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6.シーン203(3)
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慌ただしく過ぎ去る日々の中、数十本単位で公開される映画、それどころか、もっと大量に流れるネット画像に紛れて、これほど手間暇かけて作ったものも数秒で忘れ去られる。
『記憶に残ることさえ難しい、もう一度観てもらえるなんて、それこそ奇跡にも近いことだよ』
割に合わない。意味がない。いずれ捨て去られるのだ、記憶の彼方へ。そんなものに人生を費やして何が残る。
『そろそろ、先を考えて欲しい』
手紙は繰り返し訴えていた。
もう十分だろう。夢の切れ端は叶った、それで十分幸せだと考えなくちゃいけない。ほとんどの人間が、その切れ端が掌を掠めることもなく一生を終えていくのだから。
『帰っておいで』
両親は田舎で小さな工場をやっていた。従業員は2人。大企業の下請けの下請けのまた下請けみたいなものだけど、父親の腕が良くて、その部品は父親の工場でしか仕上がらなかったから仕事は途切れなかった。
『もっと地道でしっかりと地に足がついた仕事が大事だよ』
「ふぅ…」
修一が満足したような吐息を重ねた。吐息一つにも色気があるよな、と考えてうんざりした。
(帰るか)
オレンジジュースの最後の一口を飲み干した。
陽一という理想は既に踏み荒らされていた。映画への情熱も、1作毎に自分の限界を思い知らされて冷え込むばかりだ。修一でさえ、この3作目にはしごきにしごかれている。垣など洟もひっかけてもらえてない。
『出会いはいつでも
半分は運命の偶然
残りは神様のいたずらさ…』
休憩でつけられたラジオが『ロード・オン・ロード』を流している。
(偶然なのかもしれない)
ぐしゃりと紙コップを握り潰した。
(ほんのちょっとした幸運が、神様のいたずらで3作も保ったのかも知れない……けど、そろそろ限界なんだろうな)
苦いものが口の中に湧き上がる。あっさり吐き捨てて、次の目標を探しに行ければ、どれほど楽だろう。何に挑んでも自分の限界を知らされるのは辛い、特に自分の内側の声が告げてくるときは一層。
静かに息を吸い、目を閉じる。胸一杯になった空気を一気に吐き出し、ぱっと目を開けた。
見慣れたロケ風景が、妙に空々しく遠い世界に見えた。
(よし)
心の中で頷いた。
(これを最後にしよう)
思い切りは悪くない、と昔から言われた。家を離れる時も泣き出す母親を振り切った。
「垣さん?」
「ん?」
話しかけられて振り返る。
「この次の作品、知ってる?」
「…いや」
胸中を見透かされた気がしてどきりとする。こちらを見返す修一の、明るく輝く瞳にそっと首を振る。
「伊勢監督が次にやるのをさっき言ってたんだよ。シリーズ4作目、『古城物語』をやるんだって。まあ、まず今回のが当たるかどうかってとこだけど」
「ああ、そうだな」
「……?」
くすくす笑った修一が訝しそうに小首を傾げた。思い直したのだろう、からかうように笑い、
「他人事みたいな言い方だな」
「オレ、さ」
一瞬迷ったが良い機会だとも思った。
「この作品で降りる」
「え…」
笑っていた修一の顔がはっきりと強張った。
「お、りる?」
「ああ」
「滝、を?」
「ああ」
ことばを失ってしまって固まった修一に、ちょっと苦笑して見せる。
「あのさ、ちょっと前から、こう、わかんなくなってきてたんだな」
思わず知らず、溜め息が零れた。
「本当に映画が好きなのか…演じることが好きなのか……役者、ってのが好きなのか。……お前は好きだろ?」
「う…ん」
ぎごちなく修一が頷く。
「このあたりがオレの限界みたいだ。先が見えて来たよ」
「そんなことないよ!」
「お前にはわからんかも知れんがな」
突き放した物言いのニュアンスを修一は確実に察した。
「僕が……友樹…修一だから…?」
「……」
「…………おとうさんの……こと…とか…?」
見る見る落ち込んでくる表情、それさえも様になっている気がする。
生まれついての役者。
「…それも、少し、ある」
「……………」
沈黙は重く長く引きずった。
「………まあ、次の滝役は別の人間になるってことだ」
そして、友樹修一の共演者なら、きっと星の数以上に志望者が見つかるだろう。
「…………………」
「おい、そう沈むなって。お前は大丈夫だよ、降ろされやしないさ」
ぱん、と肩を叩いて笑ってやった。だが、修一は笑わない。大きな瞳を見開いて、じっと垣を見返している。
気まずくなった、と咳払いしかけた垣を、折よく監督が呼んだ。
「おい、垣!」
「はいっ!」
これ幸いと立ち上がって垣は走り出す。
何となく、後ろは振り返れなかった。
「な…るほど」
垣は食卓に出された皿の上の目玉焼きを見ながら重々しく頷いて見せた。
「確かにちょっとしたものだ」
「垣さん!」
むっとしてフライパンを持ったまま、振り返って修一は垣を睨みつける。慣れない緑のエプロンはごそごそと腹回りで余る気がする。
「だって、高野さんがいると思って…」
もそもそっとぼやいて、他人任せで招待した自分が少しみっともなく、くるりと背中を向けてしまった。
「いや、オレのいつもの夕飯に比べりゃ立派なものだ、うん」
垣が慌てて言い繕った。
仕事が終った後、修一はちょっとした夕食なら家で用意出来るよ、と垣を誘った。部屋に戻っても買い置きラーメンぐらいしかない、それも宮田が食べ切ってしまっていなければ、ということだが、とぼやいた垣は二つ返事で応じてくれた。
けれど、高野は急用だとかで垣と修一をマンションに残して帰ってしまった。残された2人で顔を見合わせ、『何か作ろうか』と垣が言い『あ、じゃあ僕が作るよ、垣さん、勝手がわからないでしょ』と修一が受けて、現在に至る。
「ちょっと何か手伝おうか、オレだって少しぐらいは……うぇ」
言いかけた垣が妙な声を出して振り返る。
「?」
「いや……その…あんまりタチの良くない冗談を思い出した」
唸るような声で垣が続けた。
「何?」
「いや、その……オレが料理が出来ると言ったら、宮田がいきなり『結婚しよう』と言い出して」
「うん?」
「『冗談はよせ』と喚いたら、『冗談だよ』って答えたんだが」
うぐぐ、と垣は妙な唸り声を出した。
「見たら、しっかり人の手を握ってやがるんだ」
「マジ?」
「マジ」
弱り切った垣の顔に問いかける。
「宮田さんって、そっちの人?」
「いや」
何でもいいんじゃねえかな、自分の利益になれば。
ぼそりと呟いた声が本当にしみじみしていて思わず吹き出した。
「ひどいや」「ひでえやつだよ」
重なった声を耳に嬉しく聞きながら、目玉焼きを皿に移す。垣はハムを悩んだあげくに厚めに切り分け、その横へ付け合わせた。
「笑い事じゃねえって! マジ、コンクリート詰めにして北極海へ捨ててやろうかと思ったぐらいだ、こっちは」
修一は笑い声で応じる。垣が楽しそうなのが嬉しい。
「昔っから、本気と冗談の区別がつかないんだあいつは、ほんと」
ぶつぶつ呟き続ける垣をちらりと見る。
幸福だ。嬉しい。楽しい。
胸の中に広がった甘い感覚を味わえば味わうほど、冷えて醒めた思考が立ち上がってくるのを意識した。
この時間を失いたくない。どんなにお互いにけなして詰っても一緒に居る垣と宮田のように、垣との繋がりを保ちたい。
どうして垣は急に映画を降りると言い出したのだろう。何が原因なのだろう。何を解決すれば、垣は映画に踏みとどまるのだろう。
どうしたら垣を引き止められるのだろう。
食事の席を整えてお互いに向き合って座る。豪勢とは言い難い食卓だけれど、誰かと一緒に食べる食事がこれほどにおいしい。手に入らなかった今までなら始めからないものと諦められる、けれど、今は。
「垣さん?」
「ん?」
食事を続けながら、修一は忙しく頭を働かせて時間を稼ごうとする。
「ご飯済んだら、脚本の読み合わせ手伝ってよ。今日のところ、監督もう1回撮るって言ってたよね? けど、僕まだよくわからなくって」
「ああ、あの直樹と滝のところな。オレはあれでいいと思ったんだが」
「うん、でもいいから手伝ってよ」「ああ」
なら、さっさと片付けちまうか、と急いで食事を食べ始めた垣に、修一はちょっと戸惑った。長引かせようと思った時間が折り畳まれて短くなった気がして不安になる。
「どこでやる?」
「……こっち」
皿を流しに出して2人はソファに戻った。『ると』が相変わらずソファの端に鎮座している。暖房が効いている室内はごろ寝しても風邪を引いたりしない。
ふと脳裏に過ったこの前の夜を修一は思い出す、冷えた体で固まって眠ったと思ったのに、朝には全身柔らかく温かかった。暖房のほとんどない部屋で、垣の側にいるだけで温かかった。
「ここ、垣さん」
「ああ、シーン203か」
脚本を覗き込む垣の横顔に再び考え込む。
どうしたら垣の決心を変えられるだろう。修一の相手役、滝として、何をすれば、この先もずっと映画に引き止められるだろう。
「えーと、滝の方からか」
シーン203、周一郎の直樹と滝が暴走族に追われ街中を逃げ回る場面だ。カットは滝が殴られのびかけるところから始まっている。
「、ぐえっ!」「滝さん!」
直樹は振り返る。手近の男を叩きのめして滝に走り寄り、呼びかける。
「こっちだ、滝さん!」「お、おぅ…」
よろよろと追いすがる滝、走る2人の前後にバイクの爆音が響く。細い小路で隙をうかがう直樹は、ふっと滝に目を止め、皮肉な調子で尋ねる。
「しっかし、あんたもおかしな人だな」
薄い笑みを投げかける。
「その、周一郎、って他人だろ? 赤の他人のために、何でこんなことをやってるんだ?」
嘲りの裏には周一郎の不安がある。滝が側に居てくれるのは何のためか。金か地位か、それとも他の利潤のためか。
「あんたと周一郎はどう繋がってるんだ?」
込めた願いを悟られないように、口調は嘲笑だ。
「…わからん」
滝は軽く唇を噛んで答える。
「わからんが……こう…」
戸惑い、何かを語ろうとして、その何かを見失った顔で肩を竦め、
「どっか……繋がっているんだ」
言い切ることばは静かで確信に満ちている。
それを、垣はそのまま演じる、まるで、そういう繋がりを知っているように。
(垣さん…)
人は、知らないものは演じられない。役者の技量が経験だと言われる所以だ。自分の人生に出逢っていないものは、フィクションからでも学び取り、疑似体験でも体に感じ取るしかない。想像力が必要なのは、演じ方のためじゃない、それが何を意味しているのかを理解するためだ。
(垣さんは知っている)
ことばにならない、けれど確かな、人と人との繋がり方を。
(僕は、知らない)
だからこんなに、信頼し合う演技の中でも不安になる。
ふいと一瞬、自分が修一の表情に戻ってしまったと気づいて、はっとした。
「よし…」
吹っ切るように直樹の台詞に戻る。
「こっちだ」
向きを変えて直樹は走り、小路を出ようとしたとたんに、体すれすれを掠めたバイクに片腕を引っかけられて身を退き、声を上げる。
「あっ…」「大丈夫か!」
滝の声に笑みを押し上げるが、手からは血が滴り始めている。
「ほら言わんこっちゃない!」
滝がぐいと直樹の腕を掴む。ポケットから出したハンカチで傷をぎゅっと縛ってくれたが、じわじわと滲み続ける血に苛立った様子で、
「ほんっとに、顔が似てると意地っ張りなところも似るのかね!」
ぼやいて、近くの生ゴミバケツを両手に小路の端へ歩いていく。
考えてみればわかる、この状況で直樹をとっさに庇い、冷静に応急手当をし、周一郎のことを考えつつ直樹を気遣い、加えて反撃に出ようとするような男が、どうして間抜けでお人好しなものか。
けれど、観客はごまかされる、この時注目されるのは、2人の微妙な気配のやりとりと、それが意味する関係性だから。最後まで見切った観客もまた、ここで注目するのは直樹の仮面を被った周一郎がどのように振舞うか、いや、この2人しかいないぎりぎりの状況で、周一郎が、種明かしをしたいと揺らぐ心をどう抱えているかだから。
言わば、ここで修一は全ての視線を自分に魅きつけなくてはならない、滝の隠された能力に気づかせないために。
けれど、演じる『直樹』は滝側のファンには疎まれる、滝を嘲る役柄だから。周一郎のファンにも煙たがられる、周一郎と滝の繋がりに侵入してくるから。観客の誰もが『直樹』の味方ではないけれど、その目を魅きつけなくてはならない。
だから難しい。
だからよくわからなくなる、演じ方が。
けれど、今。
(このとき)
ふっと修一は考えた。
(周一郎はどんなに嬉しかっただろう……滝があれこれ言いながらも、側に居てくれる、そうわかって)
どんな姿であっても、どんなに滝に歯向かっても、滝は周一郎の命を無自覚なままでも護ってくれると悟ったはずだ。
(僕は…)
『…そうか、受け止められないわけだ、垣は』
耳に飛び込んできた山根のことば。続くスタッフの会話。
『見事な一人芝居ってわけか』『ショックでしょうね、それ知ったら』『なあに、ちょっとは思い知っときゃいいのさ、あの甘ちゃんは』
(嘘だ)
スタッフが何と思おうと構わない。けれど、そんなことはきっと嘘だ。
(だって、ちゃんと泊めてくれた)
行き場がなくなって糸が千切れた風船のように、傷みにパンパンになって漂っていた修一を受け止めてくれた。
(でも、なら、どうして辞めるなんて…? 僕が一人ぼっちになったの、知ってるのに?)
「友樹君?」
「、あ」
呼びかけられて我に返る。脚本読みが止まってしまっているのに瞬きする。
「どうした? 熱でもあるのか?」
垣が覗き込んでくる、心配そうに。嬉しい。失いたくない。
「う、ううん、ただ」
ことばを切る。垣の覗き込みが深くなる。
「ただ?」
「どうして…垣さん…辞めるなんて…」
声に惑いを載せる。このラインで行けるはずだと無意識に計算している。
「そのことか」
垣の声に苦みが混じった。それまでの『友達』の距離から、ふいに『他人』の距離に戻ったのを感じる。離れた、と感じ取る。
「だから昼間言ったろ? 自分に限界を感じたからって」
うっとうしそうな口調は滝にはない。垣のもの、垣だけの匂い。周一郎が得たものじゃない、修一が得たもの。
「でも、そんなことないよ!」
慌てた声を張り上げる。
「垣さんほど滝役に合った人、見つからないよ!」
無邪気にまっすぐ、垣の才能を信じる声を差し出す。だが、
「ま、名子役のお前が選んだんだしな」
『記憶に残ることさえ難しい、もう一度観てもらえるなんて、それこそ奇跡にも近いことだよ』
割に合わない。意味がない。いずれ捨て去られるのだ、記憶の彼方へ。そんなものに人生を費やして何が残る。
『そろそろ、先を考えて欲しい』
手紙は繰り返し訴えていた。
もう十分だろう。夢の切れ端は叶った、それで十分幸せだと考えなくちゃいけない。ほとんどの人間が、その切れ端が掌を掠めることもなく一生を終えていくのだから。
『帰っておいで』
両親は田舎で小さな工場をやっていた。従業員は2人。大企業の下請けの下請けのまた下請けみたいなものだけど、父親の腕が良くて、その部品は父親の工場でしか仕上がらなかったから仕事は途切れなかった。
『もっと地道でしっかりと地に足がついた仕事が大事だよ』
「ふぅ…」
修一が満足したような吐息を重ねた。吐息一つにも色気があるよな、と考えてうんざりした。
(帰るか)
オレンジジュースの最後の一口を飲み干した。
陽一という理想は既に踏み荒らされていた。映画への情熱も、1作毎に自分の限界を思い知らされて冷え込むばかりだ。修一でさえ、この3作目にはしごきにしごかれている。垣など洟もひっかけてもらえてない。
『出会いはいつでも
半分は運命の偶然
残りは神様のいたずらさ…』
休憩でつけられたラジオが『ロード・オン・ロード』を流している。
(偶然なのかもしれない)
ぐしゃりと紙コップを握り潰した。
(ほんのちょっとした幸運が、神様のいたずらで3作も保ったのかも知れない……けど、そろそろ限界なんだろうな)
苦いものが口の中に湧き上がる。あっさり吐き捨てて、次の目標を探しに行ければ、どれほど楽だろう。何に挑んでも自分の限界を知らされるのは辛い、特に自分の内側の声が告げてくるときは一層。
静かに息を吸い、目を閉じる。胸一杯になった空気を一気に吐き出し、ぱっと目を開けた。
見慣れたロケ風景が、妙に空々しく遠い世界に見えた。
(よし)
心の中で頷いた。
(これを最後にしよう)
思い切りは悪くない、と昔から言われた。家を離れる時も泣き出す母親を振り切った。
「垣さん?」
「ん?」
話しかけられて振り返る。
「この次の作品、知ってる?」
「…いや」
胸中を見透かされた気がしてどきりとする。こちらを見返す修一の、明るく輝く瞳にそっと首を振る。
「伊勢監督が次にやるのをさっき言ってたんだよ。シリーズ4作目、『古城物語』をやるんだって。まあ、まず今回のが当たるかどうかってとこだけど」
「ああ、そうだな」
「……?」
くすくす笑った修一が訝しそうに小首を傾げた。思い直したのだろう、からかうように笑い、
「他人事みたいな言い方だな」
「オレ、さ」
一瞬迷ったが良い機会だとも思った。
「この作品で降りる」
「え…」
笑っていた修一の顔がはっきりと強張った。
「お、りる?」
「ああ」
「滝、を?」
「ああ」
ことばを失ってしまって固まった修一に、ちょっと苦笑して見せる。
「あのさ、ちょっと前から、こう、わかんなくなってきてたんだな」
思わず知らず、溜め息が零れた。
「本当に映画が好きなのか…演じることが好きなのか……役者、ってのが好きなのか。……お前は好きだろ?」
「う…ん」
ぎごちなく修一が頷く。
「このあたりがオレの限界みたいだ。先が見えて来たよ」
「そんなことないよ!」
「お前にはわからんかも知れんがな」
突き放した物言いのニュアンスを修一は確実に察した。
「僕が……友樹…修一だから…?」
「……」
「…………おとうさんの……こと…とか…?」
見る見る落ち込んでくる表情、それさえも様になっている気がする。
生まれついての役者。
「…それも、少し、ある」
「……………」
沈黙は重く長く引きずった。
「………まあ、次の滝役は別の人間になるってことだ」
そして、友樹修一の共演者なら、きっと星の数以上に志望者が見つかるだろう。
「…………………」
「おい、そう沈むなって。お前は大丈夫だよ、降ろされやしないさ」
ぱん、と肩を叩いて笑ってやった。だが、修一は笑わない。大きな瞳を見開いて、じっと垣を見返している。
気まずくなった、と咳払いしかけた垣を、折よく監督が呼んだ。
「おい、垣!」
「はいっ!」
これ幸いと立ち上がって垣は走り出す。
何となく、後ろは振り返れなかった。
「な…るほど」
垣は食卓に出された皿の上の目玉焼きを見ながら重々しく頷いて見せた。
「確かにちょっとしたものだ」
「垣さん!」
むっとしてフライパンを持ったまま、振り返って修一は垣を睨みつける。慣れない緑のエプロンはごそごそと腹回りで余る気がする。
「だって、高野さんがいると思って…」
もそもそっとぼやいて、他人任せで招待した自分が少しみっともなく、くるりと背中を向けてしまった。
「いや、オレのいつもの夕飯に比べりゃ立派なものだ、うん」
垣が慌てて言い繕った。
仕事が終った後、修一はちょっとした夕食なら家で用意出来るよ、と垣を誘った。部屋に戻っても買い置きラーメンぐらいしかない、それも宮田が食べ切ってしまっていなければ、ということだが、とぼやいた垣は二つ返事で応じてくれた。
けれど、高野は急用だとかで垣と修一をマンションに残して帰ってしまった。残された2人で顔を見合わせ、『何か作ろうか』と垣が言い『あ、じゃあ僕が作るよ、垣さん、勝手がわからないでしょ』と修一が受けて、現在に至る。
「ちょっと何か手伝おうか、オレだって少しぐらいは……うぇ」
言いかけた垣が妙な声を出して振り返る。
「?」
「いや……その…あんまりタチの良くない冗談を思い出した」
唸るような声で垣が続けた。
「何?」
「いや、その……オレが料理が出来ると言ったら、宮田がいきなり『結婚しよう』と言い出して」
「うん?」
「『冗談はよせ』と喚いたら、『冗談だよ』って答えたんだが」
うぐぐ、と垣は妙な唸り声を出した。
「見たら、しっかり人の手を握ってやがるんだ」
「マジ?」
「マジ」
弱り切った垣の顔に問いかける。
「宮田さんって、そっちの人?」
「いや」
何でもいいんじゃねえかな、自分の利益になれば。
ぼそりと呟いた声が本当にしみじみしていて思わず吹き出した。
「ひどいや」「ひでえやつだよ」
重なった声を耳に嬉しく聞きながら、目玉焼きを皿に移す。垣はハムを悩んだあげくに厚めに切り分け、その横へ付け合わせた。
「笑い事じゃねえって! マジ、コンクリート詰めにして北極海へ捨ててやろうかと思ったぐらいだ、こっちは」
修一は笑い声で応じる。垣が楽しそうなのが嬉しい。
「昔っから、本気と冗談の区別がつかないんだあいつは、ほんと」
ぶつぶつ呟き続ける垣をちらりと見る。
幸福だ。嬉しい。楽しい。
胸の中に広がった甘い感覚を味わえば味わうほど、冷えて醒めた思考が立ち上がってくるのを意識した。
この時間を失いたくない。どんなにお互いにけなして詰っても一緒に居る垣と宮田のように、垣との繋がりを保ちたい。
どうして垣は急に映画を降りると言い出したのだろう。何が原因なのだろう。何を解決すれば、垣は映画に踏みとどまるのだろう。
どうしたら垣を引き止められるのだろう。
食事の席を整えてお互いに向き合って座る。豪勢とは言い難い食卓だけれど、誰かと一緒に食べる食事がこれほどにおいしい。手に入らなかった今までなら始めからないものと諦められる、けれど、今は。
「垣さん?」
「ん?」
食事を続けながら、修一は忙しく頭を働かせて時間を稼ごうとする。
「ご飯済んだら、脚本の読み合わせ手伝ってよ。今日のところ、監督もう1回撮るって言ってたよね? けど、僕まだよくわからなくって」
「ああ、あの直樹と滝のところな。オレはあれでいいと思ったんだが」
「うん、でもいいから手伝ってよ」「ああ」
なら、さっさと片付けちまうか、と急いで食事を食べ始めた垣に、修一はちょっと戸惑った。長引かせようと思った時間が折り畳まれて短くなった気がして不安になる。
「どこでやる?」
「……こっち」
皿を流しに出して2人はソファに戻った。『ると』が相変わらずソファの端に鎮座している。暖房が効いている室内はごろ寝しても風邪を引いたりしない。
ふと脳裏に過ったこの前の夜を修一は思い出す、冷えた体で固まって眠ったと思ったのに、朝には全身柔らかく温かかった。暖房のほとんどない部屋で、垣の側にいるだけで温かかった。
「ここ、垣さん」
「ああ、シーン203か」
脚本を覗き込む垣の横顔に再び考え込む。
どうしたら垣の決心を変えられるだろう。修一の相手役、滝として、何をすれば、この先もずっと映画に引き止められるだろう。
「えーと、滝の方からか」
シーン203、周一郎の直樹と滝が暴走族に追われ街中を逃げ回る場面だ。カットは滝が殴られのびかけるところから始まっている。
「、ぐえっ!」「滝さん!」
直樹は振り返る。手近の男を叩きのめして滝に走り寄り、呼びかける。
「こっちだ、滝さん!」「お、おぅ…」
よろよろと追いすがる滝、走る2人の前後にバイクの爆音が響く。細い小路で隙をうかがう直樹は、ふっと滝に目を止め、皮肉な調子で尋ねる。
「しっかし、あんたもおかしな人だな」
薄い笑みを投げかける。
「その、周一郎、って他人だろ? 赤の他人のために、何でこんなことをやってるんだ?」
嘲りの裏には周一郎の不安がある。滝が側に居てくれるのは何のためか。金か地位か、それとも他の利潤のためか。
「あんたと周一郎はどう繋がってるんだ?」
込めた願いを悟られないように、口調は嘲笑だ。
「…わからん」
滝は軽く唇を噛んで答える。
「わからんが……こう…」
戸惑い、何かを語ろうとして、その何かを見失った顔で肩を竦め、
「どっか……繋がっているんだ」
言い切ることばは静かで確信に満ちている。
それを、垣はそのまま演じる、まるで、そういう繋がりを知っているように。
(垣さん…)
人は、知らないものは演じられない。役者の技量が経験だと言われる所以だ。自分の人生に出逢っていないものは、フィクションからでも学び取り、疑似体験でも体に感じ取るしかない。想像力が必要なのは、演じ方のためじゃない、それが何を意味しているのかを理解するためだ。
(垣さんは知っている)
ことばにならない、けれど確かな、人と人との繋がり方を。
(僕は、知らない)
だからこんなに、信頼し合う演技の中でも不安になる。
ふいと一瞬、自分が修一の表情に戻ってしまったと気づいて、はっとした。
「よし…」
吹っ切るように直樹の台詞に戻る。
「こっちだ」
向きを変えて直樹は走り、小路を出ようとしたとたんに、体すれすれを掠めたバイクに片腕を引っかけられて身を退き、声を上げる。
「あっ…」「大丈夫か!」
滝の声に笑みを押し上げるが、手からは血が滴り始めている。
「ほら言わんこっちゃない!」
滝がぐいと直樹の腕を掴む。ポケットから出したハンカチで傷をぎゅっと縛ってくれたが、じわじわと滲み続ける血に苛立った様子で、
「ほんっとに、顔が似てると意地っ張りなところも似るのかね!」
ぼやいて、近くの生ゴミバケツを両手に小路の端へ歩いていく。
考えてみればわかる、この状況で直樹をとっさに庇い、冷静に応急手当をし、周一郎のことを考えつつ直樹を気遣い、加えて反撃に出ようとするような男が、どうして間抜けでお人好しなものか。
けれど、観客はごまかされる、この時注目されるのは、2人の微妙な気配のやりとりと、それが意味する関係性だから。最後まで見切った観客もまた、ここで注目するのは直樹の仮面を被った周一郎がどのように振舞うか、いや、この2人しかいないぎりぎりの状況で、周一郎が、種明かしをしたいと揺らぐ心をどう抱えているかだから。
言わば、ここで修一は全ての視線を自分に魅きつけなくてはならない、滝の隠された能力に気づかせないために。
けれど、演じる『直樹』は滝側のファンには疎まれる、滝を嘲る役柄だから。周一郎のファンにも煙たがられる、周一郎と滝の繋がりに侵入してくるから。観客の誰もが『直樹』の味方ではないけれど、その目を魅きつけなくてはならない。
だから難しい。
だからよくわからなくなる、演じ方が。
けれど、今。
(このとき)
ふっと修一は考えた。
(周一郎はどんなに嬉しかっただろう……滝があれこれ言いながらも、側に居てくれる、そうわかって)
どんな姿であっても、どんなに滝に歯向かっても、滝は周一郎の命を無自覚なままでも護ってくれると悟ったはずだ。
(僕は…)
『…そうか、受け止められないわけだ、垣は』
耳に飛び込んできた山根のことば。続くスタッフの会話。
『見事な一人芝居ってわけか』『ショックでしょうね、それ知ったら』『なあに、ちょっとは思い知っときゃいいのさ、あの甘ちゃんは』
(嘘だ)
スタッフが何と思おうと構わない。けれど、そんなことはきっと嘘だ。
(だって、ちゃんと泊めてくれた)
行き場がなくなって糸が千切れた風船のように、傷みにパンパンになって漂っていた修一を受け止めてくれた。
(でも、なら、どうして辞めるなんて…? 僕が一人ぼっちになったの、知ってるのに?)
「友樹君?」
「、あ」
呼びかけられて我に返る。脚本読みが止まってしまっているのに瞬きする。
「どうした? 熱でもあるのか?」
垣が覗き込んでくる、心配そうに。嬉しい。失いたくない。
「う、ううん、ただ」
ことばを切る。垣の覗き込みが深くなる。
「ただ?」
「どうして…垣さん…辞めるなんて…」
声に惑いを載せる。このラインで行けるはずだと無意識に計算している。
「そのことか」
垣の声に苦みが混じった。それまでの『友達』の距離から、ふいに『他人』の距離に戻ったのを感じる。離れた、と感じ取る。
「だから昼間言ったろ? 自分に限界を感じたからって」
うっとうしそうな口調は滝にはない。垣のもの、垣だけの匂い。周一郎が得たものじゃない、修一が得たもの。
「でも、そんなことないよ!」
慌てた声を張り上げる。
「垣さんほど滝役に合った人、見つからないよ!」
無邪気にまっすぐ、垣の才能を信じる声を差し出す。だが、
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