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9.シェーランの山賊(コール)(2)
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翌日。
「……おかしな気配だと思ったんだ」
馬に引かせた荷車の上で、体のあちこちをぶつけながらアシャは顔をしかめてぼやいた。
頷いて神妙な顔をしようと努力しつつ話を聞こうとしたユーノは、とうとう耐えかねて吹き出してしまう。
「ご…ごめんっ……つい、こう…おかしくって」
「ちっ」
うっすら赤くなったアシャが不愉快そうに顔を逸らせて舌打ちする。
「覚えてろよ、イルファの奴」
「でも、似合うよ?」
「言うな」
むすっとしたアシャが紅を塗った唇を尖らせる。
口紅だけではない、身につけているのは淡いクリーム色の衣、結い上げた髪には真っ白なラフレスの花と真紅の櫛飾り、手足には色鮮やかな組み紐の装飾品という派手な女装、もともと女顔だけに苛立ってる紫の瞳もきらきらまばゆいし、どう見たって誰もが見愡れる美女なのに、表情だけがまるで小さな男の子のようにぶっきらぼうで幼い。
「せっかく美人なのに」
「おほほ、お褒めに預かり光栄至極………とでも笑えというのか」
じろりと険のある目つきで睨んでくるが、やはりどうにも絶世の美女が何かしら拗ねている、そういう気配の方が強い。
「いや、そこまでは」
くすくす笑いながら、ユーノは夕べの主人の話を思い出した。
「生贄?」
「はい…実はこんなに山賊(コール)を恐れている理由というのは、『生贄』のせいなのです」
荒らされた家を片付け、山賊(コール)達の屍体を荷車や馬で村外れの墓地まで運び、ようやく何とか落ち着いたころ、主人はぽつりぽつりと話し出した。
『鳴く山(コール)』が低い地鳴りに加えて女の悲鳴のような叫びを上げる時、いつの頃からか、山賊が街を襲うようになった。
やり方はそれまでと全く違う。一番に盗んでいくはずの貴金属や食物などには目もくれず、ただただ村を破壊し女を攫っていく。人々が娘や妻を隠し始めると、山賊はより荒れ狂い連日連夜襲撃を続けた。やがて、人々が山賊をコールと呼んで恐怖に恐れ戦くようになったころ、彼等は『生贄』を命じた。
『鳴く山(コール)』が女の悲鳴で呼び掛けるとき、くじで選ばれた娘は泣く泣く家族に別れを告げ、山に向かう。そうすれば村はそれ以上襲われず、『生贄』は1人で済む。もし、『生贄』が準備されていなければ、山賊(コール)は村を襲い、襲った家の数だけ『生贄』を差し出さなくては再び村が襲われる。
その夜、襲われた家は2軒、村は2人の『生贄』を用意しなくてはならない。
「『生贄』には未婚の若い娘でなくてはならないのです。しかし、もう村には娘など残っておりません……私どもの娘も………この前……」
主人は膝の上で固く拳を握りしめた。
「さきほどのあなた様方の剣の腕前を見ておりました。お礼はいたします、どうかあの山賊どもを退治して頂けないでしょうか」
「しかし」
「アシャ」
言い淀むアシャにユーノは顔を上げた。
「引き受けたいんだけど」
「…ユーノ」
俺達はまだまだうんとかかる旅の途中でだな、と言いかけた相手が、応えないでじっと見つめるユーノを見返し、やがて大きく溜め息をつく。
「……言い出しそうな気がしていた」
「だって」
ユーノは床の上で返答を待って体を縮めるように座っている夫婦を見た。
「このままじゃこの人達、殺されるのを大人しく待ってろ、って言われてるようなものだよ?」
「こっから出ていくってことは駄目なのか」
イルファが尋ねると、主人が苦しそうに顔を上げる。
「……娘の生死が知れません……」
「……」
「ああいう男達に攫われて、無事でいるはずがない、そう思われるのは承知しております、が」
生きているのか死んでいるのか、それを確かめもせずにここから逃げ出すわけにはいきません、私どもはあの子の親なんですから。本当ならば我が手で救い出してやりたいのです、けれど、それがどれほど無謀なことであるか、自分達の無力は重々わかっております。しかし、寒い夜には凍えていないか、食べ物はちゃんと食べているのかと、生きていることばかり考えているのです。
主人の荒れた頬を伝い落ちる涙に、イルファもことばを失う。ユーノは吐いた。
「アシャ」
「…がしかし」
「無茶を言ってるのはわかってる、けど」
私には、親として心配するこの人達の気持ちが。
それほどまでに案じてもらえてるのだから、全うさせてやりたい、せめて生死を確かめてやりたい。
言いかけて苦しくなって俯くと、はぁあ、とアシャが溜め息をついた。
「策はあるのか」
「いいの?」
「止めたら1人で行くんだろうが」
「……うん」
「俺はお前の付き人だ、放置するわけにはいかん」
苦い顔で腕組みをして、しかしどうやって『鳴く山(コール)』に入る、と尋ねてきた。
「『生贄』になってみようかと思うんだ」
「『生贄』に?」
「内側からなら隙もできる、何か突破口が見つかるかもしれない」
「またそんな無謀なことを……出られなくなったらどうする気だ、第一、『生贄』は2人なんだぞ、1人はお前がするとして、もう1人を一体どこでどうやって調達……」
苛々して髪を掻き上げたアシャをイルファが見つめる。つられたように主人が見上げ、レスファートもアシャを見た。
「どこで調達するか、だよな」
「そう、だよね」
「この村には若い女の人ってもういないんだよね?」
「ええ、でもひょっとして」
イルファ、ユーノ、レスファートとことばを繋いで、主人が小さく頷く。
「だろ、だから、もう1人の『生贄』…………ちょっと待て」
はっとしたようにアシャが顔を強ばらせた。
「何かおかしなことを考えてないか」
「いけませんかね?」
「いけそうだよな?」
「いける気がする」
「うん」
にっこり笑ったレスファートがとどめを刺す。
「アシャなら女の人でもとおるよ!」
「待てっ!」
「大丈夫だ」
うろたえるアシャに、イルファが重々しく断言した。
「お前なら脱がされても女で通る」
「で、何がおかしい気配だと思ったって?」
「ああ」
アシャが睨んでいた視線を微かに逸らせる。
「……あいつらとは前にやりあったことがある」
「あるの?」
「まあな」
まあな、だって?
ユーノは密かに眉をしかめる。
確かにアシャという男が見かけと全く違うものだというのはわかってきた。優男で女に見えかねない綺麗な顔で、詩歌も口にしダンスもうまい、宮廷慣れもしている、物腰も雰囲気も柔らかいが、その実敵を倒すときの容赦なさ、年齢にしては異常に豊富な知識と経験、しかも時々見せる不思議な微笑には得体の知れないものもあって。
レクスファで『盗賊王』を倒したとも聞いた、なのにここでも『山賊(コール)』とやりあったことがあるという。どう見ても生死を左右する修羅場を事もなくくぐり抜けてきているようなのに、ただの旅人がそれほどのことに巻き込まれて平然と生きてこれるのだろうか。
そもそも、アシャはどこの生まれで、本当は何者なのか、それをユーノはおろか、レスファートもイルファも、いやレダト王さえ詳しく知らない。知らないままに、誰もがアシャを身内深く迎え入れる、それが既に十分不思議なことではないのか。
(まさか)
ちら、とユーノは横目でアシャを見遣る。
(それこそ、妖魔とか精霊とか………ラズーンの神さま、だとか)
まさかね、と思いながら唇を噛む。
警戒しなければならない、いざとなったらアシャと剣を交えることさえ覚悟しなくてはならないかもしれない、祖国セレドとレアナのために。
(斬りたく、ない)
もう十分ユーノの手は血に塗れている。今さら無邪気なふりはするつもりなどないが、それでも敵に対してためらいなく剣を振うユーノを見るアシャの視線が、何となく変化しているのは気付いている。
(あたりまえ……だよね)
普通ならば花を飾り、ドレスを着て、平和な日々を愛おしむ年齢だ。アシャが付き人を頼まれたとはいえ、引き受けてくれたのだって、そういう娘の身の回りの世話という思いだったのだろうに、ユーノはアシャを引きずり回し危ない目にばかり合わせている。
(疎ましがられても……当然、か)
『山賊(コール)』退治を引き受けたときも迷惑そうだった。無理もない、それはわかっている。ユーノ達はまだうんと長い旅をしなくてはならないのだ。
(でも)
生きているか死んでいるか、それを確かめもせずにここから逃げ出すわけにはいきません、私どもはあの子の親なんですから。
言い放たれて、辛かった。
そうか、そう思うのが親なのか。わが子の安否を心配して、何もできなくとも逃げ出すまいと考えるのが親なのか。
ならばユーノの両親は? いつかの夜、その身を呈して我らを守れ、そう命じた彼らは一体何なのか。
「っ」
ユーノはきつく目を閉じた。
考えたくない。考えたくないから引き受けた。それほど娘を思う気持ちを全うさせたくて名乗り出た。それほど思われている娘を何とか無事に帰してやりたかった。そうすればきっとほっとする。
そうすれば、きっと。
「ユーノ」
「っ!」
ふいに熱を感じて、ユーノはとっさに体を起こした。右手を懐に忍ばせた懐剣に、左手を常なら置いている長剣の場所に伸ばして身構え、はっとする。
目の前には、戸惑った顔でアシャが半端に手を浮かせている。
「あ…」
握った懐剣から手を放す。
「何もしないよ」
微かに笑ったアシャが両手をそっと上に上げて空っぽなのを示してみせた。
「花がずれてるから直そうとした、だけだ。すまん、急に手を伸ばしたからびっくりさせたんだな?」
「う…ん」
ユーノは一瞬泣きそうになったのを、かろうじて堪えて笑い返した。
「こっちこそ、ごめん。花、自分で直すから」
「ああ」
側に居たのがアシャだと忘れていたわけでもなければ、アシャを敵だと思っていたわけではない。けれど、苦笑して手を降ろす相手を警戒していたのは明らかで、それをはっきり思い知らせるような形になってしまった。
(違う、のに)
唇を噛みながら慌てて髪の花に触れる。ふわふわと頼りなく柔らかな感触が、指先を何度も潜り抜ける。
(レアナ、姉さま)
ふいとその柔らかさを追うようにレアナの面影が胸に広がった。
いい子ね、ユーノ、優しい子。
昔聞いた甘い慰め。
(違う)
違う。
優しくなんかない。優しい子ならば、人に剣を向けたりしない。敵を屠ったりしない。ましてや、自分の想う相手が側に居るなら、ときめきこそすれ、こんな風に警戒したり、剣を握って身構えたりしない。
「っ…」
はらりと花びらが一枚落ちた。か弱く脆い花弁がなかなかうまく落ち着いてくれない。
「やりにくそうだな。全部落ちてしまうぞ」
「……ん、そ……だね」
アシャの苦笑した声が胸に堪えた。お前にはそんなものは似合わない、そう言われた気がした。
(わかってる)
きつく唇を噛み締めて、丁寧に整えようとするたびに花びらが散り落ちる。
(わかって、るから)
花1つさえ自分で満足に扱えない、それが分不相応な格好をしているからだと嘲笑されているようで、体が熱くなってなお焦る。
(何も、こんなときに)
アシャが見ているその前で、こんなみっともない格好を晒さなくてもいいじゃないか。
(綺麗だと思ってもらえなくてもいいから)
せめて、せめて。
「ユーノ」
「……」
「ちょっと触るぞ?」
「…っ」
優しく声をかけられて、思わず視線を上げた。側に寄ってきていたアシャが見下ろしたまま、一瞬固まる。それから、くすりと小さく笑って、
「こういうのは俺の方が慣れてる。何せ女装が趣味、だからな」
「へ、へえ、そう、なの?」
ほっとして、慌てて応じた。
「自分で認めるんだ?」
「冗談だ」
「認めたじゃない」
「冗談だと言ったぞ」
ほら、貸せ。
「ん」
指が触れた。ぎちぎちひきつれた髪をそっと弄って、撫でてくる。繊細で丁寧な動きに苛立った気持ちがおさまってくる。かなり花びらを散らしてしまったから足りなくなったのか、自分の髪から花を外してユーノにつけてくれる。
(気持ちいい)
誰か他人の指先でこれほどくつろげたことはなかった。目を伏せて温かな指が触れてくるのを味わっていると、遠い昔に帰っていくような気がする。
自分は守ってもらえるのだと無条件に信じていた、遠い彼方の昔に。
「……ん、よし。これで落ちないぞ、少々暴れ回っても」
呼び掛けられて目を開けた。
いつの間にか、アシャの腕に抱えられるようにして髪を弄られていたのに気付き、慌てて姿勢を直す。
「ありがとう、助かった」
に、と笑って、どこか面映気な相手に距離をおきながら、
「ところで勝算はあるの?」
無理に話題を変えた。
花を扱い倦ねて困っているのを見兼ねて声をかけたら、思いもしない幼い顔で、しかも今にも泣きそうな顔で見上げられて固まった。
(なんて顔を、する)
怯えて不安がって頼りなさそうな顔。
命をやりとりする最中にもそんな顔は見せないのに、たかが花1つ散るだけで、どうしてそれほど傷ついた顔になってしまうのか。
(いつもそうだな)
自分が傷つくことには平気なのだ。命に関わる傷でさえ、笑ってしのいでしまうのだ。けれど、その同じ心は、他の命が傷つくことには痛々しいほど敏感で。
女装が趣味だと気持ちをほぐしてやりながら、髪に触れて整えてやった。
(本当はきっと)
カザド兵も山賊(コール)も、できれば命を奪いたくないとユーノは心の底では思っている。
(だからこそ)
自分を第一に守れば傷つかない場合にもそれ相応の傷を負うのは無意識の差し引き条件なのだろう。相手を傷つける、その代償を自らの傷で支払って。
そういう心を抱えながら、それでも剣を振って生き延びてくるしかなかった自分を、ユーノはどこかで負担にしている。
小さく吐息をついて体を寄せてくるのは、きっと意識していない。自分が甘えるような無防備な顔を晒しているのも気付いていない。
(見せたくないな)
他のやつにユーノのこんな顔を見せたくない。
けれど、好きな男ができれば、そいつにはきっと見せるのだろう。
「…………」
アシャは眉を顰めた。今まで感じたことのない冷ややかな怒りを感じて、ますます顔を歪める。
(まずい)
この執着が何かを知らないほど子どもではない。けれど、その大きさは今まで感じたことがないほどで、見る見る胸を圧倒する。
誰にも、渡したく、ない。
コレハオレノモノダ。
(何を考えてる)
舌打ちしそうになって慌てて首をきつく振り、
「……ん、よし。これで落ちないぞ、少々暴れ回っても」
「ありがとう、助かった」
声をかけると、ユーノがはっとしたように体を起こした。うっすら赤くなっているのは、自分がアシャに抱き込まれるような形になっていると気付いたせいだろう。ユーノが急いで取った距離が不愉快になって、ドレスを乱し、どすりと胡座を組んで座る。
「ところで勝算はあるの?」
アシャの格好に呆れた顔で尋ねてくるユーノに肩を竦めてみせる。
「ともかく相手の状態がわからなけりゃな」
「そんな気持ちで引き受けたの?」
怖いなあ、と苦笑する相手に、どっちがだ、とやり返す。
「無鉄砲もいいところだぞ。万が一、ここで…大怪我をしてラズーンへ辿りつけなくなったらどうする気だ」
「死なないよ」
事もなげにユーノはアシャが避けたことばを使った。
「死なないって……もし、の時だ」
「絶対死なない」
ぎゅ、と唇を真一文字に結んだユーノが一瞬鋭い目でアシャを射抜き、すっと目を逸らせて、近付いてきた『鳴く山(コール)』を見る。
「……死ぬ、もんか」
『鳴く山(コール)』は馬に引かれた荷車に揺られる2人の前に全貌を見せつつあった。削いだような赤茶けた岩肌に暗い緑の樹木がしがみつくように生えている。点々とした緑の間、不格好にくり抜いた洞窟が、夜の闇のように口を開けていて、奥でちらちらおき火のような光が揺れている。
「火をつけている…」
「奇妙だな」
アシャは眉を寄せた。
「この暑さなのに、どうして火がいる……っ!」
ふいに、何に驚いたのか、馬がいきなり棒立ちになって暴れた。嘶き怯えてはね、荷車ごと倒れ込む。
「あっ」
「ユーノっ」
さすがに予想していなかったらしいユーノの体が軽々跳ね飛ばされそうになるのを、アシャはとっさに引き寄せて胸の中へ抱き込んだ。同時に荷車から転がり出たのはいいが、右手首を捻って体を支えてしまって顔を歪める。
「つ…」
「っ、手首?」
慌てたように胸にしがみついていたユーノが体を起こして覗き込んできた。
「捻ったの?」
「ちょっと、な」
「ご、めん…」
すうっとユーノの頬に赤みが昇った。
「私、を抱えてたからだね」
「ああ、別にそういうわけじゃ」
いつもならするはずのないへまをしたのは、抱き込んだユーノの髪から漂った甘い匂いに一瞬気を取られたせいだ、そう説明することができずに、曖昧に笑った。
「だって…」
「、ユーノ」
うろたえた顔で言い募ろうとした相手の背後の茂みがざわりと揺れて、アシャは目を細めた。
「っ」
振り返ったユーノの体にも緊張が走る。
茂みを掻き分けて出てきたのは、全身を覆う黒い服、片肩から巻きつけた毛皮の男達。浅黒い、どこか生気のない顔、のろのろと愚鈍そうな動き、けれどそれを裏切るようにぎらぎら光る鎖を握っていて、その先に何かわからぬもので黒く汚れた棘だらけの鉄球が揺れている。
「頭、が、お呼び、だ」
男の1人が初めて声を出した。木の皮を摺り合わせるような響きで、
「立て」
男達がぐるりと2人を取り囲んだ中で命じる。
その背後で1人の男が倒れた馬の首から血に塗れた剣を引き抜いて両肩に担ぎ上げ、別の1人が荷車を斧で砕いて粉々にしていくのが見えた。
凄まじい力にごくり、とユーノが唾を呑む。
「お迎えに、来て下さったのね」
アシャはユーノを促しながら、静かに微笑んで立ち上がった。
「何処まで、行くの?」
「……」
「頭って男の人なん、でしょう?」
「……」
問いを繰り返すユーノに男は一言も応じない。
「答えて、くれない、わ」
首をすくめて振り返ったユーノの女ことばはぎごちない。
「一体どこまで連れていく気かしらね」
囁くアシャの方がやや掠れ気味の甘い声に響いて、ユーノがこそりと呟く。
「女らしいなあ」
じろりと見遣ったもののそれ以上は相手にせずに、アシャは周囲を観察した。
進んでいる洞窟は山に自然に開いた穴をより通り抜けやすくするように広げたようだ。揺らめく松明の炎が様々な影を壁に踊らせている。今は風が吹かないのだろう、動かない空気がひんやりと重い。岩肌は赤茶色で思ったよりも乾いていて、足下にはさらさらとした砂の感覚、確かに暮らすには悪くない。洞窟特有のしけった臭いもしない。
だが、どこからか臭気が漂ってくる。アシャの本能的な警戒心を呼び起こす匂い、野生の獣の住処に漂うような。
キャアアアアーッ!!
いきなり女性の絶叫が響き渡った。同時に、洞窟が震えて激しい風が一陣吹き抜ける。松明が一瞬にして吹き消され、辺りが闇に呑まれた。
「っぁ」
小さな悲鳴がすぐ側から聞こえてぎょっとする。
「ユーノ?」
「だい…じょうぶ」
闇を透かしながら声をかけると、微かな声が戻ってきた。
キェアアアアーッ!
「!」
(あの声はひょっとして)
再び風が吹き抜けたとたんに響いた叫びにアシャははっとした。女性の悲鳴そっくりだが、猛々しいさをたたえた声には覚えがある。
(それにこの臭い)
粘りつくような濃い闇の中にぬらっと光が揺れて、松明が再び点された。次々移されて元通りに灯を点した男達の1人が、松明を掲げていないもう片方の手でユーノのニの腕を握りしめているのにぎくりとする。武骨な5本の指がユーノの腕に食い込んで、顔を背けたユーノは歯を食いしばって眉を寄せている。
「何をされますの」
ぐい、と男はユーノを引っ立てるように引き寄せ、アシャの方へ突き放した。よろめいたユーノが左腕を押さえながらもたれかかってくる。
「こんなところで逃げられなどしませんわ」
抱きかかえて男に訴えたが、相手の無表情な顔は動かない。
「灯が消えたとたんに握り締められて…」
ユーノが苦しそうに訴えた。
「ただのでくのぼうじゃないってことね、痛む?」
そっと腕を摩ってやると、びくりとユーノが震えた。
「後で見てあげるから」
「大丈夫」
固い声で慌てたようにユーノが拒んだ。すぐにアシャの腕から身を引いてしまうのが何だか苛立たしい。
「私の見立てを信じないの?」
「そういう話してる場合じゃないだろ」
「じゃあ見せてね」
「だから」
「ここから先はお前達2人で行け」
会話を遮って男が唐突に命じた。
「私達2人で?」
「……」
男達はくるりと向きを変えてそのままどんどん歩み去る。松明1つも渡してくれなかったから、男達が1つ目の角を曲がっていくあたりで、すぐに周囲が見えなくなっていった。
「これからどう行けと言うんだ」
「……アシャ……ほら」
「ん?」
すぐ側からユーノの声がして振り返ると、前方の暗闇に微かに青白く光るものが浮かんでいる。ちょうど岩肌に灯を点したように点々と光るそれに触れて、アシャはうなずいた。
「光石だ」
「ひかり、いし?」
「発光物質を含んでるんだ。そうか、光石はシェーランからも出土したのか」
道理でいろんなルートから入ってくるわけだ、と故郷に居た時のことを思い出していると、くい、とユーノが服を引っ張った。
「アシャ……なんかやばそうなものがある」
「何……」
光石がうっすらと照らす彼方の闇の中、光石を遮る大きな闇がある。その中央天井近くに燃えるように輝く2つの緑色の光が、ゆっくり変形して横に広がり、ふわりと縦に伸びた。
「っっ!」
次の瞬間、洞窟を満たしていた臭気が一層濃くなって、アシャは突き出された鼻面と剥き出された犬歯からかろうじて逃れた。
「ユーノッ!」
「っ!」
とっさに後ろへ飛び退るユーノを追うように、手前に体を乗り出してきたのは緑色の複眼を光らせた怪物、赤ん坊ぐらいは軽々飲み込めるほどの口に巨大な犬歯が上下4本、後は骨も噛み砕くほどの威力を持った小型の鋭い歯がびっしりと並んでいる。生臭さがあたりに立ちこめ、ごわごわとした毛に覆われた体が大きく伸びる。
キェアアアアーッ!
「レガだ!」
鞭のようにしなって飛んできた尻尾を間一髪避けながら、アシャは叫んだ。ばしりと岩肌を叩きつけて人の頭ほどの岩を抉り取っていく攻撃を食らったら、とてもすぐには起きあがれない。
「レガっ?!」
「太古生物の一種だ!」
「どうして、今こんなとこに居るんだっ!」
鋭い気合いと一緒にドレスの一番下に隠していた短剣でレガの片目を急襲するユーノが叫ぶ。何度も振り降ろされる尻尾と激しく噛み鳴らされながら襲ってくる口を巧みに避ける姿は、初めてレガとやりあったとはとても思えない。
「来たぞ!」
今度はこちらに向かってきたレガの牙をかろうじて受け止めたものの、捻った手首のせいで力が入らなかった。短剣を弾き飛ばされて、舌打ちしながら地面を転がる。痺れた手首に感覚が戻ってこない。
(仕方ない)
こんなところで使いたくないが、と覚悟を決めた瞬間、
「アシャ、向こうへ走って!」
鋭いユーノの声が命じた。
「どうして!」
「いいから!」
何か策がある、と感じて突っ込んできたレガの鼻先から瞬間跳ね起き、示された出口の方へ走り出す。急に動いたアシャに気を取られたのだろう、体から言えば驚くほど小さな前足を地面について、レガが体を丸めて後ろ足を引き寄せ、追撃にかかろうとして動きを止めた。
「は、ああっ!」
ユーノの叫びに肩越しに振り返ったとたん、側の岩棚を蹴り、天井近くの壁をなお蹴りつけ、気配に振仰いだレガの正面に身を投げるユーノの姿が見えた。大きく開く口に怯んだ様子もない、左腕が痛むのか、微かに顔を歪めながら、それでも寸分のずれもなく、牙にドレスを引き裂かれながらも残った複眼にアシャの短剣を突き立てて、渾身の力で押し込んでいく。
ギャアアアアーッッ!
洞窟をレガの絶叫が満たした。耳を圧する音量が恨めし気に何度もこだまを呼びながら遠ざかり消えていく。地響きを立てて倒れるレガから短剣を抜き放つユーノは裂かれたドレスに鮮血を浴び、髪の花を舞い散らせながらレガを蹴ってその向こうへ飛び下りる。
やがて、どこに引っ掛かっていたのか、か…ん、と寂しい音を立てて櫛が降ってきた。
それを合図にしたように、ひくひくとレガの腹に痙攣が広がり、ぐぼ、と吐き気を催す音をたてて開いた口からどろどろした体液を吐く。
「ふ…う」
(仕留めたぞ、おい)
レガは確かに単純で的確な攻撃さえすれば倒せないものではない、それでも太古生物の中ではそれほど容易く仕留められる相手ではないのだ。
なのに、ユーノはアシャを囮にしたとは言え、1人で倒してしまった。
(とんでもない娘だな)
「ユーノ、お前はたいした………ユーノ?」
興奮して駆け寄りながら、アシャは飛び下りたユーノが膝をついた姿勢のまま身動きしないのに気がついた。
「怪我をしたのか?!」
慌ててレガを飛び越え、側に寄り、そうではないことを知る。
ユーノは大きく目を見開いてまっすぐ前を見つめていた。レガに襲われても平然としていた顔が今は白く色を失っている。
「ユーノ……?」
「……娘…達」
「え?」
ユーノの視線の先を追って、アシャは舌打ちした。レガだと気付いたのなら当然娘達の運命にも思い至ってよかったのだ。前に回り込み、視界を遮るように立ち塞がって、茫然としているユーノの体を抱きかかえる。
「……なぜ……?」
「……」
「……娘達……食べられて…ない……」
「ちっ」
(そんなところまで見てしまったのか)
「ユーノ」
「や、待って、待って、アシャっ」
抱え上げて、その場から連れ出そうとするアシャに抵抗し、小さな悲鳴を上げてユーノが見上げてくる。
「なぜ…?」
「ユーノ」
「娘達、生きてない、とは、思ってたんだ、だけど、でも、あれは」
黒い瞳が怒りを込めて潤んでいる。
「食べて、ない、アシャ」
「……ああ」
「どうして? 食べるために娘達を攫ったんじゃなかったの?」
「……ユーノ」
「なぜ、あんな、ばらばらで、放ったままで、いっぱいあって、まるで遊んだみたいに……っ」
びくりとユーノが震える。
「遊んだ……?」
「………ユーノ」
嫌がる相手を引き起こし、抱き込みながら瞳を覗き込む。
「レガは喰わないんだ」
「……え?」
「レガは人間を食べない……ただ、おもちゃには、する」
「っっ」
「腐ってばらばらになったら終わり、次のおもちゃを探しに行く、そういうことだ」
「……だ…って」
ユーノが眉を寄せた。
「そんな…こと……言えない……言えないよ…っ」
しがみついてくるユーノが身悶える。
「あの人達に、そんなこと言えないっっ!」
「………わかってる」
「私……私…っ」
余計なこと、したの?
「違う」
辛そうで苦しそうで、その傷みを一瞬でも減らしてやりたくて、アシャは思わずユーノを抱き寄せた。ふわりと常ならぬ頼りなさで、そのまま腕におさまってくれる、そう見えた。だが。
次の一瞬、くん、とユーノは腕を突っ張った。
「?」
「……………ごめん…ありがとう…でも、アシャ」
動きを止めたアシャに掠れた声でユーノが呟き、ゆっくりと顔を上げてくる。泣きじゃくっていたように見えたけれど、その頬には涙の跡はない。
「『女の人』はそういう仕草はしないんだ」
「おい」
「そのまま旅をしたら? イルファが喜ぶよ」
「こら」
(何だ、今の今までこの腕におさまっていたんじゃなかったのか)
急に冷えた胸にアシャは戸惑い苛立った。
(俺を求めたんじゃなかったのか)
しぶしぶ腕を降ろしていくアシャにくすりと小さな笑い声まであげて、ユーノはくるりと背中を向けた。
「帰ろう……もう用はない」
「ユーノぉっ!!」
「レス!」
駆け寄る顔にユーノが手を振る。
洞窟を出ると我慢仕切れなかったらしいイルファとレスファートが迎えに来ていた。
「山賊(コール)達、おかしくなってたね?」
洞窟を振り返りながらアシャに尋ねてくる。
レガが倒れた後、再び男達と一戦交えることになるかと警戒したのだが、山賊(コール)達は腑抜けのように洞窟のあちこちで虚ろな目を見開いて転がるように倒れており、生きてはいたが何の反応も見せなかった。
「レガの声にはある種の催眠効果がある。レガの意志と共通している部分を持ったものを従えることができるからな………だが、本体が死ねば、操り糸の切れた人形と同じだ」
「しかし、レガとはなあ」
話を聞いたイルファが呆れ返る。
「一体世界はどうなっちまったんだ。そんなやつらはとっくの昔に滅びたんじゃなかったのか」
「……太古生物はお話の中にしかいないって、父様はいってたよ」
「何か……起こってるのかな」
レスファートのことばに振り切るように洞窟に背中を向けるユーノが、物問いたげにアシャを見る。
「……そうだな」
アシャは曖昧に頷いて視線を逸らせる。そのまま遥か高みを、星が煌めき出した空を見上げた。
「世界は広い、からな」
アシャは知っている。
なぜレガがこんなところに巣食っているのか。
本当はレガだけではない、太古生物と呼ばれた怪物や化け物達がなぜ次々蘇り始めているのかを、アシャは知っている。
知っていながら、根本原因を制御することなく逃げている。
(そう、だ)
逃げている、のだ。
「主人には……俺が説明しよう」
「え?」
「お前は何も言わなくていい」
ユーノにそっと囁いた。
「でも」
「……俺向きの、仕事だろ?」
ひょいと振り向いて、にやりと笑ってみせる。
「ああ、口先だけでごまかすってやつな!」
「う」
イルファが腑に落ちた顔で大きく頷く。
「くちさきさんずんのでっちあげってこと?」
レスファートがとどめを刺した。
「そうですよ~、レスはよく御存じですね~」
「人を詐欺師みたいに言うな」
「違うのか」
イルファが憮然としながらアシャを指差した。
「?」
「その格好が既に詐欺だ」
「は?」
「女にしか見えん」
「……ほっといてくれ」
うんうん、そうだね、とユーノがようやく少し笑って、その瞳が微かに潤んでいるのを見ながら、今夜はイルファに勝ちを譲るか、とアシャは思った。
「……おかしな気配だと思ったんだ」
馬に引かせた荷車の上で、体のあちこちをぶつけながらアシャは顔をしかめてぼやいた。
頷いて神妙な顔をしようと努力しつつ話を聞こうとしたユーノは、とうとう耐えかねて吹き出してしまう。
「ご…ごめんっ……つい、こう…おかしくって」
「ちっ」
うっすら赤くなったアシャが不愉快そうに顔を逸らせて舌打ちする。
「覚えてろよ、イルファの奴」
「でも、似合うよ?」
「言うな」
むすっとしたアシャが紅を塗った唇を尖らせる。
口紅だけではない、身につけているのは淡いクリーム色の衣、結い上げた髪には真っ白なラフレスの花と真紅の櫛飾り、手足には色鮮やかな組み紐の装飾品という派手な女装、もともと女顔だけに苛立ってる紫の瞳もきらきらまばゆいし、どう見たって誰もが見愡れる美女なのに、表情だけがまるで小さな男の子のようにぶっきらぼうで幼い。
「せっかく美人なのに」
「おほほ、お褒めに預かり光栄至極………とでも笑えというのか」
じろりと険のある目つきで睨んでくるが、やはりどうにも絶世の美女が何かしら拗ねている、そういう気配の方が強い。
「いや、そこまでは」
くすくす笑いながら、ユーノは夕べの主人の話を思い出した。
「生贄?」
「はい…実はこんなに山賊(コール)を恐れている理由というのは、『生贄』のせいなのです」
荒らされた家を片付け、山賊(コール)達の屍体を荷車や馬で村外れの墓地まで運び、ようやく何とか落ち着いたころ、主人はぽつりぽつりと話し出した。
『鳴く山(コール)』が低い地鳴りに加えて女の悲鳴のような叫びを上げる時、いつの頃からか、山賊が街を襲うようになった。
やり方はそれまでと全く違う。一番に盗んでいくはずの貴金属や食物などには目もくれず、ただただ村を破壊し女を攫っていく。人々が娘や妻を隠し始めると、山賊はより荒れ狂い連日連夜襲撃を続けた。やがて、人々が山賊をコールと呼んで恐怖に恐れ戦くようになったころ、彼等は『生贄』を命じた。
『鳴く山(コール)』が女の悲鳴で呼び掛けるとき、くじで選ばれた娘は泣く泣く家族に別れを告げ、山に向かう。そうすれば村はそれ以上襲われず、『生贄』は1人で済む。もし、『生贄』が準備されていなければ、山賊(コール)は村を襲い、襲った家の数だけ『生贄』を差し出さなくては再び村が襲われる。
その夜、襲われた家は2軒、村は2人の『生贄』を用意しなくてはならない。
「『生贄』には未婚の若い娘でなくてはならないのです。しかし、もう村には娘など残っておりません……私どもの娘も………この前……」
主人は膝の上で固く拳を握りしめた。
「さきほどのあなた様方の剣の腕前を見ておりました。お礼はいたします、どうかあの山賊どもを退治して頂けないでしょうか」
「しかし」
「アシャ」
言い淀むアシャにユーノは顔を上げた。
「引き受けたいんだけど」
「…ユーノ」
俺達はまだまだうんとかかる旅の途中でだな、と言いかけた相手が、応えないでじっと見つめるユーノを見返し、やがて大きく溜め息をつく。
「……言い出しそうな気がしていた」
「だって」
ユーノは床の上で返答を待って体を縮めるように座っている夫婦を見た。
「このままじゃこの人達、殺されるのを大人しく待ってろ、って言われてるようなものだよ?」
「こっから出ていくってことは駄目なのか」
イルファが尋ねると、主人が苦しそうに顔を上げる。
「……娘の生死が知れません……」
「……」
「ああいう男達に攫われて、無事でいるはずがない、そう思われるのは承知しております、が」
生きているのか死んでいるのか、それを確かめもせずにここから逃げ出すわけにはいきません、私どもはあの子の親なんですから。本当ならば我が手で救い出してやりたいのです、けれど、それがどれほど無謀なことであるか、自分達の無力は重々わかっております。しかし、寒い夜には凍えていないか、食べ物はちゃんと食べているのかと、生きていることばかり考えているのです。
主人の荒れた頬を伝い落ちる涙に、イルファもことばを失う。ユーノは吐いた。
「アシャ」
「…がしかし」
「無茶を言ってるのはわかってる、けど」
私には、親として心配するこの人達の気持ちが。
それほどまでに案じてもらえてるのだから、全うさせてやりたい、せめて生死を確かめてやりたい。
言いかけて苦しくなって俯くと、はぁあ、とアシャが溜め息をついた。
「策はあるのか」
「いいの?」
「止めたら1人で行くんだろうが」
「……うん」
「俺はお前の付き人だ、放置するわけにはいかん」
苦い顔で腕組みをして、しかしどうやって『鳴く山(コール)』に入る、と尋ねてきた。
「『生贄』になってみようかと思うんだ」
「『生贄』に?」
「内側からなら隙もできる、何か突破口が見つかるかもしれない」
「またそんな無謀なことを……出られなくなったらどうする気だ、第一、『生贄』は2人なんだぞ、1人はお前がするとして、もう1人を一体どこでどうやって調達……」
苛々して髪を掻き上げたアシャをイルファが見つめる。つられたように主人が見上げ、レスファートもアシャを見た。
「どこで調達するか、だよな」
「そう、だよね」
「この村には若い女の人ってもういないんだよね?」
「ええ、でもひょっとして」
イルファ、ユーノ、レスファートとことばを繋いで、主人が小さく頷く。
「だろ、だから、もう1人の『生贄』…………ちょっと待て」
はっとしたようにアシャが顔を強ばらせた。
「何かおかしなことを考えてないか」
「いけませんかね?」
「いけそうだよな?」
「いける気がする」
「うん」
にっこり笑ったレスファートがとどめを刺す。
「アシャなら女の人でもとおるよ!」
「待てっ!」
「大丈夫だ」
うろたえるアシャに、イルファが重々しく断言した。
「お前なら脱がされても女で通る」
「で、何がおかしい気配だと思ったって?」
「ああ」
アシャが睨んでいた視線を微かに逸らせる。
「……あいつらとは前にやりあったことがある」
「あるの?」
「まあな」
まあな、だって?
ユーノは密かに眉をしかめる。
確かにアシャという男が見かけと全く違うものだというのはわかってきた。優男で女に見えかねない綺麗な顔で、詩歌も口にしダンスもうまい、宮廷慣れもしている、物腰も雰囲気も柔らかいが、その実敵を倒すときの容赦なさ、年齢にしては異常に豊富な知識と経験、しかも時々見せる不思議な微笑には得体の知れないものもあって。
レクスファで『盗賊王』を倒したとも聞いた、なのにここでも『山賊(コール)』とやりあったことがあるという。どう見ても生死を左右する修羅場を事もなくくぐり抜けてきているようなのに、ただの旅人がそれほどのことに巻き込まれて平然と生きてこれるのだろうか。
そもそも、アシャはどこの生まれで、本当は何者なのか、それをユーノはおろか、レスファートもイルファも、いやレダト王さえ詳しく知らない。知らないままに、誰もがアシャを身内深く迎え入れる、それが既に十分不思議なことではないのか。
(まさか)
ちら、とユーノは横目でアシャを見遣る。
(それこそ、妖魔とか精霊とか………ラズーンの神さま、だとか)
まさかね、と思いながら唇を噛む。
警戒しなければならない、いざとなったらアシャと剣を交えることさえ覚悟しなくてはならないかもしれない、祖国セレドとレアナのために。
(斬りたく、ない)
もう十分ユーノの手は血に塗れている。今さら無邪気なふりはするつもりなどないが、それでも敵に対してためらいなく剣を振うユーノを見るアシャの視線が、何となく変化しているのは気付いている。
(あたりまえ……だよね)
普通ならば花を飾り、ドレスを着て、平和な日々を愛おしむ年齢だ。アシャが付き人を頼まれたとはいえ、引き受けてくれたのだって、そういう娘の身の回りの世話という思いだったのだろうに、ユーノはアシャを引きずり回し危ない目にばかり合わせている。
(疎ましがられても……当然、か)
『山賊(コール)』退治を引き受けたときも迷惑そうだった。無理もない、それはわかっている。ユーノ達はまだうんと長い旅をしなくてはならないのだ。
(でも)
生きているか死んでいるか、それを確かめもせずにここから逃げ出すわけにはいきません、私どもはあの子の親なんですから。
言い放たれて、辛かった。
そうか、そう思うのが親なのか。わが子の安否を心配して、何もできなくとも逃げ出すまいと考えるのが親なのか。
ならばユーノの両親は? いつかの夜、その身を呈して我らを守れ、そう命じた彼らは一体何なのか。
「っ」
ユーノはきつく目を閉じた。
考えたくない。考えたくないから引き受けた。それほど娘を思う気持ちを全うさせたくて名乗り出た。それほど思われている娘を何とか無事に帰してやりたかった。そうすればきっとほっとする。
そうすれば、きっと。
「ユーノ」
「っ!」
ふいに熱を感じて、ユーノはとっさに体を起こした。右手を懐に忍ばせた懐剣に、左手を常なら置いている長剣の場所に伸ばして身構え、はっとする。
目の前には、戸惑った顔でアシャが半端に手を浮かせている。
「あ…」
握った懐剣から手を放す。
「何もしないよ」
微かに笑ったアシャが両手をそっと上に上げて空っぽなのを示してみせた。
「花がずれてるから直そうとした、だけだ。すまん、急に手を伸ばしたからびっくりさせたんだな?」
「う…ん」
ユーノは一瞬泣きそうになったのを、かろうじて堪えて笑い返した。
「こっちこそ、ごめん。花、自分で直すから」
「ああ」
側に居たのがアシャだと忘れていたわけでもなければ、アシャを敵だと思っていたわけではない。けれど、苦笑して手を降ろす相手を警戒していたのは明らかで、それをはっきり思い知らせるような形になってしまった。
(違う、のに)
唇を噛みながら慌てて髪の花に触れる。ふわふわと頼りなく柔らかな感触が、指先を何度も潜り抜ける。
(レアナ、姉さま)
ふいとその柔らかさを追うようにレアナの面影が胸に広がった。
いい子ね、ユーノ、優しい子。
昔聞いた甘い慰め。
(違う)
違う。
優しくなんかない。優しい子ならば、人に剣を向けたりしない。敵を屠ったりしない。ましてや、自分の想う相手が側に居るなら、ときめきこそすれ、こんな風に警戒したり、剣を握って身構えたりしない。
「っ…」
はらりと花びらが一枚落ちた。か弱く脆い花弁がなかなかうまく落ち着いてくれない。
「やりにくそうだな。全部落ちてしまうぞ」
「……ん、そ……だね」
アシャの苦笑した声が胸に堪えた。お前にはそんなものは似合わない、そう言われた気がした。
(わかってる)
きつく唇を噛み締めて、丁寧に整えようとするたびに花びらが散り落ちる。
(わかって、るから)
花1つさえ自分で満足に扱えない、それが分不相応な格好をしているからだと嘲笑されているようで、体が熱くなってなお焦る。
(何も、こんなときに)
アシャが見ているその前で、こんなみっともない格好を晒さなくてもいいじゃないか。
(綺麗だと思ってもらえなくてもいいから)
せめて、せめて。
「ユーノ」
「……」
「ちょっと触るぞ?」
「…っ」
優しく声をかけられて、思わず視線を上げた。側に寄ってきていたアシャが見下ろしたまま、一瞬固まる。それから、くすりと小さく笑って、
「こういうのは俺の方が慣れてる。何せ女装が趣味、だからな」
「へ、へえ、そう、なの?」
ほっとして、慌てて応じた。
「自分で認めるんだ?」
「冗談だ」
「認めたじゃない」
「冗談だと言ったぞ」
ほら、貸せ。
「ん」
指が触れた。ぎちぎちひきつれた髪をそっと弄って、撫でてくる。繊細で丁寧な動きに苛立った気持ちがおさまってくる。かなり花びらを散らしてしまったから足りなくなったのか、自分の髪から花を外してユーノにつけてくれる。
(気持ちいい)
誰か他人の指先でこれほどくつろげたことはなかった。目を伏せて温かな指が触れてくるのを味わっていると、遠い昔に帰っていくような気がする。
自分は守ってもらえるのだと無条件に信じていた、遠い彼方の昔に。
「……ん、よし。これで落ちないぞ、少々暴れ回っても」
呼び掛けられて目を開けた。
いつの間にか、アシャの腕に抱えられるようにして髪を弄られていたのに気付き、慌てて姿勢を直す。
「ありがとう、助かった」
に、と笑って、どこか面映気な相手に距離をおきながら、
「ところで勝算はあるの?」
無理に話題を変えた。
花を扱い倦ねて困っているのを見兼ねて声をかけたら、思いもしない幼い顔で、しかも今にも泣きそうな顔で見上げられて固まった。
(なんて顔を、する)
怯えて不安がって頼りなさそうな顔。
命をやりとりする最中にもそんな顔は見せないのに、たかが花1つ散るだけで、どうしてそれほど傷ついた顔になってしまうのか。
(いつもそうだな)
自分が傷つくことには平気なのだ。命に関わる傷でさえ、笑ってしのいでしまうのだ。けれど、その同じ心は、他の命が傷つくことには痛々しいほど敏感で。
女装が趣味だと気持ちをほぐしてやりながら、髪に触れて整えてやった。
(本当はきっと)
カザド兵も山賊(コール)も、できれば命を奪いたくないとユーノは心の底では思っている。
(だからこそ)
自分を第一に守れば傷つかない場合にもそれ相応の傷を負うのは無意識の差し引き条件なのだろう。相手を傷つける、その代償を自らの傷で支払って。
そういう心を抱えながら、それでも剣を振って生き延びてくるしかなかった自分を、ユーノはどこかで負担にしている。
小さく吐息をついて体を寄せてくるのは、きっと意識していない。自分が甘えるような無防備な顔を晒しているのも気付いていない。
(見せたくないな)
他のやつにユーノのこんな顔を見せたくない。
けれど、好きな男ができれば、そいつにはきっと見せるのだろう。
「…………」
アシャは眉を顰めた。今まで感じたことのない冷ややかな怒りを感じて、ますます顔を歪める。
(まずい)
この執着が何かを知らないほど子どもではない。けれど、その大きさは今まで感じたことがないほどで、見る見る胸を圧倒する。
誰にも、渡したく、ない。
コレハオレノモノダ。
(何を考えてる)
舌打ちしそうになって慌てて首をきつく振り、
「……ん、よし。これで落ちないぞ、少々暴れ回っても」
「ありがとう、助かった」
声をかけると、ユーノがはっとしたように体を起こした。うっすら赤くなっているのは、自分がアシャに抱き込まれるような形になっていると気付いたせいだろう。ユーノが急いで取った距離が不愉快になって、ドレスを乱し、どすりと胡座を組んで座る。
「ところで勝算はあるの?」
アシャの格好に呆れた顔で尋ねてくるユーノに肩を竦めてみせる。
「ともかく相手の状態がわからなけりゃな」
「そんな気持ちで引き受けたの?」
怖いなあ、と苦笑する相手に、どっちがだ、とやり返す。
「無鉄砲もいいところだぞ。万が一、ここで…大怪我をしてラズーンへ辿りつけなくなったらどうする気だ」
「死なないよ」
事もなげにユーノはアシャが避けたことばを使った。
「死なないって……もし、の時だ」
「絶対死なない」
ぎゅ、と唇を真一文字に結んだユーノが一瞬鋭い目でアシャを射抜き、すっと目を逸らせて、近付いてきた『鳴く山(コール)』を見る。
「……死ぬ、もんか」
『鳴く山(コール)』は馬に引かれた荷車に揺られる2人の前に全貌を見せつつあった。削いだような赤茶けた岩肌に暗い緑の樹木がしがみつくように生えている。点々とした緑の間、不格好にくり抜いた洞窟が、夜の闇のように口を開けていて、奥でちらちらおき火のような光が揺れている。
「火をつけている…」
「奇妙だな」
アシャは眉を寄せた。
「この暑さなのに、どうして火がいる……っ!」
ふいに、何に驚いたのか、馬がいきなり棒立ちになって暴れた。嘶き怯えてはね、荷車ごと倒れ込む。
「あっ」
「ユーノっ」
さすがに予想していなかったらしいユーノの体が軽々跳ね飛ばされそうになるのを、アシャはとっさに引き寄せて胸の中へ抱き込んだ。同時に荷車から転がり出たのはいいが、右手首を捻って体を支えてしまって顔を歪める。
「つ…」
「っ、手首?」
慌てたように胸にしがみついていたユーノが体を起こして覗き込んできた。
「捻ったの?」
「ちょっと、な」
「ご、めん…」
すうっとユーノの頬に赤みが昇った。
「私、を抱えてたからだね」
「ああ、別にそういうわけじゃ」
いつもならするはずのないへまをしたのは、抱き込んだユーノの髪から漂った甘い匂いに一瞬気を取られたせいだ、そう説明することができずに、曖昧に笑った。
「だって…」
「、ユーノ」
うろたえた顔で言い募ろうとした相手の背後の茂みがざわりと揺れて、アシャは目を細めた。
「っ」
振り返ったユーノの体にも緊張が走る。
茂みを掻き分けて出てきたのは、全身を覆う黒い服、片肩から巻きつけた毛皮の男達。浅黒い、どこか生気のない顔、のろのろと愚鈍そうな動き、けれどそれを裏切るようにぎらぎら光る鎖を握っていて、その先に何かわからぬもので黒く汚れた棘だらけの鉄球が揺れている。
「頭、が、お呼び、だ」
男の1人が初めて声を出した。木の皮を摺り合わせるような響きで、
「立て」
男達がぐるりと2人を取り囲んだ中で命じる。
その背後で1人の男が倒れた馬の首から血に塗れた剣を引き抜いて両肩に担ぎ上げ、別の1人が荷車を斧で砕いて粉々にしていくのが見えた。
凄まじい力にごくり、とユーノが唾を呑む。
「お迎えに、来て下さったのね」
アシャはユーノを促しながら、静かに微笑んで立ち上がった。
「何処まで、行くの?」
「……」
「頭って男の人なん、でしょう?」
「……」
問いを繰り返すユーノに男は一言も応じない。
「答えて、くれない、わ」
首をすくめて振り返ったユーノの女ことばはぎごちない。
「一体どこまで連れていく気かしらね」
囁くアシャの方がやや掠れ気味の甘い声に響いて、ユーノがこそりと呟く。
「女らしいなあ」
じろりと見遣ったもののそれ以上は相手にせずに、アシャは周囲を観察した。
進んでいる洞窟は山に自然に開いた穴をより通り抜けやすくするように広げたようだ。揺らめく松明の炎が様々な影を壁に踊らせている。今は風が吹かないのだろう、動かない空気がひんやりと重い。岩肌は赤茶色で思ったよりも乾いていて、足下にはさらさらとした砂の感覚、確かに暮らすには悪くない。洞窟特有のしけった臭いもしない。
だが、どこからか臭気が漂ってくる。アシャの本能的な警戒心を呼び起こす匂い、野生の獣の住処に漂うような。
キャアアアアーッ!!
いきなり女性の絶叫が響き渡った。同時に、洞窟が震えて激しい風が一陣吹き抜ける。松明が一瞬にして吹き消され、辺りが闇に呑まれた。
「っぁ」
小さな悲鳴がすぐ側から聞こえてぎょっとする。
「ユーノ?」
「だい…じょうぶ」
闇を透かしながら声をかけると、微かな声が戻ってきた。
キェアアアアーッ!
「!」
(あの声はひょっとして)
再び風が吹き抜けたとたんに響いた叫びにアシャははっとした。女性の悲鳴そっくりだが、猛々しいさをたたえた声には覚えがある。
(それにこの臭い)
粘りつくような濃い闇の中にぬらっと光が揺れて、松明が再び点された。次々移されて元通りに灯を点した男達の1人が、松明を掲げていないもう片方の手でユーノのニの腕を握りしめているのにぎくりとする。武骨な5本の指がユーノの腕に食い込んで、顔を背けたユーノは歯を食いしばって眉を寄せている。
「何をされますの」
ぐい、と男はユーノを引っ立てるように引き寄せ、アシャの方へ突き放した。よろめいたユーノが左腕を押さえながらもたれかかってくる。
「こんなところで逃げられなどしませんわ」
抱きかかえて男に訴えたが、相手の無表情な顔は動かない。
「灯が消えたとたんに握り締められて…」
ユーノが苦しそうに訴えた。
「ただのでくのぼうじゃないってことね、痛む?」
そっと腕を摩ってやると、びくりとユーノが震えた。
「後で見てあげるから」
「大丈夫」
固い声で慌てたようにユーノが拒んだ。すぐにアシャの腕から身を引いてしまうのが何だか苛立たしい。
「私の見立てを信じないの?」
「そういう話してる場合じゃないだろ」
「じゃあ見せてね」
「だから」
「ここから先はお前達2人で行け」
会話を遮って男が唐突に命じた。
「私達2人で?」
「……」
男達はくるりと向きを変えてそのままどんどん歩み去る。松明1つも渡してくれなかったから、男達が1つ目の角を曲がっていくあたりで、すぐに周囲が見えなくなっていった。
「これからどう行けと言うんだ」
「……アシャ……ほら」
「ん?」
すぐ側からユーノの声がして振り返ると、前方の暗闇に微かに青白く光るものが浮かんでいる。ちょうど岩肌に灯を点したように点々と光るそれに触れて、アシャはうなずいた。
「光石だ」
「ひかり、いし?」
「発光物質を含んでるんだ。そうか、光石はシェーランからも出土したのか」
道理でいろんなルートから入ってくるわけだ、と故郷に居た時のことを思い出していると、くい、とユーノが服を引っ張った。
「アシャ……なんかやばそうなものがある」
「何……」
光石がうっすらと照らす彼方の闇の中、光石を遮る大きな闇がある。その中央天井近くに燃えるように輝く2つの緑色の光が、ゆっくり変形して横に広がり、ふわりと縦に伸びた。
「っっ!」
次の瞬間、洞窟を満たしていた臭気が一層濃くなって、アシャは突き出された鼻面と剥き出された犬歯からかろうじて逃れた。
「ユーノッ!」
「っ!」
とっさに後ろへ飛び退るユーノを追うように、手前に体を乗り出してきたのは緑色の複眼を光らせた怪物、赤ん坊ぐらいは軽々飲み込めるほどの口に巨大な犬歯が上下4本、後は骨も噛み砕くほどの威力を持った小型の鋭い歯がびっしりと並んでいる。生臭さがあたりに立ちこめ、ごわごわとした毛に覆われた体が大きく伸びる。
キェアアアアーッ!
「レガだ!」
鞭のようにしなって飛んできた尻尾を間一髪避けながら、アシャは叫んだ。ばしりと岩肌を叩きつけて人の頭ほどの岩を抉り取っていく攻撃を食らったら、とてもすぐには起きあがれない。
「レガっ?!」
「太古生物の一種だ!」
「どうして、今こんなとこに居るんだっ!」
鋭い気合いと一緒にドレスの一番下に隠していた短剣でレガの片目を急襲するユーノが叫ぶ。何度も振り降ろされる尻尾と激しく噛み鳴らされながら襲ってくる口を巧みに避ける姿は、初めてレガとやりあったとはとても思えない。
「来たぞ!」
今度はこちらに向かってきたレガの牙をかろうじて受け止めたものの、捻った手首のせいで力が入らなかった。短剣を弾き飛ばされて、舌打ちしながら地面を転がる。痺れた手首に感覚が戻ってこない。
(仕方ない)
こんなところで使いたくないが、と覚悟を決めた瞬間、
「アシャ、向こうへ走って!」
鋭いユーノの声が命じた。
「どうして!」
「いいから!」
何か策がある、と感じて突っ込んできたレガの鼻先から瞬間跳ね起き、示された出口の方へ走り出す。急に動いたアシャに気を取られたのだろう、体から言えば驚くほど小さな前足を地面について、レガが体を丸めて後ろ足を引き寄せ、追撃にかかろうとして動きを止めた。
「は、ああっ!」
ユーノの叫びに肩越しに振り返ったとたん、側の岩棚を蹴り、天井近くの壁をなお蹴りつけ、気配に振仰いだレガの正面に身を投げるユーノの姿が見えた。大きく開く口に怯んだ様子もない、左腕が痛むのか、微かに顔を歪めながら、それでも寸分のずれもなく、牙にドレスを引き裂かれながらも残った複眼にアシャの短剣を突き立てて、渾身の力で押し込んでいく。
ギャアアアアーッッ!
洞窟をレガの絶叫が満たした。耳を圧する音量が恨めし気に何度もこだまを呼びながら遠ざかり消えていく。地響きを立てて倒れるレガから短剣を抜き放つユーノは裂かれたドレスに鮮血を浴び、髪の花を舞い散らせながらレガを蹴ってその向こうへ飛び下りる。
やがて、どこに引っ掛かっていたのか、か…ん、と寂しい音を立てて櫛が降ってきた。
それを合図にしたように、ひくひくとレガの腹に痙攣が広がり、ぐぼ、と吐き気を催す音をたてて開いた口からどろどろした体液を吐く。
「ふ…う」
(仕留めたぞ、おい)
レガは確かに単純で的確な攻撃さえすれば倒せないものではない、それでも太古生物の中ではそれほど容易く仕留められる相手ではないのだ。
なのに、ユーノはアシャを囮にしたとは言え、1人で倒してしまった。
(とんでもない娘だな)
「ユーノ、お前はたいした………ユーノ?」
興奮して駆け寄りながら、アシャは飛び下りたユーノが膝をついた姿勢のまま身動きしないのに気がついた。
「怪我をしたのか?!」
慌ててレガを飛び越え、側に寄り、そうではないことを知る。
ユーノは大きく目を見開いてまっすぐ前を見つめていた。レガに襲われても平然としていた顔が今は白く色を失っている。
「ユーノ……?」
「……娘…達」
「え?」
ユーノの視線の先を追って、アシャは舌打ちした。レガだと気付いたのなら当然娘達の運命にも思い至ってよかったのだ。前に回り込み、視界を遮るように立ち塞がって、茫然としているユーノの体を抱きかかえる。
「……なぜ……?」
「……」
「……娘達……食べられて…ない……」
「ちっ」
(そんなところまで見てしまったのか)
「ユーノ」
「や、待って、待って、アシャっ」
抱え上げて、その場から連れ出そうとするアシャに抵抗し、小さな悲鳴を上げてユーノが見上げてくる。
「なぜ…?」
「ユーノ」
「娘達、生きてない、とは、思ってたんだ、だけど、でも、あれは」
黒い瞳が怒りを込めて潤んでいる。
「食べて、ない、アシャ」
「……ああ」
「どうして? 食べるために娘達を攫ったんじゃなかったの?」
「……ユーノ」
「なぜ、あんな、ばらばらで、放ったままで、いっぱいあって、まるで遊んだみたいに……っ」
びくりとユーノが震える。
「遊んだ……?」
「………ユーノ」
嫌がる相手を引き起こし、抱き込みながら瞳を覗き込む。
「レガは喰わないんだ」
「……え?」
「レガは人間を食べない……ただ、おもちゃには、する」
「っっ」
「腐ってばらばらになったら終わり、次のおもちゃを探しに行く、そういうことだ」
「……だ…って」
ユーノが眉を寄せた。
「そんな…こと……言えない……言えないよ…っ」
しがみついてくるユーノが身悶える。
「あの人達に、そんなこと言えないっっ!」
「………わかってる」
「私……私…っ」
余計なこと、したの?
「違う」
辛そうで苦しそうで、その傷みを一瞬でも減らしてやりたくて、アシャは思わずユーノを抱き寄せた。ふわりと常ならぬ頼りなさで、そのまま腕におさまってくれる、そう見えた。だが。
次の一瞬、くん、とユーノは腕を突っ張った。
「?」
「……………ごめん…ありがとう…でも、アシャ」
動きを止めたアシャに掠れた声でユーノが呟き、ゆっくりと顔を上げてくる。泣きじゃくっていたように見えたけれど、その頬には涙の跡はない。
「『女の人』はそういう仕草はしないんだ」
「おい」
「そのまま旅をしたら? イルファが喜ぶよ」
「こら」
(何だ、今の今までこの腕におさまっていたんじゃなかったのか)
急に冷えた胸にアシャは戸惑い苛立った。
(俺を求めたんじゃなかったのか)
しぶしぶ腕を降ろしていくアシャにくすりと小さな笑い声まであげて、ユーノはくるりと背中を向けた。
「帰ろう……もう用はない」
「ユーノぉっ!!」
「レス!」
駆け寄る顔にユーノが手を振る。
洞窟を出ると我慢仕切れなかったらしいイルファとレスファートが迎えに来ていた。
「山賊(コール)達、おかしくなってたね?」
洞窟を振り返りながらアシャに尋ねてくる。
レガが倒れた後、再び男達と一戦交えることになるかと警戒したのだが、山賊(コール)達は腑抜けのように洞窟のあちこちで虚ろな目を見開いて転がるように倒れており、生きてはいたが何の反応も見せなかった。
「レガの声にはある種の催眠効果がある。レガの意志と共通している部分を持ったものを従えることができるからな………だが、本体が死ねば、操り糸の切れた人形と同じだ」
「しかし、レガとはなあ」
話を聞いたイルファが呆れ返る。
「一体世界はどうなっちまったんだ。そんなやつらはとっくの昔に滅びたんじゃなかったのか」
「……太古生物はお話の中にしかいないって、父様はいってたよ」
「何か……起こってるのかな」
レスファートのことばに振り切るように洞窟に背中を向けるユーノが、物問いたげにアシャを見る。
「……そうだな」
アシャは曖昧に頷いて視線を逸らせる。そのまま遥か高みを、星が煌めき出した空を見上げた。
「世界は広い、からな」
アシャは知っている。
なぜレガがこんなところに巣食っているのか。
本当はレガだけではない、太古生物と呼ばれた怪物や化け物達がなぜ次々蘇り始めているのかを、アシャは知っている。
知っていながら、根本原因を制御することなく逃げている。
(そう、だ)
逃げている、のだ。
「主人には……俺が説明しよう」
「え?」
「お前は何も言わなくていい」
ユーノにそっと囁いた。
「でも」
「……俺向きの、仕事だろ?」
ひょいと振り向いて、にやりと笑ってみせる。
「ああ、口先だけでごまかすってやつな!」
「う」
イルファが腑に落ちた顔で大きく頷く。
「くちさきさんずんのでっちあげってこと?」
レスファートがとどめを刺した。
「そうですよ~、レスはよく御存じですね~」
「人を詐欺師みたいに言うな」
「違うのか」
イルファが憮然としながらアシャを指差した。
「?」
「その格好が既に詐欺だ」
「は?」
「女にしか見えん」
「……ほっといてくれ」
うんうん、そうだね、とユーノがようやく少し笑って、その瞳が微かに潤んでいるのを見ながら、今夜はイルファに勝ちを譲るか、とアシャは思った。
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