『ラズーン』第一部

segakiyui

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13.夢見る草猫達(1)

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 ざわざわと、体をすっぽり隠すほどの草を風が鳴らしていく。
「ん…しょっと…」
 レスファートは苦労して草を刈っている。流れる汗を瞬きしながら振り払う。
 ネークの半分を占める丈高い草原を1日で駆け抜けるのは困難、今夜はここで野営だ。
 時々手を休め、きゅ、と小さな短剣を握りしめてみる。軽くしびれた指先、城にいる頃には掠り傷1つにメーナが騒いだが、すべすべしていた手にはもう無数の切り傷がある。火を扱い料理もするようになったから火傷の痕もある。潰れた小さなまめもある。
 とても王族の手ではないと言われるだろう。それでもこの手はユーノを慰めたりもできる。
「ふ」
 誇らしく微笑み、レスファートは頷く。
(旅にでて、よかった)
 城にいれば痛い思いも怖い思いもしない。哀しい思いも辛い思いもしない。
 けれど1日の旅程に疲れ切ってユーノに抱き締めてもらって眠る安心や、初めて自分1人で火を起こせたり水のある場所を見つけられたり、見たこともない美しい花を毒草と教えられて驚いたりする日々は、きっと得られなかった。
(ぼくはきっと、成長、してる)
 自分の力が増えていくのを感じる。人の心の中でしか知らなかった出来事が、経験に裏打ちされて、真に意味のあるものに置き換えられていくのを感じている。
(いつか、きっと)
 ユーノを守り、ユーノを支えよう、あの日の誓いのままに。
 にこっと笑っていそいそと再び草を刈り始めたレスファートは、やがて、唐突に顔をしかめて手を引いた。
「あっつ…」
 ネークの草原は鋭い剣型の葉の植物で満たされている。注意していたがまた切ってしまった。
 指先に赤い筋が走り、みるみる紅の粒が膨れ上がってくる。慌て気味にその指をくわえこんで、止まるまで座り込もうとしたとたん、
「っっ!」
 いきなり後ろから突き飛ばされた。とっさに短剣を握って前にのめった拍子に額に鋭い感触があり、いた、と眉を寄せた。体を起こし、そうっと振り返った目には深緑から始まる様々な緑が重なる草しか映らない。
「??…」
 少し離れた場所で同じようにざくっざくっと草を刈る音、ユーノ達も野営の場所づくりに忙しいのだ。
 きょろきょろと周囲を見回し耳を澄ませ、空を見上げる。
 暮れかけた空は青色が薄黒く煙ってきているが、穏やかな眠りにつく闇の色だけ、別にこれといっておかしなところもないし、怪しい気配もない。
 レスファートは短剣を握りしめて、刈った草の上にそろそろと四つ這いになった。突っ込んだ拍子にプラチナブロンドに草が絡み、手には新しい傷が増えている。
「いたぁ…」
 わけのわからない不安を呟いてごまかしながら、もぞもぞと起き直りかけたその瞬間、ざわっと草を揺らせて、再び何かが飛び出して来た。
「きゃっ」
 横から脇腹にぶつかってすぐに草の中へ飛び込んでいく。レスファートは軽々と吹っ飛ばされてのけぞり、今度は背後の草の中へ仰向けにひっくり返った。
(な、に…っ)
「!!」
 その彼の上を、2度3度、吹っ飛ばしたそっくりな気配の『もの』が走って行く。腹を叩きつける感触は四つ脚、けれど姿が一切見えない。
「う、っ」
 髪を乱し、手足だけでなく、頬にも額にも一杯ひっかき傷を作って、レスファートは慌てて起き上がった。血でぬるついた手、どこから何が来るのか、何をされようとしているのかわからなくなって、震えながら必死に周囲を見回す間に涙が滲んでくる。
「ふぇ…」
(ユーノっ)
 竦んでしまう。助けを呼びたいと思ったとたんに、さっきの誇らしさが邪魔をする。守ろうというその人に、助けを求めてしまうのか、と。
 けれど怖い。握る短剣が冷たくて重い。
「レス? そっちは刈れた?」
「っ!」
 ユーノの明るい声に、レスファートは座り込んだまま急いで見上げた。草波の上から、太陽を背に影になったユーノが覗き込む。
「レス?」
 不審そうな声をかけてユーノは草を掻き分け、レスファートが刈った小さな空き地に急いで寄ってきてくれた。
「どうしたの? 疲れた?」
 側に近付く温かな体温、腰を降ろして影になっていた姿が光を浴び、優しく微笑んだユーノの顔を浮かび上がらせる。
(母さま)
 唇を噛んで我慢しようとしていたレスファートの頭の中で、もう面影もぼんやりしている母親の微笑が重なった。
(こわい、よ)
「ユーノぉ!」
 レスファートは両手を差し伸べ、ユーノにしがみついた。
「どうした? 手でも切ったの?」
 そっとレスファートを抱えて、ユーノが尋ねてくれる。
「……う……ん…」
 しゃくりあげながら頷く。目元を擦って、いた、とつぶやくと、手に薄赤く血が広がっているのを、ユーノが見つけてくれた。
「ああ、ずいぶん切ったね。痛かったろ? 手当てしよう」
 刈り終わった場所へ手を繋いでレスファートを連れていって、荷物を解く。
「にしても、ひどく切ったなぁ」
 傷だらけの手に優しく塗り薬をのばし、包帯を巻きながらユーノが首を傾げる。
「だって…」
「ん?」
「なにかわけのわからないのが、ぶつかってきたんだ」
 顔を上げたユーノに、レスファートは訴えた。
「何かわけのわからないの?」
「うん。ぼくが草をかってたら、きゅうにぶつかってきて」
 必死に気配を探ったのに、心象にさえ反応しない、姿形が見えない感じなのに、腹を蹴られ突き飛ばされた。
(あれは、なに)
 シラナイモノ、しかもあちらはレスファートに害を与えられる。
 レガやサマルカンドは太古生物とはいえ、姿が見え、ユーノやイルファが戦える。
 けれどさきほどの存在は、レスファートだけにしか感知できない類なのかもしれない、そう思ってぞくりとする。
(ぼく、だけしか)
「どんなの?」
「わかんない。ふりかえってもなにもいなくて、それでこわくなって…」
 自分しか戦えないのかも、しれない?
 側に居るユーノがふいに遠くへ飛び去るような不安に思わずしがみつこうとした矢先、
「ほら!!」
「っっっ!」
 頭上から、いきなりどら声が響き、目の前にぶらんと薄茶色の獣がぶら下がった。虚ろに濁った眼、くはっと開いた口から滴る紅の色、生臭く鼻を打つ臭い。
「や、あああーーーっ!」
 悲鳴を上げてユーノに飛びつく。
「ユーノユーノユーノーっ!!」
「イルファっ!!」
「な、何だ?」
 背後で間抜けた声が響く。
「俺はただ、おいしそうなやつが手に入ったから一番に見せてやろうと」
「やああっ」
 血の臭い。
 苦しい。胸が痛い。死ぬ間際の絶望が押し寄せてきてレスファートは慌てて心を閉じる。
「急に驚かすから!」
 険しくイルファを叱責したユーノは、一転して優しい声で囁きかけてくれた。
「大丈夫だから。何でもないよ、レス」
 何でもなくない。死の恐怖が迫ってくる。どうしようどうしよう、もしあいつらが自分にしか感じないもので、ユーノを助けられるのがレスファートしかいないとしたら。こんなに怖いのに、守れるんだろうか。
「イ……イルファ……なん……なんか………きら………きらいなんだ………から」
 こんなに震えてしまってるのに。
 ユーノの胸に顔を埋めて、レスファートはしゃくりあげる。
「すまん! な! レス! レスファート、さま!」
 慌ててイルファが機嫌を取るように騒いだ。
「な、この通り! この通りだ!」
「知らない…っ」
「レス!」
「ほら、もう許してあげなよ。イルファがいじけてるよ」
 ユーノがくすくす笑いながら、髪の毛についた草を取り、背中を撫でてくれる。
 少しずつ安心して、気持ちが緩む。そろそろと顔を上げて横目で見遣ると、世にも情けない顔でイルファが頭を掻いている。獲物はどこかに片付けたようだ。
「……いいよ」
 わかっている。食べなくちゃならない。何かの命で長らえている、そんなことはわかっている。だから怖かったのは、死ではなくて、大事な人を守れないかもしれないという不安。
「ユーノが……そういうのなら」
 唯一従うと決めた人が宥めてくれるなら。
 洟をすすって振り向くと、イルファが憮然とした顔で唸った。
「何でユーノが言うなら、だよ。俺の方が強いんだぞ?」
 この間の勝負だって、レスを乗せたままで俺が勝ったのに。
 ぶつぶつ顔をしかめてぼやくのに、思いっきり舌を出した。
「ユーノは特別なの!」
「どうしてなんだよっ!」
「ユーノ!」
 イルファとレスファートのやりとりに笑っていたユーノが、アシャに呼ばれてそちらを振り向く。馬の手綱をまとめて綱にくくりつけ、その綱を打ち込んだ杭に縛りつけながら、アシャが尋ねる。
「レスがどうしたって?」
「うん、何かにぶつかられたって言うんだけど」
「ぶつかられた?」
 不審そうにアシャは目を上げ、レスファートとユーノを交互に見つめた。
「レスにも草を刈ってもらってたんだけど、何度か何かにぶつかられちゃって、草の中に突っ込んだんだ。両手、傷だらけにしちゃって」
「ふぅん?」
 訝しそうにアシャが近寄ってくる。
 落ちていく夕陽に黄金の髪がきらきら輝いているのが絵のように眩い。
「何か、ねえ……ネークの草猫かな?」
 アシャはレスファートを覗き込み、手や脚の傷を調べた。他に怪我は、の問いかけに、レスファートは首を振る。はっとしたようにユーノが瞬きした。
「宿屋のおばさんが言ってた、草猫?」
「ああ、この草原に棲んでることは棲んでるんだが」
 アシャは考え込んだ色を紫の瞳に浮かべて眉を寄せる。
「草猫が人に被害を与えたって話は聞かないな」
「草猫……みえないの?」
 レスファートが尋ねると、アシャはいや見えるはずだ、と応じた。
「だが、この草原に溶け込むような体色だし素早いから、今までほとんど見つかってない」
 数十年前に通りがかった旅人が死骸を発見して、それでようやく生息が確認された程度じゃなかったか。
「そうなんだ…」
「もともと人間嫌いで姿を見せないとは聞いている」
「レス! アシャ! ユーノ!」
 いつのまに離れていったのか、火を起こしたイルファが、オレンジと菫色のきらめきに燃え上がった炎の側から3人を呼んだ。
「もういいだろ、飯にしよう! 俺はもう死にそうだ!」
 レスにうんと気を遣ったからな、と大真面目に言ったイルファに、ユーノが吹き出しアシャが呆れる。
「行こう、レス」
「うん」
 不安は消え去らなかったが、それでもユーノが笑って抱えてくれたから、レスファートは笑い返して立ち上がった。

 さやさやと草原を渡る風が、快い子守唄のようにユーノをくつろがせる。
 淡い夢の中で導師の横顔が声を荒げる。
『生きるための迷いまで取りたいのか!』
(導師、あなたの言う通りだ)
 夢の中で囁き返して、ユーノは溜め息をついた。
 そうだ、アシャに対する想いを消し去ることはできない、心の奥底に閉じ込めておくことはできても。
 それがあれからずっと考えて出した結論だ。
 諦めきれない、あの豊かな色彩に輝く瞳も、黄金の光に包まれて笑う顔も、からかうように動くしなやかな手足、見かけとは違った確かで揺らがない体も、何より痛みに呻く夜の苦痛を減じてくれたのは、他の誰でもないアシャ1人だったのだから。
 けれど。
 わかっている、自分が、守ってもらうには強すぎる心と、求めてもらうには惨めな体と、見つめてもらうにはあまりにも華の足りない容姿を持っていることを。
 アシャが望むのは姉レアナであり、レアナもアシャを愛しんでいて、両親もセレドもアシャの存在をいつの間にか頼りにしていることを、片時も忘れることなどできはしない。
 この人は私のものではない。
 この人は私のものにはならない。
 言い聞かせながら見つめる視界に、少しでも長くアシャの姿を止めようとしてしまう自分を、いつも感じている。
 もっと優しい娘に生まれたかった。もっと儚く美しい存在として育ちたかった、誰もが手を差し伸べ守ろうとしてしまうような。
 もっともそうであったなら、今頃とっくに骸と化して打ち捨てられていたのだろうが。
 それでもよかったと、一瞬魔の想いに襲われる。
 これが人を好きになる、ということなんだろうか。
 この人に見つめてもらえないなら、死んでいたほうがよかったと、そんなことまで思ってしまって情けなくなる。
 遠い闇からサルトに叱責されるような気がする。
『私の存在はそんな軽いものだったのですか?』
(死ぬわけには、いかない)
 何があっても。
 どんなに辛くて苦しくても。
 ユーノは命の約束を背負っている。
 ぎりぎりまで、いやそのぎりぎりを越えて生き延びることを約束している。
 それならば。
 それならば、この想いを一生秘めて死出の旅に連れていってしまおう。誰にも悟られることのないように、幾重にもベールで包み、銀の箱に押し込めて鍵をかけてしまおう。
 所詮愚かな想いだ、どうしようもない、叶うはずのない夢だ。
 だから、そのどうしようもないものは心の奥深くに抱き締めて、真珠を抱くと聞く水底の貝のように、この身が砕け塵となるまで、ことばにも眼にも出さずにいよう。
 伝えたところで分不相応と嗤われるだけだろうし、たとえ嗤われなかったにせよ、困った顔でアシャとレアナに顔を見合わせられては居畳まれない。
 いつか無事にセレドに戻れたら、父母を説得し、アシャとレアナの婚姻を結ばせよう。晴れやかに微笑むアシャと頬を染めうレアナの喜びを自分のものとして、堂々と祝福し……そして、2人が落ち着き次第、もう一度旅に出よう。いろんなものを見、いろんな愛を、哀しみを見、己1人が辛いのではないと心に焼きつけてから、2人の手足となって働くためにセレドに戻ろう。
 旅先で大切な人を喪ったのだと、そう偽って生涯1人でいればいい。
 セレドの姫は変わり者。
 それできっと通るだろう、今まで通りに。
(きっと、それで)
 草の擦れあう音、眠りの底まで響き届き、傷ついた魂を抱き取る……。
『………の子よ』
 ふと、切ない夢の靄がすみの向こうで声がした。
 ユーノはネークの草原に立っている。
 腰の上、鳩尾近くまで押し寄せてくる緑色の波の中に1人立って、あたりを見回している。
『………の子よ』
 声は再びユーノを呼んだ。
 振り返る耳元で風が鳴る。
『人の子よ、なぜ、そうまで、悲しい?』
 暗い空には星1つなく、草原には人影1つなく、声が密やかに響いてくるだけだ。
『なぜに、そこまで、そなたは悲しい?』
 草の擦れあう音、微かに青臭い香り。
(なぜ……って?)                            
『そなたは「銀の王族」、幸福を世の始めから約束されたもの……』
(銀の…王族?)
 ユーノは首を傾げた。
 優しい響きを持ったことばに、心が波立つ。
『己の生命を覗き込んで見よ』
 周囲を取り巻く草が波打ち、ユーノの体を包み込んだ。
 ぴりっと一瞬、稲妻が走ったような衝撃が伝わり、襲ってきためまいに思わずよろめいた。自分を包んだ草の表面から何かの記憶が流れ込んでくるのを感じる。
 生命を見よ。
 目を閉じたユーノの脳裏に、絡み合う2匹の蛇が映る。
 蛇? 
 いや、そうではない。
 何か紐のようなものが2本、2重に螺旋を作って巻き上がっている。
『これが「銀の王族」が「王族」である所以。これゆえに、「銀の王族」は、その生命を幸福に全うすべき義務を持ち、そのようにラズーンは取り計らう…』
 声は老人の穏やかさと青年の熱意をもって囁いた後、疲れたように調子を落とし、再び物柔らかな問いを投げてきた。
『だが、人の子よ、なぜにそなたは、それほどまでに悲しい?』
 風が草原を撫でていった。ユーノにまとわりつき、想いを引き出そうとするかのように、そこにたゆとう。
(………)
 ユーノは淡く苦く笑みを浮かべて応えなかった。
 一言で応えられる想いではない。一言で応えられるほど、こなれてはいない。
 それこそ未来永劫、抱えしのいでいかなくてはならない想いだろう。
 ただそれを深く自覚した。
 草が、まとわりつくレスファートのようにユーノの脚に絡み付いてくる。
『………げぬか?』
 ユーノの沈黙に、声はふいに問いかけてきた。
(え?)
『そなたの幸福を妨げぬか?』
(何のことだ)
 ユーノは目に見えぬ相手の気配を追った。
 深い、星明かりさえない夜の草原で、声はしばらくためらい、やがてことばを継いだ。
『若い草猫達が、王を欲しがっている。我々の心をまとめあげる王を。そなたの一番若い連れが危ない』
「レス!」
 ユーノは叫んで飛び起きた。
 同時に剣を掴んでとっさに振り返ったユーノの目に、闇色の空を背景に揺れるプラチナブロンドが映った。
 立っても草に埋もれるはずの、レスファートの頭だ。
「レス!!」
 ユーノは声を張り上げた。
 凄まじい早さで何者かに運ばれつつある小柄な姿が、微かに身動きしてこちらを振り向く。
 相手は顔に草色の仮面をつけていた。
 だが、その目の部分から、紛れもないレスファートのアクアマリンの瞳が、今まで見たこともない激しい色をたたえ、輝きながら覗いている。
「戻るんだ、レス!」
 叫ぶユーノに何もことばを返さないまま、レスファートは背中を向けた。より一層速度を上げて、みるみる遠ざかっていく。
「く、そっ!」
 後を追って走り出したユーノは、突然何かを嫌というほど蹴飛ばした。
「いてぇっ!!」「わぅっ!」
 もんどりうって転がったユーノを、形相物凄く、火の番をしていたはずのイルファが睨みつける。
「てめえ…っ」
「ごめんよっ、でも、レスが!」
 叫んで立ち上がるユーノの肩にがっしりとイルファの手がかかり、軽々引き戻された。
「何を寝惚けてやがる!!  いきなり飛び起きたかと思うと走り出して、人の足を蹴飛ばしやがって!!」
 怒鳴られて、ユーノはレスファートが眠っていた場所に目をやり、呆気に取られた。
 プラチナブロンドを血色のいい頬に散らせて、レスファートはそこに居る。細い体には薄い毛布がまきついているが、寝苦しそうな様子さえも見られない。
「夢……?」
 半信半疑ながらほっと安堵の吐息をついたユーノは、今度はアシャが居ないのに気づいた。
「アシャは?」
「用足しだろ。さっき立っていったぞ?」
「ふぅ…ん」
 一瞬妙な胸騒ぎがしたが、無視してレスファートに屈み込み、目元にかかってうるさそうな髪の毛を払ってやろうと指を伸ばしてぎくりとした。
「え…?」
 まさか。
 だって、こんなに顔色もいいし、苦しそうでもない、のに。
 普通なら一気に血の気が引くところだろうに、困惑と不審に視界が揺れる。
「どうした?」
 のんびり尋ねてくるイルファを振り向いて、ユーノは混乱したまま口走った。
「レスが息をしていない」                                                                                    
 
 アシャがサマルカンドの羽音に気付いたのは、ユーノが寝入ってしばらくしてからだった。
「どこ行くんだ?」
「ちょっと、な」
「ああ」
 火の番のイルファが男同士で何を恥ずかしがるんだ、と不穏な台詞を呟くのに苦笑して背中を向け、草波の中に入り込んでいく。
 ユーノの守護として付けたサマルカンドだが、もともとの仕事の時はそちらを優先させている。
(それに今は俺が居る)
 アシャがユーノの側に居る限り、二度とゼランに傷つけられたような酷い目にあわせるつもりはない。強行されるなら、封じている力を使ってでも敵を仕留める腹を決めている。
(そうすれば、いつかは)
 アシャに心を許してくれるだろうか。今夜みたいにはっきりわかる距離を取らずに、体の側に剣を置かずに、アシャの腕の中で眠ってくれるだろうか。
(ユーノ)
 眠りに落ちたユーノの唇が微かに開くのを見ていると気持ちが揺れる。吐息を耳元で聞きたいと苛立ちが募る。
(どうなってるんだ、ほんとうに)
 これほど身動きできないほど1人に執着したのは覚えている限り初めて、しかもそれを正面切って認めてしまったら楽になれるかと思っていたのに、焦りは日毎夜毎に募るばかりで。
(これが恋、なのか)
 体を交わらせることもなく、触れ合うことすらなく、甘い睦言を囁くわけでもなく、ただ日々を一緒に過ごすだけなのに、その光景からユーノが失われるかもしれない『明日』を思うと、凍るような冷やかな怒りが腹の底にしこり出す。
 失うぐらいなら、今すぐに。
「……」
 歩きながらぐしゃぐしゃと頭を片手で掻きむしった。危うい光を宿しただろう目を閉じて歯を固く食いしばる。叫んでしまいそうになる、お前を俺によこせ、と。
「…ちっ…」
 溜め息をついて、握りしめた髪の毛をそっと離し俯いた。しばらくしてから、のろのろと掻きあげ整える。
 情けない。アシャともあろうものが。
「クゥ」
 高空で微かな声が響いて顔を上げた。
 ほぼ真上にサマルカンドの白い姿が浮かんでいる。クフィラは夜でも視力を失わない。それゆえこうして伝令に使われたこともあるのだ、昔は。
「サマル」
 左腕を差し伸べる。巻いた革の籠手の上へ、白いクフィラは体重を消して舞い降りてくる。
「クゥア…」
 長い旅を終えた褒美と、甘えるように嘴をアシャの髪に掠らせる。
「よしよし、ごくろうだった」
 背中を軽く撫で、アシャはクフィラの足に巻いた通信筒に触れた。白くて光沢のある、指一関節ほどの長さの筒を抜き取り、懐から出したもっと細い黒い棒を差し込んでから先端をこめかみに当てる。ラズーンへ問い合わせた危険地域の最新リストだ。
 ユーノ1人ならまだしも、今はイルファ、レスファートという手のかかる2人を連れている。『運命(リマイン)』側の標的になるのもそう遠くないだろう。しかもユーノの性分では、この先どんな厄介事に飛び込むと言い出すか知れたものではない。
 それまでに少しでも距離を稼いでおきたかった。
 目を閉じて流れ込む情報に集中していたアシャは突然かっと目を見開いた。
「しまった!」
 苛つきながら残りを聞き終え、サマルカンドの通信筒に戻し、一声叫んでクフィラを放つ。
「ラズーンへ戻れ!」
「クェアッ!!」
 主のただならぬ緊張を感じ取ったのだろう、クフィラは猛々しい叫びを上げて、投擲された石のように一筋に、風を掴んで夜空に高く舞い上がっていく。
「ちぃっ」
(ネークも入っていたのか)
 身を翻したアシャは舌打ちして走り出した。
 危険地域とはラズーンの支配下(ロダ)を離れコントロールがきかなくなった地域を示す。すなわち、既に破壊と戦乱が覆い始めている場所だ。前回よりも遥かに増え、予想を遥かに越えた『運命(リマイン)』侵攻速度は、やはり今回の200年祭が常のものではないと教えてくる。
(間に合うか?)
 ユーノの所へ戻ることもそうだが、ラズーンへ辿り着いた時、そこにユーノを受け取る設備は残されているのだろうか。破壊されてしまっていたら、セレドに戻ることすら難しくなる。
 とにかく今はできる限りの警戒をしつつ、急ぎここから離れるしかない。
 頭の中に様々な行程が一気に広がり、それぞれの利点欠点が計算され始める。
 ネークの草原は広い。どこをどう抜けるにしても、『運命(リマイン)』に遭遇すればラズーンへの旅程が遅れてしまう。
 燃え上がる炎を目標に戻ると、その側で人影が慌ただしく動くのが見えた。剣を掴んだ小柄な姿がひらりと馬に跨がる。荒々しい嘶きはヒストのもの、気付いて思わず叫ぶ。
「ユーノ!」
 また1人でどこかへ行こうと言うのか。
「アシャ!」
 今しも走り出そうとしていたヒストが手綱を絞られて猛ったが、ユーノはしっかり御したままアシャを待った。
「どうした」
「レスがおかしい」
 ユーノの顔色は青い。
「息をしないし、目も覚まさない。けど、体は温かいし、うまく言えないけど、死んでない」
 普通ならたじろいで口ごもるところを、ユーノはあっさり言い放った。焚き火の炎に照らされて、きらきらと黒い瞳が燃え上がっている。
「ボクとレスが繋がっているせいかもしれないけど、レスが草猫達に攫われる夢を見た」
 一瞬唇を噛んだ表情が幼かった。すぐに切り替えて尋ねてくる。
「アシャ、草猫達の巣はどこだ?」
「草原の端に」
 アシャは自分もすぐに馬を引き出した。ユーノが拒む間を与えずに、さっさと跨がって振り返る。
(置いていかれるのはごめんだ)
 アシャのまずい部分を目覚めさせてしまう、ユーノを失う不安と恐怖で。
「草猫達の住処だという古い砦の跡がある。そこかもしれない」
「そこに決まってる」
 ユーノは決めつけてイルファを振り向いた。
「レスの体を頼む」
「え、あ」
「そこへ行こう、アシャ!」
「おう!」
 呼ばれて胸が躍る自分をくすぐったく感じたが、事態は笑っていられるものではない。
「お、おい!」
 イルファがうろたえた声を上げてきょろきょろとレスとアシャを見比べるが、ユーノはもう馬を駆り立て走り出し始めている。
「ったく、逡巡ぐらいしてくれ」
 知らない土地なんだぞ。
 舌打ちしながら後を追って馬を煽ったアシャの背中から、
「俺は子守りかよ!」
 イルファの情けない声が追ってきた。
「アシャの方が適任だろうが!!」
「お前は場所を知らないだろうが!」
「う、……く、そーっっ!!!」
 俺だってなあ、出るとこへ出ればちゃんとした剣士なんだぞ、わかってんのか、お前らーーーっっ!
 イルファの絶叫は虚しく草原に響いて消えた。
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