『ラズーン』第一部

segakiyui

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12.盲目の導師(2)

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「この森を抜けるとネークに入るぞ」
「ふぅん……っつ」
 アシャの声に手綱を引いたユーノが微かに眉をしかめる。
「痛むのか?」
「たいしたことないよ、あれだけ斬られたわりにはずいぶんまし」
 笑い返したユーノが、それでも背中をなるべく捻らないようにしているのに、アシャは無理するな、と言いかけてことばを呑む。
「今日中に入れるかな」
「ああ、大丈夫だろう」
「そう」
 ほっとした顔でユーノは馬をすすめる。
(無理をさせているのは俺だ)
 アシャの胸中は苦い。
 イルファに女ではないかと疑われてから、ユーノはことさら元気に振る舞おうとしている。よく笑い、よく食べ、夜もそうそうに眠りにつく。
 確かにひたすら傷を回復させようとしていると見えるが、時々追い詰められたような顔をして背中を向けるときがあって、その姿は誰も助けてはくれないのだ、と呟いているようにも見える。
(無理もない)
 アシャは溜め息をついた。
(あんなことをするような付き人など、安心できやしない)
 いくらユーノが女だと思われると、この先ややこしいことになるとはいえ、他にいくらでも方法があったはずだ、と冷静な今はそう思う。
 けれどあの時、レガの襲撃に遭い、しかもユーノが怪我を押して戦おうとして気を失ったと聞いたとたん、頭の中心が真っ白になって自分が自分でなくなるような衝撃を覚えた。
 話し続けるイルファを押し退けて、今はもう目が覚めている、大丈夫そうだと聞いても、この目で確かめるまでは信じられなかった。あげくに、人事不省のユーノをイルファが抱き上げ世話をしたなどと聞かされて、いくらでもごまかせるはずのラズーンの内情まで打ち明けてしまったのは明らかにアシャの失態、それもこれもユーノが事情を知って大人しくしてくれるならと思ったのだが、逆に煽ってしまった感じもしてなおさら焦った。長年の友、サマル
カンドをつけて、これで一安心、そう思った矢先のイルファのことば。
『そいつは、女だ』
 まだ白っぽく穴が空いたような感覚の頭に、音をたてて紅蓮の炎が燃え広がるのを感じた。
 なぜ断言できる?
 断言できるほど、ユーノに長く触れていたのか?
 断言するほど、ユーノが何か話したのか?
 俺がいない間に、イルファだけに?
 まさか。
 俺よりイルファを信じると?
 俺よりイルファを頼りにしたと?
 まさか、イルファに自ら望んで身を委ねた、とか?
 イルファと言い合っているユーノを引き寄せて、そのまま目の前で唇を奪ってしまおう、俺のものだから触るな、そう言いかけた自分に気付いたときにはユーノの肩を掴んでいて。
 離せ。
 そう心は命じたのに。
 タシカメロ。
 そう荒々しい叫びが響いて。
 徴を目にしてしまったら俺はどうするつもりだろう。どこか遠くで思いつつ、素早く巡らせた機転がどれほどユーノを傷つけるのか、あの一瞬思い及ばなかった。
 ずらした衣服の下の肌は出て行く前と同様、傷を刻まれてはいたが、どこにも愛撫の跡はなかった。
 けれど、ユーノを女性と認識したならこの先はわからない。思った瞬間に、イルファがユーノにどんな興味も持たないようにしておかなくては、と強く思った。
 掌におさまる細い肩を、指の下に当たる柔らかでしなやかな弾力を、そこに巻かれた包帯への怒りに握りしめたくなる、密やかな膨らみを、触れながら考えていた、凍るような怒りで、他の誰にも、二度と再びユーノに触れることなど許さない、と。
 なぜならユーノは。
「……っ」
 口を押さえてアシャは瞬きする。
 呟きそうになった一言をかろうじて噛み殺し、そんな自分に戸惑った。
 胸の中に広がる焦燥、すぐ側に居るのに手に入れられない歯がゆさ、熱くて冷たいこの感情、これが単なる恋などではないことをアシャは気付いている。
 ただユーナ・セレディスという少女を愛しいと思うだけではなく、アシャはたぶん『銀の王族』としてのユーノをも強く欲している。
 なぜならアシャは、他ならぬ『ラズーン』の。
「…」
 きつく奥歯を噛む。
 『銀の王族』としてのユーノを欲する力は、ユーノを愛しいなどと思ってはいない。ただユーノの身体にある命の種を望んでいるだけだ。その衝動を満たすことの恐怖から逃れて、アシャはわざわざ辺境へと身を隠しているのに。
「導師、か」
 ちらりと隣に轡を並べるユーノを見遣った。
 明るい光に透け、風に乱れる焦茶色の髪は、見えているよりずっとしっとりと指先に快いと知っている。滑らかな頬は掌に吸い付くようだし、意固地そうに尖らせた唇の内側を思うさま蹂躙することを考えると胸が甘くなる。華奢な身体は腕に抱き込み所余さずいとしめるだろうし、張り詰めて強い声音が、その瞬間にどんなふうに崩れるのかと考えるなら、誰でも誘われるはずだ。
 日増しにユーノに魅かれていく自分が居る。これまでの相手とは比べものにならない強さ激しさで、ユーノの全てを我がものにしたいと苛立つ自分を感じている。
(俺の方が導師が要るんじゃないか)
 ネークの人の導師は人の心に深く通じ、近隣諸国からも悩みを相談するために人が訪れると言う。
 噂に高い導師に会いたいというのは、ユーノもまた何かおさめきれないものがあるのだろうか。
(それとも、誰を、か)
 誰か恋しい相手が居て、その気持ちを抱えたまま旅に出て、けれど命の瀬戸際になって相手への想いを押さえ切れなくなり、導師に会いたがっているのではないか。
 考えた瞬間にじりっ、と腹の底が苦く熱くなって、眉を寄せた。
(嫉妬、か)
 今は付き人としての信頼も失った状態なんだぞ、と舌打ちする。
(嫌われているかもしれないのに)
 思っただけで焦燥が広がって、我ながら馬鹿馬鹿しくなった。
(それしか考えられない餓鬼だ)
 女を貪る時期は過ぎたはずじゃなかったのか、と言い聞かせながら溜め息をついた。
(ミネルバに嗤われるはずだな)
 『氷のアシャ』がどうしたのだ。袖にしてきた諸妃諸候が嘆こうぞ。
 陰鬱な嘲笑が耳の底で響き渡る。
「う…わぁ…」
 ふいにレスファートが嬉しそうな声を上げて我に返った。
 いつの間にか森が途切れていた。
 日射しが周囲に溢れ返っているのに、イルファの前でへたっていたレスファートも気力を取り戻したようだ。
「すご…い」
 側でユーノも目を見張って、前方に広がった光景に見愡れている。
 ユーノ達が立ち止まっている場所を小高い丘として緩やかな斜面が続いていた。少し先には煌めく流れが横切っている。川では子ども達がはしゃいで跳ね回り、弾かれた水滴が光を撥ねて一層まばゆい。近くには緑豊かな畑が広がり、男女がゆったりと見回りつつ作業している。幾つかの丘陵の間に家屋が点在し、煙と食べ物の匂いが漂っている。ぼちぼち昼餉なのだろう。
 遠くへ目をやれば、広々とした草原が村はずれから続き、風に波打ちながら地平となる寸前、青みを帯びた山々がその頂上をわずかに見せている。
 穏やかで伸びやかで、どこまでも明るい村の風景だ。
「『豊かなるネーク』だね」
 ユーノが感嘆を込めて呟いた。
「セレドに、似てる、少しだけ」
 続いた声音は儚い。
 すぐに、そんなことを言い出した自分を恥じるように、いそいそと馬を村へ進め始めた。
「おい、先に行くな……ほら、アシャ」
 イルファが慌てたように続こうとして、ひょいとレスファートを抱き上げ、アシャの方へ差し出す。
「え? もう俺の番か?」
「だろ?」
「だろって、おい!」
 レスファートが何とか自分の前におさまるのを待って、イルファに声をかけたが、相手はさっさとユーノを追って行ってしまう。
 なぜイルファがユーノを後を追うんだ。不快感に眉を寄せる。思わず知らず声を上げる。
「おい、待て!」
「アシャ」
 レスファートが声をかけてきた。
「なんだ」
「そんなにあせるなら、ユーノにひどいことしなければよかったんだよ」
 ぼそりと指摘されて、硬直した。
「…俺は焦ってなんかいないが」
「じゃあ、もう少しここでまってよ……イルファ、らんぼうなんだもん、おしりがいたいんだよ」
 ごそごそと腰のあたりを摩り、座る位置を確認しながら、
「ねえ、アシャ」
「なんだ」
「アシャはユーノのこと、きらいなの?」
 唐突に聞かれた。
「え?」
「ユーノのこと、きらいだから、あんなことしたの?」
 俯いたままでレスファートは尋ねる。もういいよ、と言われたから馬を進め出したアシャが、どう応えたものかと迷っていると、
「ユーノ、いたがってる」
 レスファートの声は怒りを秘めている。
「……ああ」
「すごく、かなしんでる」
「………わかってる」
「わかってないよ」
「わかってるよ」
「わかってない」
「わかってる」
「……じゃあ、どうしてユーノにあやまらないの?」
「……」
 レスファートは振り向いて顔を上げた。じっとアシャを見上げる。
「ひどいこと言ってごめんね、って」
「そう、だな」
 謝っても。
 もしもう一度やり直せたとしてもアシャは同じことをするだろう。イルファの興味を削ぐためだと言い訳しつつ、ユーノを傷つけるとわかっていてもしてしまうだろう、ユーノを望む気持ちと拒む気持ちに翻弄されて。
「なんで?」
「うん?」
「……そんなにユーノのこと……かんがえてるのに」
 レスファートのことばに、そうか、この子はレクスファの王族だったのだな、と改めて苦笑した。同時に、いつの間にか弛んでしまった自分の心の防御壁を引き上げる。
「こら」
「った」
 こん、とレスファートの頭を軽く叩いた。
「人の心に勝手に踏み入るな、とレダト王は教えなかったのか?」
「でもっ」
 ユーノが、ないてる。
 自分が泣きそうな顔でまた俯いたレスファートの頭をくしゃりとアシャは撫でた。
「お前が……慰めてくれ」
「え…」
「ユーノをお前が慰めてやってくれ」
 その方がきっとあいつも安心するし、気持ちが楽になる。
 呟いた自分がどんな顔をしたのか、アシャは意識していなかった。
 ただ、振り仰いだレスファートが驚いたように瞬きし、見る見るきつい表情になっり、唇を噛んでぷいと顔を背けた。
 きっと情けない顔をしたのだろうな、とアシャは思った。
 
「なんだか物騒だろ」
 その夜、ネークの宿屋の食堂で、ユーノ達は久し振りに豊かな夕食をとっていた。
 小さな村なのに宿屋の数が多い。高名な導師を訪ねてくる旅人のためだ、それでも最近は少し減った、と女主人は笑った。
「おかしな怪物の噂も聞くしねえ」
 イルファが露骨にアシャを見たが、アシャは平然とスープを掬っている。穏やかな表情は優男の外見をより一層頼りない感じに見せている。
 女主人もあんまりあてにならないと判断したのだろう、今度はユーノに向かって尋ねてきた。
「夕飯はどうだね」
「おいしいです、とても!」
 ユーノが答えるよりも早くレスファートが満面の笑顔で見上げて、女主人も破顔する。
「そりゃあ、よかった!」
 あんたに褒められると嬉しいよ、とがばりとレスファートの顔を大きな掌で包み、キスを降らせる。愛玩動物じみたそういう扱いにかなり慣れてきたレスファートが、んー、とわずかに苦笑しながら受け止める。
「それに比べて男どもは!」
 じろりと睨まれてユーノはぎくりとした。
「お、おいし、いで」
「無理しなくていいよっ」
「うっ」
 大体なんだ、あんたは、この細っこい腕!
 がちっと片腕を握って釣り上げられかけ、ユーノはじたばたした。
「あのっ」
「痩せ過ぎだ!」
 女主人は断言する。
「こんな細い腕で女を守れるもんか」
 そりゃあなたは守るまでもなく大丈夫。思わず言いかけて危うく口を噤んだユーノに、相手はぐいとイルファの方へ顎をしゃくる。
「あっちの男をごらん、まあころころしてネークの草猫みたいじゃないか。あそこまでとは言わないけど、せめて隣の生っちろいのぐらいは太んなくちゃ」
「ぐ」「…」
 ころころ、と生っちろいの、と評されたイルファとアシャが微妙な顔で手を止める。
「いいかい、もっと食べなきゃだめだ!」
 恰幅のいい体にふさわしい足音をたてて部屋を出て行くと、もう一皿、山盛りにした肉を持ってきてユーノの前に置いた。
「ほらっ」
「う」
「お食べ! 残したら今夜家には泊めないよ!」
「そ、そんな」
「おい、俺ならまだまだうんと余裕が」
「あんたは食い過ぎ!」
 イルファを容赦なく切り捨てた女主人に、ユーノは引きつる。
 ただでさえかなりの量を既に食べている。正直、背中に傷を負ってから、まだ十分に食が回復していない。それでも次々運ばれる料理を無碍にするわけにも行くまいと必死に平らげていたのだ、これ以上は入らない。
「お、おばさん」
「お姉さん!」
「お、お姉さん…」
「なんだい」
「後で食べたいんだけど」
「そんなこと言って残す気だろう」
「そうじゃなくて、あの、導師のところへ行くのが遅くなっちゃうと、ほら」
「おや」
 女主人は意外そうに瞬きした。
「あんたも導師さまのところへ行くのかい」
 へえ、どんな悩みがあるんだね。
 不思議そうに残りの3人を見回しながら尋ねたが、ああ、と頷いた。
「この男の女癖の悪さを相談しに行くんだろ」
「っぐ」
 アシャが指さされてむせ返る。
「いや、そうじゃなくて」
 あたらずとも遠からずだけど、とこれは心の中の声、ユーノが首を降ると、女主人は不審そうにイルファを指差し、
「この男の大食らいを治して下さいとか」
「違います」
「まさかと思うけど、このかわいらしい子が不治の病でとか」
「………違います」
「ああ、わかった!」
 女主人ははっとしたように大きく頷いた。
「あんただろ!」
「えっ」
「あんたの悩みだ」
「え、っ、と」
「あんた、そりゃ止めたほうがいい」
「は?」
「確かに細っこくて先行き女に縁はなさそうだ、だが」
 女主人はいかにも心配そうに喚く。
「よしときな、女にだっていろいろ辛いことはあるよ!」
「はいっ?」
「女になりたいんだろ?」
 なんだそのとんでもない発想は、それこそ性別などを……変えられるのか、導師は? じゃあひょっとして男になれる、とか? 男になったら、アシャと気まずい思いをせずに旅ができたり、する?
 一瞬固まったユーノはすぐに我に返った。
「違うっっ!」
「あれ、違うのかい」
 まあなんだかわかんないけど、そりゃ確かに遅くなっては迷惑だ。
 女主人が取りあえず肉の皿を下げてくれて、ユーノはほっとした。善は急げ、さっそく導師の家を訪ねて出かけようと準備していると、レスファートが不安そうに見上げてくる。
「ぼくもいっしょにいこうか?」
「大丈夫だよ」
 すぐ戻るから、ちゃんと寝てるんだよ。
 レスファートの頬におやすみのキスをして、ユーノは顔を上げた。
「じゃあ、アシャ」
 何を考えているのか全く表情の読めない相手に笑いかける。
「レスをよろしく」
「気をつけてな」
 相手の無表情さにずきりとしながら、ユーノは背中を向けた。

 導師の家は昼間見た川の流れの近くにあった。
 ヒストをゆっくり進めながら、ユーノの頭には繰り返し同じことばが流れている。
『俺にも好みと言うものがある』
 冷やかな突き放した声音はよく耳にしたことがある。
 ユーノと親しく話していた親衛隊の1人が仲間にセレドの皇族におさまる気かとからかわれた時。街中でレアナの護衛として同行していて、姉に見愡れた男がユーノを見ていたと勘違いされた時。
 比べられて貶められるのはもう数えるのも飽きたぐらいで。
(傷つかないわけ、じゃないのにな)
 髪をしなやかにする薬草を調べたこともある。レアナより浅黒い肌に少しは映える紅を考えてみたこともある。棒杭のように柔らかさのない体つきをふわりと見せる仕草を探したこともある。
(それでも)
 かなわない、どこもかしこも何もかも。
 全てにおいて自分は姉にも妹にも母にも劣るのだと繰り返し思い知らされるばかりで。
「ふ、ぅ」
 小さく溜め息をついてユーノは苦笑した。
(慣れているはず、なのに)
 早く導師の所へ行こう、と思った。
 体の傷みは耐えられる。心の痛みも慣れている。
 けれどこんな想いには慣れていない。
(温かい腕だったなあ)
 自分を支えてくれたアシャの温もりを思い出す。次の瞬間、衣服を引き剥がれたにせよ、
(気持ちいい、胸…だった、なあ……)
 人の体温というのはあれほど柔らかく傷を温めてくれるものなのか。布や炎や薬剤とは全く違う。肌からしみいって、傷の奥深くまで届く熱、なるほど怪我をした子どもが母親に抱き締められたがるわけだ、と納得する。
 ユーノはいつも1人で手当てしてきた。
 止血の順序を誤って血が止まらなくなり、何とか包帯で巻き締めたものの自室へ辿りついたとたんに気を失ったこともある。床に転がってどれほど意識がなかったのだろう、気付けば皇宮内は静まり返り、凍りつくほど冷えた手足で起き上がってまず確かめたのは周囲を汚していないかということ。
 幸い再出血はしていなかった。体が熱ぼったくて喉が乾いていたけれど、水呑み場までは行けなかったし、誰かを呼ぶわけにもいかなかった。のろのろとベランダまで行って、そこで夜気で体を冷やし、湿った空気を吸い込んでかろうじて生き返る気がして、そのままうとうとして夜明けを迎えた。
 翌日は皇族閲兵式、平和なセレドでそれは皇族が勢ぞろいして民衆と触れ合うお祭り騒ぎとくれば休むわけにはいかず、ゼランに引っ張り出されて半日日射しの中に立っていた。何度もふらついて倒れかけたけど、それでも最後まで居るしかなくて。
 誰かに助けてもらえるとは……思わなかった。
(あの時に比べれば、ずっと楽なんだ)
 どんどん暗さを増す夜道を進みながら、ユーノは胸の中で言い聞かせる。
(皇宮に居たころよりずっと楽だ、ここにはアシャだけじゃない、イルファもいる、レスもいる)
 傷を受ければ手当てしてもらえる。熱が出れば眠らせてもらえる。戦うときも背中に誰かが居てくれる。
(仲間が、居る)
 たった1人で全てを背負っていたころに比べれば、格段の差だ。
 けれど、だからこそ。
(仲間、なんだ)
 それ以上を望んじゃいけない。それでなくても、イルファが疑いだしたのはユーノが無意識にアシャに甘えてしまっていたせいかもしれない。レアナのいないのをいいことに、人のものを自分のものだと思い込みつつあったのかもしれない。
 仲間でいられるうちに。アシャへの気持ちに押し潰されて、身動きできなくなる前に。
(導師に打ち明けて、この気持ち全部)
 消し去ってもらおう。
 目の前に見えてきた小さな小屋の灯に、ユーノは唇を引き締めて顔を上げた。

 ヒストを家の前の木に繋ぎ、木製の戸をことこと叩いて声を掛ける。
「こんばんは」
 静まり返った世界の中で、導師の家もしんとしていて人の気配はない。
 ユーノはもう一度、低い声を掛けた。
「こんばんは……導師はおいででしょうか」
「入りなさい、開いてますよ」
「っ」
 いきなり背後から声を返されて、ユーノはびくりと身を竦めた。とっさに剣に手が滑った。
「剣から手を放しなさい、幼き剣士よ」
 振り返った薄闇の彼方から、柔らかな声が苦笑する。
「……すみません。つい…」
 うろたえながらユーノは顔が熱くなった。
 導きを求めに来ているのに、殺気立った感覚が浅ましいと指摘された気がした。
「いつも狙われているものだから?」
 ユーノのことばを引き取って、導師は静かに姿を現した。
 闇に慣れてきていた瞳に、紺の頭巾に紺のマントを纏い、陰からこちらを見返してくる穏やかな白い顔が微笑んでいるのが見える。
「どうぞ、中へ」
 ユーノの側をすり抜けて導師は戸を開けて入った。施錠も何もしていない、そのまま奥へ進んで、小さなランプに灯をともす。
 促されて家に入ったユーノは、相手の目が閉じられたままなのに気付いた。明々とした光に照らされ、眉の下に淡い影ができる導師の顔は若々しかったが、笑みをたたえた唇はユーノの心の中をはっきりと言い当てた。
「盲目でも、あなたが探しているのは私だろうと思いますよ」
「申し訳ありません」
 ユーノは重ねた失礼に熱くなる顔を伏せて、慌てて勧められた椅子に腰を降ろした。
 頭巾を落としマントを脱いで簡素な格好になった導師が、ゆっくりと戻ってくる。目が見えないとはとても思えない確かな足取りで椅子の位置をユーノに向くように直し、穏やかな寛がせる声音で言った。
「さて……お話をお聞きしましょうか」
「……あなたは人の心の綾を知り尽した方と聞いております」
 ユーノは静かに顔を上げた。
「人の持つ哀しみや苦しみを取り去り、心穏やかに日々を暮らせるようにして下さる方だと」
 導師は微かに笑みを深めた。
「ボクは今大変重要な旅をしています。遥かな遠い地へ赴かなくてはなりませんし、同行してくれる仲間を守り抜かなくてはなりません、絶対に。たとえ、ボクが途中で倒れたとしても……」
 その可能性はかなり大きい。カザドに『運命(リマイン)』。これから先も敵は増えるかもしれない。
「彼らだけでも生きて故国へ帰ってもらわなくてはなりません」
 ユーノはことばを切った。溢れそうになる想いを殺して続ける。
「そのような旅なのに……ボクは関係のないことで迷っていて、自分の心を扱いあぐねているんです」
 アシャへの気持ちを抱えていたところで報われるわけはない、成就するわけもない。なのに切り離せない無視できない。
「大きな迷いです。その迷いに身を任せたら、ボクは………これから先、生き抜くことさえできなくなりそうです」
 ふとした瞬間に、アシャに見愡れているのに気付く。アシャの姿を求め、アシャの声を聞き、アシャの笑顔を探している。決して手に入らないのに、執着し傾倒し、先のない未来を夢に見る。
「導師、あなたに、その迷いを取り除いて頂きたいのです」
「……わかりました」
 導師は一つ息をついた。
「一度あなたの迷いを見せてもらいましょう。そのうえで考えてみます」
 考え深い口調で言って、そっとユーノの両肩に手を置く。やはり、見えているのではないかと思えるような、ためらいのない仕草だ。
「さあ、心を開いて。ゆっくり、思い出してごらんなさい。その迷いのことを」
 ユーノはごくりと唾を呑んで目を閉じた。
(迷いは……アシャ……)
 きらり、と心の中の闇に金褐色の髪と紫の瞳をもったアシャの姿が現れた。

 笑顔、優しいことば、温かい腕。その奥にあるしたたかで激しい心。さしのべられる手……すがりつこうとした矢先に、相手の掌に既に載せられている色白の指に気付く。
(レアナ姉さま)
 軽々とレアナを抱き上げるアシャ。
 金褐色の髪に栗色の髪が絡み付き、紫水晶の瞳にガーネットの輝きが応える。まばゆい光景……胸の痛みをも忘れさせそうな美しい二人。
(綺麗、だな)
 アシャとレアナがお互いの手を取り、振り向く。
 祝福してくれるわよね、ユーノ。
 レアナが囁く。零れるような喜びの顔。
(ええ、姉さま)
 俺とレアナ皇女は似合うと思わないか。
 満足そうにアシャが言う。誇らしげに自信を満たす笑み。
(そうだね、アシャ)
 寄り添う2人の前で、ユーノは必死に笑顔をつくる。
(2人ともとってもお似合いだ。嬉しいよ、私も。アシャがいれば皇宮は安泰だし、姉さまも母さまも、父さまもセアラも安心して暮らせるもの)
『嘘……つ……き』
 呟きに遠く反論する小さな声を聞くまいとする。
 ユーノの返答を聞いて、アシャとレアナがほっとしたように笑い合う。
 よかった、そう言ってくれると思っていたよ。
 華やかな結婚式、そして、続く荘厳な戴冠式。レアナの頭を飾る王冠をアシャがまばゆげに見つめ、レアナはにこやかにアシャの手を取り宣言する。
『あなたは我が主、よってセレドもまた、あなたに従います』
 上がる歓声、舞う花吹雪、人々が興奮して皇宮のテラスに並び立つ艶やかな2人を見上げて叫ぶ。なんて美しい。なんて素晴らしい。なんて見事なお2人だ!
 名実ともに、アシャはユーノの兄となり、ユーノはアシャの妹になる。
 ユーノは深く礼をとり、儀式として祝いを述べた後にアシャとレアナに笑いかける。
(アシャ兄さま、だね。アシャが兄さまなら大歓迎だよ)
『嘘つ……き』
 儚く響く声を、ユーノは聞かない。
(ねえ、アシャ、見てやってよ。ほら、レアナ姉さまったら真っ赤だ。ね、ああいうところが姉さまながら可愛いんだ。アシャもそう思うでしょ)
 思うよ、ユーノ。
 アシャが愛おしくレアナを見遣りながら呟く。
 レアナ姫は本当に一生守らねばならない女性だと感じる。俺がいなくてはいけない、と。
 紫の瞳が潤むようにレアナを見下ろし、レアナが静かに微笑み返す。
 私も、いえ、私こそ、あなたあればこそ生きております。
(姉さまを幸せにしてよね、私から奪っちゃうんだから。喧嘩したらね。仲直りの方法、教えてあげるよ)
『嘘つき……』
 掠れた声が震えて響く。打ち消すようにアシャが笑う。
 ああ、是非。だが、俺がレアナを傷つけるようなことはないだろう。大事な人だから。
(そう、だよね)
 私には、そうじゃないものね。ことばを噛み殺す。
(アシャってどっちかっていうと、私にはずっと兄貴風ふかしてたから……ああ、じゃあ私は弟か)
 そうなるな、はねっかえりの手に負えない弟だ。
(うん、そうだろうと思ってたんだ、でも弟でいいから、これからよろしく)
 笑う。
『嘘つき』
 声が責める。
(レアナ姉さまが大好きなんだよね、アシャ)
 2人は互いを抱き締めあう。
『ぴったりだね』
 どこに隙間があるというのだろう。
(レアナ姉さまもアシャが好きで…)
 距離が離れても通いあう心はペンダントを託した祈りが示している。
『どうにもならないじゃない』
 たとえレアナと張合うほどの美人であっても。
(相思相愛で)
 セアラと並ぶほど強気に出たとしても。
『私の入り込める余地はない』
 目の前で見つめあう2人が教えている。
(アシャが私に優しいのは、姉さまの妹だからで)
 大事な人の妹だから。
『ユーノだから、じゃなくて』
 レアナを傷つけないように。
(ラズーンへ付いてきてくれたのも、姉さまに頼まれたからで)
 ユーノが無謀なことを言い出したとレアナが不安がったから。
『私が行くから、じゃなくて』
 ユーノを案じてくれたわけではなく。
『親切なのも、セレドの第二皇女だからで』
 これまで出会った人々のように。
 ユーノ自身を求めて心配してくれたのではない。
『行き場がない』
 そんなこと、わかっていた。
『なのに、アシャが優しい』
 期待してしまった、けれど。
『アシャが生きて帰れば、セレドは大丈夫で』
 言い聞かせないと、守りたい気持ちの理由がつかない。
『私でなくても』
 アシャを支えることができれば誰でもいいのだろうけど。
『アシャは守ること、レアナ姉さまとセレドのため』
 せめて。
 好いてもらえないなら、せめて役に立ちたい、一瞬だけ、よくやったと褒めてもらいたい、その瞬間だけでも。
 ユーノを、見て、ほしい。
 でも。
『傷を』 
 見られた。愛するに価しないと見抜かれた。
『痛みを訴えないことーー心配する』
 自分のせいでと苦しむ父母は見たくない。
『悲鳴をあげないこと』
 恐怖にセアラを怯えさせたくない。
『明るく振る舞うこと』
 レアナに不安がらせたくない、すぐに体調を崩してしまう。
『諦めること』
 ユーノは強い。
『傷』
 大丈夫だ。
『傷』
 死ななければいい。
『傷』
 でも、できるなら、もし、望めるなら。
 死ぬ時になら、アシャって呼んでも、いいかな。
 それなら不自然じゃないよね、きっと。
 アシャ。
 アシャ。
 アシャ。
 これは死ぬ間際の戯れ言、愛しい人の名前を呼ぶ代わりにぼやけている頭が勝手に選びだした名前なんだよ。
 だから何の意味もない。
 どんな理由もない。
 アシャ。
 アシャ。
 ……アシャ。
 じゃあ私、死ぬのなんて怖くないや……。
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