなどとは思っていない、底抜けに明るい声が応じた。
「それで、何だ?」
『いや、そうたいしたことじゃないんだけどさ』
「たいしたことじゃないのに電話してくんな」
『自分ちの電話でもないくせに。ま、単に友樹雅子が行方不明になっただけだ』
「え、ちょ、ちょっと待て! 友樹雅子が行方不明っ?!」
叫んでからはっとしたが後の祭り、ぴたりと会話を止めた修一、佐野、高野がぎょっとした顔で垣を見つめる。
「それは本当なのかっ」
『世界に冠たる日本警察の頭脳たる俺の情報を疑おうって言うのか?』
既にその設定が違うだろ、そう突っ込むのを堪えて尋ねる。
「いや、疑うわけじゃないが……いつわかった」
『ついさっきだ。後で話すが、雅子にちょっと聞きたいことがあって任意出頭願おうとしたんだが、全く掴まらなくてさ。事務所がらみのカバーでもないし、事故なんかでもなさそうで、これはまあ失踪したかな、と』
「それは本当なのか!」
『その台詞、ケータイに入れたら? 一々しゃべらなくてよくなるぞ』
「冗談言ってる場合か!」
『言ってる場合じゃないぞ、もちろん。修一にも伝えておいてくれ、後で事情聴取に行きますよって』
思わず、まだ心ここにあらずの修一を見やる。
「何も知らないぜ」
『それはこっちが決める。それに知らなくても行くの。官僚機構の偉大な暇つぶしさ。じゃ、な』
「おい!」
話すだけ話すと会話は一方的に切れた。溜め息をついて振り返ると、説明を待っているのだろう、それぞれに不安を浮かべた面々に向き直る。
「……友樹君、おかあさんがどこかへ行ってしまって、行方がわからないそうだ」
一瞬目を見張った修一は、素早い一瞥をソファの当たりに投げ、さりげない様子で自分の服に触れた。眉を軽く潜め、やがて諦めたように目を伏せる。
「それから……宮田が後で事情聴取に来るって」
「拒否出来る状態、でもなさそうですわね」
佐野が淡々と応じた。
「では、それまでに出来る限りの仕事を済まななくてはなりませんわね。きっとこれから『忙しく』なることでしょうし」
冷酷にも聞こえる声音だ。
「けれど、できる限りの調整をお願いしますわ。警察の方もお仕事でしょうが、こちらにも『仕事』はあるのですから」
俺は『警察』でも『宮田』でもねえ。
佐野の冷ややかな侮蔑の視線に、垣は心で唸る。
修一がぼんやりとした様子でソファに戻り、テーブルに置かれて既に冷めてしまったホットミルクのカップに触れた。自分の指先に神経が通っているのかどうかを確かめるような危うさで掴み、こくりと一口呑み下す。
それが何かの合図だったように、高野が修一の支度を整えた鞄をさげ、佐野がすらりと背中を向けた。ホットミルクのカップを置いた修一が夢の中の足取りで、佐野と高野が導く戸口へ歩き出す。
「垣さん」「は、はいっ」
呼びつけられて垣は我に返った。
(これからどうなるんだよ?)
映画は撮れるのか。仕事はあるのか。
垣もまた、押し寄せてくる不安と戦いつつ、既に部屋を出つつある3人の後を、急ぎ追った。
(おかあさんは僕を捨ててった)
修一の頭の中を、ことばが繰り返し通り過ぎていく。居ても居なくても変わらない母親、物心ついた時から修一のことよりも芝居や演技のことしか頭にない母親、それでも修一と血の繋がった親だったのに、彼女は今度もまた自分のことを優先させた。
わかりきっていたことだったけれど、自分の立つ位置が周囲から、がらがらと崩れさっていくような感覚の今、改めて1人だと思い知る。
(おとうさんは…)
考えかけて首を振る。
さっき垣が受け取った電話は、きっと父の愛人、若子からのものだろう。事故に怯えていた昨夜、どうしても駆けつけられなかった父親がどこに居たのか、薄々見当はつく。
(誰もいない)
そんなことは今更だ、それでも。
(誰もいないんだ)
「修一さん!」
呼ばれて瞳を上げた。目の前に出されていた遅いロケ弁は修一用特製だったが、ろくろく喉を通っていない。ただ、空腹は感じなかった。
「2時からイベントやるそうです。客も集まってますし」
高野の声に頷いて立ち上がった。
イベント、とは、周一郎シリーズの広報の一つで、一定間隔ごとに、長いレンガ塀に囲まれた豪奢で広大な屋敷のセット内で、周一郎シリーズのワンシーンを公開するというものだ。
客は映画で見知ったセット内に入って興奮するし、目の前で動く役者に新たな興味をそそられる。もちろん、セットを壊されたり小道具を持ち去られたり、別の場面を展開させている役者に撮り終えた場面を繰り返させるばかりか、即興のアドリブも要求する、いろいろと過酷なものでもあったのだが、佐野の提案は効果的で、動員数は日ごとに増しており、PCでのフォローも今度はどのイベント見た、あのイベントはまだ見ていない、などと盛り上がっているらしい。
「今日はどこ?」
「『猫たちの時間』の119シーン。ほら、周一郎が美華にやられて、滝の部屋に転がり込んでくるところですよ」
「わかってるよ」
「ホン、見ておきますか?」
「うん」
高野から受け取った脚本に、修一は加熱した頭と同様、視界が定まらない感覚の目を向けた。
見なくても覚えている、隅から隅まで、それこそエキストラの動きでさえも。初めて、父親の付属物としてではない『友樹修一』を映画界に認めさせるきっかけとなった映画なのだ。
(僕と周一郎は似てると思った)
環境にも経済的にも恵まれていること、そしてある一方で、いつも置き去りにされていること。共通点を探すのは簡単で、違和感のある描写を見つける方が難しかった。だから、今まで役作りに苦労したことなどないし、これから予定されているシリーズにも不安を感じたことなどない、今までは。
(でも、僕は、周一郎ほど平静になれない)
自分の回りで起きる裏切りや絶望を、人間関係にはよくあることだ、で済ませられない。自分を傷つけるそれらの動きから、身を竦め眼を背け、どうにかしてそこから逃れたいと思ってしまう。両親のことだって、諦めたつもりなのに、やっぱり自分の危機にも何一つ反応してくれないことに、傷ついている。
(でも、そんなこと、あたりまえだろ)
誰だって痛かったり苦しかったり哀しかったりするのは嫌だ。
(嫌だと思わずに居るなんて、それを見つめたままで居るなんて)
顔を背け背中を向けて立ち去らずに、じっと傷ついた自分が地面に転がっているのを眺めているなんて、できやしない。
「友樹君!」
伊勢の声が修一を現実に引き戻した。
「早く! 始めるぞ、ぐずぐずするな!」
「はいっ」
答えてそちらへ走り寄る。
芝居の中へ逃げ込んでしまえばいい、いつものように。
そうすれば、修一はもう1人ではない。
(何だ…?)
妙に温かいな。
垣は小さく息を吐いて身動きし、目を開けた。ぼんやりと霞んだ視界は、時間とともに次第にくっきりと明瞭になる。
(えっと……ここは…)
垣はゆっくりとあちらこちらを見回した。
視界左側に美しい曲線で彫り上げられた家具、机の脚か。右側はもわもわふかふかした朧げな影、瞬きをして絨毯だと気づくと、体の下からそれが続いていることを感じた。視線を斜めに上げれば、天井にきらびやかなシャンデリア、広々とした空間は、明らかに自分の部屋ではない。
どこかで微かな寝息が聞こえる。もう一度瞬きして、自分の右側にある熱源に目を凝らす。
「友樹君…」
思い出した。
結局夕べはソファで眠り込んでしまった友樹を起こすに忍びなくて、垣もそのまま居間の絨毯に寝転んで眠ってしまったのだ。掛け物はなかったが、室温は快適、毛足の長い絨毯はひょっとすると自宅の布団よりも柔らかくて、結構気持ち良く眠ってしまった。
修一はその垣の隣に、小さな子どもが肉親の温もりを求めて潜り込むように、引きずってきた毛布にくるりと丸まって眠っている。垣が身動きしたのも気づかぬままだ。熟睡している修一の頬に陽射しがちらつき、長い睫毛の淡い影が躍っている。
「いつのまに来たんだ?」
夜中に目を覚ましたのか。
(…で、何で俺の側に?)
不安と恐怖、先行きの見えない展開に、誰か『大人』が欲しくなったのか。
「……ガキ…だもんなあ…」
確かに仕事ではしたたかにタフに生き延びてきても、その外にある現実が狂い出せば、仮想世界の実力はあまりにも役に立たない。
うん、と手を上げて伸びをした。と、指先に何かが当たり、指を引く前に落ちて来たものが顔を直撃した。
「ぶわ!」「ん……垣さん?」
声に目覚めたのだろう、むくりと体を起こし、目を擦りながら垣の方を見た修一が、落ちて来ているものに『襲われている』垣に吹き出す。昨日のことなど忘れてしまったような明るい笑い声だ。
「何だぁ…」
とっさに身構えてしまった自分が恥ずかしくて、熱くなった顔をごまかしながら落ちて来た物を摘まみ上げると、修一のぬいぐるみだ。舌打ちしながら唸る。
「ぬいぐるみのくせに人を襲いやがって」
「『ぬいぐるみ』じゃないよ、『ると』って言うんだ」
修一はまだ笑いながら手を差し伸べた。その手にほい、と青灰色の毛に金目を光らせた猫のぬいぐるみを放り投げながら、顔をしかめる。
「……昨日もそれを呼んだろ」
「え?」
「寝言でさ、『ると』って」
「……うん」
修一はふいと表情をなくした。腕の中に抱えたぬいぐるみを見下ろす。瞬時に、修一の中から気力が消え、中身が根こそぎどこかへ行ってしまったようだ。
(おかしな奴)
垣は立ち上がり、修一が投げ出した毛布を畳んだ。
(普通呼ぶか? 14の男がぬいぐるみの名前を、寝言で?)
それを言うなら、まずぬいぐるみに名前をつけているあたりから突っ込んだほうがいいのか。
(父親か、母親の名前ならまだしも)
あんなことがあった夜なのだ、唸されても仕方ない。
確かに、子どもの命に関わる(それも殺されかけたかも知れない)事故に駆けつけない友樹夫妻に幾分がっかりはしていたが、まあ仕事第一の厳しさの現れと言えなくもないし、佐野や高野への信頼かも知れないし。修一自身も父母がいなくても結構楽しくやっているようだし、そういう家族もこういう世界ではあるのかも知れないし。
いささかざらざらと落ち着かない気分を、それでも長年かけて育て上げた友樹家への憧れで薄めて消し去っていく。
ジリリリッ。
ふいに電話が鳴った。ぎくりと修一が体を震わせる。怯えた表情、お節介とは思ったが、手を伸ばして受話器を取った。こちらを見上げる修一に、
「宮田かも知れんしな」
自分の過保護っぷりを嗤うように言い放って、受話器を耳に当てる。
『もしもし?』
「はい、こちら…」
『あ、陽一ぃ?』
「?!」
受話器の向こうで、女の声がいきなり甘く溶けた。ぎょっとする垣に構わず、声はしなだれかかってくるような肉感的な媚をまといつかせて続ける。
『早かったのねぇ、あたし、今起・き・た・と・こ』
まだ下着も付けてないのよ、とくすくす笑う。
「ちょ」
何かお間違えではないですか、そう続けかけた垣の耳に、満足げな声が囁く。
『昨夜は良かったわ…ちょっと激し過ぎたけど。何かあったのぉ?』
「……」
(これって)
垣も男だ、相手が何を話しているのか理解はできる、想像はつく。想像はつくが、その内容が受け入れ難い。
『また早めに来てよね、まあ今夜は許してあげるけど……ねえ…どうして黙ってるの? ねぇ、あたしを忘れた…』
「!」
突然飛びついてきた修一は、垣の表情で受話器の向こうの人間を察したのだろう、垣の手からもぎ取った受話器を無言で叩き付けるように置く。強張った表情は垣を見ない。
「友樹君、今の」
「……」
問いかける垣の視線を避けるように、修一は俯いた。
コンコン。
軽いノックと同時に合鍵が入る音、続いてノブが回る。振り返る垣の目に、一分の隙なく身支度を整えた佐野の姿が映った。
「おはようございます、修一さん」
穏やかな笑み、佐野ぐらいの敏腕ならば、昨日何があったのかは熟知しているはずだが、こちらも何もなかった顔だ。それでも、垣に軽く会釈する。
「垣さん、迷惑をかけましたわね。ごくろうさまでした」
さらりと言い放って、手帳を取り出す。
「本日は一日中映画です。集中できそうですね」
「おい」
こんな状態のこいつに、いつも通りの仕事をしろってか。
思わず口を挟みそうになった垣を、再びのベルが遮る。
ジリリリッ、ジリリリリッ。
受話器を押さえていた修一がのろのろと受話器を取り上げる。気怠そうに二言三言会話した後、垣を見ないまま受話器を差し出した。
「……宮田さん」
「宮田?」
「修一さん、何か作りましょうか。起きたばっかりでしょう」
佐野よりもむしろ側に控えていた高野の方が気遣った顔で、いそいそと近寄ってきた。ダイニング・キッチンの方へ向かいかける姿に、
「いらない」
「何か食べておかないと保ちません。高野、簡単なものを」
拒みかけた修一を、佐野はばさりと切り捨てた。
「いらない…っ」
一層強く首を振る修一に、佐野の目配せを受けて、高野がさっさと冷蔵庫を開ける。視界の端でそれを見やって、垣は宮田の能天気な声が響いているのに意識を向けた。
『よう、おはよう。修一との愛の一夜はどうだった?』
「今度締められたくなかったら真面目にやれ。冗談は今通じねえぞ、苛ついてるからな」
『あはは、そりゃ悪い悪い』
きっとちっとも悪いなどとは思っていない、底抜けに明るい声が応じた。
「それで、何だ?」
『いや、そうたいしたことじゃないんだけどさ』
「たいしたことじゃないのに電話してくんな」
『自分ちの電話でもないくせに。ま、単に友樹雅子が行方不明になっただけだ』
「え、ちょ、ちょっと待て! 友樹雅子が行方不明っ?!」
叫んでからはっとしたが後の祭り、ぴたりと会話を止めた修一、佐野、高野がぎょっとした顔で垣を見つめる。
「それは本当なのかっ」
『世界に冠たる日本警察の頭脳たる俺の情報を疑おうって言うのか?』
既にその設定が違うだろ、そう突っ込むのを堪えて尋ねる。
「いや、疑うわけじゃないが……いつわかった」
『ついさっきだ。後で話すが、雅子にちょっと聞きたいことがあって任意出頭願おうとしたんだが、全く掴まらなくてさ。事務所がらみのカバーでもないし、事故なんかでもなさそうで、これはまあ失踪したかな、と』
「それは本当なのか!」
『その台詞、ケータイに入れたら? 一々しゃべらなくてよくなるぞ』
「冗談言ってる場合か!」
『言ってる場合じゃないぞ、もちろん。修一にも伝えておいてくれ、後で事情聴取に行きますよって』
思わず、まだ心ここにあらずの修一を見やる。
「何も知らないぜ」
『それはこっちが決める。それに知らなくても行くの。官僚機構の偉大な暇つぶしさ。じゃ、な』
「おい!」
話すだけ話すと会話は一方的に切れた。溜め息をついて振り返ると、説明を待っているのだろう、それぞれに不安を浮かべた面々に向き直る。
「……友樹君、おかあさんがどこかへ行ってしまって、行方がわからないそうだ」
一瞬目を見張った修一は、素早い一瞥をソファの当たりに投げ、さりげない様子で自分の服に触れた。眉を軽く潜め、やがて諦めたように目を伏せる。
「それから……宮田が後で事情聴取に来るって」
「拒否出来る状態、でもなさそうですわね」
佐野が淡々と応じた。
「では、それまでに出来る限りの仕事を済まななくてはなりませんわね。きっとこれから『忙しく』なることでしょうし」
冷酷にも聞こえる声音だ。
「けれど、できる限りの調整をお願いしますわ。警察の方もお仕事でしょうが、こちらにも『仕事』はあるのですから」
俺は『警察』でも『宮田』でもねえ。
佐野の冷ややかな侮蔑の視線に、垣は心で唸る。
修一がぼんやりとした様子でソファに戻り、テーブルに置かれて既に冷めてしまったホットミルクのカップに触れた。自分の指先に神経が通っているのかどうかを確かめるような危うさで掴み、こくりと一口呑み下す。
それが何かの合図だったように、高野が修一の支度を整えた鞄をさげ、佐野がすらりと背中を向けた。ホットミルクのカップを置いた修一が夢の中の足取りで、佐野と高野が導く戸口へ歩き出す。
「垣さん」「は、はいっ」
呼びつけられて垣は我に返った。
(これからどうなるんだよ?)
映画は撮れるのか。仕事はあるのか。
垣もまた、押し寄せてくる不安と戦いつつ、既に部屋を出つつある3人の後を、急ぎ追った。
(おかあさんは僕を捨ててった)
修一の頭の中を、ことばが繰り返し通り過ぎていく。居ても居なくても変わらない母親、物心ついた時から修一のことよりも芝居や演技のことしか頭にない母親、それでも修一と血の繋がった親だったのに、彼女は今度もまた自分のことを優先させた。
わかりきっていたことだったけれど、自分の立つ位置が周囲から、がらがらと崩れさっていくような感覚の今、改めて1人だと思い知る。
(おとうさんは…)
考えかけて首を振る。
さっき垣が受け取った電話は、きっと父の愛人、若子からのものだろう。事故に怯えていた昨夜、どうしても駆けつけられなかった父親がどこに居たのか、薄々見当はつく。
(誰もいない)
そんなことは今更だ、それでも。
(誰もいないんだ)
「修一さん!」
呼ばれて瞳を上げた。目の前に出されていた遅いロケ弁は修一用特製だったが、ろくろく喉を通っていない。ただ、空腹は感じなかった。
「2時からイベントやるそうです。客も集まってますし」
高野の声に頷いて立ち上がった。
イベント、とは、周一郎シリーズの広報の一つで、一定間隔ごとに、長いレンガ塀に囲まれた豪奢で広大な屋敷のセット内で、周一郎シリーズのワンシーンを公開するというものだ。
客は映画で見知ったセット内に入って興奮するし、目の前で動く役者に新たな興味をそそられる。もちろん、セットを壊されたり小道具を持ち去られたり、別の場面を展開させている役者に撮り終えた場面を繰り返させるばかりか、即興のアドリブも要求する、いろいろと過酷なものでもあったのだが、佐野の提案は効果的で、動員数は日ごとに増しており、PCでのフォローも今度はどのイベント見た、あのイベントはまだ見ていない、などと盛り上がっているらしい。
「今日はどこ?」
「『猫たちの時間』の119シーン。ほら、周一郎が美華にやられて、滝の部屋に転がり込んでくるところですよ」
「わかってるよ」
「ホン、見ておきますか?」
「うん」
高野から受け取った脚本に、修一は加熱した頭と同様、視界が定まらない感覚の目を向けた。
見なくても覚えている、隅から隅まで、それこそエキストラの動きでさえも。初めて、父親の付属物としてではない『友樹修一』を映画界に認めさせるきっかけとなった映画なのだ。
(僕と周一郎は似てると思った)
環境にも経済的にも恵まれていること、そしてある一方で、いつも置き去りにされていること。共通点を探すのは簡単で、違和感のある描写を見つける方が難しかった。だから、今まで役作りに苦労したことなどないし、これから予定されているシリーズにも不安を感じたことなどない、今までは。
(でも、僕は、周一郎ほど平静になれない)
自分の回りで起きる裏切りや絶望を、人間関係にはよくあることだ、で済ませられない。自分を傷つけるそれらの動きから、身を竦め眼を背け、どうにかしてそこから逃れたいと思ってしまう。両親のことだって、諦めたつもりなのに、やっぱり自分の危機にも何一つ反応してくれないことに、傷ついている。
(でも、そんなこと、あたりまえだろ)
誰だって痛かったり苦しかったり哀しかったりするのは嫌だ。
(嫌だと思わずに居るなんて、それを見つめたままで居るなんて)
顔を背け背中を向けて立ち去らずに、じっと傷ついた自分が地面に転がっているのを眺めているなんて、できやしない。
「友樹君!」
伊勢の声が修一を現実に引き戻した。
「早く! 始めるぞ、ぐずぐずするな!」
「はいっ」
答えてそちらへ走り寄る。
芝居の中へ逃げ込んでしまえばいい、いつものように。
そうすれば、修一はもう1人ではない。
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神崎ラン(♂)の父親の再婚相手は幼馴染みで女子高生の高原ジュリー(♀)だった。
ジュリーは金髪美少女だが、地元では『ワイルドビーナス』の異名を取る有名なヤンキーだった。
学校ではジュリーは、ランを使いっ走りにしていた。
当然のようにアゴで使われたが、ジュリーは十八歳になったら結婚する事を告白した。
同級生のジュリーが結婚するなんて信じられない。
ランは密かにジュリーの事を憧れていたので、失恋した気分だ。
そう言えば、昨夜、ランの父親も再婚すると言っていた。
まさかとは思ったが、ランはジュリーに結婚相手を聞くと、ランの父親だと判明した。
その夜、改めて父親とジュリーのふたりは結婚すると報告された。
こうしてジュリーとの同居が決まった。
しかもジュリーの母親、エリカも現われ、ランの家は騒然となった。
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
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