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7.シーン307(4)
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空気が変わる。ふわりと自分を包む感覚に修一は戸惑う。
(これって確か)
あの時、カチンコが鳴った瞬間の気配。
『終ったぞ、修一! もう走らなくていい! いい画が撮れた、安心しろ!』
叫んだあの時の監督の声が聞こえた気がして振り返る。
「止まれ! 抵抗するなああ!」
いきなり背後の男達の回りにばらばらと飛び出してくる点があった。あっという間に数を増し、白い雪原を蹴散らすように次々と黒点が増えてくる。
「動くなあああ!」
響き渡る叫び、上がる雪煙。
(何…?)
「友樹君!」
その黒点の中から1人が、人間の形を取りながらこちらへ向かって走ってくる。
(僕の名前…?)
これは映画のシーンだろうか。
それとも、ぼやけた意識が生み出した記憶の海の中だろうか。
けれどそれなら、修一は役柄で呼びかけられるはずだ。
それともこれもまた、『友樹修一』という役柄の、映画の一コマなのだろうか。
「大丈夫か、友樹君っ!!」
大声で叫びながら、両手を振り回しながら、雪の中でじたばたしながら、それでもかなりの勢いで突進してくる姿に思わず呼んだ。
「垣…さん…っ」
そちらへ向かって走り出すのは必然、約束された場面、けれど後ろに蹴った足が突然深く吸い込まれて悲鳴を上げる。
「わあっ」「友樹君!」「修一さんっ!」「友樹っ!!」
交錯する声の渦、差し伸べた両手が体の下で一気に崩れた雪の中で、ざりざりとした紐のようなものに引っ掛かる。とっさに握り込みしがみつく。焼ける掌の激痛にも離さなかったのは本能だろう。
「、っ、っ、っ……!!」
声にならない声を目眩に覆われた意識で天空へ吐き出し続ける。助けて助けて助けて……誰かああ!
雪崩落ちる雪が落ち着いたとき、修一は静かにそっと息を吐いた。
足元に何もない。
目を閉じる。
見なくてもわかる。ここは断崖だったのだ。雪が被さって走れるように見えていただけだ。もう少し走り続けていたら修一は今の雪とともに遥か下に落ちていたのだ。
「っ」
ぶるっと震えると掌の中の固いロープのようなものがずるりと滑った。うっすらと目を開けて、それが何かを確認して凍りつく。
木の根だ。
凄く太くて立派だ。
けれど、ここへ来る直前まで、そんな大きな木はなかった。
だからこれは、この断崖に埋まっていた、古い、昔の木の根なのだ……いつ抜け落ちても不思議はないような。
ゆうらりと体が揺れて再び目を閉じた。だが今度は唇を噛んで、静かに目を見開いて見下ろした。
何もない。
いや、あるにはあるが、遥かに下だ。
掌に乗るぐらいのバスが1台のんびりと山道を走っている。修一の揺れる足のうんと下の方で、そのバスをおばあさんが待っている。
光景が、一望できた。
「……」
ごくん、と唾を呑んだ。目眩はどこかに消え去っていたが、凍えるほど冷たい霧が額から喉へ這い下りていく。
自分の体は、あののんびりとしたバスの屋根にぶち当たって跳ね返って横の谷に落ちるのだろうか。それとも突き刺さって見るに耐えないものをぶちまけるのだろうか、あの優しそうな気配のおばあさんの前に。
(嫌だ)
視界が涙で霞んだ。鼻水が出た。『周一郎』は絶対おかしい。こんな程度の崖でさえ落ちることは恐怖でしかない。なのに自分で笑って落ちるなんて絶対どこか壊れている。
「友樹君っ!!」「っ!」
上から声が降ってきて慌てて見上げた。涙と鼻水でぐしょぐしょの顔を崩れてきた雪が叩きつけ、一瞬息が止まるかと思った。顔を歪めて背け、目を閉じ、雪の流れに耐え抜いて、また再びのろのろと振り仰いで真っ白な垣の顔を見つけた。
「大丈夫か!!」
「垣…さぁん……」
ほっとした瞬間に手から力が抜けてずるりと数㎝滑り落ち、修一も垣もくぐもった声で悲鳴を上げた。必死に握り込んで止まる、けれどさっきより根の感触が頼りない気がする。
きっと、もう、ここはまずい。
「こっちだ、こっちに手をのばせ!」
垣が叫びながら、固そうな足場を見つけたのだろう、腹這いになって手を伸ばしてきた。白い雪まじりの斜面、寒さで赤くなった手が妙にはっきりと鮮やかに視界に飛び込む。
「…っ」
もう一度乾き切った喉に唾を送り込み、痛みに顔を歪めながら、修一はゆっくりと左手を木の根から離した。大丈夫。何とかまだ保てる。けれどそんなに時間はない。かじかんでじりじり木の根から滑り落ちて行く右手に比して、左手は嫌になるほどゆっくりとしか伸びない。
「もう少しだ、もう少し!」
垣の声が響く。
(僕は…ためらっている)
胸の中の声が応じる。
(この手を本当に掴んでいいのか)
本当に、もう一度、垣の側に戻っていいのか。
(資格が、あるのか)
『資格は、あるのか』
耳の底と胸の奥から同時に響く声を受け取る。
(『周一郎』)
自分の姿に重なり合う、自分の命を断つしか滝を救えないと断じる『周一郎』が。
「こっちだ! こっちだ、友樹君!」
(もう少し、手を伸ばせばいいだけなんだ)
いいのか?
(いいに決まってるさ)
理由は。
(あれが見えないのか)
顔を強張らせ叫びながら手を伸ばしている垣の姿。
(助けたいと思ってるんだよ)
僕を?
(そうだよ、一緒に生きていきたいって)
一緒に?
(一緒に)
だから、信じて。
「、くっ」
修一は渾身の力で体重を右手1本で支えた。左手をしっかりと伸ばす。垣の伸ばす指先に触れた。一瞬。そして、もう一瞬。
「あ」「友樹!」
風が吹く。右手から突然木の根がすっぽ抜けた。今にも重なり合うように見えた2人の手が掠め合う。空中に放り出された修一が、落下に入る次の瞬間、
「どりゃああっっ!」「っっっ!」
空気を蹴破るような雄叫びが響いて修一の手首ががつりと掴まれた。降り戻されて断崖に叩きつけられ、跳ね上げられてもう一度、何度かそれを繰り返す間も、手首を握った掌の力は緩むことなく、そしてついに。
「垣…さん……」
「おうよ…大丈夫だからな……諦めんなよ……」
はあはあと荒い呼吸の合間に、ざまあみろと言いたげに声が笑う。
ああ、ここのところは滝と違うな。
その瞬間に考えていたのは、そんなどうでもいいこと。
「さあ、そっちの手も貸せ」「…うん」
片腕1本掴まえられて空中に浮かんでいる躯は、普段の数十倍の重力がかかっているように重かった。頷いて右手をそろそろと上げていく。斜めに引っ張られている体に逆らって、横へでなく上へ手を伸ばす、その難しさ。
「ぐ、う…っ」
同じようにもう片方の手を差し伸べながら、垣も唸って顔を引き攣らせた。じりじりと手首を掴んだ指が緩む。逆手で掴んでくれていれば、修一も垣の手首を握れたのにと思いつつ、ゆら、ゆら、と揺れた視界にむかつきが込み上げ目を閉じた。こんな所で吐いたらおしまいだ。衝撃で垣の手がすっぽ抜けるのは目に見えている。
「早く…友樹…っ」
呼び捨てにされた声に一瞬強く目を閉じ、落ちるしか道はないと囁きかける『周一郎』を意識の向こうに押し込める。
(帰る…絶対帰る)
僕は君と違うよ、『周一郎』。
僕は自分が死ぬことが垣さんを助けられるなんて思わない。
だって。
「…っ」
右手を伸ばしていきながら、目を開け、その向こうに差し出されている真っ赤な手を、ぶるぶる震えながら食いしばって覗き込んでいる垣の顔を見上げる。
「…こんな顔を見て、それでも死んでいいなんて思えないよ」
君は見えなかった。
確かにルトを通して人の裏表をいやというほど見続けてきたんだろう、けど。
「……肝腎なとこが、全く見えてなかったよ……っ!」
吐き捨てながら、最後の一踏ん張りで垣の手首をがっちりと握った。心得たように垣が修一の手首を握り込む。
「よ…ぉし…」
ほう、と息を吐いた垣がすぐさま怒鳴る。
「宮田! 引っ張れ! そっとゆっくりだぞ!」
おーらい、とひどく軽い声が応じて、あ、ごめええん、と続く。いきなりがくんっと垣の体が前後しひやりとした。滑りかけていた左手が一瞬抜けかけ、咄嗟に垣が顔を引き攣らせて手を振り回し、かろうじて修一の手首を掴む。
「手ぇ滑っちゃった」「……覚えてろよ」
どこまでも軽い宮田の声に垣の目が細くなった。
「悪い悪い…思ったより重いよね、お前」「……ほっとけ」
ずるっ、ずるっと数㎝単位で引き上げられていく体に竦んだ修一の顔を見たのだろう、垣は瞳を和らげた。
「もう大丈夫だからな」
静かに続ける。
「もう心配しなくていいからな」
「…うん」
ことばだけでは足りなくて、修一は何度も頷く。
ほらね、『周一郎』。君だって、手を伸ばしてたら同じことばを聞けたはずだ。
(だってさ)
相手は滝志郎だ。お由宇から天使症候群なぞと呼ばれ、周囲の人間までお節介で親身でいい人に変えていってしまうようなキャラクターだ。『周一郎』を助けないはずがなかっただろう。
(君は、何にも見えてなかった)
『周一郎』を失った滝がどれほど傷つくか。それが自分のせいだと考えた滝がどれほど負い目を背負うか。
(いや、わかってたのかな)
だからこそ『直樹』として側に居た。
(なんだ…『周一郎』…君って)
「もう少し、もう少し!」「おいせこらせおいせこらせ」「頑張れ宮田」「頑張ってますっておいせこらせ」
宮田と掛け合いつつ垣がついに修一を崖の上に引きずり上げる。最後の1回で胸やら腹やらを思い切り擦られ、視界が眩んで吐き気が戻り、思わず口を押さえて俯いたとたん、
「おい、大丈夫か怪我はないか何もされてないか気分はどうだああまず寒いよな」
垣がおろおろと近寄りジャケットを着せかけてくれた。
「…そんな一度に聞かれても答えられないよ」
「……大丈夫そうだな」
「…うん」
ほっとした顔になる垣に笑い返す。
(君って……甘えていただけなのか)
自分のやり方のままで滝に受け入れて欲しくて。誰かの代用品ではない、『朝倉周一郎』を探して見つけて認めて欲しくて。大切で優しい、かけがえのない友人に。でも。
「……そんなやり方じゃ伝わらない」
「え?」
こうするんだよ、と修一はよろよろと立ち上がった。
「お、おい、友樹君…?」
「……こわ、かった、よおっ!」
思い切り叫んで垣にむしゃぶりつき、押し倒してしがみついた。
「こわかったあああああ!!!!!」「ひえええええ!」
修一の豹変に垣が泡を食ってじたばたしている。宮田が、なんだそれはあっと顔を引き攣らせ叫んでいる。修一さんっ、と声を響かせ佐野や高野が必死に近づこうとしてくる。雪は冷たく、抱きついた垣の体が唯一の温もりで。
くすくすくす、と修一は笑った。
笑いながら、垣に顔を押しつけ、歪んだ顔に零れた涙を隠した。
垣は滝ではない。
修一は周一郎じゃない。
だから。
夢は全て消えるのだ。
(これって確か)
あの時、カチンコが鳴った瞬間の気配。
『終ったぞ、修一! もう走らなくていい! いい画が撮れた、安心しろ!』
叫んだあの時の監督の声が聞こえた気がして振り返る。
「止まれ! 抵抗するなああ!」
いきなり背後の男達の回りにばらばらと飛び出してくる点があった。あっという間に数を増し、白い雪原を蹴散らすように次々と黒点が増えてくる。
「動くなあああ!」
響き渡る叫び、上がる雪煙。
(何…?)
「友樹君!」
その黒点の中から1人が、人間の形を取りながらこちらへ向かって走ってくる。
(僕の名前…?)
これは映画のシーンだろうか。
それとも、ぼやけた意識が生み出した記憶の海の中だろうか。
けれどそれなら、修一は役柄で呼びかけられるはずだ。
それともこれもまた、『友樹修一』という役柄の、映画の一コマなのだろうか。
「大丈夫か、友樹君っ!!」
大声で叫びながら、両手を振り回しながら、雪の中でじたばたしながら、それでもかなりの勢いで突進してくる姿に思わず呼んだ。
「垣…さん…っ」
そちらへ向かって走り出すのは必然、約束された場面、けれど後ろに蹴った足が突然深く吸い込まれて悲鳴を上げる。
「わあっ」「友樹君!」「修一さんっ!」「友樹っ!!」
交錯する声の渦、差し伸べた両手が体の下で一気に崩れた雪の中で、ざりざりとした紐のようなものに引っ掛かる。とっさに握り込みしがみつく。焼ける掌の激痛にも離さなかったのは本能だろう。
「、っ、っ、っ……!!」
声にならない声を目眩に覆われた意識で天空へ吐き出し続ける。助けて助けて助けて……誰かああ!
雪崩落ちる雪が落ち着いたとき、修一は静かにそっと息を吐いた。
足元に何もない。
目を閉じる。
見なくてもわかる。ここは断崖だったのだ。雪が被さって走れるように見えていただけだ。もう少し走り続けていたら修一は今の雪とともに遥か下に落ちていたのだ。
「っ」
ぶるっと震えると掌の中の固いロープのようなものがずるりと滑った。うっすらと目を開けて、それが何かを確認して凍りつく。
木の根だ。
凄く太くて立派だ。
けれど、ここへ来る直前まで、そんな大きな木はなかった。
だからこれは、この断崖に埋まっていた、古い、昔の木の根なのだ……いつ抜け落ちても不思議はないような。
ゆうらりと体が揺れて再び目を閉じた。だが今度は唇を噛んで、静かに目を見開いて見下ろした。
何もない。
いや、あるにはあるが、遥かに下だ。
掌に乗るぐらいのバスが1台のんびりと山道を走っている。修一の揺れる足のうんと下の方で、そのバスをおばあさんが待っている。
光景が、一望できた。
「……」
ごくん、と唾を呑んだ。目眩はどこかに消え去っていたが、凍えるほど冷たい霧が額から喉へ這い下りていく。
自分の体は、あののんびりとしたバスの屋根にぶち当たって跳ね返って横の谷に落ちるのだろうか。それとも突き刺さって見るに耐えないものをぶちまけるのだろうか、あの優しそうな気配のおばあさんの前に。
(嫌だ)
視界が涙で霞んだ。鼻水が出た。『周一郎』は絶対おかしい。こんな程度の崖でさえ落ちることは恐怖でしかない。なのに自分で笑って落ちるなんて絶対どこか壊れている。
「友樹君っ!!」「っ!」
上から声が降ってきて慌てて見上げた。涙と鼻水でぐしょぐしょの顔を崩れてきた雪が叩きつけ、一瞬息が止まるかと思った。顔を歪めて背け、目を閉じ、雪の流れに耐え抜いて、また再びのろのろと振り仰いで真っ白な垣の顔を見つけた。
「大丈夫か!!」
「垣…さぁん……」
ほっとした瞬間に手から力が抜けてずるりと数㎝滑り落ち、修一も垣もくぐもった声で悲鳴を上げた。必死に握り込んで止まる、けれどさっきより根の感触が頼りない気がする。
きっと、もう、ここはまずい。
「こっちだ、こっちに手をのばせ!」
垣が叫びながら、固そうな足場を見つけたのだろう、腹這いになって手を伸ばしてきた。白い雪まじりの斜面、寒さで赤くなった手が妙にはっきりと鮮やかに視界に飛び込む。
「…っ」
もう一度乾き切った喉に唾を送り込み、痛みに顔を歪めながら、修一はゆっくりと左手を木の根から離した。大丈夫。何とかまだ保てる。けれどそんなに時間はない。かじかんでじりじり木の根から滑り落ちて行く右手に比して、左手は嫌になるほどゆっくりとしか伸びない。
「もう少しだ、もう少し!」
垣の声が響く。
(僕は…ためらっている)
胸の中の声が応じる。
(この手を本当に掴んでいいのか)
本当に、もう一度、垣の側に戻っていいのか。
(資格が、あるのか)
『資格は、あるのか』
耳の底と胸の奥から同時に響く声を受け取る。
(『周一郎』)
自分の姿に重なり合う、自分の命を断つしか滝を救えないと断じる『周一郎』が。
「こっちだ! こっちだ、友樹君!」
(もう少し、手を伸ばせばいいだけなんだ)
いいのか?
(いいに決まってるさ)
理由は。
(あれが見えないのか)
顔を強張らせ叫びながら手を伸ばしている垣の姿。
(助けたいと思ってるんだよ)
僕を?
(そうだよ、一緒に生きていきたいって)
一緒に?
(一緒に)
だから、信じて。
「、くっ」
修一は渾身の力で体重を右手1本で支えた。左手をしっかりと伸ばす。垣の伸ばす指先に触れた。一瞬。そして、もう一瞬。
「あ」「友樹!」
風が吹く。右手から突然木の根がすっぽ抜けた。今にも重なり合うように見えた2人の手が掠め合う。空中に放り出された修一が、落下に入る次の瞬間、
「どりゃああっっ!」「っっっ!」
空気を蹴破るような雄叫びが響いて修一の手首ががつりと掴まれた。降り戻されて断崖に叩きつけられ、跳ね上げられてもう一度、何度かそれを繰り返す間も、手首を握った掌の力は緩むことなく、そしてついに。
「垣…さん……」
「おうよ…大丈夫だからな……諦めんなよ……」
はあはあと荒い呼吸の合間に、ざまあみろと言いたげに声が笑う。
ああ、ここのところは滝と違うな。
その瞬間に考えていたのは、そんなどうでもいいこと。
「さあ、そっちの手も貸せ」「…うん」
片腕1本掴まえられて空中に浮かんでいる躯は、普段の数十倍の重力がかかっているように重かった。頷いて右手をそろそろと上げていく。斜めに引っ張られている体に逆らって、横へでなく上へ手を伸ばす、その難しさ。
「ぐ、う…っ」
同じようにもう片方の手を差し伸べながら、垣も唸って顔を引き攣らせた。じりじりと手首を掴んだ指が緩む。逆手で掴んでくれていれば、修一も垣の手首を握れたのにと思いつつ、ゆら、ゆら、と揺れた視界にむかつきが込み上げ目を閉じた。こんな所で吐いたらおしまいだ。衝撃で垣の手がすっぽ抜けるのは目に見えている。
「早く…友樹…っ」
呼び捨てにされた声に一瞬強く目を閉じ、落ちるしか道はないと囁きかける『周一郎』を意識の向こうに押し込める。
(帰る…絶対帰る)
僕は君と違うよ、『周一郎』。
僕は自分が死ぬことが垣さんを助けられるなんて思わない。
だって。
「…っ」
右手を伸ばしていきながら、目を開け、その向こうに差し出されている真っ赤な手を、ぶるぶる震えながら食いしばって覗き込んでいる垣の顔を見上げる。
「…こんな顔を見て、それでも死んでいいなんて思えないよ」
君は見えなかった。
確かにルトを通して人の裏表をいやというほど見続けてきたんだろう、けど。
「……肝腎なとこが、全く見えてなかったよ……っ!」
吐き捨てながら、最後の一踏ん張りで垣の手首をがっちりと握った。心得たように垣が修一の手首を握り込む。
「よ…ぉし…」
ほう、と息を吐いた垣がすぐさま怒鳴る。
「宮田! 引っ張れ! そっとゆっくりだぞ!」
おーらい、とひどく軽い声が応じて、あ、ごめええん、と続く。いきなりがくんっと垣の体が前後しひやりとした。滑りかけていた左手が一瞬抜けかけ、咄嗟に垣が顔を引き攣らせて手を振り回し、かろうじて修一の手首を掴む。
「手ぇ滑っちゃった」「……覚えてろよ」
どこまでも軽い宮田の声に垣の目が細くなった。
「悪い悪い…思ったより重いよね、お前」「……ほっとけ」
ずるっ、ずるっと数㎝単位で引き上げられていく体に竦んだ修一の顔を見たのだろう、垣は瞳を和らげた。
「もう大丈夫だからな」
静かに続ける。
「もう心配しなくていいからな」
「…うん」
ことばだけでは足りなくて、修一は何度も頷く。
ほらね、『周一郎』。君だって、手を伸ばしてたら同じことばを聞けたはずだ。
(だってさ)
相手は滝志郎だ。お由宇から天使症候群なぞと呼ばれ、周囲の人間までお節介で親身でいい人に変えていってしまうようなキャラクターだ。『周一郎』を助けないはずがなかっただろう。
(君は、何にも見えてなかった)
『周一郎』を失った滝がどれほど傷つくか。それが自分のせいだと考えた滝がどれほど負い目を背負うか。
(いや、わかってたのかな)
だからこそ『直樹』として側に居た。
(なんだ…『周一郎』…君って)
「もう少し、もう少し!」「おいせこらせおいせこらせ」「頑張れ宮田」「頑張ってますっておいせこらせ」
宮田と掛け合いつつ垣がついに修一を崖の上に引きずり上げる。最後の1回で胸やら腹やらを思い切り擦られ、視界が眩んで吐き気が戻り、思わず口を押さえて俯いたとたん、
「おい、大丈夫か怪我はないか何もされてないか気分はどうだああまず寒いよな」
垣がおろおろと近寄りジャケットを着せかけてくれた。
「…そんな一度に聞かれても答えられないよ」
「……大丈夫そうだな」
「…うん」
ほっとした顔になる垣に笑い返す。
(君って……甘えていただけなのか)
自分のやり方のままで滝に受け入れて欲しくて。誰かの代用品ではない、『朝倉周一郎』を探して見つけて認めて欲しくて。大切で優しい、かけがえのない友人に。でも。
「……そんなやり方じゃ伝わらない」
「え?」
こうするんだよ、と修一はよろよろと立ち上がった。
「お、おい、友樹君…?」
「……こわ、かった、よおっ!」
思い切り叫んで垣にむしゃぶりつき、押し倒してしがみついた。
「こわかったあああああ!!!!!」「ひえええええ!」
修一の豹変に垣が泡を食ってじたばたしている。宮田が、なんだそれはあっと顔を引き攣らせ叫んでいる。修一さんっ、と声を響かせ佐野や高野が必死に近づこうとしてくる。雪は冷たく、抱きついた垣の体が唯一の温もりで。
くすくすくす、と修一は笑った。
笑いながら、垣に顔を押しつけ、歪んだ顔に零れた涙を隠した。
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修一は周一郎じゃない。
だから。
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