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11.知将ゼランの陰謀(2)
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「イルファ」
「……なんだ」
「これ……何」
「……食い物だ」
何とかベッドに体を起こして食事ができる程度に回復したユーノは、じっと渡された木の器を覗き込む。
灰色のどろっとした液体の中に茶色のぶつぶつや黄色のもやもやや緑の点々が浮いているそれを、おそるおそる匙でかき混ぜ、粘り気をもって絡みついてくるのにひきつった。
「……おかゆ…だよね…?」
同じようにそれを見ているレスファートが不安そうに呟き、そっとイルファを見上げる。運んではきたものの、なんてものを持たせたのだ、といささか責めるまなざしだ。
「病人にはかゆ。決まってる」
イルファは何を驚いている、と言いたげに頷く。
「ボクは病人じゃない」
「怪我人でも同じだ」
「怪我、はもう治ってる」
「ほー」
イルファが不穏な表情で眼を細めた。
「レスをあれだけ泣かせたような傷がか? 生死の境を何日もうろうろしたくせに」
「こうして起きられる」
「だが歩けない」
「歩けるさ……っ」
「ユーノ…っっ!」
ぐい、と体を捻ったとたんに背中を駆け上がった痛みに固まると、レスファートが半泣きになって飛んできた。ユーノの体を抱きかかえるようにしがみつき、ね、おねがいだから動かないでよ、まだすごく痛いんでしょ、と甘えるようになじるように訴えられ、渋々ベッドに戻る。
「そらみろ」
「イルファ!」
じろりと見遣ったアクアマリンの瞳は炎を吐かんばかり、レスファートがきりきりした声で言い返す。
「もうあっち行ってて! ユーノはぼくがみるから!」
「はいはい……けど、それは食えよ」
「……何が入ってるのか聞いていい?」
「麦を引いたのにきのことペクと黒砂糖も入れたんだぞ」
「……うげ…」
「………それ……おかゆっていうの…」
甘いのやら酸味があるのやらわからない内容にユーノもレスファートも茫然とする。
「栄養はある」
「……味は?」
「わからん」
「は?」
「俺は食ってない」
「自分が食えないものを人に食わせるのか!」
「食えないんじゃない、食わないんだ」
ふん、とイルファは腕を組んでユーノを見下ろした。
「俺は病人じゃないからだ」
「汚ねえ……」
「どうとでも言え。とにかく俺がアシャに約束したのは、お前を回復させるまでそこから動かさんことだ」
はっとしたユーノに、食うまで動くな、と言い置いてイルファは部屋を出て行く。
「ユーノ怪我してるのに、そんな言い方しなくでもいいじゃないか!」
珍しく声を苛立たせて叫ぶレスファートにユーノは匙を取り上げた。器を引き寄せ、立ち上る湯気の匂いにぐらぐらしながら、一匙掬い上げる。
「ゆ、ゆーの…」
ぼく、半分ぐらい食べてあげようか?
悲愴な顔をして覗き込むレスファートに、大丈夫だからお水汲んできて、と頼み、覚悟を決めて口に運んだ。
「ぐ」
「………だい……じょうぶ……?」
「……」
口の中に広がった混乱と暴走の極みの味を確認する前に、ともかくごくごく飲み下して食べていく。脳裏に浮かんでいるのは険しい顔で駆け去っていったアシャ、あの速度ならかなり早くセレドに戻れただろう。ゼランが何を企んでいたにせよ、きっと阻止してくれたはずだ。レアナも安心しただろうし、父母も頼もしく思っただろう、いっそそのまま。
「ユーノ?」
動きを止めたユーノにレスファートが慌てて水を差し出してくれる。
そのまま、ここに居てくれと。
「……」
器の粥を平らげ、水を受け取りゆっくりと呑んだ。
アシャは、戻ってこないかも、しれない。
「ユーノ…」
「大丈夫。これ、イルファに返してきて」
「うん」
「次はボクが作ってやるって言っといて」
「わかった!」
嬉しそうに器を抱えて離れていくレスファートに微笑んで、のろのろとベッドに横になった。
「、つ…っ」
歯を食いしばり、一瞬走った痛みを堪えて横になる。近くの机の小袋を見遣り、まだ痛み止めを使うほどじゃない、と判断して眼を閉じる。
アシャは帰らないかもしれない。
あれほどの技量、あれほどの美貌、別にこんな辺境に居なくても、ましてやユーノに従って旅などしなくても、アシャには何の責任もない。ここまでは流れでついて来るしかなかっただろうが、レアナが引き止めればこれ幸いとセレドに残ることもできる。
「そのほうが、いいかもな」
つぶやいて苦笑した。
側に居ると甘えたくなる。たった数日の旅でさえ、これほど離れがたく思うのだから、ラズーンまで一緒に旅をしたら諦められるものさえ諦められなくなる。
しかも、アシャはユーノの傷を知ってくれている。誰1人知らなかった事情をわかってくれている唯一の人間、妙な事情も面倒がらずに受け入れてくれた。みっともない体も嫌がらずに手当てしてくれた。得体は知れないが、きっと誠実な男なのだ。
そういう人間には、この先もう2度と巡り会うことなどないだろう。
目を開けるとゆらりと溜まった涙で視界が揺れる。
「うん、きっと……でも」
それでも、アシャが好きなのは、レアナで。
ユーノはその、妹で。
それはきっと、死ぬまで変わらない現実、アシャが誠実であればあるほど。
「がんばれる…かなあ……」
今までずいぶん辛いことを耐えてきたと思っていた。少々のことなど、もう笑って流せると思っていた。けれど、毎日あらゆる瞬間で、自分の気持ちがアシャを探して傾いていくのがわかる。そこだけ何か特別な力が働いているように、どんどん引き寄せられ落ちていく。探すまいとして振り向き、声を聞くまいとして話し掛けてしまう愚かさ、間近に居て体温を感じて、しかも自分がへたっているときに優しく庇われてはもうだめだ。
そこまでは強くない。
「……でも……がんばら……なきゃ…」
アシャに悟られたら気遣わせる。レアナに知られたら壊してしまう。絶対に見せてはならない、気付かせてはならない、ユーノがアシャを望んでいると。
「がんばって……ラズーンへ行って…それから…できるだけ……早く……戻って」
アシャがどこかへ行くと言い出さないように、レアナがどれほど価値のある相手か話して、もちろん、旅に慣れた身ならば1ケ所に留まるのは辛いだろうけど、ユーノが見ている限り、アシャにとってそれほどセレドは不愉快な場所ではなかったようだから、レアナとうまくいけば腰を落ち着けてくれるかもしれない。
アシャが居てくれればセレドはかなり安定する。ユーノの付き人で居る間にも、小さな揉め事にくれた助言は的確で、皇はそういうことには緩いから、アシャとレアナが結ばれてセレドが落ち着き、カザドや周辺の脅威からも守られるとわかれば、おいおい認めてくれるだろう。そのうちに子どももできるだろうし。
「……」
瞬きして零れ落ちた涙に慌てて手の甲をあてて隠し、漏れそうになった声を殺した。
きっといい夫婦になる。
きっと幸せな国になる。
みんな喜んで。
みんな安心して。
きっと、アシャも幸せに、なる。
「……がん…ばれ…」
呟いた。
「……がん…ばれる……よ」
好きな人が幸せになるのだから。
「うん……がんばれる…」
アシャが、幸せに、なる。
「が………んば……」
抱き寄せてくれた胸の温かさ、しがみついた腕の強さ、庇ってくれた背中、何よりユーノ、と心配そうに呼び掛けてくれた瞳を思い出して胸が詰まった。
幸せになるなら、戻ってこなくていい。
セレドを守ってくれるなら、帰ってこなくていい。
でないと、これ以上好きになってしまったら。
「……がんばれ……ないよ……」
ひ、く、と息を引きかけた矢先、
「痛いの、ユーノっ!」
戸口から甲高い声が響いて、どきりとする間もなくレスファートが飛びついてきた。
「きずが痛いのっ」
「レ、レス…」
がばりと一気に頭近くを抱きかかえられて、逆に傷が引きつれた瞬きしたユーノの耳に、
「女の人だから、むりしないで」
「っ」
言い聞かせるような声が届いてぎょっとした。慌てて見上げると、ちゅ、と目元の涙にキスしてきたレスファートが小さく片目をつぶる。
「イルファにはないしょなんだよね?」
「レス……いつから」
「……ユーノ、ぼくは」
レクスファの王子なんだよ?
そこばかりは一瞬大人びた声で呟いて、レスファートはにこりと笑った。
「それに」
好きな人のことはよくわかるもんだよね?
「ぼく、ユーノ、大好き」
しゃべらないから安心して。でもどうして男のふりしてるの、そう尋ねるレスファートを呆気にとられて見ていたユーノは、
「まい……ったな」
「ふふ」
くすぐったそうに笑ってレスファートが抱きついてくるのを抱き返す。
「…そ…か」
「ん?」
「1人でも…ないか」
柔らかな温もりにほっとした。
目を閉じて深呼吸する。
そうだ、確かにユーノの思いは報われないかもしれないけれど、それでもアシャはこの世界で一緒に生きていってくれるのだ。
「それで…よし……って考えれば……いいか」
「なにが?」
「ん、あのね」
大好きな人が居るってことは、いいことだっていうこと。
そうゆっくり話し掛けたとたん、妙な気配を感じて窓を振り向く。
「ユー……っ」
「レ、ス…っ!」
ガスッ!
レスファートを庇って一緒にベッドから転がり落ちるのが精一杯だった。
ベッドに叩き付けられたのは壊れた窓枠、その向こうに見覚えのある緑の複眼がぎろぎろと室内を覗き込むのに、レスファートが小さく悲鳴を上げる。
「な、に…っ」
レガ、だ。
次に突き込まれた一撃でベッドが砕かれるのに、ユーノはかろうじて机の小袋を握り、レスファートを抱えて部屋を飛び出した。
「何だっ」
慌てて飛び込んでこようとしたイルファに突き当たる。
「っぐ」
厚い胸板に跳ね返されてあやうく室内に戻されかけ、必死にこらえた瞬間背中に激痛が走ってユーノは崩れた。
「ユーノっ!」
悲鳴を上げてすがってくるレスファート、何だ何だとうろたえた顔で覗き込むイルファを顔を歪めて見上げ、
「レガだ…っ」
「れが?」
間抜けた声でイルファが部屋を眺め、そこから緩やかに引き抜かれる剛毛の脚に瞬きする。
「ちょっと待て、あれは太古生物で、そうここにもいるあそこにもいるって代物じゃ」
山賊(コール)を操っていたやつはお前が倒したんじゃないのか。
茫然としながらイルファが尋ねた。
そうだ、その通りだ。
遥か昔に絶滅したはずの怪物達。
それがシェーランに居るだけでもおかしなことだったのに、まだもう1匹生きているばかりか、再びユーノの前に現れた。太古生物が何かの理由で生き残っていたにしても、確率としては異常すぎる。
いつの間にか太古生物が世界に溢れ返っていたか、それとも。
「でも、居る、おまけに」
なぜかボク達を狙ってる。
そう考えた方が納得できる。
けれどなぜ?
唇を噛んだユーノの頭の隅に閃いたのは、流浪の旅人にしては眩すぎる容貌の謎の男。
(アシャは驚いていなかった)
太古生物の存在を、それと接触する可能性を、まるで知っていたかのようだ。
(なぜ?)
「一体どうなってやがる!」
イルファが舌打ちしながら身を翻す。
「なんだってこういろんな太古生物が生き残ってる!」
「いろんな?」
それはどういう意味だ、そう確認しかけた矢先、
「ユーノっっ!」
グワッシャッッ!
「きゃあっ」
すぐ側の壁がきしみながら破れてレガの頭が覗いた。ぎろりと見回してくる緑の複眼が粘りつく油のような輝きでユーノ達を捉える。悲鳴を上げたレスファートがすがりついてくるのを抱える。
「イルファ、剣!」
「ほ……と、いかん!」
つい剣を投げ渡しかけたイルファが危うく手元に引き止める。
「アシャに止められてるんだっけな」
「そんなこと言ってる場合じゃない!」
ユーノは急いで小袋から薬を含んで呑み下した。苦い味に顔をしかめて、身構えながら叫ぶ。
「傷が治るより先に殺されるだろっ!」
「いいからそこにいろっっ!」
イルファが吠えるように叫んで、大刀を抜き放ちながら戸口から飛び出していった。応じるようにレガが体を引き、後ずさって向きを変える。
「だめだ、イルファ、1人じゃ殺られる!……?」
レスファートを突き放しながら立ち上がろうとして、ユーノはレガの背中に黒々と身を潜めている影を見つけて目を見張った。
「人…?」
漆黒のざんばら髪をなびかせ、ユーノに答えるように振り向いた瞳は真紅、嘲笑う形で歪めた唇も血を塗ったように赤い。穀物袋のような布目の荒い黒い服、レガの背中にひたりと吸いつくように腰を降ろした異形のものは、男とも女ともわからない。ぎょろぎょろと大きな目でユーノをねめつけると、ふいに顔の向きを変えて何ごとか甲高く叫んだ。
呼応するようにレガがあの女性の悲鳴のような叫びを上げ、速度を上げて目の前に飛び出したイルファに迫る。
「く、そっ!」
立ち上がろうとして背中の痛みに呻き、ユーノはもう一粒、薬を口の中に入れて噛み砕いた。飲み下す喉に灼けるような苦味、えづきながら何とか呑み込み、獲物を求めて周囲を見回す。
「だめだよ、ユーノ!」
レスファートがはっとしたように飛びついてきた。
「真っ青だよ!」
そういうレスファートも負けず劣らず顔色が悪い。気付いてユーノは厳しく叫んだ。
「離れて、レス!」
びくっと身を竦めて、レスファートが固まる。
「心にも近付くなっっ!」
「っ」
ぎゅっとこぶしを握り目を閉じたレスファートが半泣きになる。
ごめん。
心で謝って、けれどレスファートを部屋の隅に押しやった。
へたに心を近付けられていては、戦えるものも戦えなくなる。ユーノは我慢できる傷みでも、レスファートを思って自分を庇ってしまう。
そんなことでは生き延びられない。
立ち上がり、よろめきながら部屋を進んだ。すぐに呼吸が上がってくるのを、早く薬が効いてくれればいいのに、と歯ぎしりしながら願う。
何とか戸口に辿り着いたユーノの眼前、いくらイルファが巨漢とは言え、レガの前では四肢が動く人形のようにしか見えないまだるっこしさで剣を揮う姿があった。
レガはまだ遊んでいる。前足でイルファの動きを嬲っては、何度かのしかかって威嚇している。
「ち、くしょ…っ」
娘達の姿が脳裏を過った。
確かに無神経で大雑把で失礼な男だけれど、それでもアシャが頼みとしていること、レスファートの守りであるのは変わりない。こんなところで、娘達のように屠られてしまってはレクスファの王にも申し訳がたたない。
(私と、関わった、から、なんて)
次々死なれては、この先とても旅などできない。
「剣、を…どこへ…」
少しずつ背中の痛みが薄れてきた。だが、同時に体の感覚が鈍くなってきた気もする。
なるほど痛み止めは痛み止めだが、つまりそれは全身の知覚を低めるものだったのだ、とユーノは気付いた。
「ってこと、は」
はあはあと喘ぎながら戸口にもたれる。
「あんまり、動け、ないって、こと、か」
あの洞窟でレガの巨体は身動きしにくかった。だからこそのユーノ達の利点、しかもアシャで気を逸らせた一瞬に躍りかかるのに十分な場所も手がかりもあった。
だがしかし、ここは森の外れ、森の中に逃げ込んでしまうこともできるが、あの重量で追ってこられては木々など盾にもならないだろう。ましてや、行く手を樹木に遮られてしまい、逆にユーノ達に不利になる。
どうする。
◆「ユーノ!」
こちらに気付いたイルファが汗塗れになりながら叫んだ。
「出てくるなと言っただろうが!」
「人のことより、自分の心配をしろよっ!」
叫び返すユーノを背中の黒づくめの者が振り向く。くくく、と微かに嗤った気配にむっとしたが、冗談じゃない、このままではイルファ、ユーノと屠られて、最後はレスファートまで見つかってしまう。
それは、いやだ。
ぞっとしてユーノは忙しく頭を働かせる。
こんな体調では『効果的な一発』しか望めない。がしかし、それが最初で最後の攻撃になるかもしれないというのは歩が悪すぎる。
「出てくるなって! 俺がアシャに怒られる…ええいっ、サマルカンドーっ!」
イルファがうろたえた声でいきなり叫んだ。
ぎょっとしたユーノの視界を次の瞬間、純白の羽が遮る。
「う、あっ」
激しく羽ばたかれるそれが巻き起こす風に打たれて、思わずユーノは後ずさった。今にも飛び出そうとしていた戸口から数歩、奥へ退避して口を押さえ、目の前で空中に静止しているものを見つめる。
雪のような白い羽根の猛禽類、翼を広げるとユーノの背ほどは軽くある。額に紅の十字の模様、金色の瞳は猛々しい。鮮やかな黄色の嘴を開いて鋭く鳴く姿を、ユーノは太古生物の一、伝説の鳥として彫像でなら見たことがある。
「ク…フィラ…?」
『なんだってこういろんな太古生物が生き残ってる!』
蘇ったのはさっきのイルファのことば、とすると。
「イルファはこいつを知ってる? ……アシャ?」
唐突に脳裏にまだ謎を秘めた男の姿が浮かび上がった。
レガも知ってた、クフィラも知ってる、一体アシャは何者なのだ?
(人に馴れてる……爪を出していない)
クフィラは険しい叫びを上げて羽ばたき威嚇しているが、攻撃意図は少ないようだ。サマルカンド、そうイルファが呼んだ途端に降りてきたということは、人に飼われているということなのだろう、しかもあのアシャに。
(太古生物を、飼っている、だって?)
そんなことは、有り得ないだろう。それこそ、ラズーンに住まう神でもなければ?
「まさ、か」
「わあっ!」
思考が1つの結論に辿りつこうとした矢先、イルファが剣を弾き飛ばされたのが見えた。ギャアアアーッ、と勝利の叫びを上げて、レガが後ろ足で立つ。のしかかって押さえつける、最後の瞬間だ。
「ち、いっ!」
「クェアッ」
クフィラが背後のイルファの叫びに気を逸らせた瞬間、ユーノは身を伏せた。はっとしたように近付こうとする相手の下をすり抜けて、飛ばされたイルファの剣に向かって走る。すぐに背後から追いついてくるクフィラにそれを振り返りざまに投げつけた。
「クァアエッ」
軽く身を翻らせて爪で剣を掴む、そのクフィラに向かって命じる。
「サマルカンドッ、行けっっ!」
「クァッ」
こんな危険な生物を単に愛玩用に飼うはずがない、きっと戦闘に使われている、そのユーノの読みは見事にあたった。剣を掴んでユーノに突っ込んでこようとしたクフィラが名前を呼ばれて戸惑ったように身を翻す。
「眼だ!」
「クッ、ウアッ」
手を立ててから倒し、まっすぐにレガの複眼を示すと、飛び過ぎながらちらっとこちらを見遣った気配、すぐに気流に乗って上昇下降を繰り返し、速度を上げてレガを急襲する。
ギャァアアアーッ!
直前まで勢いをつけたイルファの剣はレガの複眼に刺さった。前足でもがいて跳ね飛ばすが、既に傷ついた眼からはだらだらと血が零れ、レガが痛みに狂ったように跳ね上がる。
形勢不利と見てとったのか、背中に乗った黒づくめの人影が慌てたようにレガを操って、あっという間に遁走し始め、やがて土煙を残して消え去っていった。
「おい……待て」
茫然としていたイルファが上空を満足そうに旋回するクフィラとユーノを交互に見ながら戻ってくる。
「お前、こいつと知り合いか?」
「…なわけ、ない、だろ」
急に力が抜けた。へたへたと膝から座り込むユーノを案じるようにクフィラが舞い降り、とことこと地面を歩いて近寄ってくる。
「クェ?」
首を傾げて覗き込もうとする、そこへ。
「ユーノッッッッ!」
悲鳴のような声を上げてレスファートが飛び出してきた。
「わ、なに、この鳥さんっ」
「クェアッ!!」
「あ、ごめん」
鳥じゃない、ちゃんとそう聞こえたのか、レスファートが謝りながら、おそるおそる近付いてきた。
「サマル、カンド、っていう、らし…」
「ユーノ!」
「おいっ!」
何とかしのげた、そう思ったとたん視界が眩んだ。前のめりに倒れていくユーノを、どたどた近寄ってきたイルファが抱え込む。
「う、ぉっ」
うろたえた声が耳元で響いて、うるさいな、と顔を歪めたのが最後の意識、その端を微かに微かに呟きが掠める。
「お前…女…っ?」
ああ。
ばれちゃった。
ユーノはくたりと崩れ落ちた。
「……なんだ」
「これ……何」
「……食い物だ」
何とかベッドに体を起こして食事ができる程度に回復したユーノは、じっと渡された木の器を覗き込む。
灰色のどろっとした液体の中に茶色のぶつぶつや黄色のもやもやや緑の点々が浮いているそれを、おそるおそる匙でかき混ぜ、粘り気をもって絡みついてくるのにひきつった。
「……おかゆ…だよね…?」
同じようにそれを見ているレスファートが不安そうに呟き、そっとイルファを見上げる。運んではきたものの、なんてものを持たせたのだ、といささか責めるまなざしだ。
「病人にはかゆ。決まってる」
イルファは何を驚いている、と言いたげに頷く。
「ボクは病人じゃない」
「怪我人でも同じだ」
「怪我、はもう治ってる」
「ほー」
イルファが不穏な表情で眼を細めた。
「レスをあれだけ泣かせたような傷がか? 生死の境を何日もうろうろしたくせに」
「こうして起きられる」
「だが歩けない」
「歩けるさ……っ」
「ユーノ…っっ!」
ぐい、と体を捻ったとたんに背中を駆け上がった痛みに固まると、レスファートが半泣きになって飛んできた。ユーノの体を抱きかかえるようにしがみつき、ね、おねがいだから動かないでよ、まだすごく痛いんでしょ、と甘えるようになじるように訴えられ、渋々ベッドに戻る。
「そらみろ」
「イルファ!」
じろりと見遣ったアクアマリンの瞳は炎を吐かんばかり、レスファートがきりきりした声で言い返す。
「もうあっち行ってて! ユーノはぼくがみるから!」
「はいはい……けど、それは食えよ」
「……何が入ってるのか聞いていい?」
「麦を引いたのにきのことペクと黒砂糖も入れたんだぞ」
「……うげ…」
「………それ……おかゆっていうの…」
甘いのやら酸味があるのやらわからない内容にユーノもレスファートも茫然とする。
「栄養はある」
「……味は?」
「わからん」
「は?」
「俺は食ってない」
「自分が食えないものを人に食わせるのか!」
「食えないんじゃない、食わないんだ」
ふん、とイルファは腕を組んでユーノを見下ろした。
「俺は病人じゃないからだ」
「汚ねえ……」
「どうとでも言え。とにかく俺がアシャに約束したのは、お前を回復させるまでそこから動かさんことだ」
はっとしたユーノに、食うまで動くな、と言い置いてイルファは部屋を出て行く。
「ユーノ怪我してるのに、そんな言い方しなくでもいいじゃないか!」
珍しく声を苛立たせて叫ぶレスファートにユーノは匙を取り上げた。器を引き寄せ、立ち上る湯気の匂いにぐらぐらしながら、一匙掬い上げる。
「ゆ、ゆーの…」
ぼく、半分ぐらい食べてあげようか?
悲愴な顔をして覗き込むレスファートに、大丈夫だからお水汲んできて、と頼み、覚悟を決めて口に運んだ。
「ぐ」
「………だい……じょうぶ……?」
「……」
口の中に広がった混乱と暴走の極みの味を確認する前に、ともかくごくごく飲み下して食べていく。脳裏に浮かんでいるのは険しい顔で駆け去っていったアシャ、あの速度ならかなり早くセレドに戻れただろう。ゼランが何を企んでいたにせよ、きっと阻止してくれたはずだ。レアナも安心しただろうし、父母も頼もしく思っただろう、いっそそのまま。
「ユーノ?」
動きを止めたユーノにレスファートが慌てて水を差し出してくれる。
そのまま、ここに居てくれと。
「……」
器の粥を平らげ、水を受け取りゆっくりと呑んだ。
アシャは、戻ってこないかも、しれない。
「ユーノ…」
「大丈夫。これ、イルファに返してきて」
「うん」
「次はボクが作ってやるって言っといて」
「わかった!」
嬉しそうに器を抱えて離れていくレスファートに微笑んで、のろのろとベッドに横になった。
「、つ…っ」
歯を食いしばり、一瞬走った痛みを堪えて横になる。近くの机の小袋を見遣り、まだ痛み止めを使うほどじゃない、と判断して眼を閉じる。
アシャは帰らないかもしれない。
あれほどの技量、あれほどの美貌、別にこんな辺境に居なくても、ましてやユーノに従って旅などしなくても、アシャには何の責任もない。ここまでは流れでついて来るしかなかっただろうが、レアナが引き止めればこれ幸いとセレドに残ることもできる。
「そのほうが、いいかもな」
つぶやいて苦笑した。
側に居ると甘えたくなる。たった数日の旅でさえ、これほど離れがたく思うのだから、ラズーンまで一緒に旅をしたら諦められるものさえ諦められなくなる。
しかも、アシャはユーノの傷を知ってくれている。誰1人知らなかった事情をわかってくれている唯一の人間、妙な事情も面倒がらずに受け入れてくれた。みっともない体も嫌がらずに手当てしてくれた。得体は知れないが、きっと誠実な男なのだ。
そういう人間には、この先もう2度と巡り会うことなどないだろう。
目を開けるとゆらりと溜まった涙で視界が揺れる。
「うん、きっと……でも」
それでも、アシャが好きなのは、レアナで。
ユーノはその、妹で。
それはきっと、死ぬまで変わらない現実、アシャが誠実であればあるほど。
「がんばれる…かなあ……」
今までずいぶん辛いことを耐えてきたと思っていた。少々のことなど、もう笑って流せると思っていた。けれど、毎日あらゆる瞬間で、自分の気持ちがアシャを探して傾いていくのがわかる。そこだけ何か特別な力が働いているように、どんどん引き寄せられ落ちていく。探すまいとして振り向き、声を聞くまいとして話し掛けてしまう愚かさ、間近に居て体温を感じて、しかも自分がへたっているときに優しく庇われてはもうだめだ。
そこまでは強くない。
「……でも……がんばら……なきゃ…」
アシャに悟られたら気遣わせる。レアナに知られたら壊してしまう。絶対に見せてはならない、気付かせてはならない、ユーノがアシャを望んでいると。
「がんばって……ラズーンへ行って…それから…できるだけ……早く……戻って」
アシャがどこかへ行くと言い出さないように、レアナがどれほど価値のある相手か話して、もちろん、旅に慣れた身ならば1ケ所に留まるのは辛いだろうけど、ユーノが見ている限り、アシャにとってそれほどセレドは不愉快な場所ではなかったようだから、レアナとうまくいけば腰を落ち着けてくれるかもしれない。
アシャが居てくれればセレドはかなり安定する。ユーノの付き人で居る間にも、小さな揉め事にくれた助言は的確で、皇はそういうことには緩いから、アシャとレアナが結ばれてセレドが落ち着き、カザドや周辺の脅威からも守られるとわかれば、おいおい認めてくれるだろう。そのうちに子どももできるだろうし。
「……」
瞬きして零れ落ちた涙に慌てて手の甲をあてて隠し、漏れそうになった声を殺した。
きっといい夫婦になる。
きっと幸せな国になる。
みんな喜んで。
みんな安心して。
きっと、アシャも幸せに、なる。
「……がん…ばれ…」
呟いた。
「……がん…ばれる……よ」
好きな人が幸せになるのだから。
「うん……がんばれる…」
アシャが、幸せに、なる。
「が………んば……」
抱き寄せてくれた胸の温かさ、しがみついた腕の強さ、庇ってくれた背中、何よりユーノ、と心配そうに呼び掛けてくれた瞳を思い出して胸が詰まった。
幸せになるなら、戻ってこなくていい。
セレドを守ってくれるなら、帰ってこなくていい。
でないと、これ以上好きになってしまったら。
「……がんばれ……ないよ……」
ひ、く、と息を引きかけた矢先、
「痛いの、ユーノっ!」
戸口から甲高い声が響いて、どきりとする間もなくレスファートが飛びついてきた。
「きずが痛いのっ」
「レ、レス…」
がばりと一気に頭近くを抱きかかえられて、逆に傷が引きつれた瞬きしたユーノの耳に、
「女の人だから、むりしないで」
「っ」
言い聞かせるような声が届いてぎょっとした。慌てて見上げると、ちゅ、と目元の涙にキスしてきたレスファートが小さく片目をつぶる。
「イルファにはないしょなんだよね?」
「レス……いつから」
「……ユーノ、ぼくは」
レクスファの王子なんだよ?
そこばかりは一瞬大人びた声で呟いて、レスファートはにこりと笑った。
「それに」
好きな人のことはよくわかるもんだよね?
「ぼく、ユーノ、大好き」
しゃべらないから安心して。でもどうして男のふりしてるの、そう尋ねるレスファートを呆気にとられて見ていたユーノは、
「まい……ったな」
「ふふ」
くすぐったそうに笑ってレスファートが抱きついてくるのを抱き返す。
「…そ…か」
「ん?」
「1人でも…ないか」
柔らかな温もりにほっとした。
目を閉じて深呼吸する。
そうだ、確かにユーノの思いは報われないかもしれないけれど、それでもアシャはこの世界で一緒に生きていってくれるのだ。
「それで…よし……って考えれば……いいか」
「なにが?」
「ん、あのね」
大好きな人が居るってことは、いいことだっていうこと。
そうゆっくり話し掛けたとたん、妙な気配を感じて窓を振り向く。
「ユー……っ」
「レ、ス…っ!」
ガスッ!
レスファートを庇って一緒にベッドから転がり落ちるのが精一杯だった。
ベッドに叩き付けられたのは壊れた窓枠、その向こうに見覚えのある緑の複眼がぎろぎろと室内を覗き込むのに、レスファートが小さく悲鳴を上げる。
「な、に…っ」
レガ、だ。
次に突き込まれた一撃でベッドが砕かれるのに、ユーノはかろうじて机の小袋を握り、レスファートを抱えて部屋を飛び出した。
「何だっ」
慌てて飛び込んでこようとしたイルファに突き当たる。
「っぐ」
厚い胸板に跳ね返されてあやうく室内に戻されかけ、必死にこらえた瞬間背中に激痛が走ってユーノは崩れた。
「ユーノっ!」
悲鳴を上げてすがってくるレスファート、何だ何だとうろたえた顔で覗き込むイルファを顔を歪めて見上げ、
「レガだ…っ」
「れが?」
間抜けた声でイルファが部屋を眺め、そこから緩やかに引き抜かれる剛毛の脚に瞬きする。
「ちょっと待て、あれは太古生物で、そうここにもいるあそこにもいるって代物じゃ」
山賊(コール)を操っていたやつはお前が倒したんじゃないのか。
茫然としながらイルファが尋ねた。
そうだ、その通りだ。
遥か昔に絶滅したはずの怪物達。
それがシェーランに居るだけでもおかしなことだったのに、まだもう1匹生きているばかりか、再びユーノの前に現れた。太古生物が何かの理由で生き残っていたにしても、確率としては異常すぎる。
いつの間にか太古生物が世界に溢れ返っていたか、それとも。
「でも、居る、おまけに」
なぜかボク達を狙ってる。
そう考えた方が納得できる。
けれどなぜ?
唇を噛んだユーノの頭の隅に閃いたのは、流浪の旅人にしては眩すぎる容貌の謎の男。
(アシャは驚いていなかった)
太古生物の存在を、それと接触する可能性を、まるで知っていたかのようだ。
(なぜ?)
「一体どうなってやがる!」
イルファが舌打ちしながら身を翻す。
「なんだってこういろんな太古生物が生き残ってる!」
「いろんな?」
それはどういう意味だ、そう確認しかけた矢先、
「ユーノっっ!」
グワッシャッッ!
「きゃあっ」
すぐ側の壁がきしみながら破れてレガの頭が覗いた。ぎろりと見回してくる緑の複眼が粘りつく油のような輝きでユーノ達を捉える。悲鳴を上げたレスファートがすがりついてくるのを抱える。
「イルファ、剣!」
「ほ……と、いかん!」
つい剣を投げ渡しかけたイルファが危うく手元に引き止める。
「アシャに止められてるんだっけな」
「そんなこと言ってる場合じゃない!」
ユーノは急いで小袋から薬を含んで呑み下した。苦い味に顔をしかめて、身構えながら叫ぶ。
「傷が治るより先に殺されるだろっ!」
「いいからそこにいろっっ!」
イルファが吠えるように叫んで、大刀を抜き放ちながら戸口から飛び出していった。応じるようにレガが体を引き、後ずさって向きを変える。
「だめだ、イルファ、1人じゃ殺られる!……?」
レスファートを突き放しながら立ち上がろうとして、ユーノはレガの背中に黒々と身を潜めている影を見つけて目を見張った。
「人…?」
漆黒のざんばら髪をなびかせ、ユーノに答えるように振り向いた瞳は真紅、嘲笑う形で歪めた唇も血を塗ったように赤い。穀物袋のような布目の荒い黒い服、レガの背中にひたりと吸いつくように腰を降ろした異形のものは、男とも女ともわからない。ぎょろぎょろと大きな目でユーノをねめつけると、ふいに顔の向きを変えて何ごとか甲高く叫んだ。
呼応するようにレガがあの女性の悲鳴のような叫びを上げ、速度を上げて目の前に飛び出したイルファに迫る。
「く、そっ!」
立ち上がろうとして背中の痛みに呻き、ユーノはもう一粒、薬を口の中に入れて噛み砕いた。飲み下す喉に灼けるような苦味、えづきながら何とか呑み込み、獲物を求めて周囲を見回す。
「だめだよ、ユーノ!」
レスファートがはっとしたように飛びついてきた。
「真っ青だよ!」
そういうレスファートも負けず劣らず顔色が悪い。気付いてユーノは厳しく叫んだ。
「離れて、レス!」
びくっと身を竦めて、レスファートが固まる。
「心にも近付くなっっ!」
「っ」
ぎゅっとこぶしを握り目を閉じたレスファートが半泣きになる。
ごめん。
心で謝って、けれどレスファートを部屋の隅に押しやった。
へたに心を近付けられていては、戦えるものも戦えなくなる。ユーノは我慢できる傷みでも、レスファートを思って自分を庇ってしまう。
そんなことでは生き延びられない。
立ち上がり、よろめきながら部屋を進んだ。すぐに呼吸が上がってくるのを、早く薬が効いてくれればいいのに、と歯ぎしりしながら願う。
何とか戸口に辿り着いたユーノの眼前、いくらイルファが巨漢とは言え、レガの前では四肢が動く人形のようにしか見えないまだるっこしさで剣を揮う姿があった。
レガはまだ遊んでいる。前足でイルファの動きを嬲っては、何度かのしかかって威嚇している。
「ち、くしょ…っ」
娘達の姿が脳裏を過った。
確かに無神経で大雑把で失礼な男だけれど、それでもアシャが頼みとしていること、レスファートの守りであるのは変わりない。こんなところで、娘達のように屠られてしまってはレクスファの王にも申し訳がたたない。
(私と、関わった、から、なんて)
次々死なれては、この先とても旅などできない。
「剣、を…どこへ…」
少しずつ背中の痛みが薄れてきた。だが、同時に体の感覚が鈍くなってきた気もする。
なるほど痛み止めは痛み止めだが、つまりそれは全身の知覚を低めるものだったのだ、とユーノは気付いた。
「ってこと、は」
はあはあと喘ぎながら戸口にもたれる。
「あんまり、動け、ないって、こと、か」
あの洞窟でレガの巨体は身動きしにくかった。だからこそのユーノ達の利点、しかもアシャで気を逸らせた一瞬に躍りかかるのに十分な場所も手がかりもあった。
だがしかし、ここは森の外れ、森の中に逃げ込んでしまうこともできるが、あの重量で追ってこられては木々など盾にもならないだろう。ましてや、行く手を樹木に遮られてしまい、逆にユーノ達に不利になる。
どうする。
◆「ユーノ!」
こちらに気付いたイルファが汗塗れになりながら叫んだ。
「出てくるなと言っただろうが!」
「人のことより、自分の心配をしろよっ!」
叫び返すユーノを背中の黒づくめの者が振り向く。くくく、と微かに嗤った気配にむっとしたが、冗談じゃない、このままではイルファ、ユーノと屠られて、最後はレスファートまで見つかってしまう。
それは、いやだ。
ぞっとしてユーノは忙しく頭を働かせる。
こんな体調では『効果的な一発』しか望めない。がしかし、それが最初で最後の攻撃になるかもしれないというのは歩が悪すぎる。
「出てくるなって! 俺がアシャに怒られる…ええいっ、サマルカンドーっ!」
イルファがうろたえた声でいきなり叫んだ。
ぎょっとしたユーノの視界を次の瞬間、純白の羽が遮る。
「う、あっ」
激しく羽ばたかれるそれが巻き起こす風に打たれて、思わずユーノは後ずさった。今にも飛び出そうとしていた戸口から数歩、奥へ退避して口を押さえ、目の前で空中に静止しているものを見つめる。
雪のような白い羽根の猛禽類、翼を広げるとユーノの背ほどは軽くある。額に紅の十字の模様、金色の瞳は猛々しい。鮮やかな黄色の嘴を開いて鋭く鳴く姿を、ユーノは太古生物の一、伝説の鳥として彫像でなら見たことがある。
「ク…フィラ…?」
『なんだってこういろんな太古生物が生き残ってる!』
蘇ったのはさっきのイルファのことば、とすると。
「イルファはこいつを知ってる? ……アシャ?」
唐突に脳裏にまだ謎を秘めた男の姿が浮かび上がった。
レガも知ってた、クフィラも知ってる、一体アシャは何者なのだ?
(人に馴れてる……爪を出していない)
クフィラは険しい叫びを上げて羽ばたき威嚇しているが、攻撃意図は少ないようだ。サマルカンド、そうイルファが呼んだ途端に降りてきたということは、人に飼われているということなのだろう、しかもあのアシャに。
(太古生物を、飼っている、だって?)
そんなことは、有り得ないだろう。それこそ、ラズーンに住まう神でもなければ?
「まさ、か」
「わあっ!」
思考が1つの結論に辿りつこうとした矢先、イルファが剣を弾き飛ばされたのが見えた。ギャアアアーッ、と勝利の叫びを上げて、レガが後ろ足で立つ。のしかかって押さえつける、最後の瞬間だ。
「ち、いっ!」
「クェアッ」
クフィラが背後のイルファの叫びに気を逸らせた瞬間、ユーノは身を伏せた。はっとしたように近付こうとする相手の下をすり抜けて、飛ばされたイルファの剣に向かって走る。すぐに背後から追いついてくるクフィラにそれを振り返りざまに投げつけた。
「クァアエッ」
軽く身を翻らせて爪で剣を掴む、そのクフィラに向かって命じる。
「サマルカンドッ、行けっっ!」
「クァッ」
こんな危険な生物を単に愛玩用に飼うはずがない、きっと戦闘に使われている、そのユーノの読みは見事にあたった。剣を掴んでユーノに突っ込んでこようとしたクフィラが名前を呼ばれて戸惑ったように身を翻す。
「眼だ!」
「クッ、ウアッ」
手を立ててから倒し、まっすぐにレガの複眼を示すと、飛び過ぎながらちらっとこちらを見遣った気配、すぐに気流に乗って上昇下降を繰り返し、速度を上げてレガを急襲する。
ギャァアアアーッ!
直前まで勢いをつけたイルファの剣はレガの複眼に刺さった。前足でもがいて跳ね飛ばすが、既に傷ついた眼からはだらだらと血が零れ、レガが痛みに狂ったように跳ね上がる。
形勢不利と見てとったのか、背中に乗った黒づくめの人影が慌てたようにレガを操って、あっという間に遁走し始め、やがて土煙を残して消え去っていった。
「おい……待て」
茫然としていたイルファが上空を満足そうに旋回するクフィラとユーノを交互に見ながら戻ってくる。
「お前、こいつと知り合いか?」
「…なわけ、ない、だろ」
急に力が抜けた。へたへたと膝から座り込むユーノを案じるようにクフィラが舞い降り、とことこと地面を歩いて近寄ってくる。
「クェ?」
首を傾げて覗き込もうとする、そこへ。
「ユーノッッッッ!」
悲鳴のような声を上げてレスファートが飛び出してきた。
「わ、なに、この鳥さんっ」
「クェアッ!!」
「あ、ごめん」
鳥じゃない、ちゃんとそう聞こえたのか、レスファートが謝りながら、おそるおそる近付いてきた。
「サマル、カンド、っていう、らし…」
「ユーノ!」
「おいっ!」
何とかしのげた、そう思ったとたん視界が眩んだ。前のめりに倒れていくユーノを、どたどた近寄ってきたイルファが抱え込む。
「う、ぉっ」
うろたえた声が耳元で響いて、うるさいな、と顔を歪めたのが最後の意識、その端を微かに微かに呟きが掠める。
「お前…女…っ?」
ああ。
ばれちゃった。
ユーノはくたりと崩れ落ちた。
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